真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 元政 『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』

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1.原文

慶長七年律師二十七歳於梅尾祈好相共雲尊二人自誓受戒專勵止作隨行意欲追嘉禎之蹤再興律幢之倒慶長九年二月十一日律師慧雲共講行事鈔至十二月二十日竟一遍其餘律部及後二戒學無不研究槇尾平等心王院者弘法大師之神足智泉所闕也建治帝時泉州槙尾山自證上人復興其基爾後又湮没而属莾蒼也久矣晋海僧正隨喜律師如法奉戒乃重開槙尾分附東照神君嘗所賜寺田如千而並請律師及二師住焉西大寺沙門高珍精毘尼學律師招之大開講律律師常謂吾巳遂通受自誓之願而未果別受相承之望於是乎跂踰海之志慶長十一年律師年方三十一乃以新學徒属二師已出槙尾六物之外無隨身具時有沙彌曰師臨異域何不携字書之類乎律師咥然笑而巳

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2.書き下し文

慶長七年、律師二十七歳、梅尾1に於て好相2を祈り、雲尊二人と共に自誓受戒3す。專ら止作隨行4を勵す。意ろ嘉禎の蹤5を追て再び律幢の倒れたることを興んと欲す。

慶長九年二月十一日、律師慧雲共に行事鈔6を講ず。十二月二十日に至りて一遍を竟ふ。其の餘の律部及び後二の戒学6、研究せずと云ふこと無し。

槇尾の平等心王院は弘法大師の神足7智泉8の闕く所なり。建治帝9の時、泉州槙尾山自證上人、復た其の基ヰを興す。爾の後、又湮没10して莾蒼11に属すること久し。

晋海僧正、律師の如法奉戒を隨喜して、乃ち重て槙尾を開き、東照神君12嘗て賜ふ所の寺田如千13を分ち附して、並に律師及び二師を請じて住せしむ。

西大寺の沙門高珍、毘尼14の学に精なり。律師之を招て大に講律を開く。律師常に謂く、吾れ巳でに通受15自誓の願を遂ぐ。未だ別受16相承の望みを果さず。是に於て踰海の志を跂つ。

慶長十一年、律師年し方さに三十一。乃ち新学の徒17を以て二師に属し、已に槙尾を出づ。六物18の外、身に隨ふる具無し。時に沙弥19有て曰く、師異域に臨む、何ぞ字書の類を携へざるや。律師咥然として笑ふのみ。

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3.現代語訳

慶長七年〈1602〉、律師二十七歳の時、栂ノ尾において好相を祈り、慧雲・友尊の二人と共に自誓受戒し、以降はひたすら止作隨行に励んだ。その意志は(興正菩薩叡尊らによる)嘉禎の先蹤を追い、再び律幢が倒れたのを興すことを求めた。

慶長九年〈1604〉二月十一日、律師は慧雲と共に『行事鈔』を講説し、十二月二十日に至って一遍を終えた。その他の律部、及び後二の戒学〈三聚浄戒のうち後の摂善法戒と饒益有情戒〉についても、研究しないということは無かった。

槇尾の平等心王院〈現:西明寺〉は弘法大師の高弟であった智泉が開いた寺である。建治帝〈後宇多天皇〉の時、泉州槙尾山の自證上人が復興したが、その後、再び退廃して山野に帰したまま永い時を経ていた。

晋海僧正はそこで、律師の如法奉戒を隨喜し、再び槙尾山を伐採して平等心王院を復興し、東照神君〈徳川家康〉から(高雄山神護寺に)賜った寺田の千五百町歩から(平等心王院に)分ち附与して、律師および(慧雲と友尊との)二師を請じて住させた。

西大寺の沙門高珍、毘尼〈vinaya. 律〉の学問に精通していた。律師は彼を(平等心王院に)招き、大いに講律を開いた。律師は常に考えていた、「私はすでに通受自誓受戒するという願いを遂げた。しかし、いまだ別受相承の望みを果せぬままである」と。そこで海を渡って大陸に往かんとの志を立てた。

慶長十一年〈1606〉、律師の年齢はまさに三十一歳、(平等心王院の門に入った)新学の徒らを(慧雲・友尊の)二師に託して槙尾山を出立した。(律師は三衣と座具と鉄鉢、漉水囊の)六物の外に、身に携える物を持たなかった。そこである沙弥が言った、「師はこれから外国に渡ろうというのに、一体どうして字書の類をすら携えて行かないのでしょうか」と。しかし律師はこれにただ笑って答えるだけであった。

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4.語注

  • 梅尾[とがのお]…京都嵐山の北西にある栂尾山高山寺。鎌倉期の昔、明恵上人によって勧請されていた春日社の前において自誓受戒したと伝えられる。なぜ春日社の前かと言うに、日本の律家では、日本で戒律が廃れた際にはその伝統を春日明神が引き継いで伝えるという伝承に基づく。これは明恵上人の夢に春日明神が頻繁に現れ、様々に上人を外護したという伝承にも由来するのであろう。→本文に戻る
  • 好相[こうそう]…夢や白昼夢、あるいは現実に現れる、何か好ましい兆し。持戒して修禅や礼拝を日々に繰り返す中に見るべきものとされる。
     なぜここで律師らが「好相を祈る」、すなわちその好相を得るために修行したのかといえば、『占察善悪業報経(占察経)』や『梵網経』などに、戒を犯した者や戒を失った者、あるいは戒を得ていない者は、必ず戒を実際に得る前に「好相を得なければならない」と規定されているためであり、実際に興正菩薩叡尊や大悲菩薩覚盛らは各々自誓受戒する前に、礼拝・修禅を幾数日も繰り返し修め、好相を得ていたことに依る。
     なお、律に限って言えば、それを正統な手段で受けることが可能な状態であれば「好相を得る」必要など全くなく、そもそも好相などという語自体、一切言及されない。好相とはあくまで大乗にて言われる、しかも極めて限定された中で説かれるものであることに注意。→本文に戻る
  • 自誓受戒[じせいじゅかい]…現前の師を立てず、誰にも依らずして、「自ら戒を受けることを誓う」ことによる受戒法。一般にこれが可能なのは五戒に限られる。が、大乗経において、といってもそれはただ『占察経』に限られるのであるけれども、以下のように自誓受によって「正しく受戒」出来ることが述べられている。「復次未來之世。若在家若出家諸衆生等。欲求受清淨妙戒。而先已作増上重罪不得受者。亦當如上修懺悔法。令其至心得身口意善相已。即應可受。若彼衆生欲習摩訶衍道。求受菩薩根本重戒。及願總受在家出家一切禁戒。所謂攝律儀戒。攝善法戒。攝化衆生戒。而不能得善好戒師廣解菩薩法藏先修行者。應當至心於道場内恭敬供養。仰告十方諸佛菩薩請爲師證。一心立願稱辯戒相。 先説十根本重戒。次當總擧三種戒聚自誓而受。此亦得戒。復次未來世諸衆生等。欲求出家及已出家。若不能得善好戒師及清淨僧衆。其心疑惑不得如法受於禁戒者。但能學發無上道心。亦令身口意得清淨已。其未出家者。應當剃髮被服法衣如上立願。自誓而受菩薩律儀三種戒聚。則名具獲波羅提木叉。出家之戒名爲比丘比丘尼。即應推求聲聞律藏。及菩薩所習摩徳勒伽藏。受持讀誦觀察修行」(T17. P904c)。
     また『占察経』は、鎌倉期よりずっと以前の天平の昔にて、日本仏教界に大問題を生じさせていたものでもあった。その問題とは、鑑真大和上によって正規の具足戒がもたらされた際、従来の僧正など官位についていた僧らが、大和上による伝戒とその受戒をいわば拒否したことである。鑑真大和上のもとで具足戒を授戒することについて、彼らはすでに正統な仏教僧であっていまさら具足戒など受ける必要はない、と難色を示したのであった。その根拠としたのが前掲の『占察経』であった。彼らが反抗したのには政治的・経済的理由もあったであろう。なんとなれば、彼ら自身の「(占察経による)受戒」を否定してしまうことは則ち、彼らの既存の立場・既得権の消失を意味するのであるから。
     けれども結局、これには聖武天皇の強い意向があり、また彼らの立場が安堵されたこともあって、反抗の構えを見せていたそれ以前のいわば相似僧らは鑑真大和上に対して弟子の礼をとって授戒を受けたのであった。要するに、『占察経』による自誓受戒(による比丘としての受戒の正統性)は、いわば天平の昔に否定されていた。ところが、鎌倉期のどうやっても正統な方法で受具することが叶わなくなっていた当時、戒律復興をなんとか果たそうとした覚盛によって、過去に否定されていたはずの『占察経』、および法相の諸典籍を根拠に自誓受具の正当性が主張され、ついに実行された。その自誓受によって戒律復興を果たした四人のうちの一人が叡尊律師であった。後に覚盛は唐招提寺に、叡尊は西大寺に入り、それぞれ拠点にして新たな律宗の展開をみせる。が、実は叡尊と覚盛の戒律について見解・見どころはかなり異なっており、それが現代に至るまでの律宗における唐招提寺・東大寺戒壇院・泉涌寺と西大寺の間の軋轢の元の一つとなった。
     なお、ここでは自誓受戒をしたのは明忍律師、慧雲律師、友尊律師の三人であったとしているが、実はこれに晋海僧正そして玉圓空溪も加わっており、総勢五人で自誓受戒している(『自誓受具同戒録』西明寺文書)。そもそも三人で自誓受戒というのは道理に合わない。僧伽が成立するには最低四人の比丘がその成員として必要であるから、それは必ず四人以上でなされるべきものである。事実、叡尊律師らの自誓受戒もはじめ四人によってなされたのである。この四人というのは偶然の数字ではなく、そうでなければならないという背景があった。→本文に戻る
  • 止作隨行[しさずいぎょう]…止作とは止悪、作とは作善の意。随行は実際に戒律に従って生活すること、現実に持戒すること。→本文に戻る
  • 嘉禎の蹤[かていのあと]…嘉禎二年〈1203〉、叡尊・覚盛・円晴・有厳の四人により東大寺においてなされた通受自誓受による戒律復興のこと。
     明忍律師による慶長の戒律復興以降、持律持戒を志した人々のほとんどは、自身らが明忍律師はもとより、その基として興正菩薩叡尊があることを意識していた。それはそもそも、明忍律師ら最初の人らに強く意識されていたものであった。→本文に戻る
  • 行事鈔[ぎょうじしょう]…支那の南山大師道宣によって著された『四分律』の注釈書『四分律刪繁補闕行事鈔』の略称。およそ日本において律を学ぶ者は必ず学び、常に参照していた書。
     明忍律師と慧雲律師とが『行事鈔』を講じられた場所は、『律苑僧宝伝』巻十五「慧雲海律師伝」では、南都の安養寺・龍徳院・戒蔵院など諸寺院においてのことであったと伝えられる。なお、律宗では『行事鈔』の他に『四分律羯磨疏』と『四分律戒本疏』とを律三大部といい、南山律宗における必学の書。→本文に戻る
  • 後ニの戒学…三聚浄戒、すなわち律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒の後二の戒についての学問。叡尊(西大寺系の律宗)における、いわゆる法相戒観にもとづく理解では、律儀戒に律蔵所説の具足戒(二百五十戒)が当てられ、その律蔵は特に『四分律』に依るもので、その実際にあたっては南山大師道宣の解釈が専ら用いられた。そして摂善法戒と饒益有情戒には、『瑜伽師地論』(『菩薩持地経』)所説の瑜伽戒、および『梵網経』(ならびに『瓔珞本業経』)所説のいわゆる梵網戒が当てられた。ここでは、明忍らが律儀を『行事鈔』にもとづいて理解・実行するだけでなく、後二の瑜伽戒と梵網戒についての研究とその実行にも余念が無かった、との意であろう。
     なお、この三聚浄戒のそれぞれに何を配当するかの理解は、すでに鎌倉期以来の西大寺系と唐招提寺系とで異なっており、各々がその独自性を過度に主張しだすや、愚かな宗派主義、縄張り根性を発揮して、律とはそもそも何かの本義を忘れ、律の実行すらも廃れていく要因ともなった。近世における戒律復興運動においても同様の事態が発生し、詮無い宗派主義と宗論の基となっていく。
     もっとも、俊正明忍律師らにはそのような宗派主義的意識は皆目なく、ただ律の実践に依って仏教自体を復興しようとの気概があった。→本文に戻る
  • 神足[じんそく]…高弟。→本文に戻る
  • 智泉[ちせん]…弘法大師空海の甥で弟子であった僧〈789-825〉。空海に十年先んじて逝去しており、その死をひどく悼む空海の達嚫文が伝わっている。→本文に戻る
  • 建治帝[けんじてい]…後宇多天皇〈1267-1324〉、在位は文永什一年〈1274〉から弘安十年〈1287〉。建治年間は1275-1277の三年弱。→本文に戻る
  • 湮没[いんもつ]…跡形もなくなること。→本文に戻る
  • 莾蒼[もうそう]…鬱蒼と草木が茂った様。またその場所。山林。→本文に戻る
  • 東照神君[とうしょうしんくん]…徳川家康公。→本文に戻る
  • 寺田如千[じでんにょせん]…慶長五年〈1600〉、晋海僧正は徳川家康に「一山三衣にも事欠く有様なれば、願わくは寺領境内地先規の如く返附せられ度云々」とその神護寺の窮乏した状態を訴え、その翌年訴えどおりに寺領千五百町歩が「返還」された。晋海僧正は、その貴重な神護寺の経済基盤となる寺田の幾分かを槇尾寺平等心王院を律院として再興するために分与し、明忍律師らの経済基盤としたのである。個人で遁世するというだけならば兎も角、「律の復興」を志し、さらにそれを持続するにはその最低限の経済基盤が現実問題として必須である。ただし、それをあくまで最初から求めると本末転倒となる。まさに最澄が言ったという「道心の中に衣食あり。衣食の中に道心無し」は真実である。
     豊臣秀吉の天下統一以降、日本全国ほとんど全ての寺院が所有していた荘園、寺領の大部分は没収されていた。また豊臣秀吉による刀狩りは、半士半農であった庶民の武装解除だけを目的としたのではなく、時にそこらの大名・豪族も手を出せないほどの武力を保有していた大寺院の武装解除もその目的であった。またさらに秀吉は、そのような武力を二度と持てないよう、その潤沢な経済基盤を奪うために寺院から寺領を取り上げたのである。これは秀吉が織田信長がさんざんと寺院勢力に手を焼いた経験からの政策であったろう。
     秀吉は抵抗の構えを見せた寺院に圧倒的武力を見せつけて威嚇した後、根来寺など最後まで抵抗したために徹底的に叩いた寺院もあったが、多くは白旗を上げてきた寺院相手にまずは一旦ほとんどの寺領を取り上げ、後に交渉次第でその一部を返還するなど、いわばアメとムチとを上手く使い分け、寺院の勢力を削ぎつつ懐柔していった。
     徳川家康はそのような秀吉の政策を引き継ぎ、アメとムチという形で一旦取り上げた寺領を恩を売る形で再度与えるということを行いつつ、寺院諸法度を次々発布して諸寺院を徹底的に管理する体制を構築していった。「近世、仏教・寺院は国家に締め付けられた」ということのみ主張する者もあるが、そもそもそのような事態を招いたのはそれまでの寺院の僧徒のあり方に他ならなかった。→本文に戻る
  • 毘尼[びに]…サンスクリットあるいぱパーリ語vinayaの音写。その意は調伏であり、すなわち律のこと。毘奈耶とも音写されている。→本文に戻る
  • 通受[つうじゅ]…ただ三聚浄戒を受けることによって、大乗僧として律も菩薩戒も総じて受けてしまおうという、鎌倉初期の日本において発案され実行された受戒方法。律蔵や『瑜伽論』の規定に従ったならば決してあり得ない受戒法。
     平安末期から鎌倉最初期、律の伝統が途絶えてしまって正規の受戒が作され得ないことが理解され、それを前提とした上で、しかし戒律復興を望んだの解脱上人の門に集った人の中に、後に叡尊らとともに戒律復興を果たして唐招提寺を中興した覚盛があった。覚盛は、その根拠を大乗の諸典籍に求め探し、ついにこれを律の伝統が絶えた中でのいわば緊急避難的受戒法として「考案」した。本文に戻る
  • 別受[べつじゅ]…通受に対し、三聚浄戒のうち特に律儀戒(すなわち具足戒・律)をのみ、三師七証によって受ける受戒法。
     別受などと聞くと、むしろこちらが「特別な受戒法」であると想像する者があるかもしれない。しかし、別受こそが具足戒の受戒法としては本来の律蔵に規定された正統な方法。→本文に戻る
  • 新学の徒…具足戒を受けたばかりの比丘、あるいは出家したばかりの沙弥のこと。比丘がいわば一人前となるには最低五年、和上あるいは阿闍梨のもとで修学する必要がある。また授戒においては、誰か一人でも十年以上経過して初めて、別受が可能となる。具足戒を受けた人を比丘あるいは大僧というが、ただ具足戒を受けたらただちに一人前などということは無い。
     明忍らが自誓受によって比丘となったのは慶長七年であり、対馬に出立したのが慶長十一年であってまだ四年足らずであったため、誰もまだ比丘として弟子を蓄える年限に達していない。もっとも、慶長七年の自誓受が夏安居に入る前であり、対馬へと出立したのが慶長十一年の夏安居後であれば、俊正ら五人は皆五夏を過ごして独りで行動できる最低限の年限には達していたこととなろう。
     よって、ここに言う新学の徒とは、律に従ったならば、全て槇尾山の衆徒ではない別の誰かのもとで出家した者で、その後に槇尾山に集った者と見なければならない。あるいは槙尾山にて通受自誓受によって沙弥となった者か。
     余談ながら、諸説あるけれども一説に、比丘が弟子をとり、その弟子が和上となる年月が経過していれば、彼をして長老と呼称することが可能となる。すなわち、最低具足戒を受けて二十年以上経っていなければ長老とは呼ばれない。なお、日本の律宗では長老を名乗ることが出来るのは、唐招提寺・泉涌寺・戒壇院・西大寺の寺主に限られるなどと主張されている。→本文に戻る
  • 六物[ろくもつ]…比丘が「所有しなければならない」六種の物品。その六種とは、まず大衣(僧伽梨[そうぎゃり])・上衣(鬱多羅僧[うったらそう])・下衣(安陀会[あんだえ])の三種の衣すなわち三衣であり、次に礼拝や坐禅など日常で座に着く時に使用しなけば等ならない敷物である坐具(尼師壇)、そして乞食を行ずるのに必須の鉄鉢[てっぱち]、さらには虫の入った水を飲まないようにするための水越しである漉水囊[ろくすいのう]。これらを比丘の六物という。
     一般にしばしば誤解されているけれども、比丘は「六物しか持ってはいけない」のではない。最低「六物は必ず持っていなければ、決して比丘となれない」のである。その日常においてただ六物だけ所有して生活する場合は、それを頭陀行などと言って特別視されるが、そのような清貧を貫くかどうかは個人の意志による。
    なお、現今の日本の僧職者に六物が何かを知るものは極めて少なく、さらにそれらを持っている者はほとんど存在しない。→本文に戻る
  • 沙弥[しゃみ]…サンスクリットśrāmaṇeraまたはパーリ語sāmaṇeraの音写。基本的には数え年二十歳未満で、未だ具足戒を受けていない男性の出家修行者を指す。女性は沙弥尼。
     日本では一般に小僧、または雛僧などと言われる。もっとも、時として二十歳を超えても具足戒を受けぬままの者もいる為、必ずしも沙弥=未成年ではない。事情によって比丘にならず、二十歳を超えても沙弥のままである者は相似沙弥と称される。→本文に戻る

現代語訳 脚注:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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