真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 元政 『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』

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1.原文

律師嘗製自誓血脉圖興正之下系讃辭曰并呑三聚長養戒身耀法利生千古未聞一日省我比丘懐律師行状来乞余筆削余非不顧浅才但以舊知之故不敢辭譲信状纂輯言雖朴質庶乎不失律師之事實也夫末法出家尚不知三衣之名者多矣律師當是時也欲廻狂瀾於既倒又得雲尊二師遂世其家今之言律者指槙尾為中興也嗚乎於法滅之日再見比丘儀相者豈非律師之績也哉吾憾文獻不足不堪述律師之聲徳也

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2.訓読文

律師嘗て自誓血脉の図1を製す。興正の下に讃辞を系けて曰く、三聚2を并呑し、戒身を長養す。法を耀かし、生を利す。千古未だ聞かず。

一日省我比丘、律師の行状を懐にし来て、余が筆削を乞ふ。余、浅才を顧みざるには非ず。但だ舊知の故を以て、敢て辞譲せず。状に信せて纂輯す。言、朴質なりと雖へども、庶くは律師の事実を失はざらんことを。

夫れ末法の出家、尚を三衣3の名を知らざる者の多し。律師、是の時に當りて狂瀾を既に倒れたるに廻さん4と欲す。又雲尊二師を得て遂に其の家を世す。今の律を言ふ者の槙尾を指して中興と為す。

嗚乎、法滅の日に於て再び比丘5の儀相を見る者の、豈に律師の績に非ずや。吾れ憾むらくは文獻足らず、律師の聲徳を述ぶるに堪へざることを。

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3.現代語訳

律師はかつて『自誓血脉の図』を制作していた。興正菩薩の下に讃辞を付したが、それには「三聚を并呑し、戒身を長養す。法を耀かし、生を利す。千古未だ聞かず」とある。

ある日、省我比丘が、(私元政のもとに)律師の行状を懐にし訪ね来て、私の添削を依頼してきた。私(がその依頼を受けたの)は、我が浅才を顧みなかったからというのではなく、ただ旧知の人であったから敢えて辞退しなかったのである。(省我比丘の持参した)行状にある記述のままに、これを編纂した。

記した詞は簡素であろうが、律師の事蹟が忘れられることのないように願うばかりである。

そもそも末法の出家者には、三衣の名をすら知らない者が多い。律師は、このような時代にあって、物事の乱れ崩れたのを本来の姿に戻そうとしたのである。また慧雲・友尊の二師を得て、ついにそれを現実のものとした。今の世で律について語る者は槙尾山(明忍律師)を指して中興とするのである。

嗚乎、この法滅の時代において、再び比丘の儀相を見ることが出来るのは、ひとえに律師の業績に拠るものである。私が惜しむらくは文献が足らず、律師の徳行を全く述べ尽くすことができないことである。

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4.語注

  • 自誓血脉[じせいけちみゃく]の図…慶長十五年1610一月廿六日に描かれたという自誓受戒の血脈図(系図)。幼少から文筆に秀で、職掌柄文献の取扱に慣れていた明忍律師らしいことであったのだろうが、管見にしてどのようなものであったか不明。→本文に戻る
  • 三聚[さんじゅ]…三聚浄戒の略。まず『華厳経』に説かれ、それが特に『瑜伽師地論』(及びその部分訳の『菩薩地持経』)にて詳細に説かれる戒。
     三聚とは、摂律儀戒[しょうりつぎかい]・摂善法戒[しょうぜんぽうかい]・摂衆生戒[しょうしゅじょうかい]という、いわば三種の戒の分類。その三つそれぞれに、律や菩薩戒などが割り当てられるが、経論によって諸説あってその内容は必ずしも一定しない。
     本来的には『瑜伽師事論』の所説に従うべきであろうものであり、実際印度にて直接その教えを受けた玄奘三蔵らの存在もあって、支那でその説に従う者は実際にあった。
     しかしながら、支那撰述の偽経の疑い濃厚である『菩薩瓔珞本業経』は、三聚浄戒(三受門)の摂律儀戒の内容として十重禁戒(十波羅夷)を挙げているため、これに影響を受けた支那の律宗の人に、『梵網経』の十重四十八軽戒と『瓔珞本業経』の諸説を合して理解する者が現れ、そのような解釈が日本に伝えられた。それを伝えた人、それが鑑真大和上である。あるいはそのような解釈は、鑑真大和上の個人的理解によったものであったかもしれぬ可能性すらある。
     この三聚浄戒の内容についての問題は後代、しばしば問題にされることがあった。例えば凝念大徳などはその著『律宗綱要』において、三聚浄戒の内容について諸経論によって説が不同であることについて詳細に論じている。→本文に戻る
  • 三衣[さんね]…先に六物の項にて触れたが、比丘の着用できる三種の袈裟。大衣(重衣)・上衣(七条袈裟)・下衣(五条袈裟)の三種。それぞれサンスクリットの音写語で僧伽梨衣(saṃghāṭī)・鬱多羅僧(uttarā saṃghāṭī)・安陀会(antarvāsaka)とも呼称される。
     下衣すなわち五条袈裟について、支那以来いつからかその意味・着用法が取り違えられ、上衣のように上半身にまとうように着るものと誤解されてきたが、五条袈裟は本来腰巻きである。袈裟の下に着けることが許される、いわば下着としての泥洹僧[ないおんそう]もまた腰巻きで大きさも五条袈裟に同じであるが、それはあくまで下着である。その上に腰に巻きつけるのが五条袈裟。これについては慈雲尊者も誤解したままであった。
     日本では一般に、「袈裟を座る時に尻に敷いてはイケない」などと口やかましく言う者があるが、それは失笑物の言い草であり、足蹴にしても可なりなどという意味では決して無いが、そもそも五条袈裟はどうやっても尻に敷かれるものである。
     現今のことに限って言えば、僧職者にとって袈裟などたまに開かれる法要や、葬儀の時にのみ着る「お衣装」に過ぎず、その故に非日常のものであると考えて過剰なまでに袈裟を信仰し、そのような考えに至っている者が多いのであろう。
     もっとも、袈裟を特別なものとして信仰することは、古くから存するものではある。道元しかり、ある意味で慈雲尊者もしかり。無論、袈裟は仏教の出家者の標示であり、仏教を象徴するものとすら言えるものであってその意味では真に尊いものである。しかし、出家者にとって袈裟は常日頃にまとい、用いている日常着であって、「信仰」などして過度にありがたがるのは滑稽にして蒙昧なる行為とすら言える。→本文に戻る
  • 狂瀾を既に倒れたるに廻さん…韓愈『進学解』にある一節「障百川而東之 迴狂瀾於既倒」(古川を障へて之を東せしめ、狂瀾を既倒に廻らす)からの引用。直訳すれば「荒れ狂う大波で崩れかけているのを立て直すこと」で、転じて「如何ともしがたいとも思えるほど悪化した状況を押し返して元通りにすること(ほとんど不可能のように思えることを成し遂げること)」の意として用いられる。巷間には「回瀾を既倒に反 す」と変じた言い回しも用いられる。→本文に戻る
  • 比丘[びく]…「(食を)乞う者」を原意とする、サンスクリットbhikṣuまたはパーリ語bhikkhuの音写語で、仏教では正式な男性出家修行者のこと。→本文に戻る

現代語訳 脚注:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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