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‡ 元政『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』

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1.解題

槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』とは

画像:木村徳應筆 俊正明忍律師像(西明寺像)

槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』とは、日政(深草元政)1623-1668により寛文四年1664六月四日編纂なった、近世の日本仏教界に重大な足跡を残した俊正明忍律師の伝記です。

本書の編者である日政とは、京都深草に庵を結んで住していた日蓮宗僧です。深草元政とも言われますが、これは俗名にもとづくものです。日政は若かりし頃、泉涌寺にて開かれていた正専如周律師による『法華経』の講義に感激して出家を決意。しかし、日政はその志を正専に直接会って訴えますが時期尚早であるとして断られたため、その後長じてから日蓮宗にて出家しています。

その後、これは正専からの影響が確実にあったからこそのことでしょうが、日政は日蓮宗僧となりながらも持律持戒を旨とし、禅宗や真言宗など諸宗の僧と非常によく交流した珍しい人で、文人としても当時第一級の人でもありました。

(正専については別項、“戒山 『雲龍院正専周律師伝』”を参照のこと。)

なお、そもそもこの『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』(以下『行業記』)は、同じく日蓮宗僧であったものの明忍律師らによる戒律復興に参加して律僧となった省我律師から、元政がその編纂を依頼されたものです。そしてその元本とされたのは、平等心王院の衆徒によって著された『明忍律師之行状記』(『行状記』)です。

さて、俊正明忍律師の伝記には他に、貞享四年1687に黄檗宗僧の月潭道澄[げったん どうちょう]により、『行状記』および『行業記』を下地とし、さらに当時伝わっていた明忍の伝承などを聞き集めこれを加味して、より詳細に描かんとした『槙尾平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』(『行業曲記』)があります。

(『行業曲記』については別項“月潭『槙尾平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』”を参照のこと。)

そして、浄土宗僧了智によって元禄二年1689に編纂された往生伝『緇白往生伝』巻中の初めには、日政の『行業記』そのまま全文が載せられています。

あるいはまたそのやや後、野中寺の慈忍慧猛の弟子で近江安養寺に入ってこれを中興した戒山慧堅による『律苑僧宝伝』巻十五に収められた『槙尾平等心王院俊正明忍律師伝』(以下『律師伝』)があります。『律師伝』は基本的には先に月潭により著された『行業曲記』の説を踏襲したものですが、細かいところで独自の説も述べており、一応別物として考えたが良い書となっています。

なお、同時期明代の支那より来朝した黄檗僧の高泉性潡[こうせん しょうとん]により著され、『律苑僧宝伝』より一年早く刊行された『東国高僧伝』巻十には、月潭による『行業曲記』を略した『槙尾山明忍律師伝』を載せています。戒山はこの『東国高僧伝』もいち早くよく読んでいたようで、いわば漢文の本場からやってきた明僧の表現をあちこちそのまま借りて用いていることが知られます。

(『律師伝』については、別項“戒山『槙尾平等心王院俊正明忍律師伝』”を参照のこと。)

さらに、元禄十三年1700に西明寺にて著された『槇尾山略縁起并流記』にも、明忍律師の伝記が簡単に伝えられています。

また元禄十六年1704に月潭道澄によって撰され西明寺の衆僧が勒石して対馬にまで運ばれ、明忍が没した地に建てられた塔碑にもまた、ごく簡単にその伝が刻まれています。西明寺の『槇尾山略縁起』は、以前までの伝承と若干ながら異なった話となっている点があり、その伝承が野中寺を介して後述する慈雲尊者にも伝わっていることが知られます。

さて、これらは現在において様々な叢書類に編纂されて伝えられ、その意志さえあれば比較的容易に閲覧できはするものの、しかしすべて漢文であって仏教学者や史学者、国文学者らのごく一部が触れ得るようなもので、一般に親しめる様態とは到底なっていません。

仮名によるものとしては、一体どうしてここに編集されたのか不可解であるいは著者が明忍律師を甚だ敬慕してのことであったのかもしれませんが、 西村市郎右衛門(未達)による御伽草子『新御伽婢子[しんおとぎぼうこ]』の最後、巻六末に唐突として『明忍伝』が記されています。これは明忍の特に最期についてを記しているものです。

また、このサイトでもすでに紹介していますが、慈雲尊者がその師忍綱貞紀和上より明忍律師について聞いたことを書き記された 『律法中興縁由記』もまた、漢文ではなく仮名で記されたものではあります。

(別項“慈雲 『律法中興縁由記』”を参照のこと。)

が、これらがいくら仮名でしたためられたものであるといっても、そのいずれもが世間の目に触れることのまず無い、むしろその存在をすら知られぬものに載せられたのみで、やはり一般的とは到底言い難いものです。

そのようなことから俊正明忍律師について知らんとするのは、仏教そのものに対して志向する者などほとんど皆無と言ってよく、ただ学問的・歴史的に興味を持った人のみが、しかも偶々触れる程度のものとなっています。

しかしいずれにせよ、これは幸運にもというべきことですが、明忍律師が江戸最初期とは言え相対的に時代の近い人であるため、その伝記は比較的多く今に伝わっています。

俊正明忍律師 ―近世における興律の祖

俊正明忍律師は、京都にあって代々朝廷に仕えてきた中原氏の出で、幼少の頃より(その齢からすれば)文筆に群を抜いて秀でていたと伝えられています。その直系の祖先は中原康綱で、吉田兼好の『徒然草』に「いみじかりけり」などと称賛されていた人です。

或人、任大臣の節會の内辨を勤められけるに、内記のもちたる宣命を取らずして、堂上せられにけり。きはまりなき失禮なれども、立ち帰り取るべきにもあらず、思ひ煩はれけるに、六位の外記康綱、衣被の女房をかたらひて、かの宣命をもたせて、忍びやかに奉らせけり。いみじかりけり。

ある人が、大臣を任命する節会〈天皇出席の宴〉の内辨〈承明門で行事を司る公卿〉を勤めた時、内記〈公文書の編纂・記録を司る公家〉が持っている宣命〈天皇の命令書〉を受け取らずに清涼殿に上がってしまった。これ以上ないほどの失態であったけれども、また戻って取りに行くわけにもいかずオロオロしていたところ、六位の外記康綱は、衣被の女房〈高位の女官〉に執り成してその宣命を持たせ、ひそかに手渡したのである。すばらしいことであった〈非常に気の利く人物である〉

吉田兼好『徒然草』第百一段
[現代語訳:沙門覺應]

俊正はそのような地下とはいえ公家の中原氏(といっても事情により名を継いだのは清原氏)を継ぎ、十六歳にして正七位上相当の官職である太政官所属の少外記および右少史の両職を拝命していましした。

俊正の幼少期についても、これはただ伝記類によくある「幼少時より抜きん出て優れていた」などと言う類の定型的一応の賛辞ではなくて、現実に十六歳にして正七位上相当の官職である太政官所属の少外記および右少史の両職を拝命していたので、紛れもない事実であったのでしょう。もっとも、それもあくまで世襲の、しかも地下の公家のことですので、大出世など端から見込まれるものでない世界の話ではあるでしょうけれども。

しかし、幼少時に学問を授けらた高雄山寺の晋海僧正の薫陶忘れ難く、また世の様々な苦しみを経験し出家への思い立ち難くして、ついに出家を果たしています。ところが、出家してはみたものの、当時の日本には「真の意味での仏教僧」など存在しないこと、すなわち正しく戒律を受持する僧侶の無いことを、あるいは敬愛する僧正から聞かされ、知ることとなります。

事実、鎌倉期の嘉禎二年1203に興正菩薩叡尊や大悲菩薩覚盛ら四人によって果たされた戒律復興の流れは、すでに室町期以降長く続いた戦乱によって途絶え、以来全く律は断絶していました。たとい人が望んだとして、これを受持することは不可能となっていたのです。

そこで律師は真の仏教僧たるべく戒律復興を志すに至ります。

ただ、具体的にどのようにすべきか律師は、当時他のほとんど多くの僧らがそうであったように、初めまるでわからなかったようです。律師に一つ残されていた道は、興正菩薩らの先蹤に倣って再び戒律復興すること、あるいは大陸の支那に渡り彼の地で律を直接受けることでした。

しかし、朝鮮経由で明代の支那に往くにしろ、支那に直接渡るにしろ、当時は秀吉による朝鮮征伐すなわち文禄・慶長の役が終わって間もない事でその双方とも国交は断絶しており(といってもちょうどこの頃、対馬の宋家は公文書偽造して勝手に国交を回復しようとしており、後に実際に回復した)、ためにかの地に渡って受戒することは非常に困難なことでした。

ところがその後、奇しくも志を同じくしていた日蓮宗の慧雲と劇的に邂逅。そしてさらに西大寺にて律学を志している時にその寺僧友尊とも出会い、明忍らは嘉禎二年の昔に叡尊律師など四人が通受自誓受という方法によって律を復興したことを知ったのです。まさにこの出会いによって、律師らは再び日本仏教界に律の復興を果たすことが可能となっています。

(慧雲については別項“戒山『慧雲海律師伝』”を参照のこと。)

僧伽 ―同志あってこその興律

ここで忘れてならないのは、明忍の師、神護寺中興の晋海僧正の存在です。晋海もまた、実は明忍の戒律復興に参加して共に自誓受戒しているのですが、神護寺主という立場にあったからこそ可能であった、その運動に対して資金援助とそのための場所を与えていました。明忍と慧雲、そして有尊の三人では、彼らが皆興律の志に燃えていたとしても、決して復興などすることは出来なかったでしょう。

なんとなれば戒律復興というものは、いくら優秀であろうが強固な意志を持っていようがただ一人の力で成すことは到底不可能なことで、最低でも四人の同志が集わなければ決して果たすことの出来ないものであるためです。そしてまた戒律復興というものを現実のものとするには、現実問題として、その影に一定の経済力ある後援者の存在が必須です。

明忍律師はもとは真言宗の人ではありましたが、そもそも律自体、そしてまたその復興自体は特定の宗派に限って行われるような性質のものではなく、また律師らが元々は真言宗、日蓮宗という別々の宗派に属していたこともあるのでしょう。律師らによる戒律復興は、その後の江戸期における日本仏教の諸宗派に極めて重大な影響を及ぼすこととなります。

当法樂寺から出られた慈雲尊者は、まさしく明忍律師らに端を発した戒律復興の流れにある人で、慈雲尊者ご自身も幾度か言及され、その伝記をすら書き遺されています。

けれども、にも関わらず、日本に律をもたらされた鑑真大和上を始め、鎌倉期の第一期戒律復興を果たされた西大寺の叡尊律師や唐招提寺の覚盛律師、極楽寺の忍性律師らに比すれば、まったくと言っていいほど世に知られていないのが俊正明忍律師です。

これは極めて遺憾なことと言わざるを得ません。

もっとも、そのように世に知られていない要因は、明忍律師およびその同志たる慧雲律師や友尊律師が、戒律復興を果たされた後十年も立たずして次々と、矢継ぎ早に早逝されてしまっていることがあるのでしょう。また律師らはその間、多くの著述をなされたということがなかったということもあるのでしょう。

律を復興して間もない頃にあって、それを現実に行い、定着していくことは容易でなくてその暇など無く、また経済的にもそのような余裕も無かったとも考えられます。

その故に、数年間という実に短期間であったとは言え、その間に幸運にも明忍律師らの門下に入ることが出来た龍象らとその末流こそが、むしろ今に至るまでより知られているのでありましょう。

明忍律師らが戒律復興した地である山城国の平等心王院〈西明寺〉、そしてその法孫たる慈忍慧猛律師によって復興された河内国の野中寺、同様にその法孫というべき真政圓忍律師によって興された和泉国の神鳳寺〈明治の廃仏毀釈で廃寺〉の三ヶ寺は、江戸期に天下の三僧坊と讃えられました。そしてこれら三僧坊より、江戸期には数多の傑僧が輩出されています。

およそ江戸期における戒律に関して名を馳せた僧・律院で、明忍律師を淵源とせぬ者など一人としてありはしません。

そのようなことから、その題目に「興律始祖明忍律師」としてあるのです。

現在、日本仏教では再三にわたって戒も律もその伝統は「完全に」途絶え、一部の外国僧や留学僧を除いては、ほとんど全くまともな仏教僧が存在しない、真に仏教を説く僧が無い、という事態を迎えています。

そのようなことから、ここでせめて明忍律師という若き獅子らの孤軍奮闘により、近世においていかに戒律復興されたかを世に多少なりとも知らしめるため、ひいては戒律とは一体仏教においていかなるものであるのか、日本においてそれがいかにしてよく行われようとしたかの理解が少しでも世間に広まることを祈り、この明忍律師の伝記として最も最初に著された『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』を紹介する次第です。

事を始めんと欲すれば、その基を知らずんばあるべからず。

単に明忍律師の生涯ばかり知ったところで、ただ歴史の一幕を知ったに過ぎないでしょう。明忍律師およびその後の律僧らや興律運動を正しく掴むのには、彼らが模範とし敬慕したその源を知らなければなりません。

故に明忍律師の行業を知ることをきっかけに、叡尊律師や忍性律師、さらには明恵上人や解脱上人、そして鑑真和上や道璿律師へと遡り辿っていき、そこには縷のようであったとしても明らかな一つの流れを見て取ることができるでしょうけれども、その源泉は間違いなく律蔵にあることを知り、そして終には仏所説の真に何たるかを知るに至ることを期します。

また、この明忍律師の生涯に触れることを機縁として、この扶桑の地に再び興律の志を持ち、現実としてそれを成し遂げんとする幾ばくかの人の現れることを願んでやみません。

小苾蒭覺應 拝記
(horakuji@gmail.com)

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2.凡例

本文

本サイトで紹介している元政『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』は、槇尾山西明寺に所蔵される日政(深草元政)真蹟本を底本とし、并せて明治世十三年二月に上田台嶺氏により出版された、元政『艸山集』巻之七(洪之巻 行状・墓誌)所収のものを参照したものである。

原文・現代語訳を併記し、対訳とした。もっとも、それぞれいずれかをのみ通読したい者の為に、対訳とは別に、原文・現代語訳のみの項を設けている。

原文は、原則として底本のまま旧漢字を用いている。ただし、書き下し文は、適宜現行の漢字に変更した。

書き下し文および現代語訳には読解しやすいよう段落を設けているが、これは編者によるもので原文に基づいたものではない。

現代語訳は、逐語的に訳すことを心がけた。もっとも、現代語訳を逐語的に行ったと言っても、読解を容易にするため、原文にない語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は( )に閉じ、挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。注意されたい。

難読と思われる漢字あるいは単語につけたルビは[ ]に閉じた。

語注

語注は、とくに説明が必要であると考えられる仏教用語などに適宜付した。

原意を外れた錯誤、知識不足の為の誤解を含む点など多々あると思われる。願わくは識者の指摘を請う。

小苾蒭覺應 拝記
(horakuji@gmail.com)

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