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‡ 空海 『弘仁遺誡』(現代語訳)

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1.現代語訳

『遺戒』

真言密教の教えを奉じる(空海より)後代の弟子達は、過去世になした(悪しき)行為のその結果として、非常に愚かで真理に暗い。是非とも(以下に記された弘法大師の教誡の)言葉にしたがうべきである。よってこの言葉を、常に座右のものとして心を誡める鏡とせよ。

もろもろの弟子達に告げる。そもそも出家して仏道を修行するのは、もとより最高の悟りを求めてのことである。まったく転輪聖王に生まれ変わって世界を治める為でも、梵天や帝釈天など強大な力ある神々として生まれ変わる為ではない。ましてや人の世の(名聞利養など)わずかばかりではかない安楽を求めること為などでは決してない。思い立って遠くに出かけるのには、足でなくては不可能である。(それと同じように)仏道を求めていくのに、戒によらないではどうして悟りに至る事が出来ようか。(仏道を志す者は)かならず当然のことながら顕教と密教とで(立場に応じて)説かれるそれぞれの戒を堅くしっかりと守り、戒に違わず戒を犯すことがあってはならない。

いわゆる顕戒とは、三帰依・八斎戒・五戒および声聞(の具足戒)や菩薩(の菩薩戒)などの戒である。(仏教の出家修行者の男・女、在家信者の男・女など、つまり仏教徒全体を意味する)四衆それぞれに異なる保つべき戒があるのだ。密戒とは、いわゆる三摩耶戒である。または仏戒と名づけ、または発菩提心戒と名づけ、または無為戒などと名づけられるものである。

これら諸々の戒は十善を根本とするものである。いわゆる十善とは、身体的行為について三種、発言について四種、精神的行為について三種の善を説くものだ。人の様々な行為の根本とは何かをたずねれば、ただ一つの心がその根本となっている。このただ一つの(我が)心の本質は、仏と異なったものではない。我が心と、その他の生命の心と、仏の心との三つの心は、(その本質においては)なにも異なったものではないのだ。この心をしっかりと観察すれば、それが仏道を修めることなのだ。この宝物のような貴い教え(密教)に従えば、たちまちこの上ない悟りに至るのだ。

もし上上智観であれば(真言密教の説く)即身成仏を目指す道である。上智観であれば(一般大乗の教えによって)三大阿僧祇劫の修行を経てこの上ない悟りに至る。中智観は独り悟りを求めて証する道であり、下智観は、仏の(小乗の)教えに従って悟りを求める道である。

(仏道を修める者が)これらの諸々の戒を、具えていなければ智慧の眼は暗く闇に閉ざされるのだ。この意味を知って盲目にならなぬよう気をつけるが如く(戒を持つため努力)せよ。むしろこの命を捨ててでも、この戒を犯すことがあってはならない。もし故意に(自分勝手な理由によって戒を)破る者は、仏弟子ではない。金剛界灌頂を授けた弟子ではない。胎蔵灌頂を授けた弟子でもない。大乗を奉じる徒ではない。小乗を奉じる徒でもない。私(空海)の弟子でもなく、私もまた破戒・犯戒の徒の師などではない。(戒を受け保たないような者は)その辺の泥団子や折れて使い物にならない木ぎれと何も異なったものではない。

師と弟子という関係は父子よりも互いに濃密なものである。父子は血がつながりによって相親しいとはいえ、この現世でのただ一生涯での愛であって、それはむしろ生死輪廻する迷いの束縛でしかない。(しかし、)師と弟子との愛は真理の教えによって互いに親しみ、世俗社会と出家社会での苦しみを軽減し楽をあたえるのだ。どうして(師と弟子との関係を、父子との関係などと)比べることができようか。であるから、(あな達の師である私空海は)非常に親しく教誡し、この我が言葉をあなた達弟子達に示すのである。

もし私の誡告に順うのは、すなわちそれが(過去・現在・未来の)三世の諸仏の戒に従うことである。これはとりもなおさず「仏説(仏の教え)」である。これは私の私的主張などではないのだ。諸々の比丘や沙弥、在家仏教信者や寺院で生活する年少者達よ、これらの戒を奉じてよく保ち、しっかりと(自分たちが灌頂の投華得仏で得た尊格を)本尊とする冥想法を行い、すみやかに三種の妄執を超えて、一刻も早くこの上ない最高の悟りに至り、(自利と利他の)二利を円満して、(父母・国王・衆生・三宝から受けた)四恩に報いなさい。いわゆる「菩提薩埵」とは、(今示したような者と)どうして異なった者であるだろうか。(いや、その様な者こそ菩薩、つまり、これからのあなた達なのだ。)

私の教誡にそむくのは、すなわち諸仏の教えに逆らうことである。このような者を「一闡提[いっせんだい](救われない者)」と名づけるのである。(このような者は)永く苦しみの(生死輪廻の束縛の)海に沈み続けるばかりで、一体いつになったら逃れられるというのだろうか。私もまた(破戒の徒などと)共に(この苦しみの海たる世界に)いつまでも居て教導する事はない。

(この苦しみの世界から)往き去れ、とどまってはならない。往き去れ、(この陽炎や白昼夢の様に、はかなく虚しい世界に)とどまってはならない。

弘仁四年(812)仲夏月晦日(5月30日)

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