真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 空海 『弘仁遺誡』(2)

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1.原文

如是諸戒十善爲本。所謂十善者身三語四意三也。攝末歸本一心爲本。一心之性與佛無異。我心衆生心佛心三無差別。住此心卽是修佛道。常是寳乗直至道場。

若上上智觀者卽身成佛之徑路。上智觀者卽三大證果。中智觀者語緣覺乘。下智觀者聲聞乘也。

如是諸戒不具足慧眼闇冥。知此意如護眼命。寧弃身命此戒莫犯。若故犯者非佛弟子非金剛子非蓮華子。非菩薩子非聲聞子。非吾弟子我亦非彼師。與彼泥團折木何異矣。

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2.訓読文

かくの如くの諸戒は十善を本となす*1 。いはゆる十善とは、身三語四意三*2 なり。末を摂して本に帰すれば、一心を本となす。一心の性[しょう]は、仏と異なることなし。我心[がしん]と衆生心[しゅじょうしん]と仏心[ぶっしん]との三、差別[しゃべつ]なし*3 。この心に住すれば、すなはちこれ仏道を修す。この宝乗に乗ずれば、直ちに道場に至る。

もし上上智観なれば即身成仏の径路*4 なり。上智観はすなはち三大に果を証す*5 。中智観は縁覚乗[えんがくじょう]*6 、下智観は声聞乗[しょうもんじょう]*7 なり。

かくの如くの諸戒、具足せざれば慧眼闇冥なり。この意を知って眼命を護るが如くすべし。寧ろ身命を棄つるとも、この戒、犯ずることなかれ。もし故に犯ずる者は、仏弟子にあらず、金剛子にあらず、蓮華子にあらず、菩薩子にあらず、我もまた彼が師にあらず、かの泥団折木に何ぞ異ならん。

訓読文:沙門 覺應

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3.現代語訳

これら諸々の戒は十善を根本とするものである。いわゆる十善とは、身体的行為について三種、発言について四種、精神的行為について三種の善を説くものだ。人の様々な行為の根本とは何かをたずねれば、ただ一つの心がその根本となっている。このただ一つの(我が)心の本質は、仏と異なったものではない。我が心と、その他の生命の心と、仏の心との三つの心は、(その本質においては)なにも異なったものではない。この心をしっかりと観察すれば、それが仏道を修めることである。この宝物のような貴い教え(密教)に従えば、たちまちこの上ない悟りに至るのだ。

もし上上智観であれば(真言密教の説く)即身成仏を目指す道である。上智観であれば(一般大乗の教えによって)三大阿僧祇劫の修行を経てこの上ない悟りに至る。中智観は独り悟りを求めて証する道であり、下智観は、仏の(小乗の)教えに従って悟りを求める道である。

(仏道を修める者が)これらの諸々の戒を、具えていなければ智慧の眼は暗く闇に閉ざされるのだ。この意味を知って盲目にならなぬよう気をつけるが如く(戒を持つため努力)せよ。むしろこの命を捨ててでも、この戒を犯すことがあってはならない。もし故意に(自分勝手な理由によって戒を)破る者は、仏弟子ではない。金剛界灌頂を授けた弟子ではない。胎蔵灌頂を授けた弟子でもない。大乗を奉じる徒ではない。小乗を奉じる徒でもない。私(空海)の弟子でもなく、私もまた破戒・犯戒の徒の師などではない。(戒を受け保たないような者は)その辺の泥団子や折れて使い物にならない木ぎれと何も異なったものではない。

現代語訳:沙門 覺應

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4.語注

  • 諸戒は十善を本となす…『大智度論』の以下の所説が念頭にあるのであろう。「十善為総相戒(十善を総相戒とす)」(大正25,P395中段)→本文に戻る
  • 身三語四意三…十善とは、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見の十項の徳目。それぞれの内容を簡単に示せば、「故意に生命を害さない」「いまだ与えられていない物をみずからの物としない」「よこしまな性関係を他者と結ばない。不倫・売買春しない」「虚言を言わない」「無駄口をたたかない」「他者を誹謗中傷しない」「他者を離間させるようなことを言わない。二枚舌を使わない」「物惜しみせず、無暗に欲しがらない」「怒りに身をまかせない」「非仏教的なモノの見方をしない」の意となる。前三項は身体的行為についての戒めであり、その次の四項は言語についての、最後の三項は心の戒めである事から、これを身三語四意三[しんさんごしいさん]または身三口四意三[しんさんくしいさん]と呼称する。→本文に戻る
  • 我心[がしん]と衆生心[しゅじょうしん]と云々…。→本文に戻る
  • 即身成仏の径路…密教の器の者。弘法大師は、密教の修行によって、今生のこの身、この生命において成仏が果たされるなどと、『即身成仏義』などでその優位を主張した。
    が、弘法大師自身が(伝説では宮中の清涼殿でしたことになってはいるが)即身成仏したということはなく、その弟子達にも達成した者はない。少なくとも「した」と言った者は一人もいない。空海の師、唐の恵果和尚は、空海をして「三地の菩薩」であると評している。「仏」の概念は諸宗によって若干異なるが、伝統的通仏教的定義における仏陀となった者は、有史以来、釈尊以外には誰もいない。
    また、密教はかならずしも即身成仏を説く教え、必ず即身成仏出来る教えである、とは言えない。もっとも、即身成仏を志向する教えである、とは言えるだろう。→本文に戻る
  • 三大に果を証す…六波羅蜜行によって悟りを志向する、一般大乗の教え。三大とは、三大阿僧祇劫[さんだいあそうぎこう]の略。阿僧祇とは「数えられないほどの数」。劫は時間の単位であるが、ほとんど無限かとも思われるほどの宇宙的時間。経典では、三大阿僧祇劫がどれほど長い時間かを譬えるのに、「天人の羽衣の譬え」や「芥子粒の譬え」が用いられる。一般大乗では、ほとんど無限の時をかけて修行しなければ仏陀になることは出来ない、と説かれている。もっとも、修行する者にとって、その時間など問題にならない。→本文に戻る
  • 縁覚乗[えんがくじょう]…ただ独り修行して、師の導き無くして悟りに至ろうとする修行者あるいはその教え。一般に小乗と分類される。→本文に戻る
  • 声聞乗[しょうもんじょう]…師の導きによって修行し、悟りに至ろうとする修行者あるいはその教え。一般に小乗と分類される。→本文に戻る

語注:沙門 覺應

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