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‡ 元政 『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』

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1.現代語訳

律師の諱は明忍、初めは以白といった。字は俊正。族は中原氏である。権大外記康綱九世の孫であり、少内記康雄の次男であった。幼少時の字は久松、俗の諱は賢好である。天正四年丙子1576の年、京都にて生まれた。

七歳1582の時、高雄山寺〈神護寺〉の僧正晋海のもとで学問を始めた。その聡明なること群を抜くものであった。十一歳1576の春三月、元服して少内記に任じられた。家には兄があったがその才覚が及ぶものでなかった。そのため(次男でありながら)家業を嗣ぐこととなったのである。

殿上人らの連句の宴毎にその筆記を命ぜられた。少しも字がわからないなどと問うことがなく、(虎関師錬の)『聚分韻咯』を暗記していた。叢林の宿学らは皆、感服して言ったものである、「まさか思いもしなかった、現代にこのような神童があるなどとは」と。官職に従事する暇に、中原家が代々(朝廷で)勤めてきた職業の記録に勤めていた。家の旧記を読んでは欠けたものを補い、また廃れていたのを継いでは、ついに数十巻を編纂した。

十六歳1591にして少外記と右少史の両職に任じられた。しかしながら、このような待遇を受けながらも栄誉とすることはなく、ただ幼いころに聞いた晋海師の慈訓こそ、心に在て忘れることが無かった。常に世相を厭い、思いを(世俗を離れた)雲山に寄せていた。時々に高雄山に登り、躊躇して帰ることを忘れるほどであった。

慶長四年1599、律師二十四歳の時、遂に高雄山に入って出家した。そこで晋海師を阿闍梨とし、瑜伽の密行を受けた。

明年1600十一月十五日、十八道を開いて四度加行を修した。律師はその昔から律幢が久しく傾いていることを嘆いて、南京〈大和国・奈良〉に行って古聖の遺教を尋ね、ひたすら(戒律を如何に復興するかの)糸口を求めて研究に没頭した。

時に沙門慧雲という人があった。元は法華宗〈日蓮宗〉の徒であった。若年にして自ら出家し、道行堅高にして慧解秀徹であり、人にはこれを「観行即の慧雲」と称賛する者があった。常に(日蓮宗の)僧徒らの邪命説法を聞いては歎き、そこで「持戒していなければ出家者ではない。出家者ではないならば、どうして信徒の布施と信仰とを受けることが出来ようか」と考えていた。そこで(法華衆徒から)姿を丹波の山中に晦まし、炭を焼き蒲を編んで自活し、年月を過ごしていた。

ある日、霊蹟を訪ねて南都に行っていた所が律師と邂逅し、互いに平素からの志を語り合った。それはあたかも宿世からの定めであったかのようであり、二人手を取り合い、涙を流して(その出会いに)感喜した。そこで共に西大寺に入り、同じく受戒した。西大寺には友尊という人があった。平素から戒律を信じる者であった。ここにおいて(その三人は)志を等しくして共に律蔵を探求し始めた。西大寺はいわゆる興正菩薩〈叡尊〉法を弘めた地である。

一度(戒律の伝統が)廃れてしまって以降、(西大寺は)長く振るわなかった。(授戒の)軌則は伝わっているとはいえ、その実行は全く欠けたままであった。そうはいっても、いまだ(西大寺には)多聞の老学僧があり、よく(律の)持犯開遮の講説はなされていた。律師はこれを幸いとして、慧雲・友尊と相共に(この老学僧に)従って学んだ。それは暗闇の中で明りに遇ったようなものであり、(戒律について)永くあったわだかまりが氷のように溶けて無くなっていった。

慶長七年1602、律師二十七歳の時、栂ノ尾において好相を祈り、慧雲・友尊の二人と共に自誓受戒し、以降はひたすら止作隨行に励んだ。その意志は(興正菩薩叡尊らによる)嘉禎の先蹤を追い、再び律幢が倒れたのを興すことを求めた。

慶長九年1604二月十一日、律師は慧雲と共に『行事鈔』を講説し、十二年1607二十日に至って一遍を終えた。その他の律部、及び(『四分律羯磨疏』と『四分律戒本疏』との)二部の戒学についても、研究しないということは無かった。

槇尾の平等心王院〈西明寺〉は弘法大師の高弟であった智泉が開いた寺である。建治帝〈後宇多天皇〉の時、泉州槙尾山の自證上人が復興したが、その後、再び退廃して山野に帰したまま永い時を経ていた。

晋海僧正はそこで、律師の如法奉戒を隨喜し、再び槙尾山を伐採して平等心王院を復興し、東照神君〈徳川家康〉から(高雄山神護寺に)賜った寺田の千五百町歩から(平等心王院に)分ち附与して、律師および(慧雲と友尊との)二師を請じて住させた。

西大寺の沙門高珍、毘尼〈律〉の学問に精通していた。律師は彼を(平等心王院に)招き、大いに講律を開いた。律師は常に考えていた、「私はすでに通受自誓受戒するという願いを遂げた。しかし、いまだ別受相承の望みを果せぬままである」と。そこで海を渡って大陸に往かんとの志を立てた。

慶長十一年1606、律師の年齢はまさに三十一歳、(平等心王院の門に入った)新学の徒らを(慧雲・友尊の)二師に託して槙尾山を出立した。(律師は三衣と座具と鉄鉢、漉水囊の)六物の外に、身に携える物を持たなかった。そこである沙弥が言った、「師はこれから外国に渡ろうというのに、一体どうして字書の類をすら携えて行かないのでしょうか」と。しかし律師はこれにただ笑って答えるだけであった。

そうこうする内、(律師は)対馬に到着した。しかし偶然、震旦〈支那〉の仏法が大いに衰えてしまっていることを聞き、(ただちに震旦へ向けて)船出せぬままにいた。そこで手紙を慧雲公に送り、「異国の仏法は、願い求めるに値するものではなかった。(槇尾山の皆は)ただ一衆和合し、夏満の日〈自恣。安居を終える最後の日〉に共に別受を是非とも行じたらよい」と伝えたのだった。

律師はそのまま対馬に寓居すること数年、その貧しい家の部屋は風も陽も満足に遮るものではないほど(粗末なもの)であり、常に乞食を行じ、満足に物を所有していなかった。経論の大事な文言は、すべて古紙に書きつけていた。書状に関してすら、そのほとんど多くは同様であった。ある時、『梵網経』を(古紙に)暗書されたが、その最後にこのように記していた、「あらかじめ万一忘れてしまった時に備え、麁紙に草書したのである。敢えて仏語を軽慢したのではない」と。

ときおり母からの書が京都より届いていた。律師はしかし、慇懃に(手紙を頂戴してから)山の麓の小川に流していた。ついに開き見ることがないままに。人は(律師がなぜそのような事をしていたのか)、その意を測りかねた。

そもそも律師が(いまだ槇尾山平等心王院にあるとき)唐に渡ろうと決心した時、同志の者が多くあった。しかし(対馬へと)出立する日には、ただわずか道依〈浄人。随行の在家信者〉一人のみとなっていた。

律師が対馬に滞在する中、長患いの病を得てずいぶんの日にちが経った。

慶長十五年1610の夏、その病状が深刻なものとなった。六月五日、(律師は)手ずから筆を執って手紙を高雄の晋海僧正のもとに遣り、その深い恩を謝した。

(その病に律師が)長時間苦しむこと、それは甚しいものであった。そこでしかし、(律師は)短い杖を執り席を叩いて、仏陀の名号を唱え、安養〈極楽浄土〉に転生することを願った。するとたちまち紫雲が立ち登り、宝華が乱れ落ちてきた。律師自らがその様子を記したのには、「この病による苦しみは(長く生死輪廻し続ける苦しみに比べれば)一瞬のことである。しかし、この清涼の雲中において彼の聖衆に交ったならば、それはどれほどの快楽であろうか」とある。その詞は倭字〈仮名混じりの文章〉によるものであったが、ここではその内容を詳細にはしない。

六月七日、(律師は終に)帰寂した。その歳は三十五。

葬送が終わって後、(対馬で律師に側仕えていた)道依がすべての律師所有の軽重物を肩に背負って(槇尾山に)帰り来たった。一衆は(律師の死を)痛み悲しむこと、あたかも実の両親の死を喪すかのようであった。

晋海僧正は、(律師が死の二日前に送った)書を得て悲歎に耐えず、自ら和歌を作て追慕した。

律師はかつて『自誓血脉の図』を制作していた。興正菩薩の下に讃辞を付したが、それには「三聚を并呑し、戒身を長養す。法を耀かし、生を利す。千古未だ聞かず」とある。

ある日、省我比丘が、(私元政のもとに)律師の行状を懐にし訪ね来て、私の添削を依頼してきた。私(がその依頼を受けたの)は、我が浅才を顧みなかったからというのではなく、ただ旧知の人であったから敢えて辞退しなかったのである。(省我比丘の持参した)行状にある記述のままに、これを編纂した。

記した詞は簡素であろうが、律師の事蹟が忘れられることのないように願うばかりである。

そもそも末法の出家者には、三衣の名をすら知らない者が多い。律師は、このような時代にあって、物事の乱れ崩れたのを本来の姿に戻そうとしたのである。また慧雲・友尊の二師を得て、ついにそれを現実のものとした。今の世で律について語る者は槙尾山(明忍律師)を指して中興とするのである。

嗚乎、この法滅の時代において、再び比丘の儀相を見ることが出来るのは、ひとえに律師の業績に拠るものである。私が惜しむらくは文献が足らず、律師の徳行を全く述べ尽くすことができないことである。

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