真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 戒山『霊嶽山圓通寺賢俊永律師伝』

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1.解題

賢俊良永律師

賢俊良永[けんしゅん りょうえい]とは、もと高野山にて出家した真言宗徒であったものの、僧明忍律師らによって戒律復興され僧坊として開かれていた槇尾山平等心王院にて受戒して比丘となり、近世の日本仏教において律の興隆に力を尽くした律僧です。槇尾山を離れた後は、高野山に還って圓通寺(真別処)を開き、また法隆寺北室院を中興して律院として定め、現在でも良く名の知られている諸宗の僧らに授戒するなど、近世の日本仏教諸宗諸派における戒律復興の契機となった人の一人です。

賢俊は天正十三年1585、対馬の守護代であった宋氏の子として誕生。幼年から高野山に登って出家し、真言密教を修学しています。日頃から密教であれ仏教の肝要は戒律にあることを思ってその護持を望んでいたと言いますが、しかし当時はそれを正しく受け、行う術などありませんでした。

そんな中、賢俊が対馬に所用で里帰りしていた折、正当な受戒法である別受従他受を求めて支那に渡らんとして対馬に逗留していた明忍律師に邂逅。明忍は慶長七年、槇尾山平等心王院にてその他四人の同志と共に自誓受戒による戒律復興を成し遂げており、そこを律院僧坊としていた戒律復興の旗手であった人です。

(近世の戒律復興運動の旗手であった明忍律師については、別項“元政『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』”を参照のこと。)

賢俊は、そんな明忍律師に対馬で出会ったことは千載一遇の好機であるとして、自身に律を授けることを請うています。しかし、賢俊は、対馬にある明忍自身の元ではなく、槇尾山に赴いて修学・受戒すべきことを告げられたのでした。

そこで賢俊はその勧めに従って平等心王院に往き、慶長十五年1610に槇尾山にて、明忍律師の同志であり平等心王院第二代衆首を継いでいた慧雲律師を師としてその弟子となり、改めて沙彌戒を受け交衆しています。そして、その翌十六年1611三月には他十名と共に自誓受戒し、晴れて比丘となっています。

ところが賢俊は、その年の夏安居を終えて法臘一歳になったばかりにも関わらず、槇尾山を離れて高野山に帰りたい旨を申し出ています。しかし、それを槇尾山の他の衆徒らは許さず、争議となりました。なんとなれば、律には新学の比丘はその和上あるいは阿闍梨のもとで、五夏の間は必ず依止〈*後述〉しなければならないという規定があるためです。

結局、この争議は幕府(京都所司代)が取り扱うことにまで発展。ついに賢俊は、律の規定を無視し、ただ一夏を過ごしただけで師〈和上あるいは阿闍梨〉のもとを離れることを「幕命として」許されています。それに対し一方の槇尾山は、今後は律に基づき、新学の比丘は誰人たりとも五夏の依止を過ごすこと無く離れてはならないことを寺規として定めることを、これも「幕命として」制されています。

賢俊が何故そのような強弁をしたのか、その直接の動機は今の所不明です。これについてはまた後述しますが、賢俊がそれに言及するなど自ら書き遺した文書が伝わっていないためです。

しかしながら、持律を志して自らそれを受けながらそれに反し、また衆僧の反対にも関わらず、自らの主張を幕府まで巻き込んで律に依るのではなく政治の力によって押し通したこの賢俊の行動は、全く解し難いものです。そして幕府の下した決定も、実に不合理と言わざるを得ないものでした。

(これは、その規模も影響力も甚だ異なって大仰な表現の感はありますが、政治が仏教の核心的あり方に干渉したという点で、平安初期における最澄の大乗戒壇が、仏教の正当な根拠に基づくのではなく朝廷の政治的配慮によって許可されてしまったのに比せられるものです。)

この時、正しく出家の師となった慧雲律師を初め、明忍律師の師であり同志でもあった晋海僧正が同日〈慶長十六年三月二日〉に立て続けに示寂しており、同じく同志であった友尊律師はその前年〈慶長十五年六月二日〉に已に逝去して無かったことが、賢俊が槇尾山を離れようと思い至ったその大きな理由であったのかもしれません。

いずれにせよ、どのような形にせよ自身の希望通りに幕府の許しによって高野山に帰った賢俊はその後、東南院で蟄居させられていた山口重政の後援を得たことにより、高野山の奥深い地の新別所と言われていた地に霊巖院圓通寺を建立。ここを律の道場として衆徒に律学を講演し、行じていく拠点として弟子の育成に励んでいます。弟子の中には特に圓通受二世を継いだ眞政圓忍があり、またこの流れから快圓恵空など数々の優れた律僧が輩出されています。

その後、賢俊は高野山圓通寺を弟子眞政に託して一度離れ、槇尾山にて同時に自誓受した了性明空と共に法隆寺北室院を律院として定めてこれを中興、その第一世となって活動しています。

そして正保四年1647、圓通寺に帰っていた賢俊は逝去。享年六十三、法臘三十六。その墓は今も圓通寺境内にあります。

賢俊は、誰であれ、生き物全てにたいして等しく慈しみの心を持つことが沙門の本分であることを旨に刻み、さらに進んで衆生救済の誓願を立てており、貧者や病者の救済に力を尽くしたと言います。そしてまた、そのような強い志により、鎌倉期以来の律僧らにしばしば見られた死後には浄土に往生することを願うことがなかった、と伝えられています。

これはいわゆる「大悲闡提」の誓願を賢俊が立てていたことを示すもので、そのような意志は、あるいは自身もその戒脈に連なる興正菩薩叡尊の言葉(『興正菩薩御教誡聴聞集』)や大悲菩薩忍性の行業などに影響されたものであったかもしれません。

なお、賢俊の伝記には他に、元禄十五年1702、臨済宗僧の卍元師蛮によって著された『本朝高僧伝』巻六十三 浄律五之七に収められた『紀州高野山沙門良永伝』としてがあります。が、それはこの『霊嶽山圓通寺賢俊永律師伝』(戒山『律苑僧宝伝』)をもとにただ簡略して書かれたものに過ぎません。『本朝高僧伝』に載せる近世の律師らの伝記は、同様にほとんど全て『律苑僧宝伝』における伝承をなぞりまとめたものです。

よって賢俊律師の伝記としては、この『霊嶽山圓通寺賢俊永律師伝』が標準とされるべきものです。

依止 ―和上と阿闍梨

賢俊が槇尾山にて一年も経たずうち、ただ一度の夏安居を過ごしただけで去ろうとしたことが槇尾山の衆徒との間で争議となり、実際に去ってしまったことについて、その何が問題であったのか。それについて知るには、まずそもそも依止[えじ]ということ、いや、和上と阿闍梨ということについて正確に知る必要があります。

そこで先ず、和上(和尚)とは何か、なぜ和上というものが定められたのかを知らせるには、律を示すのが最も良いでしょう。

爾時尊者欝鞞羅迦葉。將諸弟子出家學道。刪若弟子。亦將二百五十弟子出家學道。羅閲城諸豪姓子。亦出家學道。大衆皆集遊羅閲城。時彼未被教誡者。不按威儀。著衣不齊整。乞食不如法。處處受不淨食。或受不淨鉢食。在小食大食上高聲大喚。如婆羅門聚會法。時有一病比丘。無弟子無瞻視者命終。諸比丘以此因縁往白世尊。世尊言。自今已去聽有和尚。和尚看弟子。當如兒意看。弟子看和尚。當如父意。展轉相敬。重相瞻視。如是正法便得久住。長益廣大。

 その時、尊者欝鞞羅迦葉〈ウルヴェーラ・カッサパ〉は諸々の弟子と共に出家学道し、 刪若〈サンジャヤの弟子もまた二百五十人が出家学道し、 羅閲城〈ラージャガハ・王舎城〉の豪族の師弟らもまた出家学道した。それら(出家して比丘となった)大衆が皆集まって羅閲城にあった。しかしそこで、未だ(比丘として)教誡を受けていない者が、その威儀を正さず、衣も正しく着られず、乞食も如法に行わず、あちこちで不浄食〈律の規定に反した食事を受け、あるいは不浄鉢食〈律の規定に違反した托鉢で得た食事を受け、小食〈粥食・大食〈中食において声高に騒ぐなど、まるで婆羅門〈バラモン。インド教の祭式執行者の聚会法のようであった。またその時、ある病に罹った比丘があったが、彼には弟子が無く、また看病する者も無くて独り死んでしまった。そこで比丘たちはこれらの顛末を世尊に報告した。すると世尊はこのように言われた。
「今より以降、和上のあることを許す。和上がその弟子を看ることは、まさに父が子を看るようにしなければならない。弟子が和上を看ることは、まさに子が父を看るようにしなければならない。相互に尊敬しあい、互いに見守り合わなければならない。そのようにすれば、正法は久しく世に行われ、その利益は広大なものとなるであろう。(後略)」

『四分律』巻三十三 受戒揵度之三(T22. P799b
[現代語訳:沙門覺應]

そもそも言葉としての和上とは、サンスクリットupādhyāyaあるいはパーリ語upajjhāyaなどインド語が、コータンなど中央アジアにて転訛した語の音写であると、伝統的にされる語です。よって、そのような自覚から、転訛した語からのいわば誤った音写ではなく、サンスクリットの原語upādhyāyaを忠実に再現しようとなされた新訳の音写では、鄔波馱耶[うぱだや]とされます。なるほど確かに、この音写は比較的正確と言えるもので、実際そのようなことから日本では多く授戒法則にて用いられる語となっています。

さて、upādhyāyaあるいはupajjhāyaの肝心な意味は先生、教誡師。伝統的にはこれを親教師または力生とする漢訳もあります。が、あまり一般的に用いられません。

ところで、日本では古来、和上とは僧侶の敬称、あるいは称号や階級・地位の名称であると解している者が多いようです。しかし、和上とは本来、まず僧侶個々人が受戒して比丘となる際の個人的な師僧のことであり、比丘となって後にはその膝下にて様々な教えを親しく請い、諸々の行儀作法を習う比丘のことです。

そんな和上すなわち師僧というものが仏陀の指示によって定められた経緯は、いま上に示した律蔵の一節にあるように、ただ他の宗教の徒弟や豪族の子弟らが仏教の比丘となりはしたものの、先輩比丘から何も比丘としての行儀作法を教わっておらず、はなはだ見苦しい様相を呈することがあったためです。また、すでに比丘となっていた者が、その弟子も看病者も無かったがために、独りそのまま亡くなってしまうことがあったためでもありました。

すなわち、比丘僧伽における和上の制定は、新学比丘の教育目的を第一とし、併せて旧比丘が病床に臥せった際の措置、いわば孤独死を防ぐ策としてもなされたものです。そしてその和上と弟子との関係は、あたかも世俗の父子のようなものでなければならず、相互に尊敬しあい、また(互いに信頼し合っているからこそ)その非を指摘し合い、高め合う関係でなければならないと位置づけられたものです。

出家が世俗の家族から離れ、また妻帯などして家庭を持たずに僧伽という脱俗の自治組織において暮らすが故に、むしろそのような年少者と年長者といった個々人の関係が父子のように尊敬と信頼、愛情あるものでなければならないと、ある意味必然的に形成されたものだと言うことも可でありましょう。

もっとも、この時、比丘となるといっても、現在知られているような三師七証・白四羯磨による受戒などというものは未だ制定されていませんでした。ただ仏陀から直接に「善く来たれ比丘よ!」などと声をかけられることや、仏陀によって比丘となった弟子のもとで三宝に帰依し、出家の意志を示すだけで比丘となっていたのです。これをそれぞれ善来受具、三語受具といいます。

むしろこの和上が定められたことをきっかけに、それまでの善来受具および三語受具によって比丘となることは許されず、三師七証・白四羯磨による受戒を標準とすることが定められたのでした。

そして比丘が、和上(師僧)となって弟子をとって具足戒を授けるためには、比丘となって最低でも十年を過ぎていること、法と律とに通じていること、智慧高く、またその行業が正しく、年少者を教導するに足る人徳あることが、その必須の条件として定められています。

比丘となって十年たってさえいれば、誰でも彼でも和上となって弟子を持てるなどということではありません。

さて、依止とは、原則としてそのような自身の師僧たる和上のもとで、様々な教導をうけることを言う言葉です。人は具足戒を受けるたことによって、直ちに比丘となることが出来ます。しかし、具足戒を受け比丘となることはその最初の一歩を踏み出した過ぎず、比丘として多くの事柄をその師から学ばなければなりません。

しかしもし、自身の和上が死去してしまった場合はどうするか。実際にそのような事例があり、その対処として以下のように定められたことが律蔵に伝えられています。

時諸新受戒比丘。和尚命終。無人教授。以不被教授故。不按威儀。著衣不齊整。乞食不如法。處處受不淨食。或受不淨鉢食。 在大食小食上高聲大喚。如婆羅門聚會法無異時諸比丘往白世尊。世尊言。自今已去聽有阿闍梨聽有弟子。阿闍梨於弟子當如兒想。弟子於阿闍梨如父想。展轉相教。展轉相奉事。如是於佛法中倍増益廣流布。《中略》

ある時、諸々の新たに受戒したばかりの比丘の和上が命終し、その者に教授する人がなくなってしまった。(その新学の比丘は)教え授ける者がなくなってしまったが為に、その威儀を正さず、衣も正しく着られず、乞食も如法に行わず、あちこちで不浄食〈律の規定に反した食事を受け、あるいは不浄鉢食〈律の規定に違反した托鉢で得た食事を受け、小食〈粥食・大食〈中食において声高に騒ぐなど、まるで婆羅門〈バラモン。インド教の祭式執行者の聚会法のようであった。そこで比丘たちはこれらの顛末を世尊に報告した。すると世尊は数々の方法によって(その新学の比丘を)呵責し、その後に比丘達に告げられた。
「今より以降、阿闍梨のあることを許し、その弟子あることを許す。阿闍梨は弟子を父が子を想うようにし、弟子は阿闍梨を子が父を想うようにせよ。互いに教え合い、互いに仕え合え。仏法の中においてそのようにすれば、その利益はますます広大なものとなるであろう。」《中略》

『四分律』巻三十三 受戒揵度之四(T22. P799b
[現代語訳:沙門覺應]

阿闍梨とは、サンスクリットācāryaあるいはパーリ語ācariyaの音写で、その意は先生・教師。より正確に阿闍梨耶と音写された語もしばしば用いられます。漢訳では規範師などともされますが、語としては和上と同義です。ただし、和上とは自身が比丘となるに際しての師匠であってある意味特別な意味が込められたものであるのに対し、阿闍梨とは普通、一般的な先生のことをいう語です。

(* 密教における阿闍梨の定義や位置づけはごく特殊なものであり、特に『大日経』および『大日経疏』に基づくもので、律蔵において定められるそれと全く異なることに注意。)

和上が死去するなどした際だけではなく、何か所用で遠出して不在となったとき、あるいは還俗してしまった際にもまた、その代わりとして依止すべき人が新学の比丘にはどうしても必要となります。

そのような人のことを阿闍梨、この場合は特に依止阿闍梨と言います。そしてやはり、そのような依止しえる阿闍梨もまた、和上に同じく具足戒を受けて十年以上経ており、経律に詳しく、威儀を知り、よく人を教導しうるなどの必須とされる諸条件が定められています。そして、阿闍梨と新学の比丘との両者の関係は、和上と弟子との関係と全く同様に父子のようでなければならないとされます。

この師弟の関係、それぞれのあり方は和上法や弟子法などといって、律蔵に規定されているでのです。

そしてまた、新学の比丘は最低でも五年、十歳以上の比丘に必ず依止しなければならない、と定められます。それは以下のような顛末によるものです。若干長くはなりますが、その由来の詳細、その根拠を知ることは依止ということを理解するために重要です。

爾時世尊。遊羅閲城。時欝毘羅迦葉。將諸徒衆捨家學道。刪若弟子將二百五十弟子捨家學道。羅閲城中有大富豪貴家子亦出家學道。如此大衆等住羅閲城時諸大臣自相謂言。今諸外道出家學道。春秋冬夏人間遊行此沙門釋子。聚住此間不餘處遊行。將由此處爲最勝故。爾時諸比丘聞已以此因縁具白世尊。世尊爾時告阿難。汝往房房勅諸比丘言。世尊今欲至南方人間遊行。若有欲侍從者各隨意。阿難受教。往房房語諸比丘言。世尊今欲往南方遊行。諸比丘若有欲侍從者各隨意。時有信樂新受戒比丘。白阿難言。若我等和尚阿闍梨去我當去。若不去我等不去。何以故 我等新受戒比丘。若去須依止。還此復當受依止。人當謂我輕躁無志爾時世尊。將少比丘。遊行南方。後還王舍城。時世尊觀南方遊行比丘衆少。知而故問阿難諸比丘何以故少。阿難具以上事白世尊。世尊。爾時以此因縁集比丘僧告言。自今已去。聽五歳有智慧比丘。十歳有智慧比丘。五歳比丘。應從十歳比丘受依止。若愚癡無智慧者。盡形壽依止。

その時、世尊は羅閲城〈ラージャガハ・王舎城〉に留まられていた。そこで欝毘羅迦葉〈ウルヴェーラ・カッサパ〉は諸々の徒弟を率いて出家学道し、また刪若〈サンジャヤの弟子も二百五十人が共に出家学道し、羅閲城にある大富豪や貴族の子弟もまた出家学道し、その出家した大衆が羅閲城に留まっていた。そこで、この地の大臣らは口々に噂していた。
「今、多くの外道らは出家学道し、春秋冬夏の一年を通して世間をあちこち遊行している。しかるに沙門釈子らはこの地に集まり留まり、他所に遊行することが無い。あるいはこの地がもっとも優れて居心地が良いためであろう。」
これを聞いた比丘らは、この話を詳しく世尊に報告した。すると世尊は阿難〈アーナンダに告げられた。
「汝は諸坊に行き、比丘たちに『世尊は今から南方に向かわれ、世間を遊行しようとされている。もし付き従って行こうと思う者があるならば、各自の意志のままに来たれ』と告げよ。」
そこで阿難はその指示を受け、諸坊を廻って比丘たちに伝えた。
「世尊は今から南方に向かわれ、世間を遊行しようとされている。もし付き従って行こうと思う者があるならば、各自の意志のままに来たれ。」
すると信楽〈喜びを伴う信仰ある新受戒の比丘が、阿難に申し上げた。
「もし私達の和上・阿闍梨が(仏陀に付き従って)行くのであれば、私もまた同じく行きましょう。もし行かれないのであれば、私達も行きません。なんとなれば、私達新受戒の比丘が、もし(和上・阿闍梨の元を去って仏陀と共に)行って(彼の地で誰かに)依止を求めたとしても、この地に還った時には再び(同じ和上・阿闍梨に)依止しなければなりません。すると(世間の)人々は、私達のことを軽薄で志し無き者らであると、噂することでしょう。」
 結局、世尊は幾人か少数の比丘らと共に南方を遊行され、後に王舎城に還って来られた。そして世尊は、共に南方に遊行した比丘衆が少なかったその訳を阿難に問われた。
「(共に南方に遊行した)比丘らは、どうして少なかったのであろうか。」
阿難はその理由を詳細に申し上げた。すると世尊はその時、その経緯を聞いたことによって比丘僧伽を集められ、このように告げられた。
「今より以降、五歳にして智慧ある比丘と十歳にして智慧ある比丘とに、五歳の比丘は十歳の比丘に従って依止することを許す。もし智慧無き者は、(五歳を過ぎようとも)盡形寿〈生涯依止すること。」

『四分律』巻三十四 受戒揵度之四(T22. P805c-806a
[現代語訳:沙門覺應]

ここで初めて、受戒して比丘となった者で最低でも五歳を満ずるまでは、自身の和上あるいは阿闍梨など十歳以上の比丘に依止すべきことが定められています。そしてそれは、世間の批判や噂の生ずることを恐れた新学の比丘たちが行動を制限されることへの配慮としてなされたものでした。

しかし、この五年というのはあくまで「最低限」ということであって、能力の無い者は一生涯、誰か上座比丘に依止すべきとされます。誰でも五度の夏安居を過ごせば依止を必要としなくなる、という訳ではないことに注意。

さて、総じて和上と阿闍梨とは何かについて、『四分律』皮革揵度において比丘が革製品を如何に扱うべきかについて説かれる中において、総じて定義されている一節があるためここに示します。

和尚者。從受得戒。和尚等者。多已十歳。阿闍梨者。有五種阿闍梨。有出家阿闍梨。受戒阿闍梨。教授阿闍梨。受經阿闍梨。依止阿闍梨。出家阿闍梨者。所依得出家者是。受戒阿闍梨者。受戒時作羯磨者是。教授阿闍梨者。教授威儀者是。受經阿闍梨者。所從受經處讀修妬路。若説義乃至一四句偈依止阿闍梨者。乃至依止住一宿。阿闍梨等者。多已五歳。除依止阿闍梨。

和上とは、(自分が)従って戒を得た者であり、和上等とは、多く已に十歳を超えた者である。阿闍梨とは、これに五種の阿闍梨がある。出家阿闍梨・受戒阿闍梨・教授阿闍梨・受経阿闍梨・依止阿闍梨である。出家阿闍梨とは、所依として出家を得た者である。受戒阿闍梨とは、(具足戒の)受戒の時、羯磨をなす者である。教授阿闍梨とは、(具足戒の受戒の時、)威儀を教授する者である。受経阿闍梨とは、自身が経典を教わり習う処において、修妬路〈修多羅・経を読み、あるいはその意味を教え授けて、四句一偈以上に及ぶ者である。依止阿闍梨とは、自分が依止すること一晩以上の者である。阿闍梨等とは、多く已に五歳を超えた者である。ただし、依止阿闍梨は(十歳以上でなければならず)その限りではない。

『四分律』巻三十九 皮革揵度之餘(T22. P848a
[現代語訳:沙門覺應]

ここに定義されているように、和上とは「(自分が)従って戒を得た者」であって、先に述べたように「それぞれ自身の師僧」のことです。そして誰か人の師僧となるには、具足戒を受けてから最低でも十年を経ているのが必要不可欠とされることも前に述べたとおりです。

また阿闍梨という存在について、実は阿闍梨にはその役割によって五種あるとされるものです。受戒時に新たに受戒しようとする者に対してあれこれ指導する役、あるいは受戒を進行する役などを果たすことが出来るのは、智慧ある有能な五歳以上の比丘で、それも阿闍梨と呼ばれます。しかし、新学の比丘が依止出来るのは十歳以上の智慧ある有能な比丘であって、その他の阿闍梨とは異なるものとされます。

いずれにせよ、依止とは、受戒したその場所ではなく、自身が受戒した和上あるいはそれに相当する上座比丘という人物に「最低」五年以上付くことを意味するもので、その年月を過ごす間に比丘としての様々な素養を備えていくための、仏陀によって律に明示された規定です。

自誓受戒における依止の問題

鎌倉期、嘉禎二年1236に大悲菩薩覚盛や興正菩薩叡尊ら四人によって果たされた戒律復興は、日本ではすでに三師七証の別受従他受による正当な受戒法が不可能となっていたため、覚盛によって「考案」された通受自誓受によって果たされました。

その後、覚盛は唐招提寺に入り、また叡尊は西大寺を中心として活動を展開し、特に叡尊の西大寺系の律宗が大いに繁栄し、以降の鎌倉期には日本仏教における最大勢力となるほど信仰と支持を集めていました。

そこで叡尊滅後の西大寺の律僧らは、夏安居を十年以上経て十人以上の比丘らがあって本来の別受従他受による具足戒の授受が可能となっていたにも関わらず、いわば緊急避難的・例外的であった筈の自誓受戒をむしろ標準、正統として行じ続けていました。これは祖師である叡尊が自誓受戒によって戒律復興を成し遂げたことに倣い、または宗派としていわば神聖視したことに基づくのでありましょう。

もっとも、当の本人である覚盛律師や叡尊律師などは、自誓受戒を全く正当であるとしてはいても、決して正統であると考えてはいなかったようです。事実、覚盛そして叡尊は、本来は受具後の十年を超えていなければならない筈のところを、ただ九度の夏安居を過ごした直後に律に違うことを百も承知ながらも「無理を押して」、家原寺において別受従他受を敢行。それによって弟子に具足戒を授けています。

しかしながら今述べたように、後代の叡尊の末弟らは、叡尊らが別受を無理を押してまで始行したのを意に介さなかったようで必ずしも継続しておらず、先に述べたように通受をこそ正当であり、むしろ別受に優越する正統なるものとして行じ続けています。

その慣例はまた、室町や安土桃山など戦乱の世を経る中で再び滅んでしまった律の伝統を、ようやく天下泰平を迎えようとしつつあった慶長の世に再度復興した明忍律師らにそのまま受け継がれました。いや、明忍律師本人は、叡尊らと同様に、あるいはまさに叡尊の遺跡に倣ってこそ別受を志向したことが確実に知られます。

叡尊律師らが実際に別受を始行し、また明忍律師が別受を受けることも始行することも叶わなかったもののしかし強くそれを望んでいたことは、そもそも彼らが常に依拠してきた『四分律行事鈔』などの著者で南山律宗祖であった道宣がとってきた本来の授戒法が別受であるためです。いや、そもそもその根本である律蔵において、自誓受によって比丘に成りえるなど到底あり得ない方法であるためです。

けれども、この流れにおいては別受を標準として継続されることは無く、自誓受によって比丘となった者の数や年限など別受を行う諸条件が充分に満たされた後になっても、自誓受のみが行われ続けました。後続の律僧らは、実際に戒律復興した律僧らの遺志を何故か採らず、自誓受がやはり正統であるとしたのです。

このような、西大寺の叡尊の「末流ら」が自誓受こそ行い続けて別受を一向行じない態度を取り続けていたのに対し、その中からほとんど例外的に唯一、別受を再び始行した人がありました。江戸後期の慈雲尊者です。この慈雲尊者の流れにおいてのみ、別受は昭和初期まで継承されました。が、大正・昭和と時代が移り変わる中で、日本ではまたも律の伝統が完全に潰え、別受どころか自誓受も行われることが無くなっています。

(ただし、これはもはや笑えない三文芝居・茶番劇であると評すべき話ですが、最初から破戒すること、守らないことを前提とした形ばかりの似非受戒ならば、別受従他受も通受自誓受もごく稀とは言え、律宗の唐招提寺や華厳宗の東大寺、天台宗の延暦寺、真言宗・真言律宗などにて現代においても相変わらず行われています。そのようないわば茶番受戒を、現今の日本の僧職者らがしかつめらしい顔をしながら受けているその様は、吉本新喜劇のような笑えない喜劇という他ありません。)

さて、少々本題からそれましたが、戒律復興を成し遂げた最初の人々、すなわち嘉禎二年〈中世鎌倉期〉の覚盛や叡尊ら四人、そして慶長七年〈近世江戸期〉の明忍や慧雲など五人ですが、彼らがやむを得ず自誓受という手段によってそれをなしたが故に一つの疑問が生じます。上に示したような新学の比丘に必須とされた最低五年間の依止を、彼らはどのように過ごしたのか、という疑問です。

結論から言うと、彼らには依止すべき先輩比丘がそもそも存在していなかったため、正しく五年の依止を過ごすことは不可能でした。『四分律』および『四分律行事鈔』など幾度も読み込んでいた彼らが、新受戒の者には五年の依止が必須であるという規定を知らなかったなどということは全くありえず、必ずこの問題を意識していたに違いない。

しかしながら、そこでこれを律師らがいかに理解し、そのような不可能な状況で五年という期間を過ごしたのか、それを具体的に示す彼ら自身の文書が管見では無いため、残念ながら今知ることが出来ません。

そしてこれは、先に述べた賢俊良永の受具後一夏で依止を離れようとし、実際に離れてしまった、という問題に繋がることとなります。

彼の主張の要は、自誓受による得戒における和上とはあくまで釈迦牟尼であって、自身の和上は釈迦牟尼に他ならない。よって依止は釈迦牟尼につくのであって、具体的には直に戒や律の波羅堤目叉などを鑑として真摯に五年以上学ぶことによって果たし得るというものであった、と言われます。

この賢俊の主張には一理あります。あくまで一理にすぎませんが。

まず、嘉禎の昔に覚盛によって考案された自誓受という受戒法においては、本来は生身の十夏以上を過ごした上座比丘を和上とすべきところを釈迦牟尼としたものです。よって、理屈の上では「私の戒和上は釈迦牟尼である」などということは出来ます。そして、今述べたように、戒律復興を成し遂げた最初の律師らが、実体ある上座比丘に依止して何事か学んだわけではありませんでした。

彼らの中には、律蔵は言うまでもなく、主に南山大師の諸著作に依り、鎌倉期の場合は俊芿など入宋僧から宋代の支那において行われていた法式・行儀を学んで取り入れ、また江戸期の場合は西大寺にて形式的に学問として伝わっていた律学を学ぶなどしていたに過ぎず、正しく五夏の依止を経た者など一人としてありませんでした。

そもそもそれが可能な状況であれば、自誓受によって比丘となりえるとする根拠を主に諸仏典(法相唯識の典籍)からひねり出し、その術を考案する必要など全くありませんでした。その術としての自誓受という受戒法自体が、それを考案した覚盛自身が緊急避難的・便法として創始したものであったのです。

まさしく大道廃れて仁義あり、というものです。

そして更に言うならば、賢俊が受具した慶長十六年の安居を終えた時には、「和上は釈迦牟尼」であるとしても、晴れて十夏を終えた依止阿闍梨となりえる玉圓空渓という比丘が、たった一人であったとはいえ存在していたことです。

玉圓空渓律師とは、明忍律師や慧雲律師、晋海僧正と友尊律師と共に、初めて自誓受による戒律復興した五人の同志の一人で、次々同志が亡くなっていく中で最後に残り、槇尾山の三代衆首を継いでいた人です。

前述のように、賢俊が比丘となった時には親しくその膝下に入った最初の律師らが次々亡くなっており、あるいは最後に残った玉圓空渓律師と賢俊とは反りが合わなかったことが、彼が槇尾山を離れようと決意した実際の動機となった、ということもあったのかもしれません。が、これは拙い推測に過ぎません。そして仮にその推測が正しかったとして、それが賢俊が一夏のみで依止不要となることの根拠には全くなりません。

そして、これが賢俊のとった行動の決定的に誤りであった点ですが、僧伽内での諍論を政治権力に委ねたことです。実は律(二百五十戒)において、僧伽内でなんらか諍論が生じた際の解決法が定められており、それを七滅諍法といいます。持戒持律を志す者ならばなおさら必ず従うべき、破僧を防ぐための重大な規定です。が、彼はそれに従わずその解決を政治に委ね、結果的に不合理な裁定が下されています。

この賢俊の行動について、従来のあり方を変えた革新的なものであるとか、誰でも正しく比丘となるための自由さを増した進歩的なものであったとか評価する輩も、あるいはあるかもしれません。しかし、それは彼が持戒持律を志した人であったことに決定的に矛盾し、また律蔵からの観点だけでなく南山律宗のあり方からも到底認められるものでなかったことに違いはありません。

さて、自誓受という受戒法が、それが本来の正統なものではない、印度でも支那でも無かった日本独自のものであったが故に、以上のような問題を生じ、いや、ここではあえて深入りしませんが、実は今述べた以上の問題を様々に生じさせていました。

しかし、これは結果論となりますが、賢俊はただ一夏を過ごしただけで槇尾山を独り離れた後には、高野山新別所に圓通寺を開いて律寺として幾人かの優れた弟子を育て、また法隆寺北室院も律院とし、諸宗の人に受戒して戒律復興の波を他宗にも波及させるなど、近世の興律運動において大きな足跡を残すこととなっています。

師と弟子とのあるべき姿

ただし、賢俊が無視した、この受具後の最低五年以上は和上もしくは阿闍梨のもとで依止しなければならない、という新受戒の比丘の義務を恣意的にたった一年で良いとした規定については後日談があります。

その後に賢俊の弟子で泉州大鳥山神鳳寺を四方僧坊として開いた真政圓忍を継いでその第二世となった快圓恵空は、その僧坊において受具した者は必ず五年間依止しなければならないことを寺規として明文化して制しているのです。

あるいは、戒律復興の黎明期であって実際に平等親王院の体制も完全に整っていなかったからこそ、賢俊が為したような無理も通ったのでしょう。けれども、しかしすでにその修学・修行面で一定程度組織化され、安定したあり方をなした時には、やはり賢俊の主張は、その弟子からも律蔵に照らしてありえない無理筋であると捉えられ、結局はあくまで律蔵を基準とすることとなったのでしょう。

とは言え、この依止ということについて、江戸後期にはかなり緩んでいたようで、慈雲尊者などはそれがどこのことかは明らかにしていないものの、相当厳しい批判を展開しています。

近世、戒律復興の波は真言律のみならず、禅・天台・浄土・法華など諸宗にも及んで、江戸中期にはいわば一種の流行となっていたものの、それは所詮「流行」でただ名目上だけのことであって相当乱れた、持戒持律のそもそもの意義や目的など全く失われていた内実のものが多かったことが知られるのです。

飲光曰。今時稱僧坊者。情不忘自他法分彼此。假令非法犯戒者。於彼彼寺受戒者爲彼彼一派。如法如律者。若他山受戒者。謂之他派而不許執法務與人依止等。滔滔者天下皆是。相傚爲俗。強諌反增瞋恚。嗚呼寂滅性中妄起業種。平等法中反生隔歴。生死實可悠遠而已。又今時稱依止者實可笑耳。弟子不請 律佛制使請而不知請 師不與 律佛制。若比丘師德具。則衆僧與畜衆。自是已後得度弟子。新學比丘入寺乃至一夜不許無依止。弟子請之而師與依止。具有其法。師資總不知。不問路遠近 律中限一日往還 師不勘弟子。弟子不擇師德。至於甚。師問弟子以財賄有無。弟子擇師量名聞高下。爲沙彌爲比丘寄券衆僧。如奴婢口券爾。夫僧坊之立制者是佛法之命脈。師資相仍者僧伽之勝業。若欲使如來正法不墜於地者。則請須少留意也。

 飲光〈慈雲〉曰く、今の時代に僧坊を称する者らは、人情〈慈雲尊者にとって、いや、仏教において「人情」とは決して従い、依るべきでない、判断基準としてはならないもの〉でもって自他を差別することを忘れず持ち込んで、法を彼れ此れと分け隔てている。たとえ非法・犯戒の者であっても、彼らの寺で受戒した者であれば彼らの一派であるとしている。如法・如律の者であっても、もし彼が他山にて受戒した者であれば彼を「他派〈よそ者〉」と言い、その寺で法務を行ったり、若い比丘の依止となること等を許さないのだ。
 日本仏教界全体が一様にこのような有り様である。皆が揃って俗人と何ら変わりなく、もしこれを敢えて諌めたならば、むしろ(諌めたものに対して)怒りを増すのである。
 嗚呼、(生死輪廻から脱せんと)寂滅を求めるのが本質の教えの中において、妄りに(さらに苦しみの生死を引き起こす)業の種を蒔き、平等の教えの中において、むしろ(不合理なる差別をもって)別け隔てする。(彼らの)生死の苦しみはまさに悠遠に続くと言う他ない。
 また、今の時代にて「依止」と言われている者については、まこと失笑を禁じ得ない。その弟子は(依止を)請ぜず 律蔵に(依止を)請じなければならないと仏陀が定められているにも関わらず、その「請うこと」自体を知らないのだ その師は(依止を)与えず 律蔵に、もし比丘が師たりえる德を具えているならば、衆僧はその比丘に弟子を取らせることを仏陀は許された。その時以降、(比丘は)弟子を取って得度させることが出来るようになった。(具足戒を受けたばかりの)新学比丘は寺に入ったならば一夜として依止師の無い状態は許されない。弟子は依止を請じ、師は依止を与えるのである。それについて詳細な定めがあるのだ。にも関わらず、(今時の僧徒は)師もその弟子も総じて無知である、路の遠近を問わず律蔵にて一日で往復できる距離に限ると定められている、その師は弟子(の資質)について何も考えず、その弟子は(入門する前に)その師となる者に徳があるかどうか考慮すらしない。
 甚だしきに至っては、師となる者が弟子となろうとする者に対して財産の有無を問い、弟子となろうとする者は師を選ぼうとする時にただ世間における名聞の有る無しをのみ判断基準としている。沙彌となり、比丘となろうとするのに衆僧に券を送ることなど、奴婢の口券〈未詳〉のようなものであろう。
 そもそも僧坊の立制〈戒律に基づいた僧坊の運営規則〉は仏法の命脈である。(仏教僧として本来あるべき)師と弟子とが相い支え合うあり方は僧伽の勝業〈優れたあり方〉である。もし如来の正法を地に墜とさせぬと願う者は、ここに請う、すべからく多少なりとも(戒律が仏法の命脈であること、師と弟子とのあるべきようを)留意すべきことを。

慈雲尊者『根本僧制』
[現代語訳:沙門覺應]

およそ仏教においては通じて、その師弟関係は極めて重要なものであると言われます。その基は、上に示した仏陀釈尊の昔における和上と弟子、阿闍梨と弟子との関係が重要視されたことにあります。そしてそれは、ただ頭を剃って衣を着ただけの無知無能の僧の存在を許さないためで、出家後十年以上の経験あり、智慧・知識あって優れた者こそが弟子を持って、これを育て得るというのが仏教僧における教育のあり方です。

そのような師弟のあり方は理想に過ぎない、文字上のことで現実はそうはいかない、という者もあるかもしれません。

しかし、それは現代においてもなお、セイロンなど南アジアやビルマやシャムなど東南アジアにおける僧院において連綿と行われており、まさに現実のものとしてそこここで目にすることが出来るものです。それはまさに世俗の父子関係のように互いを信頼し、尊敬し合う和上と弟子、阿闍梨と弟子の姿を見ることが出来るのです。それはチベットの学問寺などではないむしろ小寺院や、決して長い伝統などあるわけでもないベトナムやシンガポールや台湾における仏教寺院においてすら同様に見られるものです。

現在の日本においては、口の上では、今も仏教における師弟関係の厳しさ、重要さを言う僧職者らは多くあります。それはしかし、「師が黒いカラスを白だと言ったならば、弟子は黒であろうと白だと言え」というが如きもので、悪い意味で儒教的・封建主義的で、お話にもならないむしろ非仏教的あり方を是とするものとなっています。

今、日本は再々度、明治・大正のの廃仏毀釈と富国強兵そして大東亜戦争を経験する中で戒律の断絶した時代を迎えて久しく、依止を求める以前の状況となっています。

そんな中にあって、たとい知識のみであっても依止などといった仏教における真の師弟関係のあり方、師資相承というもの真相をこれによって知る人があれば、いつかまた律幢を挙げる人が現れることの機縁の一つとなるに違いありません。

なんとなれば、このような仏教における本来の師弟のあり方を通してこそ、仏教が生きたものとして社会に行われ、また継続されていくものであるからです。

小苾蒭覺應 拝記
(horakuji@gmail.com)

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2.凡例

本文

本サイトで紹介している戒山『霊嶽山圓通寺賢俊永律師伝』は、鈴木学術財団編『大日本佛教全書』巻六十二所収『律苑僧宝伝』を底本とした。

原文・現代語訳を併記し、対訳とした。もっとも、それぞれいずれかをのみ通読したい者の為に、対訳とは別に、原文・現代語訳のみの項を設けている。

原文は、原則として底本のまま旧漢字を用いている。ただし、現代語訳では、適宜現行の漢字に変更した。

訓読文および現代語訳では読解を容易にするため適宜段落を設けたが、それらは全て訳者の意によるもので原文に拠ったものではない。

現代語訳は、逐語的に訳すことを心がけた。もっとも、現代語訳を逐語的に行ったと言っても、読解を容易にするため、原文にない語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は( )に閉じ、挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。注意されたい。

難読と思われる漢字あるいは単語につけたルビは[ ]に閉じた。

脚註

註は、とくに説明が必要であると考えられる仏教用語などに適宜付した。

原意を外れた錯誤、知識不足の為の誤解を含む点など多々あると思われる。願わくは識者の指摘を請う。

小苾蒭覺應 拝記
(horakuji@gmail.com)

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