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‡ 貞慶 『戒律興行願書』

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1.原文

如来滅後以戒為師。出家在家七衆弟子誰不仰乎。十誦律云。又諸比丘廃学毗尼。便讀誦修多羅阿毗曇。世尊種種呵責。由有毘尼佛法住世云々。如此之文不知幾許。然而追時漸衰。必然之理也。我暗人暗。不學不持。但八宗相分之後。三學互異之中。御寺自昔相傳二宗。東西堂衆者則其律家也。以鑒眞和尚爲祖師。以曇无徳部爲本教。持衣以降殊稱律宗。大小十師昇進有限。以戒和尚。忝爲極位。而末代佛法不離名利。若有其依怙就之有勇。昔者諸寺置律供。是止住之緣也。維摩大會遂大業。是出身之階也。両事倶絶。爲之如何。

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2.書き下し文

如来の滅後、戒を以て師とす1。出家在家七衆の弟子2、誰か仰がざらんや。

十誦律3に云く、また諸の比丘毗尼4を廃して、便ち修多羅5阿毗曇6を読誦するに、世尊種種に呵責したまふ。毗尼あるに由って、仏法世に住すと云々

此の如きの文、幾許なるか知らず。然れども時を追ひて漸く衰ふるは、必然の理なり。我も暗く人も暗く、學ばず持せず。ただ八宗7相ひ分るるの後、三學8互いに異なるの中、御寺9昔より二宗10を相傳せり。

東西の堂衆11は、則ちそれ律家なり。鑒眞和尚12を以て祖師とし、曇无徳部13を以て本教とし、持衣以降14、殊に律宗と稱す。大小の十師15昇進するに限り有り、戒和尚16を以て忝なくも極位とす。

而るに末代の佛法名利を離れず。もしそれ依怙あらば、これに就いて勇あり。昔は諸寺に律供17を置くは、是れ止住18の緣なり。維摩の大會19に大業を遂ぐるは、是れ出身の階なり。

両事倶に絶す、これを如何せん。

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3.現代語訳

如来の滅後は戒をもって師とする。出家・在家の七衆の弟子で、誰が(戒律を師として)仰ぎ見ないことがあろうか。

『十誦律』に、「また諸々の比丘が律を廃し、ただ経典と論書とのみを読誦していたところ、釈尊はこれを様々に厳しく咎められた。律があるからこそ、仏法が世に存続し得るのだ」などと説かれている。

このような文言は、(三蔵の中に)数え切れないほど説かれている。しかしながら(仏滅後)時代が経つにつれて次第に(律が)正しく行われなくなるのは、必然の理でもあろう。(律について)私自身も無知であり、また人々も同様で、学ぶことなく保つこともない。ただ(仏滅後、その教えが)八宗に相分かれ、(戒学・定学・慧学の)三学(の具体的内容)を互いに異ならせている中、興福寺は昔から(法相宗と律宗の)二宗を相伝してきた。

(興福寺の)東・西金堂の堂衆は、すなわち律家〈律宗を本宗とする者〉である。鑑真和尚をもって祖師とし、(小乗十八部の一派たる)曇無徳部〈法蔵部〉をもって本教とし、具足戒を受けて律衣〈三衣〉を着して後は、特に律宗と称する。大小の十師の(身分・階級としての)昇進には限りがあり、戒和尚をもって、それも畏れ多いことであるが、その頂点とする。

しかしながら、(今のような)末代における仏の教えは、名誉と財産と不可分のものと成ってしまった。とは言え、もし(僧が律を護持して生活するのに不可欠の)頼みとするものがあれば、それは頼もしいことである。昔、諸寺には律供(という経済的支援)があったのは、そこで(僧が律を護って)生活する助けとする為であった。また、「維摩の大会」に(堅義などとして出仕し)その大役を勤めることは、(官僧・学侶として)出世する階梯であった。

(にも関わらず、興福寺がその宗としてきた律宗と法相宗の本分は、)それぞれ倶に絶えてしまっている。これをどのようにすべきであろうか。

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4.語注

  • 如来の滅後、戒を以て師とす…『仏遺教経』の一説、「汝等比丘。於我滅後當尊重珍敬波羅提木叉。如闇遇明貧人得宝。當知此則是汝大師。若我住世無異此也」(T12, P1110c)に基づいた言。
     仏教の出家者組織、僧伽とは、誰か特定の指導者を頂いて運営されるものではなく、その組織全員の合議によって運営される。そのような僧伽の運営のありかたを和合僧という。そして、和合僧とは、律蔵の規定を鑑としてその皆が遵じることによって成立する。『遺教経』に説かれるこの一節は、理想論でもなんでも無く、仏滅後の僧伽のあるべき姿をそのまま示したものである。少なくとも義浄が印度各地を経巡った当時、そのようなあり方は印度において確かに実行されていたことが、その著『南海寄帰内法伝』によって知られる。→本文に戻る
  • 七衆[しちしゅ]の弟子…比丘・比丘尼・沙弥・式叉摩那・沙弥尼の五つの出家の立場と、男性在家信者の優婆塞ならびに女性在家信者の優婆塞という二つの在家の立場を総じて七衆という。仏教徒全体を指した言葉。詳しくは別項、“仏教徒とは何か(七衆)”を参照のこと。→本文に戻る
  • 十誦律[じゅうじゅりつ]…説一切有部の律蔵。支那に初めて完全なものとして伝わり、漢訳された律蔵であったため、支那では当初もっぱら『十誦律』が行われた。天台宗の智顗や華厳宗の法蔵など、その皆は『十誦律』に基づく律を護持していた。しかし、やがて法蔵部の律蔵『四分律』が仏陀耶叉によってもたらされ漢訳され、それを主として研究し依行するいくつかの律宗が立てられ、ついに支那における律は専ら『四分律』に依るものと変わっていった。→本文に戻る
  • 毗尼[びに]…サンスクリットあるいはパーリ語のvinaya、あるいはそれが中央アジアのいずれかの言語に転訛した語の音写。律のこと。毘尼、毘奈耶とも。詳しくは別項“律とは何か”を参照のこと。→本文に戻る
  • 修多羅[しゅたら]…サンスクリットsūtraの音写。経典のこと。→本文に戻る
  • 阿毗曇[あびどん]…サンスクリットAbhidharma、あるいはパーリ語Abhidhammaの音写。阿毘曇。毘曇とも略称されるが、一般には阿毘達磨。漢訳は、対法または勝法とされる。狭義には論蔵に収録された特定の論書のみを指すが、広義には論蔵に収録されていない注釈書なども含まれる。→本文に戻る
  • 八宗[はっしゅう]…仏滅後、さまざまに分かれた諸宗派の総称。具体的には、支那を経て日本に伝わり、奈良期より平安期を通して学ばれてきた八つの伝統的宗派(学派)、真言宗・華厳宗・天台宗・法相宗・三論宗・倶舎宗・成実宗・律宗の八を言う。中古における日本において、仏教とは八宗に限られるものであるとの認識が非常に強くあったが、禅や浄土教が日本にもたらされると実質的に十宗となり、しかし依然として八宗との言でもって仏教を表した。→本文に戻る
  • 三學[さんがく]…仏教の三種の修行体系。すなわち、戒学(持戒)・定学(修禅)・慧学(観)の三。自らの分に応じた戒律を受持した上で、定を修めて禅を得、禅定を得て止寂した意識をもって法(真理)を観ること。→本文に戻る
  • 御寺[みてら]…興福寺のこと。→本文に戻る
  • 二宗[にしゅう]…法相宗と律宗。→本文に戻る
  • 東西の堂衆[どうしゅ]…興福寺の中金堂の左右に位置した東金堂と西金堂に属する僧徒であった堂衆[どうしゅ]のこと。中古以来、律宗の本拠は唐招提寺でも東大寺戒壇院でもなく、興福寺となっていた。そもそも唐招提寺は南都七大寺にも入らない一寺院に過ぎず、また平安中期にはすでに荒廃して興福寺の末寺となっていた。また、東大寺戒壇院における受戒は東大寺の僧徒が所管していたのではなく、興福寺の東金堂・西金堂の堂衆らが取り仕切っていたのであって、彼らは律宗を本宗としていた。
     堂衆とは、学業を専らとする学侶の下に位置づけられる僧侶のことで、学問も修めるけれども堂塔の維持管理など雑用も従事した。学侶はほとんどの場合、藤原氏族など貴族出身の者で占められており、またそこでの出世の速度や度合いなど、その出自の高低に大きく左右されるものであった。なお、貞慶自身は藤原氏南家の出身の学侶であった。→本文に戻る
  • 鑒眞和尚[がんじんわじょう]…鑑真和尚。唐代の律宗と天台宗の教学に通じた学僧。揚州江陽県出身。日本に正統な戒律がもたらされることを渇望した元興寺の隆尊の請いを受けた舎人親王が、これを聖武天皇に上奏。その上意を受けて入唐した、栄叡[ようえい]と普照[ふしょう]の請により、度重なる失敗・苦難をおして(渡来の苦難の中失明)、ついに天平勝宝五年十二月〈754〉、来日。
     翌年、東大寺に戒壇を設けて聖武上皇以下、僧侶だけではなく在家信者にも菩薩戒を授戒。以降、勅により僧侶となるものは鑑真らの指示に従って築かれた戒壇にて具足戒を受戒し、一定期間修学することが律令によって義務づけられた。ここに初めて仏・法・僧の三宝が成立し、日本において仏教が正しく立つこととなった。それは日本に仏教が公伝したとされる538年以来、二百年以上を経過してのことであった。
     鑑真は伝戒の功を讃えられて僧綱職に補任されたが、老齢であってその重責を負わせるのは酷なことであるため間もなく職を解かれ、新田部親王邸跡地を賜ってそこに唐招提寺を建立し住した。鑑真の墓は今も唐招提寺にある。過海大師。唐大和上と尊称される。日本律宗の祖。→本文に戻る
  • 曇无徳部[どんむとくぶ]…曇無徳部。サンスクリットDharmaguptakaあるいはパーリ語のDhammaguttikaの音写。法蔵部と漢訳される。小乗十八部のうち上座部系の一派で、その所伝の律蔵が『四分律』であった。→本文に戻る
  • 持衣[じえ]以降…衣とは三衣のことであって、持衣とは受戒して比丘となること。→本文に戻る
  • 大小の十師…具足戒の授戒を行うには、最低十人の比丘が必要であり、そのうちの三人が重要な役割を担う。そのことから一般に、授戒に必要な比丘を三師七証と言う。例外的に十人の比丘をそろえることが困難な僻地においては、三師二証の五人でも可と律蔵では規定している。ただし、東大寺の戒壇院では、大十師と小十師の二十人以上で授戒を執行していた。いわゆる三師七證の役は大十師がこれを担い、小十師は授戒の進行を様々に補佐する役を担った。→本文に戻る
  • 戒和尚[かいわじょう]…和尚とは、サンスクリットupādhyāyaあるいはパーリ語のupajjhāyaが中央アジアで転訛した語の音写。和上とも書く。
     ここでは、戒和尚とは東大寺戒壇院における受戒を取り仕切る役職・地位の名として挙げられている。興福寺東西両金堂の堂衆とは、僧侶の地位としては決して高いものでなく、学侶の下に位置づけられる存在であって、学問だけではなく諸堂の荘厳や維持管理など雑用をも担当した。対して学侶はほとんどの場合、貴族の子弟であって出自の低いものがそこに入り込む余地は大きくなく、また貴族の子弟であっても難関な論議法会に複数出仕してこそそこでの立身出世を望むことが出来た。そのような堂衆に属する者にとって到達し得る最高位が「戒和尚」であることを、ここで貞慶は「大小の十師昇進するに限り有り、戒和尚を以て忝なくも極位とす」と述べているのである。
     しかしながら、そのように日本において和尚とはあたかも僧の位階を示す語であるかのように用いられるが、本来は単に「師僧」の称である。律蔵の規定では、和尚すなわち弟子を取って「師僧」となりえる比丘は、受戒後最低十年を経ており、さらに法と律とに通じて弟子を取るに足る様々な徳を備えていなければならないとされる。そして、しばしば誤解される点であるが、授戒において戒を授けるのは和尚でなく、あくまで僧伽全体である。具足戒の授戒における和尚の役割とは、新受者に受戒させることの許可を僧伽に「乞い求める」ことであって「授ける」ことではない。→本文に戻る
  • 律供[りつく]…戒律を厳に保つ比丘、あるいは律をもっぱらに学んで考究する僧侶の経費に充てるための荘園や田畑など経済基盤。→本文に戻る
  • 止住[しじゅう]…留まり住すること。そこで生活すること。→本文に戻る
  • 維摩の大會[だいえ]…南都三大法、すなわち大極殿の御齋会・薬師寺の最勝会・興福寺の維摩会の、三つの論議法会の一つ。多くの経文を諳んじ、その上で与えられる題に関して次々繰り出される問に対し、己の見解を論述するという形式の法会。これら大会に出仕してその役(堅義)を無事務めあげることは、学侶としての立身出世の絶対条件であった。→本文に戻る

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