真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 元政 『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』

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1.原文

既而至對馬偶聞震旦佛法大衰未及觧纜因此贈書雲公告曰異朝佛法不足欣慕只須一衆和合以夏満日共行別受律師寓馬島數年環堵之室不蔽風日常行乞食資用不充經論要文悉書古紙雖書牘亦多然嘗闇書梵網經記其後云且為備廃忘麁紙艸書不敢軽慢佛語矣會母書自洛至律師便殷勤捧載投山下小流終不啟視人莫知其意初律師欲入唐時同志者多已至發日唯道依一人而已律師在馬島抱痾日久慶長十五年夏病已革矣六月五日染手筆遺書高雄僧正謝其深恩歴時苦甚即執短杖叩席唱佛號願生安養即時紫雲靉靆寶華亂墜律師親書曰此苦須臾之事此清涼雲中交彼聖衆幾許快楽哉其詞用倭字不備于此六月七日帰寂其年三十有五葬事已畢道依盡肩律師所有軽重物来帰一衆痛絶如喪恃怙僧正得書不勝悲歎自作和歌追慕焉

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2.訓読文

既にして對馬に至る。偶ゝ震旦1の佛法、大に衰たることを聞て、未だ纜を觧くに及ばず。此に因て書を雲公に贈て告て曰く、異朝の佛法、欣慕するに足らず。只だ須く一衆和合して夏満の日2を以て共に別受を行ずべしと。

律師、馬島に寓すること數年。環堵3の室、風日を蔽はず。常に乞食を行じて資用充たず。經論の要文、悉く古紙に書す。書牘4と雖へども亦た多くは然かり。嘗て梵網経5を闇書す。其の後に記して云く、且つ廃忘に備んが為に、麁紙に艸書す。敢て佛語を軽慢せず。

會ゝ母の書、洛より至る。律師便ち殷勤に捧載して山下の小流6に投ず。終に啟き視ず。人、其の意を知ること莫し。

初め律師唐に入んと欲る時、同志の者の多し。已に發する日に至て唯だ道依7一人のみ。

律師馬島に在て8を抱くこと日久し。

慶長十五年の夏、病已に革かなり。六月五日、手筆を染て書を高雄の僧正に遣り、其の深恩を謝す。時を歴て苦むこと甚し。即ち短杖を執て席を叩て佛号を唱へ、安養9に生ぜんことを願ふ。即時に紫雲靉靆10し、宝華乱墜す。律師親ら書して曰く、此の苦みは須曳11の事、此の清涼の雲中に彼の聖衆に交らば、幾許くの快楽ぞや。其の詞、倭字12を用ゆ。此こに備さにせず。

六月七日帰寂す。其の年三十有五、葬事已に畢て道依盡く律師所有の軽重物13を肩にして来り帰る。一衆痛絶して恃怙14を喪するが如し。僧正、書を得て悲歎に勝へず15。自ら和歌を作て追慕す。

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3.現代語訳

そうこうする内、(律師は)対馬に到着した。しかし偶然、震旦〈支那〉の仏法が大いに衰えてしまっていることを聞き、(ただちに震旦へ向けて)船出せぬままにいた。そこで手紙を慧雲公に送り、「異国の仏法は、願い求めるに値するものではなかった。(槇尾山の皆は)ただ一衆和合し、夏満の日〈自恣。安居を終える最後の日〉に共に別受を是非とも行じたらよい」と伝えたのだった。

律師はそのまま対馬に寓居すること数年、その貧しい家の部屋は風も陽も満足に遮るものではないほど(粗末なもの)であり、常に乞食を行じ、満足に物を所有していなかった。経論の大事な文言は、すべて古紙に書きつけていた。書状に関してすら、そのほとんど多くは同様であった。ある時、『梵網経』を(古紙に)暗書されたが、その最後にこのように記していた、「あらかじめ万一忘れてしまった時に備え、麁紙に草書したのである。敢えて仏語を軽慢したのではない」と。

ときおり母からの書が京都より届いていた。律師はしかし、慇懃に(手紙を頂戴してから)山の麓の小川に流していた。ついに開き見ることがないままに。人は(律師がなぜそのような事をしていたのか)、その意を測りかねた。

そもそも律師が(いまだ槇尾山平等心王院にあるとき)唐に渡ろうと決心した時、同志の者が多くあった。しかし(対馬へと)出立する日には、ただわずか道依〈浄人。随行の在家信者〉一人のみとなっていた。

律師が対馬に滞在する中、長患いの病を得てずいぶんの日にちが経った。

慶長十五年1610の夏、その病状が深刻なものとなった。六月五日、(律師は)手ずから筆を執って手紙を高雄の晋海僧正のもとに遣り、その深い恩を謝した。

(その病に律師が)長時間苦しむこと、それは甚しいものであった。そこでしかし、(律師は)短い杖を執り席を叩いて、仏陀の名号を唱え、安養〈極楽浄土〉に転生することを願った。するとたちまち紫雲が立ち登り、宝華が乱れ落ちてきた。律師自らがその様子を記したのには、「この病による苦しみは(長く生死輪廻し続ける苦しみに比べれば)一瞬のことである。しかし、この清涼の雲中において彼の聖衆に交ったならば、それはどれほどの快楽であろうか」とある。その詞は倭字〈仮名混じりの文章〉によるものであったが、ここではその内容を詳細にはしない。

六月七日、(律師は終に)帰寂した。その歳は三十五。

葬送が終わって後、(対馬で律師に側仕えていた)道依がすべての律師所有の軽重物を肩に背負って(槇尾山に)帰り来たった。一衆は(律師の死を)痛み悲しむこと、あたかも実の両親の死を喪すかのようであった。

晋海僧正は、(律師が死の二日前に記した)書を得て悲歎に耐えず、自ら和歌を作て追慕した。

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4.語注

  • 震旦[しんたん]…サンスクリットcīna-sthānaの音写語。支那に同じ。
     支那はその昔の「秦」のインドにおける呼称であったサンスクリットcīnaの音写語。→本文に戻る
  • 夏満[げまん]の日…夏とは特に仏教の出家者が一年の内、夏の雨季の三ヶ月間、一箇所に留まって移動せず籠もる習慣たる安居[あんご]のこと。夏満の日とはその三ヶ月が終わる最後の日、これを自恣[じし]あるいは解夏[げげ]という。
     安居の三ヶ月間、出家者らは一箇所に留まり、戒律を守って修禅を専らとしたり修学に励んだりするが、この期間を無事過ごすことでのみ出家者としての年齢が一つ加算されるため、出家者にとって一年で最も重要な期間であるとも言える。
     ここで律師は、慧雲律師に自らが大陸に渡って受けることを望むも果たせなかった「別受」による授戒を槇尾山にて執行することを提案したとされているが、これは少々不可解な言である。なんとなれば、律師らは慶長七年に自誓受して比丘となっており、最短でも慶長十七年すなわち十夏を経過していなければ、別受を行うことは叶わないためである。それはその時点では全く不可能なことであった。→本文に戻る
  • 環堵[かんと]…小さく貧しい家。→本文に戻る
  • 書牘[しょとく]…手紙、書状。→本文に戻る
  • 梵網経[ぼんもうきょう]…日本において最も重要視された菩薩戒、十重四十八軽戒(梵網戒)の根拠となった大乗経典。詳細は別項“十重四十八軽戒”を参照のこと。→本文に戻る
  • 山下の小流…現在、その小川は律師のこの故事に因んで「文捨川[ふみすてがわ]」と称されている。
     近年、島民によってもその行業は忘れられていく一方であるけれども、対馬にはなおいまだ明忍律師の足跡が保存されている。→本文に戻る
  • 道依[どうえ]…出家者特に比丘が戒律上出来ないことをする、たとえば日常生活や旅路において金銭の管理など、その生活を補助する在家信者。浄人ともいう。伝承ではその人の名は慈道であったという。→本文に戻る
  • 痾[あ]…長引く病。→本文に戻る
  • 安養[あんにょう]…極楽浄土の別名。→本文に戻る
  • 靉靆[あいたい]…雲や霞がたなびく様。→本文に戻る
  • 須臾[しゅゆ]…サンスクリットkṣaṇa、あるいはmuhūrtaの漢訳語。一瞬とすら言うに満たない極めて短い時間の単位。kṣaṇaの音写語が刹那であるが、伝統説では心が生じて滅するまでの時間をもって刹那というとされる。→本文に戻る
  • 倭字[わじ]…仮名。あるいは仮名混じりの文章のこと。→本文に戻る
  • 軽重物[けいじゅうもつ]…何を以って軽重物とするかの定義は特に無い。ここでは単に、明忍律師所有の六物を含め、対馬で使っていた遺品すべての意であろう。→本文に戻る
  • 恃怙[じこ]…父母、両親。→本文に戻る
  • 僧正、書を得て悲歎に勝へず…晋海僧正にとって明忍律師はその幼少時から教導してきたまさに最愛の直弟子であり、共に戒律復興を成し遂げた同志であった。その明忍律師が遠い対馬にて逝去し、その死を知らされた後にあらためてその手紙を受け取り、読むこと。無常迅速とはいえ、僧正にとってそれはあまりに悲しく、あまりにつらいことであったろう。『槙尾平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』ではその様子を「海公接書。泫然涙下。賦和歌悼之」と伝えている。
     実は明忍律師が亡くなる五日前の慶長十五年1610六月二日、同志友尊律師が逝去されていた。晋海僧正やその同道の人々にとって、次々と同志が若くして亡くなってしまったことはひどく痛ましく、そして悔しいことであったに違いない。そしてまた僧正と慧雲律師もその翌十六年、立て続けに没されている。
     思えば、これら同時期に次々と示寂していった四人の同志は、まさに宿世の縁によって共に戒律復興を成し遂げられたのに違いないのである。→本文に戻る

現代語訳 脚注:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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