真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 元政 『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』

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1.原文

慶長四年律師二十四歳遂投高雄剃落即以海師為阿闍梨稟瑜伽密行明年十一月十五日開十八道修四度加行律師嘗嘆律幢之久傾乃往南京尋古聖遺教專事抽繹于時有沙門慧雲本法花宗之徒也妙年自出家道行堅高慧解秀徹人或稱観行即慧雲常慨僧徒邪命說法以謂非持戒非出家非出家豈能受檀信乎乃晦迹丹波山中焼炭編蒲自活有年矣一日訪霊蹟遊南都與律師解后而互述素志宛如宿契二人摻手流涕感喜偕入西大寺同受戒寺有友尊素信戒律於是齋志共探律藏西大寺者所謂興正菩薩弘法之地也一廃之後久不振雖有軌則隨行全缺然尚有多聞老學能說持犯開遮律師幸之與慧雲友尊相共隨學如暗遇明宿滞氷釋

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2.訓読文

慶長四年、律師二十四歳、遂に高雄に投じて剃落す。即ち海師を以て阿闍梨1と為して、瑜伽2の密行を稟く。

明年十一月十五日、十八道3を開いて四度加行4を修す。律師嘗て律幢5の久く傾けることを嘆ず。乃ち南京に往て古聖の遺教を尋ね、專ら抽繹を事とす。

時に沙門6慧雲7と云ふ人有り。本法花宗の徒なり。妙年にして自ら出家し、道行堅高にして慧解秀徹なり。人或は観行即の慧雲と稱す。常に僧徒の邪命説法8を慨して以謂く、持戒に非ば出家に非ず。出家に非んば、豈に能く檀信9を受んや。乃ち迹を丹波の山中に晦まして、炭を焼き蒲を編んで自ら活すること年有り。

一日霊蹟を訪って南都に遊ぶ。律師と解后して互に素志を述ぶ。宛か宿契の如し。二人手を摻って涕を流がして感喜す。偕に西大寺に入て同く受戒す。寺に友尊10と云ふ人有り。素とより戒律を信ず。是に於て志を齋して共に律蔵を探る。西大寺は所謂る興正菩薩11弘法の地なり。

一たび廃しての後、久く振はず。軌則12有りと雖へども、隨行全く缺けたり。然れども尚を、多聞の老学有て能く持犯開遮13を説く。律師之を幸として慧雲友尊と相共に隨て学ぶ。暗に明に遇へるが如し。宿滞氷の如に釋く。

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3.現代語訳

慶長四年1599、律師二十四歳の時、遂に高雄山に入って出家した。そこで晋海師を阿闍梨とし、瑜伽の密行を受けた。

明年1600十一月十五日、十八道を開いて四度加行を修した。律師はその昔から律幢が久しく傾いていることを嘆いて、南京〈大和国・奈良〉に行って古聖の遺教を尋ね、ひたすら(戒律を如何に復興するかの)糸口を求めて研究に没頭した。

時に沙門慧雲という人があった。元は法華宗〈日蓮宗〉の徒であった。若年にして自ら出家し、道行堅高にして慧解秀徹であり、人にはこれを「観行即の慧雲」と称賛する者があった。常に(日蓮宗の)僧徒らの邪命説法を聞いては歎き、そこで「持戒していなければ出家者ではない。出家者ではないならば、どうして信徒の布施と信仰とを受けることが出来ようか」と考えていた。そこで(法華衆徒から)姿を丹波の山中に晦まし、炭を焼き蒲を編んで自活し、年月を過ごしていた。

ある日、霊蹟を訪ねて南都に行っていた所が律師と邂逅し、互いに平素からの志を語り合った。それはあたかも宿世からの定めであったかのようであり、二人手を取り合い、涙を流して(その出会いに)感喜した。そこで共に西大寺に入り、同じく受戒した。西大寺には友尊という人があった。平素から戒律を信じる者であった。ここにおいて(その三人は)志を等しくして共に律蔵を探求し始めた。西大寺はいわゆる興正菩薩〈叡尊〉が法を弘めた地である。

一度(戒律の伝統が)廃れてしまって以降、(西大寺は)長く振るわなかった。(授戒の)軌則は伝わっているとはいえ、その実行は全く欠けたままであった。そうはいっても、いまだ(西大寺には)多聞の老学僧があり、よく(律の)持犯開遮の講説はなされていた。律師はこれを幸いとして、慧雲・友尊と相共に(この老学僧に)従って学んだ。それは暗闇の中で明りに遇ったようなものであり、(戒律について)永くあったわだかまりが氷のように溶けて無くなっていった。

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4.語注

  • 阿闍梨[あじゃり]…サンスクリットācārya、あるいはパーリ語ācariyaの音写語。阿闍梨耶[あじゃりや]ともいい、略して闍梨[じゃり]ともいう。その意は教師、先生、規範師。
     通仏教的な意味での阿闍梨とは、人が出家して具足戒を受けて比丘となって以降最低でも五年間は、誰か年長の比丘の指導を仰がなければならない。一般にその人の和上がその責を負うが、何らかの事情で和上の元でその指導を受けることが出来ない場合、誰か他の指導者の下に付かなければならないが、その人を阿闍梨といい、特にこれを漢訳して依止師ともいう。人の阿闍梨となるには、具足戒を受け比丘となってから五年以上を経ており、律と法とに精通して人に指導するだけの才量をもった人でなければならないと規定される。
     一方、密教における阿闍梨とは、密教を人に授け、その人の修行生活全般だけでなく、特に瑜伽について絶対的指導を為す者という意味で用いられる。密教における阿闍梨となるためには、まず誰か阿闍梨の膝下に入り、その教導をうけて諸々の灌頂、最後には伝法灌頂を受けて瑜伽について必要な内容の全てを伝授されていなければならないとされる。そしてその上で、「阿闍梨の十三徳」と言われる十三の資質を備えていなければ、人に密教を教え授けることは出来ないとされる。これは『大日経』「具縁品」に基づく。
     一般的な意味での阿闍梨と密教とのそれは、共に教師・指導者という意味であはあるが、その決定的な違いは密教では阿闍梨の存在が絶対的であって、「瑜伽行については」絶対服従(ともすると盲従)しなければならないという点にある。その指導はどこまでも一方通行であって、ここに密教の極めて危うい側面の一つ、例えばその一門が愚か者の集団と化してしまう可能性や、その教えがただの邪教と堕す可能性が存している。事実、日本密教には、阿闍梨の資質をまるで備えていない無知な者が「私は阿闍梨だ」として弟子をとり、その権威を振りかざし、なんら根拠のない説をもって「口伝である」「伝統である」として盲従させようとする者が甚だ多い。ここで『大日経』などにおける経説はまるで無視され、しかしその権威のみが取り沙汰され、利用されているのである。
     対して仏教における一般的な意味での阿闍梨においては、その指導を受けている者であっても、もし阿闍梨に誤りや非があった場合には、それを速やかに指摘するべきものとされる。
     そもそもそのようなあり方は「和上とその弟子」、すなわち仏教における師弟関係についても全く同様である。誤りや間違いは、互いに指摘しあい、そして互いに正し高め合うべき存在とされているのである。
     巷間、「仏教における師弟関係とは、師匠が『カラスは白い』と言えば弟子も必ず『カラスは白い』と言わなければならない、というようなもので、師匠は絶対なのである」などと、実にただただ悪い意味で中世的であることをむしろ自慢げに、したり顔でいう僧職の輩が極めて多く存在している。が、それはとんでもない勘違いであり、そもそも仏教はそのようなものではない。→本文に戻る
  • 瑜伽[ゆが]…サンスクリットあるいぱパーリ語yogaの音写語。いわゆる瞑想、修禅・修習の意。ここでは特に密教の修行「三密瑜伽」を指す。→本文に戻る
  • 十八道[じゅうはちどう]…日本密教における最も基礎的な瑜伽行。十八の印契によって構成されることから十八道という。いかなる仏・菩薩をその本尊とするかは流派により異なる。あるいは受明灌頂にて得た尊格を本尊とする。
     晋海僧正は真言宗の人であったが、真言宗の密教の流派には野沢十二流といって諸派あり、僧正が何流を伝え、ここで律師に何流によって瑜伽を授けたのか定かでない。→本文に戻る
  • 四度加行[しどけぎょう]…十八道を始めとし、金剛界法加行と大悲胎蔵法、ならびに護摩加行という四つの加行を修めることから四度という。加行とはサンスクリットprayogaの漢訳語で、繰り返し行うことの意。
     密教が初めて伝わった平安初期の昔においては、四度加行などということは言われずそれらは別々に授けられ行われていた、すなわち誰でも彼でもが伝法灌頂を受けて阿闍梨になることは無かった。しかし、平安中後期には早くも密教の伝授は形骸化し、通り一遍の加行を修めれば誰でも彼でも伝法灌頂を受け、名前ばかりの阿闍梨となることが出来るようになっていた。ただし、密教のすべての加行を修め、伝法灌頂を受けるのにはそれなりの経済力が必要であったため、文字通り誰でも彼でも、というわけではなかった。→本文に戻る
  • 律幢[りつどう]…幢は旗の意。戒律、特に律を「仏教の旗印」に喩えた語。→本文に戻る
  • 沙門[しゃもん]…サンスクリットśramaṇaあるいはパーリ語samaṇaの音写語。静める人、あるいは努める人の意。また桑門との音写語もしばしば用いられる。漢訳語には息心・勤息・静志・淨志・貧道などがある。 仏陀釈尊ご在世の当時、インドにバラモン教とは異なる自由思想家で出家遊行していた人々の称であったが、今は特に仏教の出家修行者を意味する語。→本文に戻る
  • 慧雲[えうん]…明忍律師と共に第二期戒律復興を果たした僧。諱が慧雲、字は蓼海[りょうかい]。和泉国出身。もと日蓮宗徒。ここに「観行即の慧雲」と称されたとあるが、『律苑僧宝伝』巻十五「慧雲海律師伝」では、観行とは止観のことであって、衆中において止観に最も詳しかったということからかく称されたという。
     慶長十五年1610明忍律師が対馬において客死した後、平等心王院の第二世住持となる。しかし、慧雲もまた翌十六年、高雄山神護寺にて示寂。行年は明らかでない。→本文に戻る
  • 邪命説法[じゃみょうせっぽう]…本来の仏教〈諸仏典に合理的根拠をもつ仏教〉に反する内容の説法、あるいは信者から金銭を得ることを目的になされる説法。
     例えば鎌倉期の『沙石集』には、その当時から金品を得ることだけを目的に「説法」する者のあったことを伝えている。現在もその類の僧職の者はあまりに多いが、同時に何も仏教について語ることすら出来ない者も甚だ多い。かわりに意味不明、根拠不在の戯言を「説法」として語る者こそ多いであろう。→本文に戻る
  • 檀信[だんしん]…信者からの布施と信仰。檀はサンスクリットあるいはパーリ語dānaの音写語、檀那の略で布施・寄進の意。旦那とも。
     たとえば檀家とは「布施する家」の意。→本文に戻る
  • 友尊[ゆうそん]…明忍律師と共に第二期戒律復興を果たした僧。諱が友尊、字は全空。もと西大寺僧。慶長十五年1610六月二日、明忍律師に先んずることただ五日、示寂。→本文に戻る
  • 興正菩薩[こうしょうぼさつ]…鎌倉初期において戒律復興を果たした叡尊律師1201-1290の、正安二年1300に伏見上皇より送られた諡号。
     叡尊律師は始め醍醐寺にて出家し真言密教を修めたが、密教(もとより仏教)をいくら修めても何の意味も功徳・証果も無いことを思い悩み、ついには弘法大師空海の『遺誡(弘仁遺誡)』における「凡出家修道本期佛果。不更要輪王梵釈家。豈況人間少少果報乎。發心遠渉非足不能。趣向佛道非戒寧到。必須顯密二戒堅固受持清浄莫犯(凡そ出家修道は、もと仏果を期す。更に輪王梵釈の家を要めず。豈況んや、人間少少の果報をや。発心して遠渉せんには、足にあらざれば能はず。仏道に趣向せんには、戒にあらざれば寧んぞ至らんや。必ず須く顕密の二戒堅固に受持して、清浄にして犯なかるべし)」などの一節を読み、その原因は持戒せねば仏道はなんら意味をなさない、その証果も決して無いことを確信。戒律復興のために運動し始めることとなった。ついには法相宗の解脱上人貞慶などの後援により律学を深め、覚盛律師など同志四人で戒律復興が果たされる。→本文に戻る
  • 軌則[きそく]…手引、法則[ほっそく]。ある事柄を作すに一定の方法を記した書。ここでは特に、西大寺に伝えられた叡尊律師による『受菩薩戒作法』など、受戒についての方法が記された書であろう。→本文に戻る
  • 持犯開遮[じぼんかいしゃ]…戒律の観点から仏教徒としての行為として何が正しく何が誤りであるかの詳細。持犯とは持戒と犯戒の意。開遮の開とは仏陀によって許可された行為、遮は許されなかった行為の意。→本文に戻る

現代語訳 脚注:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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