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‡ 戒山『中川寺實範律師伝』

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1.解題

少将上人 實範

實範[じっぱん]とは、平安後期の興福寺で出家した法相宗僧で、法相と真言そして天台を修学し、当時完全に廃れて無かった戒律の復興を志して奮闘、約百年後の嘉禎二年に覚盛や叡尊ら四人によるその復興実現の先鞭を付けた人です。その晩年には浄土教にも傾倒していたことから日本の浄土教史においても注目されています。

實範の生年および行年は不明ながら、没年は天養元年1144九月十日。本願上人あるいは中川少将上人などとも称されます。

實範は、藤原顕実[あきざね]の第四子として誕生した後、当時の貴族の子弟で継ぐべき家の無い三男・四男以下などがいわば処世術として寺に出されることが一般的であったように、幼少の頃から出家させられていました。その出家のために入った寺とは、藤原氏の氏寺にして法相宗の本拠であり、当時最も権勢を誇っていた大寺院の一つ、興福寺です。

その興福寺で出家したことにより、實範は法相を学び深めていました。

藤原氏の本流では無いにしても比較的高位の家柄出身であった實範は、すでに将来の僧界における一定の地位が保証された身でした。当時の日本における僧界は、俗界における権門勢家の構造の引き写しともいうべき「もう一つの俗界」に過ぎません。例外も勿論ありますが、その出自が大きく物を言う世界であったのです。

もっとも、たとい出自が良くとも学問を積み、維摩会[ゆいまえ]や最勝会[さいしょうえ]などの論議法会の講師や読師として出仕することが出来ねば出世することなど叶わないため、そのような貴族僧らは必然的に、処世の一環としてではあっても仏教の学問に日々励み、その素養を深めていました。

そして、処世の一環などといっても、彼らは仏教を信仰していなかったなどということはなく一応信じてはいました。しかし、ここが人の面白さであり悲しさというものでしょうけれども、その仏教にて説かれた通り行うことなどまるでありませんでした。

そのような当時の事情を生々しく、といっても實範よりやや後の鎌倉期のことですけれども、深い仏教の素養をもって時に滑稽に、または冷笑的に、あるいは讃えて伝える諸宗兼学の僧、無住一円による『沙石集』では以下のように伝えています。

神明道心貴給事
南都ニ学生有ケリ学窓ニヒチヲクタシテ蛍雪ノ功年ツモリテ硯学ノキコエアリケリ或時春日ノ御社ニ参籠ス夢ニ大明神御物語有リ瑜伽唯識ノ法門ナント不審申シ御返答有ケリ但シ御面ヲハ拝セス夢ノ中ニ申ケルハ修学ノ道ニタツサハリテ稽古年久ク侍リ唯識ノ法燈ヲカカケテ明神ノ威光ヲ増奉ル然ハカクマノアタリ尊体ヲモ拝シ慈訓ヲモ承ル是一世ノ事ニハ侍ラシト宿習マテモ悦ヒ思ヒ侍ニ同御貌ヲ拝シタテマツリタ ラハイカハカリ歓喜ノ心モフカク侍ラント申ケレハ誠ニシユカクノ 功ノ有難ク覚フレハコソカク問答モスレ但シ道心ノナキカウタテ サニ面ハムカヘタウモナキナリト仰有トミテ夢サメテ慚愧ノ心ロ肝ニトオリクワンキノ涙袖ニアマリテ覚エケリマコトニ仏法ハ何レノ宗モ生死ヲ解脱センタメナリ名利ヲオモフヘカラス然ニ南都北嶺ノカクリヨノ風儀ヒトヘニ名利ヲ先途ニ思テ菩提ヲヨソニスル故ニ或ハ魔道ニ落或ハ悪趣ニ沈ニコソ口惜キ心ナルヘシト テヤカテ遁世ノ門ニ入テヒトスチニ出離ノ道ヲ勤ケル 《後略》

神明〈神〉は道心を貴ばれること
 南都にある学生〈学僧〉があった。(法相宗興福寺の)学窓学問所に入って以来、蛍雪苦労して学問に励むことの功年積もって「碩学」と称賛されるまでとなっていた。ある時、春日の御社に参籠したところ、その夜の夢に(春日の)大明神が現れて語りかけられた。そこで(その学生は)瑜伽唯識の法門について充分に理解出来ない点などご質問したところ、そのお答えを下されたのである。しかしながら、そのお顔を拝見することは出来なかった。そこで、夢の中で(その学生は春日明神に)話しかけ、
「修学の道に携わって稽古して、その年数もずいぶん長くあります。唯識の法灯をかかげて(春日の)神明の威光をさらに増し奉りました。そのようなことから、このように目の当たりに(春日明神の)尊体をも拝することができ、その慈訓をも承わることも出来たのでしょう。これはきっとこの一生涯の事ではなく、きっと宿習〈過去世にて積んだ業〉の果報であろうと悦び、思っております。(そこで御体だけではなく、)同じようにその御顔をも拝し奉ることが叶ったならば、どれほど歓喜の心が深くなるか想像もつかないほどです。」
と申し上げたところ、(春日明神は)
「誠に(そなたの)修学の功が稀有なほど(優れている)と思ったからこそ、このように(そなたの唯識の不審な点について)問答してやったのである。しかしながら、(そなたは学問は優れていても)道心など無く、それが嘆かわしく嫌であるから、顔までは見せたくはない。」
と仰せられたのを最後に、そこで夢が覚めたのである。そして(その学生は明神から「お前は学は優れているが道心は無い」と言われたことへの)慚愧〈自他に対して恥じること〉の思いで肝を冷やし、また(明神と見えて言葉を交わした上にその導きに預かったことへの)歓喜の涙で袖が濡れそぼつほどとなった。(そこでその学生は、)
「実に仏法とは、何れの宗であっても生死流転から解脱するためのものである。名聞利養〈名声と財産〉を願い求めるものではない。その筈がしかし、南都〈六宗〉北嶺〈天台宗〉の学侶らの風儀といえば、ひたすら名聞利養を得ることをこそ目的としており、菩提〈悟り〉を得ることなど端から問題外としているために、ある者は魔道に落ち、ある者は悪趣〈地獄・餓鬼・畜生。いわゆる三途〉に沈むばかりである。実に情けないことである。」
と(考え至り)、やがて遁世の門〈俗世を離れ、持戒・持律し修禅に励む僧のあり方〉に入って、ひたすら出離の道を勤めるようになった。《後略》

無住一円『沙石集』巻一下
[現代語訳:沙門覺應]

この話は、それまではただ立身出世や名利を求めて仏学に励み、すでに名を挙げていた学僧が、夢の中で春日明神から告げられた言葉で目が覚め改心し、ついに遁世僧となるといういわば成功例というか、称賛される内容となっています。しかしこれは、それが全く普通で無かったからこそ成立する話であって、当時の僧は一般的に「名利ヲ先途ニ思テ菩提ヲヨソニスル」ものであったことの証であるとむしろ考えて間違いないものです。

実際、『沙石集』ではその全体を通して、およそ「それどころでは無い」ほど堕落した僧らの有り様がむしろごく当たり前のものとされていたことが様々に描写され、これを著者無住は嘆きつつも淡々と伝えています。

さて、皇家出身の者が続々出家し、また摂関政治が定着し本格化した特に平安中期以降、俗法として機能すべきはずの養老律令はすでに空文化していました。いきおい日本仏教界は世俗の構造が当然のごとく持ち込まれ、本来仏教者からすれば最も重んじられて従われるべき戒律も全く顧みられること無く無視されるなど、その正統な伝承は絶えて無くなっています。

天平勝宝五年753に正統な律を唐から伝来した鑑眞和尚による唐招提寺および東大寺戒壇院における法統〈律〉は、鎌倉後期の凝然[ぎょうねん]により著された『律宗瓊鑑章[りっしゅうぎょうかんしょう]』巻六によれば、「豊安在世律儀嚴製」とその三代目の孫弟子となる豊安[ぶあん]〈承和七年(840)没〉までは確かに伝えられ厳持されていたといいます。

しかしながら、その後を継いで四代となった道静[どうじょう]あたりから漸く衰え頽廃していったようです。その住持も五代仁階[にんかい]そして六代眞空[しんくう]と相承したまでは記録されているものの、それ以降はその名すらも伝えられていないという惨状です。律の授受など何をか言わんや。

当然、實範の頃にはすでに戒も律も見る影も無い有り様でした。

それでも、いわば通過儀礼としての授戒は東大寺戒壇院にて依然として行われてはいました。けれども、それは後代「軌則受戒」などと揶揄されるもので、最初からそれを護持することも、いや、その内容をすら理解さえされることもなく行われる、空虚な儀礼に過ぎません。

そんな中、實範は戒律復興を志すようになっています。一体どうしてその志を起したのか、さらには志を起こしただけでなくどの様にそれを実行できたかというに、それは興福寺には律学を志すに至る種というべきものが一応存在していたためです。

当時、東大寺戒壇院にしろ唐招提寺にしろその寺勢も甚だ衰えて律学の伝承すら覚束なくなっていたため、それを興福寺東西金堂の堂衆[どうしゅ]が担当するようになっていました。すなわち、法相宗興福寺内にあって東西両金堂は、戒壇院における通過儀礼としての授戒儀式の運営と律学の本拠と言うべきもの、その堂衆らは律宗を本宗とするものとなっていました。

とはいえ、「律宗を本宗とする」などといっても名目上のことであって、まさしく實範が活動している頃の保安年間1120-1124には堂衆らによる律学の頽廃は、後に触れますが、目に余るものと学侶らに認識されていたようです。

そんな中、その復興を志して実際にその実現に向け具体的に動いた最初の人とされるのが實範だったのですが、伝承によればそれはどうやら自主的・自発的なものではなく、一人の堂衆から律学の復興を依頼されてのことであったとされます。

なお、ここで興福寺の学侶と堂衆とは、日本仏教の僧職における立場の違いを示すもので、いわば身分・階級制の一種です。

まず学侶とは、ほとんど貴族出身で学問に秀でた者が維摩会など数々の論議法会の役をこなしてこそ就任しえる官僧です。対して堂衆とは、一概に押しなべていうことは出来ないのですが、その大体が庶民の出や貴族の子弟でも下流出身の者らで占められるもので、堂塔の清掃や供華・荘厳などの運営を担う人足のような僧侶らのことです。比叡山で言うところの大衆[だいしゅ]、高野山で言うところの行人[ぎょうにん]です。

よって必然的に学侶は堂衆に対して上位にある存在でした。けれども、また堂衆は興福寺の僧兵の母体でもあり、学侶は堂衆に対して一方的・強制的に何事も成しえるというような単純な上下関係ではなかったともいわれます。

そもそも仏教僧とは、出自による区別・差別など絶対にしてはならず、その上下関係・席次はただ具足戒を受けてからの年数、これを法臘とか僧臘・夏臘というのですが、それに依ってのみ決定されなければならないものです。

しかしながら、そのような規定など、戒も律もないような時勢にあっては、護られようはずもないことでした。いや、戒律伝来してまもない頃から、そして平安期にもなるとなおさら皇家公家が続々出家してそのような世俗の出自を持ち込んでいったことが、むしろ戒律の頽廃をさらに招いたと、私には思われます。

さて、實範は興福寺を出てから忍辱山円成寺に居を移し、おそらくそこで初めて真言密教を受法。その後、興福寺や東大寺からほど近い山中の中ノ川に本格的な密教寺院としての中川寺成身院を建立。それ以降、唐招提寺にて『四分戒本』を聞いたことを契機として、中川寺にて律を講説し、さらに興廃していた唐招提寺の復興を手掛けるなど、平安末期から鎌倉初期にかけて次第に盛んとなる戒律復興運動の先鞭を付けたのでした。

そのようなことから、實範は中世における戒律復興の先駆者として、当時はもとより近世の戒律復興の流れにおいても敬され、必ず言及されています。

なお、實範の諸伝記ではここが前後して記されており不正確となっているのですが、實範は成身院を建立して後となる永久四年1116に醍醐の嚴覺[ごんかく]から黎明期の小野流を曼陀羅寺(現:随心院)にて受法しています。

禪林小勧修十一代信覚弟子
權大僧都嚴覺
 《中略》
 實範 色衆四口・教授兼-誦経教授阿闍梨
 少将上人 光明山教真灌頂弟子
 永久四年十月十三日・昴-日- 於曼陀羅寺授之

『血脈類集記』巻四

また、これもいつのことであるか不明なのですが、比叡山横川の天台僧明賢[みょうけん]から天台教学を、おそらくは并せて当時流行しだしていた恵心僧都源信由来の浄土教を学んだようです。

その後、中川寺は法相・天台・真言兼学寺とし、また律学の道場としても発展します。が、實範自身は往時は巨大な境内と伽藍を構えていたという山城国の光明山寺に移り、そこでその生涯を閉じています。實範は晩年、浄土往生に想いを掛け、その臨終に際しては奇瑞があったなどと言われています。

中川寺實範律師伝

ここに紹介する實範の伝記『中川寺實範律師伝』は、近世初頭においてなされた戒律復興の流れにおいて河州野中寺及び近州安養寺を中心に活躍した戒山慧堅[かいざん えけん]律師によって著され、元禄二年1689に出版された、震旦(支那)および日本における持律・伝律の僧の伝記集成たる『律苑僧宝伝』に収録されているものです。

實範の伝記はすでに虎関師錬[こかん しれん]が元亨二年1322に上梓した『元亨釈書』巻十三 明戒に六師を挙げる中に撰されていました。そこで戒山はそれを参照して範とし、新たに實範伝を書いています。

よって、むしろ今の所もっとも古いであろう實範伝である『元亨釈書』のそれを主として、ここに紹介すべきかもしれません。ただし、最も古いなどといっても實範については虎関師錬より一世代早く、實範の法孫としても位置づけられる東大寺戒壇院の凝然が『律宗綱要』や『律宗瓊鑑章』、そして『三国仏法伝通縁起』などその著作の処処にて、それほど詳しくはなくとも触れているのですけれども。

しかしながら、詳しくは後述しますが、戒山はただ虎関師錬のそれを書き換えて伝えるだけでなく律宗独自の伝承を加筆して伝えていることから、ここではそうしません。ただ一応参考までに、虎関師錬のそれを前もって示しておきます。

釋實範姓藤氏諫議大夫顯實第四子也初投興福寺學相宗又如醍醐寺稟密法于嚴覺先一日覺夢青龍出庭池矯首噴清水翌日語徒曰今日當有受法人汝等灑掃道場果範來由是傾底而付又之横川明賢所問台教範博搜索諸宗而嘆律幢之傾頽乃加心披尋乃念言戒貴傳授我雖精究爭奈無師承何一夕夢自招提寺以銅筧通清水于中川覺以謂是好相也明曉赴招提招提鑑眞後數世院宇廢替僧衆不居庭廡之間半爲田疇範入寺不見比丘傍有禿丁鞭牛耕田範問曰眞公影堂何在禿丁指其所範亦曰此寺無比丘乎對曰我雖不全儀相曩少聽四分戒本範生難遭想就乞禿丁便脱犁放牛洗手畎水將範向影堂中親授範已得戒傳即歸中川寺開律講行羯磨自此戒法亦興初範在忍辱山採花至中川山見地勝形申官建伽藍名曰成身院後移居光明山而終嘗述大經要義七卷貞慶法師稱之
贊曰予見支那本邦之律法相似同矣蓋絶而又興興而又絶其興絶之間世有人乎今考範師之事有人之謂也善哉銅筧之好相也吾佛亦或言之矣

 釈實範、その姓は藤原氏、諫議大夫顕実の第四子であった。初め興福寺にて出家し法相宗を学び、また醍醐寺において真言密教を嚴覺に学んだ。その先日、(嚴覺は)覚夢に青龍が庭の池から首をもたげて清水を噴き上げるのを見た。そこでその翌日、門弟らに、
「今日、受法の人が来るであろう。お前たちは道場を掃き清めよ。」
と言いつけていたところ、果たして實範が訪れ来たったのである。そのようなことから、(嚴覺は)その全てを授法したのである。また、横川の明賢の元で天台教学を問うた。實範は博く諸宗を学んでから、律幢が頽廃していることを嘆いた。そこで熱心に(律典を)研究したけれども、
「戒とは伝授を貴ぶものである。私がいくら(律学を)精究したところで、師からの相承が無ければ如何ともし難い。」
と考えるに至った。
 ある夜の夢に、唐招提寺から銅筧〈銅製のとい〉によって清水が中川にまで通じ流れるのを見、目が覚めて、「これはきっと好相に違いない」と思い至った。そこでその翌早朝、唐招提寺を訪れてみると、唐招提寺は鑑眞が没して後すでに数世紀が経ち、堂塔伽藍は荒廃して僧衆はおらず、その境内の半分が田畑となっている有り様であった。實範は寺に入って探してみても、比丘の姿など何処にも無かった。ところが傍に一人の禿丁〈禿頭の下男〉があって、牛に鞭打ちながら田を耕していた。そこで實範は、
「鑑眞公の御影堂はどこにあるか?」
と尋ねてみると、その禿丁はその場所を指差して示した。實範はまた、
「この寺には比丘はいるのか?」
と聞いてみると、
「私は(比丘として)その儀相〈威儀と外見〉は全く備わっておりませんが、かつて若い頃に『四分戒本』を聞いたことがあります。」
という。實範は「遭い難きものに出会えた!」との(大いなる喜びの)想いが生じ、その禿丁に(それを教えて欲しいと)乞い願った。すると(その禿丁は)犁を解いて牛を放ち、手を畎水で洗うと、實範を導いて御影堂の中に入り、懇切に(戒を)授けた。ここで實範は戒伝を得たのだった。そこで(實範は)中川寺に帰ると、ただちに律学の講義を開いて羯磨を行じたのであった。これ以降、戒法は再び(日本に)興ったのである。
 初め實範は忍辱山〈円成寺〉にあったけれども、(仏菩薩に供えるための)花を採ろうとしていた最中、たまたま中川山に至ると、その地の素晴らしいことを見知った。そこで朝廷に上申して伽藍を建て、その名を成身院としたのである。その後、居を光明山寺に移ってそこで没した。かつて『大経要義鈔』七巻を著したが、貞慶法師はそれを称賛している。
 賛じて曰く、私〈虎関師錬〉は支那と本邦の律法(の歴史)を眺めてみると、互いに似て同じである。思うに、絶えてはまた復興され、復興されてはまた絶えるというその興亡の時の流れの間にも、世には必ず「人がある」のだ。今、實範師の事を考えてみると、「人がある」とはまさに師のことである。喜ばしいことである、銅筧の好相である。吾が仏もまた、或いはそのように言うであろう。

『元亨釈書』巻十三 明戒六
[現代語訳:沙門覺應]

この虎関師錬による伝記はごく簡単なものですが、後代に著されたほとんどすべての伝記はこれを踏襲しています。

例えば戒山の『律苑僧宝伝』に先駆けることわずか一年の貞享五年1688、明から渡来してきた黄檗僧、高泉性潡[こうせんしょうとん]により刊行された『東国高僧伝』には「正伝」の人として実範伝を載せています。が、それは『元亨釈書』の表現をいくらか変えて賛を除いただけというほどです。実は、戒山はこの『元亨釈書』だけではなく『東国高僧伝』も明らかに読んでおり、その端々で『東国高僧伝』の實範伝の表現を借りています。

また、『律苑僧宝伝』より十二年後の元禄十四年1701、唐招提寺の子院の一つ能満寺義澄により編纂なった『招提千歳伝記』巻上之一にも實範伝を載せています。しかし、義澄もやはり『元亨釈書』そして『律苑僧宝伝』のそれらを踏まえ、その上で戒山の説に批判を加えた賛を付けています。

そして、『招提寺千歳伝記』が刊行された翌年の元禄十五年1702、臨済僧の卍元師蛮[まんげんしばん]により、なんと三十年あまりの歳月を費やしてそれまでの僧伝・史料を集大成し著された『本朝高僧伝』にもまた、「和州中川寺沙門實範伝」として實範伝を載せています。

律相承における春日明神の介在

仏教伝来から現代にいたるまでの日本仏教史上では三度、戒律の興廃をみています。

一度目は鑑眞大和尚渡来しておよそ百年後の豊安僧正が没し、これを道静律師が継いで後に漸く衰退。二度目は大悲菩薩覚盛や興正菩薩叡尊らが自誓受戒によって復興され唐招提寺・戒壇院および西大寺などで相承されるも、その後百五十年程してからいずれも漸く頽廃し、応仁の乱など戦乱期に入ると全く絶滅。

そして三度目、それは近世慶長年間に俊正明忍や慧雲寥海ら五人により、叡尊のそれに倣って再び自誓受戒にて戒律復興されます。この流れにも栄枯盛衰、紆余曲折がありはしますが、江戸期という平和で比較的豊かな時代の中にあって、一部ではあっても全宗派的に持戒・持律の風儀が及び継続されています。

ところが、明治維新を迎えて生じた廃仏毀釈の嵐や富国強兵を目指すための西洋の文物礼賛や西洋化教育のため、仏教そのものに対する日本社会の理解も後援もまたたく間に失われていき現在に至ります。実質的に見れば、幕末から明治にかけて活躍した真言宗の智満律師や雲照律師らがその最後の人と言うべきで、その後をまともに継いだ人は見受けられません。

現代における律宗では、唐招提寺の「最後の律僧」などとして昭和に生きた森本孝順氏の名を上げる者もありますが、その実際を考えたならば全く当たらない話です。

結果として現在日本に残った仏教やその寺院は、近世近代以来の祖霊崇拝を行うための術でしかなくて庶民にとってその内容などどうでもよく、あるいは観光地における旅情を誘うための一装置というほどでしか無くなって、ほとんど絶命してしまっているとして良い。

さて、そのように中世から近世にかけて二度の興廃を見た律相承の流れにおいて、これは近世となってから明瞭となったと愚考しているのですが、それが断絶している期間は春日明神が戒脈を預かるという伝承があります。そして春日明神は、来たるべき興律の人が現れた時、再び霊夢などに好相を示して、その人に預かっていた戒脈を伝えるというのです。

この項で紹介する戒山による『中川寺實範律師伝』には、まさにそのような伝承の片鱗が伝えられているのですが、先に示した『元亨釈書』にはまったく言及されない話です。しかし、この説は元禄・宝永年間頃にはもはや通説となっていたようで、律宗でも西大寺流と唐招提寺流・東大寺戒壇院流・泉涌寺流とありますが、そのほとんどがそれをおおよそ是認しています。

そして江戸後期に野中寺青龍一派から出て正法律復興を提唱した慈雲尊者もまた、やはりそれと同じき認識を持っています。

(慈雲尊者による律相承の理解は別項“慈雲『律法中興縁由記』”を参照のこと。)

では、そのような伝承は如何にして、いつごろ生じたのか。

その手がかりとなる書として、『唐招提寺解[とうしょうだいじげ]』なる書があります。

この書は、鎌倉後期に撰述されたものかと見られていますが、実際の所不明で、いつ・誰によって著されたものか確かなことはわからず、その内容自体もその真偽の疑わしい説が散見されるものです。しかしながら、唐招提寺における中世の縁起を、その真義は別として比較的詳しく伝えるものであって、實範がいかにして興律を志したかの詳細が記されています。

凡尋再興之次第。此律宗自本興福寺東西兩堂衆依學之。而保安年中之比。律學殊廢怠。然間春日社御八講之時。學侶評議云。兩堂之律學以外衰微故。東大寺受戒之作法等。於今有若已也。尤一途可有沙汰歟。所詮於向後者。學侶之中稽古律宗。可興戒法云云 此事西金堂衆南勝房大快増傅聞。愁嘆無極。仍參中川實範上人之室申云。戒律宗旨。兩堂之本宗也。近來依無稽古之輩。滿寺取之可依學之由。及八講々群議歟。上人者佛家法匠南都明師也。早廻紹隆之賢慮。必至律法之再興之樣。預御計者尤可畏入之由申。上人聞此詞。浮涙於眼路。凝思於心府。戒壇受戒之法則一巻造之與南勝房給之。以爲指南。受戒之儀式無相違。云云其後實範上人對南勝房被仰之様者。律法陵怠。年序稍久。興行更非人力之所覃。我能可祈請。汝可致懇祈。實範上人專可仰春日權現之冥助。則企春日社七日之參籠。祈律法之興行之處。滿七日夜有靈夢。自招提寺戒壇上懸三銅樋二樋塵積無水。一樋有水流入。《中略》 是倂所願成就之靈夢。抑亦神明哀憐之千兆也。誠唐律招提寺者。律海之本所。戒水之根源也。爰知彼寺猶有明律先達淨行僧侶歟。

 およそ(中世における戒律の)再興の次第を見たならば、この律宗とは本来、興福寺の東西金堂の堂衆が学び伝えてきたものである。しかるに、保安年中1120-1124の頃から律学は殊の外衰退していた。そんな中、春日大社で行われた御八講〈法華八講〉の時、学侶らが評議する中で、
「(興福寺東西金堂の)両堂の律学は甚だしく衰微しているため、東大寺(戒壇院)の受戒の作法等はもはや有って無きが如き有り様である。これはなによりもまず対処しなければならない問題だ。すなわち、今後は学侶の中で律宗を稽古〈学習〉し、戒法を復興しなければならない。」
などということとなった。そして、それを西金堂の堂衆たる南勝房大快増〈欣西?〉が伝え聞いて非常に嘆き悲しみ、中川實範上人のもとに参じて、
「戒律の宗旨とは、両堂(堂衆)の本宗であります。(にも関わらず、)近頃は(律学を)稽古する輩が(両堂の堂衆に)全く無いことから、満寺〈興福寺僧一同〉これを取って依学すべしとなったとのことで、法華八講に出仕した講師〈学侶〉らが評議したのだとか。上人は仏法の法匠にして南都の明師であります。ただちに、紹隆〈先人の事業を継承して盛んとすること〉するための賢慮をもって、必ずや律法を再興なさって下さいませんか。もしお取りはらかい頂ければ、なにより恐れ入ります。」
と申し上げた。上人はこの言葉を聞いて涙を流し、思いを心府〈心〉に凝らして、『東大寺戒壇院受戒式』一巻を造って南勝房に与え、それを指南とさせた。(これにより東大寺戒壇院における)受戒の儀式は確かなものとなったのである。その後、實範上人が南勝房に対して語って言うには、
「律法が頽廃してから、その年月はやや久しくなっており、これを復興するのにはもはや人の力が及ぶところではない。私はよくよく(戒律復興の願いを)祈請しなければならない。そなたも熱心に祈願せよ。」
とのことであった。そこで實範上人は、
「もっぱら春日権現の冥助を仰ぐべし。」
と春日大社にて七日間参籠することを企てた。そして、律法の復興を祈り続け、七日を経た夜に霊夢を見たのである。その夢とは、唐招提寺の戒壇の上に三つの銅製の樋が掛かっており、そのうち二つの樋は塵が積もっており水が通らず、残りの一つの樋には水があって流入していた、というものであった。《中略》 (實範はこの夢の意味について深く考えてみた所、)これは所願成就の霊夢に違いなく、そもそも神明が(戒律復興の志を)哀憐したことの千兆である。誠に唐律招提寺とは律海の本所であり、戒水の根源である。これによって、唐招提寺には今なお律に詳しき先達で持戒清浄の僧侶があるのだろう、と知ったのであった。

『唐招提寺解』(『大日本仏教全書』Vol.105, P55
[現代語訳:沙門覺應]

『唐招提寺解』が言うところでは、そもそも實範が戒律復興を志したきっかけというのが、興福寺の学侶が春日大社で行われた法華八講の法会において、それまでいわば東西金堂衆の特権というか特有のものとされた律学(および東大寺戒壇院における授戒の管掌)が甚だしく廃退していることを問題視したこと。そしてこれを堂衆から取り上げて学侶も学び、興福寺を挙げて共有すべしとしたことを一大事と見た、西金堂の堂衆である南勝房大快増なる者が、實範に泣きついたことです。

余談ながら、貞享元年1684、東大寺真言院の亮然重慶によって撰述された『律宗図源解集』には、この『唐招提寺解』の所伝を採用しつつ、しかし当時荒廃・頽廃しきっていたとされる東大寺および唐招提寺の面目が立つよう、換言すれば歴史の改変を試みるが如くしてその経緯が記されています。

それにしても、かかる話が本当であったとしたら、ずいぶん情けのない話です。

上に挙げた一節を文字通り読めば、堂衆の南勝房は戒律自体の衰退を嘆いて動いたのではなくて、自身ら堂衆の立場が脅かされると慌てたのが発端であった、というのですから。

「此律宗自本興福寺東西兩堂衆依學之」であると誇り、その立場を守ろうというのであれば、まず彼ら堂衆自身で奮闘努力すべきところであったでしょう。そもそも堂衆の堕落によってそのような事態となったのですから、嘆き悲しんで他に頼むなどというのはまさしくお門違いも甚だしいと評すべきことです。

とは言え、藤原氏の「比較的有力」な家柄出身のしかも学徳勝れた實範であったからこそ、その持つ様々な力を頼みとされたのかもしれません。今と昔とでは人は同じであっても、社会のありようは随分異なるものですから、今私が述べたような批判は全く的外れであるかもしれません。

仮にその発端は斯くあったとしても、実際に實範はその復興に尽力すべく動き出します。そこで、それは自身の力のみでは果たし難いことと考え、春日明神に祈願した結果見た霊夢に導かれて唐招提寺に至り、戒律復興への足がかりとした、というのがその伝承です。

いや、『唐招提寺解』には、衰退したとは言え縷縷ながらも正統に唐招提寺に伝わっていた律を實範は子細無く相承して後に伝えた、などと記されています。しかし、これは全く我田引水の説でありましょう。

さて、『唐招提寺解』所伝の真偽の程は今は置くとして、ここで春日明神が實範の戒律復興に介在したとされていることが、近世においては春日明神が伝律するとの伝承となったようです。春日明神自身が託宣や夢を通して「私が戒脈を預かって伝えるのだ」などと明言したという伝承はおそらくありません。

けれども、興律を志した人々が春日明神が明らかに関わったと思われる状況下で見たその夢、それが「道」を示した暗示と受け取られたことが、春日明神とは仏教、特には法相宗守護の神であるとする見方と相俟って、後代には伝律・興律を扶助するものであると理解されていったのでありましょう。

先に『沙石集』の一節を示しましたが、春日明神は時に僧をたしなめ、時に僧を称賛して擁護するものだという話は、決して突拍子の無いことで無く、むしろ当たり前に受け入れられていました。

当時、日本の神明とは仏法を擁護するもの、すなわち神々もいわば仏教徒であり、あるいは仏菩薩の垂迹であるとする見方が一般的でした。そして夢あるいは神託とは、それは現代の人の及びもつかないほど重要なもので、それらを通して得た言葉や幻像は、実生活に大きな影響を及ぼすほどのものだったのです。

『沙石集』には、春日明神に限らず神々が仏教僧らの夢に現れてその怠惰と破戒無戒に呆れ、あるいはこれを励まし、あるいは正しきに導いたなどという話が随所に載っています。

また、中世における戒律復興に関わった者のほとんど多くは法相宗興福寺出身で真言兼学の人、あるいはもと真言宗でも興福寺に関わった人でした。そして特に法相宗を養護する神と位置づけられていた春日の社は、興福寺の所管とされていました。そして当時、密教的神道解釈によっていよいよ神仏習合は進められ、本地垂迹説もますます整備されていきます。

実は、これは別項にて詳説することですが、嘉禎二年1236に覚盛および叡尊らによって行われた自誓受戒という方法自体、やはり主として法相唯識の典籍・教学に基づいて覚盛によって考案されたものです。そもそも覚盛自身、そしてその学律の師であった貞慶も戒如もまた興福寺の紛れもない法相宗で、真言兼学の人でした。

(当時の南都六宗の僧徒のほとんどは本宗と真言とを兼修兼学するのがごく当たり前で、それは何も特別なことではありませんでした。)

八百万の神などといわれる日本の神々のうち、特に春日神こそ律の継承に関わるものとされた土壌は、このように見たならば最初からあったということが出来るでしょう。

余談ながら、先に当時の僧界は俗界の引き写しでもう一つの俗界であったなどと述べましたが、そのような興律に尽力した最初期の人々のほとんど多くが藤原氏の子弟であったことはある意味皮肉な話でもあります。しかし、その時代背景や当時の寺院・僧侶のあり方を鑑みた時、それを現実に成し得るのはその政治的・経済的な後援を得やすかった貴族出身、中でも藤原氏出身の学僧らとなったのは当然のことであったかもしれません。

あるいは、これは中世だけでなく近世にも言えることですが、そのような「もう一つの俗界」たる僧界に身を置いていた貴族僧らは、しかし仏教の素養も信仰も持っていはしたからこそ、自らそうすることは出来ずとも己の非法を顧みて恥じ、興律を志す者や遁世僧らを敬して熱心に後援したように思われるのです。

狂瀾を既倒に廻らす

春日明神といえば、實範没してしばらく後に同じく戒律の護持を勧めるなど活躍し、その後の日本仏教に大きな影響を与えた華厳宗中興の祖といわれる栂尾明恵上人にもまた、それにまつわる多くの奇瑞があったとされています。

そして時を隔てた近世、慶長年中になされた俊正明忍律師ら五人による戒律復興は、明恵上人ゆかりの栂尾山高山寺に勧請された、まさしく春日・住吉両神の祠前においてなされたものでした。

意識的・無意識的いずれにせよ、日本における中世以来の戒律復興の流れにては、どのような形であれ常に春日明神のなんらか冥助があったと見なされてきたことは間違いありません。

これを見方を変えて言ったならば、中世近世においても、それが人の力ではいかんともしがたい、不可能とすら思えるほど困難なことであると考えられていたことの証とも言えます。たとえば解脱上人貞慶など、戒律復興を自ら志していながら、以下のように漏らしてもいます。

至戒律一道者。与昔大殊。雖歎無益。実是時代之令然也。半又土風之不応歟。《中略》 設雖(不)清浄(之)比丘。設雖不如法之軌則。其中。若一人二人。有知法人者。随分勝縁。豈可空哉。当時無続人者。将来方何爲。不只一宗之衰微。(雖)是四衆之悲歎也。

 戒律の一道については、過去と大いに異なっている。それを歎いたところで益などないとは言え、実にこれは時代のなせるところであろう。あるいは半ば(戒律とは日本の)思想風土にそぐわないものなのであろうか。《中略》
 たとえ(東大寺戒壇院における授戒の三師七証の僧らが)持戒清浄の比丘で無かったとしても、たとえ(律蔵の規定に違える)不如法の授戒法であったとしても、(三師七証の)その中に、もし一人二人でも仏法を知る者があれば、それが(後世のための)勝れた縁ともなるだろう。どうして(不如法の授戒であっても)意味など無い、虚しいものだと言えようか。今この戒の伝統を保つことがなければ、将来は如何ともし難くなってしまう。これは(律宗という)ただ一宗の衰微の問題ではない。四衆〈仏教徒全体〉の悲歎となるのだ。

解脱上人貞慶『戒律再興願文』
[現代語訳:沙門覺應]

貞慶は「半又土風之不応歟(あるいは半ば(戒律とは日本の)思想風土にそぐわないものなのであろうか)」などと率直にいわば弱音を吐露しつつ、しかし如何ともし難く思えるそれを再び興起せんとの志を持って、実際に力を尽くしています。

その努力は、果たしてやや時を隔てて結実するのですが、それも戦乱など時代の波などによって潰え、しかしまた天下泰平の世を迎えた慶長の世に復興。これも二百六十年ほど継承されるも、明治維新という時代の波に呑まれ、また相次いだ大戦などにより再々度廃絶しています。

そして現代、もはや戒律どころか仏教自体がもはや影を潜め、世のごくごく一部の人がこれを求め学ぶような世となっています。

またそのごく一部の人であったとしても、戒律など時代錯誤の前時代的産物であると見なしつつ、宗旨宗派に拘泥して我他彼此と熱心に切り分けることに熱心となってむしろ宗我を逞しくし、肝心の自心をいかに陶冶するかをなおざりとする者が多くあります。

あるいは「我、仏教を奉ず」などと言いつつ、しかしまるで仏典に根拠せず、あるいは堅白同異を論じて「私だけの仏教」・「私が考える、かくあるべき仏教」なるものを、むしろ真の仏教であると主張するような輩も少なくありません。

それもそのはず、仏法は斎戒を命根とするもの。

戒や律をおざなりにしたままでは仏教を正しく理解することも行うことも、また後に伝えることも出来はしないためです。

戒是佛法壽命

〈律〉とは仏法の寿命(を支えるもの)である。
(人が持戒持律する限りにおいて、仏教は正しくその教えを維持することが出来る。)

實範『東大寺戒壇院受戒式』
[現代語訳:沙門覺應]

これは教条主義的・形式主義的に戒あるいは律を一向守らずんばあるべからず、などというものでは決してありません。が、「仏教は戒律あってこそのもの」であること、「戒律がまともに行われている限りにおいて仏教は正しく伝わり行われる」とは仏典に記されるものであり、また三国通じて古徳先達らがしばしば強調してきた定説。そして今も、仏教が伝わる国々にてその語の誠なることが認められる真理です。

虎関師錬はかく言います。

蓋絶而又興興而又絶其興絶之間世有人乎

思うに、(戒律が)絶えてはまた復興され、復興されてはまた絶えるというその興亡の時の流れの間にも、世には必ず「人がある」のだ。

虎関師錬『元亨釈書』巻十三 明戒六
[現代語訳:沙門覺應]

それは決して容易いことでなく、むしろ不可能であり、もはやその努力など全く無駄と思えることかもしれません。まさしく「狂瀾を既倒に廻らす」と表される様でありましょう。しかし、たとえ時代をいくつか経ようとも、その時時の「人」があれば、その努力は必ず後世に実を結ぶ時が来ることでしょう。

それをまさしく歴史のうちに証した人の一人、それが實範師です。

小苾蒭覺應 拝記
(horakuji@gmail.com)

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2.凡例

本文

本サイトで紹介している戒山『中川寺實範律師伝』は、鈴木学術財団編『大日本佛教全書』巻六十二所収『律苑僧宝伝』を底本とした。

原文・現代語訳を併記し、対訳とした。もっとも、それぞれいずれかをのみ通読したい者の為に、対訳とは別に、原文・現代語訳のみの項を設けている。

原文は、原則として底本のまま旧漢字を用いている。ただし、現代語訳では、適宜現行の漢字に変更した。

書き下し文および現代語訳では読解を容易にするため適宜段落を設けたが、それらは全て訳者の意によるもので原文に拠ったものではない。

現代語訳は、逐語的に訳すことを心がけた。もっとも、現代語訳を逐語的に行ったと言っても、読解を容易にするため、原文にない語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は( )に閉じ、挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。注意されたい。

難読と思われる漢字あるいは単語につけたルビは[ ]に閉じた。

脚註

註は、とくに説明が必要であると考えられる仏教用語などに適宜付した。

原意を外れた錯誤、知識不足の為の誤解を含む点など多々あると思われる。願わくは識者の指摘を請う。

小苾蒭覺應 拝記
(horakuji@gmail.com)

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