真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 月潭『槇尾山平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』

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1.原文

雖道行旅㝛而三衣一盋暫不離身息慈道依挾複從之初抵平戸津次到對馬州奈國禁森嚴不許渡唐然師心弗息畱寓彼中遂結宇于豐滿岳茅壇之上翛然居焉日常隨緣㪅無佗營饑則擎盂乞食寒則補破蔽形淸苦自守惟道是務里俗欽風以爲眞苾蒭僧也一日寄書於雲公曰余自來此地幸獲無恙但異域佛法未能親探故畱滯以待時緣倘有商舶可駕縱震旦不可往得到三韓亦大幸也故山衆務全賴公之維持只能勵衆修道令法久住則余在遐陬亦有何所慮哉且此間無經典可借後便煩爲寄來事鈔幷記等數部是所㴱望也雲尊二公念師僑寓馬島緜歴數禩擬請囘山馳書訂以三年之約師答書曰前云三年之約乃是一期之施設也要識余之素願則三字下加十方始可也竟弗旋後復寄云邇聞異域律法大衰不足欽慕然余歸期未定只宜一衆和合以夏滿日依法行別受云云每便所寄手札多用和字辭意諄諄誡勖新學未始一語及佗事矣馬島在西北渤溟中寒冱苦甚因感疾久而弗瘳至庚戌夏病已革矣杪夏五日遽索觚翰作遺海僧正書曰經中所謂一日一夜出家受戒功德無量況某出得悠悠塵海投入釋門已十餘年皆是尊師訓導教化之力也欲報洪恩常自黽勉寤寐未敢廢㤀奈何愚願未遂報命遽盡設使此生虛過而生生大願曷有竆已云云初七日昧爽知歿期稍瀕手執小磬槌敲坐席驟唱佛號願生安養忽有異香滿室馚馥襲人復有紫雲似𥁋者覆于所居屋上人皆見而識其往生之明驗矣師復呼筆書曰我此病苦須臾之事彼淸凉雲中與諸聖衆相交則豈不大快樂哉八功德水七寚蓮池是我所歸也既書訖加趺冥目泊然長逝雖當溽暑容色不變道依遵治命用荼毘法從事收靈骨擔道具棲棲旋京槇阜一衆聞訃哀慟如𠷔所親僧正亦接書泫然涙下綴和歌悼之道依同衆擇某月日就本山建塔焉

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2.書き下し文

道行旅㝛と雖も、而も三衣一盋1暫くも身を離れず。息慈2道依3複を挾んで之に從ふ4。初め平戸津5に抵り、次に對馬州に到る。奈せん國禁森嚴6にして渡唐を許さず。然ども師の心息まずして彼の中に畱寓す。遂に宇を豐滿岳7茅壇8の上に結んで、翛然として焉に居す。

日常、緣に隨て㪅に佗の營み無し。饑る寸は則ち盂を擎て食を乞ひ、寒き寸は則ち破れたるを補て形を蔽ふ。淸苦自ら守て惟だ道、是れ務む。里俗、風を欽んで以て眞の苾蒭僧と爲す。

一日、書を雲公に寄て曰く、余、此地に來てより幸に恙無きを獲たり。但だ異域の佛法、未だ親く探ること能はず。故に畱滯して以て時緣を待つ。倘し商舶の駕すべき有ば、縱ひ震旦は往くべからずとも、三韓に到ることを得るも亦た大幸ならん。故山の衆務、全く公の維持を賴む。只だ能く衆を勵まして道を修め、法を久住せしめば、則ち余遐陬に在ても亦た何の慮る所か有んや。且く此間、經典の借るべき無し。後便に煩しく爲に事鈔幷に9等の數部を寄せ來れ。是れ㴱く望む所なりと。

雲・尊の二公、師の馬島に僑寓して數禩10緜歴11するを念ひ、請して山に囘しめんと擬して、書を馳せて訂すに三年の約を以てす。師の答書に曰く、前に云ふ三年の約は乃ち是れ一期の施設なり。余が素願を識んと要せば則ち三の字の下に十を加へて方に始て可ならんと。竟に旋らせず。

後に復た寄せて云く、邇ころ聞く、異域の律法、大に衰へて欽慕するに足らずと。然ども余が歸期、未だ定らず。只だ宜く一衆和合して夏滿の日12を以て法に依て別受を行ふべし13と云云。每便寄る所の手札多く和字を用ゆ。辭意諄諄として新學を誡勖す。未だ始より一語も佗事に及ばず。

馬島は西北渤溟の中に在て寒冱苦甚、因て疾を感ず。久ふして瘳へず。庚戌の夏に至て病已に革かなり。

杪夏14五日、遽かに觚翰15を索めて海僧正に遺る書を作て曰く、經中に所謂一日一夜出家受戒の功德は無量なりと。況や某、悠悠たる塵海を出得して釋門に投入すること已に十餘年をや。皆是れ尊師、訓導教化の力なり。洪恩に報んと欲して常に自ら黽勉して寤寐にも未だ敢て廢㤀せず。奈何せん、愚願未だ遂げざるに報命遽かに盡く。設使此の生は虛しく過すとも、生生の大願曷ぞ竆已有らんやと云云。

初七日の昧爽16、歿期稍瀕きことを知て、手に小磬槌を執り坐席を敲て驟ば佛號を唱へ、安養17に生ぜんことを願ふ。忽ち異香の室に滿て馚馥人に襲くこと有り。復た紫雲の𥁋に似る者の所居の屋上に覆ふこと有り。人皆見て其の往生の明驗を識る。

師、復た筆を呼んで書して曰く、我が此の病苦は須臾18の事なり。彼の淸凉の雲中に諸の聖衆と相交らば、則ち豈に大なる快樂にあらずや。八功德水・七寚蓮池、是れ我が歸る所なりと。既に書し訖て加趺冥目して泊然として長逝す。

溽暑19に當ると雖も容色變ぜず20。道依、治命に遵て荼毘の法を用て從事す。靈骨を收め道具を擔て棲棲として京に旋る。槇阜の一衆、訃を聞て哀慟して所親を𠷔するが如し。僧正も亦た書に接して泫然として涙下す。和歌を綴て之を悼む21

道依、衆と同じく某月日を擇で本山に就て塔を建つ。

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3.現代語訳

その道程は旅宿ではあったが、しかし三衣一鉢を片時も身から離すことはなかった。息慈〈沙弥〉道依〈道依明全。この時、道依は浄人として随行したのであって沙弥では無かったであろう〉は、複を挾んで師に随行した。まず初めに平戸津に至り、そして次に対馬州に到った。(対馬から唐に渡ろうとしたけれども)いかんせん国禁森厳であって渡唐は許されなかった。しかしながら、師はその志を捨てること無く、対馬に滞留し続けた。そして庵を豊満岳の茅壇の上に結び、翛然としてここに居した。その日常は、ただ縁に従うのみで更に他の営みなど無かった。餓えた時は鉢をもって食を乞い、寒い時は破れた布を補って体を覆うのみである。清苦〈清貧〉たることを自ら守り、ただ仏道にのみ努め励んだ。土地の人々は、(師の)風儀を喜んで「真の苾蒭僧〈比丘僧〉である」と言った。

ある日、書を慧雲公に寄せて云うに、
「私はこの地に来てから幸いにも恙無く過ごすことが出来ています。ただ異域の仏法について、いまだ親しく探ることが出来ていません。そこでここに滞留して時縁を待っています。もし商舶に乗船できるようなことがあれば、たとい震旦〈支那〉には(直接)行くことが出来なくとも、三韓に到ることが出来るならばまた大いなる幸いでありましょう。槇尾山の衆務は全く公の維持に頼ります。ただよく衆徒を励まして道を修め、仏法を久住させたならば、私が遐陬[かすう]〈僻地〉にあったとしても何も心配することはありません。(ところで)いまのところこの地には、経典を借り得るところがありません。後便にて、手を煩わせますが、私のために『行事鈔』ならびに『行事鈔資持記』〈大智律師元照による『行事鈔』の注釈書〉等の数部を送ってくれるないでしょうか。これは私が深く望んでいることです。」
とのことである。慧雲・友尊の二公は、師が対馬島に僑寓〈仮住まい〉して数年にわたるであろうことを慮り、請うて槇尾山に帰らせようと思案して書を馳せ、定めて三年の期限とすることを取り決めた。すると師の答書には、
「前の便りで言われた『三年の期限』とは一期の施設〈仮に云うこと。概念〉でありましょう。私の素願を知ろうと要せば則ち三の字の下に十を加えて初めて可でありましょう」
とあって、遂に帰らせることが出来なかった。すると後にまた書を寄せ、そこには
「近頃聞くに『異域の律法、大いに衰えて欽慕するに足るものではない』とのことでした。しかしながら、私がそちらに帰る時期はいまだ定まりません。ただ(槇尾山の衆徒は)よろしく一衆和合し、夏満の日〈自恣。安居を終える最後の日。ただし、ここでの意は別受の執行が可能となる「具足戒を受けて後、十夏の自恣を迎えた時」の意〉に法に従って別受を行えばよいでしょう云云」
とあった。毎便、(師が)寄せてくる手紙の多くは和字〈かな〉が用いられていた。その内容は諄諄として新学〈新たに律を受け学ぶ者〉を教誡するものであった。(対馬に渡ってから)その始めより一語として他事に及ぶものは無かった。

対馬島は西北の渤溟〈大海〉の中に位置して非常に寒く、その苦しみは甚だしいものであったが、それに因って病の兆候があり、しばらくしても一向に治らなかった。庚戌〈慶長十五年(1610)〉の夏となって、その病は頓に悪化した。

杪夏〈晩夏。六月〉五日、にわかに紙筆を手繰り寄せて晋海僧正に遺す書を作って、
「経典の中に『一日一夜であろうとも出家受戒の功徳は無量である』といわれます。ましてや私の如き、悠悠たる塵海〈無限なる苦海。俗世界〉を脱して釈門〈仏門〉に入って既に十余年の者ならばなおさらであります。それも全て尊師〈晋海僧正〉による訓導教化の賜物です。その洪恩〈鴻恩〉に報いようと願って常に自ら黽勉[びんべん]〈努め励むこと〉し、寤寐[ごび]〈寝ても覚めても〉にも決して忘れたことがありません。(しかしながら)どうしようもないことに、その愚願をいまだ遂げることが出来ぬままに、私の寿命はにわかに盡きることとなりました。たといこの生は虚しく過ぎたとしても、生生世世の大願がどうして盡きることがありましょうか云云」
と記したのである。

初七日〈六月七日〉、死期がもはや差し迫っていることを知って、手に小磬槌を執り坐席を叩きながら、しばしば(「南無阿弥陀仏」と)仏号を唱え、安養〈極楽浄土〉に生まれ変わることを願った。すると忽ち異香が部屋にたちこめ、その芳しい香りが人にまで染み付いた。また紫雲が傘のようになったのが(師の)庵の屋根の上を覆ったのである。人は皆それを見て、師が(極楽浄土に)往生する明らかな兆候であることを知った。

師は再び筆をたぐり寄せ、
「我がこの病苦など須臾〈一瞬〉の事に過ぎない。あの清涼なる雲の中にて諸の聖衆と相い交ったならば、それはどれほど大いなる快楽であろうか。八功徳水・七宝蓮池、それこそ我が行き着く所である」
と書き終わると結跏趺坐して冥目し、泊然〈恬淡たる様子〉として長逝〈逝去〉した。非常に蒸し暑い時期であったけれども、(その遺骸の)容色は腐敗変色しなかった。道依は遺言に従い、荼毘の法をもって葬送した。そしてその霊骨を収めて(師の遺された)道具を背負い、すぐさま京に帰った。槇尾山の一衆は、その訃報を聞いて哀慟すること、あたかも親を亡くしたかのようであった。僧正もまた(師の僧正に宛てた)書に接して泫然〈さめざめと泣くこと〉として涙をこぼした。そこで和歌を綴ってその死を悼んだのである。

道依は(出家して)槇尾山の衆徒と同じくし、某月に日を択んで本山に墓塔を建てた。

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4.語注

  • 三衣一盋[さんねいっぱつ]…比丘が「必ず所有しなければならない」六種の物品のうちその四品。その六種とは、まず大衣(僧伽梨[そうぎゃり])・上衣(鬱多羅僧[うったらそう])・下衣(安陀会[あんだえ])の三種の衣すなわち三衣であり、次に礼拝や坐禅など日常で座に着く時に使用すべき敷物である坐具(尼師壇)、そして乞食を行ずるのに必須の鉄鉢[てっぱつ]、さらには虫の入った水を飲まないようにするための水越しである漉水囊[ろくすいのう]。これを比丘の六物という。
     一般にしばしば誤解されているけれども、比丘は「六物しか持ってはいけない」のではない。最低「六物は必ず持っていなければ、決して比丘となれない」のである。その日常においてただ六物だけ所有して生活する場合は、それを頭陀行などと言って特別視されるが、そのような清貧を貫くかどうかは個人の意志による。
     なお、現今の日本の僧職者に六物が何かを知るものは極めて少なく、さらにそれらを持っている者はほとんど存在しない。→本文に戻る
  • 息慈[そくじ]…サンスクリットśrāmaṇeraまたはパーリ語sāmaṇeraの漢訳。一般に沙弥との音写が用いられる。未だ具足戒を受けていない男性の出家修行者を指す。女性は沙弥尼。日本では一般に小僧、または雛僧などと言われる。時として二十歳を超えても具足戒を受けぬままの者もいる為、必ずしも沙弥=未成年ではない。事情によって比丘にならず、あるいはなれず、二十歳を超えても沙弥のままである者は相似沙弥と称される。→本文に戻る
  • 道依[どうえ]…道依明全。俊正明忍律師が対馬に向かった際、ただ一人随行した人。ここで月潭は道依を息慈(沙弥)であったとしている。けれども、当時道依は沙弥では無かったであろう。なんとなれば、西明寺に伝わる文書の一つ『禅語採要』(沙弥名籍)には、道依は賢俊良永と共に賢俊律師没後の慶長十五年十月に入衆、すなわち沙弥となったことを伝えるためである。賢俊はすでに高野山で一応僧となってはいたものの、いわばそれまでの僧としての経歴は律の見方からすると正しくなく認められないため、ここで賢俊はいわば正式に出家したといって良い。
     まずそもそも律師が旅に出る時、随行する者が沙弥であっては浄人として用をなさないため、やはり道依は浄人すなわち在家信者として随行し、対馬での律師の生活を助けたと見て違いあるまい。そしてその時は俗名であったろうが、道依の出自等についての伝承は全く無い。道依が比丘となったのは慶長十六年1611であり、賢俊を含めた他十名と共に自誓受具してのことであった。元和二年1616八月廿七日没。→本文に戻る
  • 複を挾んで之に從ふ…複とは複子すなわち旅包みのこと。複子を挟んでとは旅荷物を持つことで、道依がいわば荷物持ち(身の回りの世話役)として随行した、との意。この表現は『碧巌録』にある一節(徳山挟複子)を借りたもので、月潭が禅僧であったことによる表現であろうが、ここにその公案におけるひねった意図などは無い。→本文に戻る
  • 平戸津[ひらどのつ]…現在の長崎県北西部。平戸藩松浦家の城下町で海外との貿易港があった。→本文に戻る
  • 國禁森嚴[こくきんしんげん]…国法が非常に厳重であること。厳しく制限されていること。
     当時、日本は文禄の役および慶長の役で明を目指した朝鮮侵攻が終わったばかりであり、明とも朝鮮とも国交は正式には無かった。それらとの交渉を担当することとなる以酊庵が臨済僧景轍玄蘇により作られる、その丁度前後の外交問題が微妙な頃に俊正明忍律師は対馬に渡ったのである。よって、律師が国の公認のもと渡海する余地はなかったであろう。
     もっとも、それまで対馬の宋家は明や朝鮮との交易で莫大な利益を挙げており、なんとしてもこれを再開するための手段を探り、その機会を伺っていた(徳川幕府としても、甚大な利益をもたらす明との交易再開は望むところであって使者を送るが、明に無視される)。そして、宋家は実際に国書を捏造して勝手に国交を回復しようと、いわゆる柳川一件を引き起こした。宋家はいわば「いわくつきの大名」であった。が、そのような土地柄であったがために、あるいは密かに、あるいは公に、明に直接は不可能だとしても朝鮮経由で渡航出来る可能性は無くはなかったであろう。
     しかしながら、その後しばらくして明は経済的・政治的大混乱の果てに滅亡し、むしろ明の人々が日本に亡命を求めて渡ってきたのであるから、渡航を求める時期としては、いや時代として最悪であったと言えよう。→本文に戻る
  • 豐滿岳…有明峰の一峯の名であろうが具体的にどの山であるか未詳。→本文に戻る
  • 茅壇[かやだん]…現在の対馬市厳原町[いずはらまち]にある久田道[くたみち]東側に広がる低山の中腹の古名。この山間を萱谷というから、萱壇というその名称から察するに、中腹にある平坦な地の名であったのであろう。土地ではこれを「かやんだん」などと称したこともあったという。→本文に戻る
  • [き]…南山大師道宣により唐初代に著された『四分律』の注釈書『行事鈔』を、南宋代に南山律宗を復興しようと勤めた大智律師元照が天台教学的解釈をもって注釈した『行事鈔資持記』のこと。日本には鎌倉期初頭に渡宋した俊芿によってもたらされ、以来日本の律宗各派で珍重された。→本文に戻る
  • 數禩[すうし]…数年。→本文に戻る
  • 緜歴[めんりゃく]…わたること、過ぎること。→本文に戻る
  • 夏満[げまん]の日…夏とは特に仏教の出家者が一年の内、夏の雨季の三ヶ月間、一箇所に留まって移動せず籠もる習慣たる安居[あんご]のこと。夏満の日とはその三ヶ月が終わる最後の日、これを自恣[じし]あるいは解夏[げげ]という。 安居の三ヶ月間、出家者らは一箇所に留まり、戒律を守って修禅を専らとしたり修学に励んだりするが、この期間を無事過ごすことでのみ出家者としての年齢が一つ加算されるため、出家者にとって一年で最も重要な期間であるとも言える。 →本文に戻る
  • 法に依て別受を行ふべし…比丘がいわば一人前となるには最低五年、和上あるいは阿闍梨のもとで修学する必要がある。また授戒においては、誰か一人でも十年以上経過して初めて、別受が可能となる。具足戒を受けた人を比丘あるいは大僧というが、ただ具足戒を受けたらただちに一人前となって弟子を取れるなどということは無い。
     ここで律師は、慧雲らに自らが大陸に渡って受けることを望むも果たせなかった「別受」による授戒を槇尾山にて執行することを提案したとされている。が、これは少々不可解な言である。なんとなれば、律師らは慶長七年に自誓受して比丘となっており、最短でも慶長十六年すなわち十夏を経過していなければ、別受を行うことは不可能なためである。それはその時点では、律に厳密に従おうとするならば、全く不可能なことであった。もっとも、実は鎌倉期の叡尊や覚盛らも共に別受を行っているが、それは比丘となってから十歳に満たない、九年目に行われたものであった。これは叡尊からすると不本意なことであったが、覚盛が来年まで生きているかわからぬのであるし、仏道を求める人を大いに利益することでもあるから、敢えて一年足らぬ状態でも懺悔すればすむことであるから、と無理を押して家原寺にて別受を強行していた。ここでの俊正律師の言は、その故事に倣ってのものであったかもしれない。 あるいは、ここで明忍が意図した「夏満の日」とは、「その年の安居を終えたならば」ということではなく、「十夏を満じたならば」という意味であったかもしれない。
     なお、俊正律師らが自誓受によって比丘となったのは慶長七年であり、対馬に出立したのが慶長十一年であってまだ四年足らずであったため、誰もまだ比丘として弟子を蓄える年限に達していない。もっとも、慶長七年の自誓受が夏安居に入る前であり、対馬へと出立したのが慶長十一年の夏安居後であれば、俊正ら五人は皆五夏を過ごして独りで行動できる最低限の年限には達していたこととなろう。→本文に戻る
  • 杪夏[びょうか]…晩夏。夏の終り。→本文に戻る
  • 觚翰[こかん]…觚は木簡、翰は筆。ここでは紙と筆の意。→本文に戻る
  • 昧爽[まいそう]…夜明け。→本文に戻る
  • 安養[あんにょう]…極楽浄土の別の謂。→本文に戻る
  • 須臾[しゅゆ]…一瞬。ほんの僅かな間。→本文に戻る
  • 溽暑[じょくしょ]…非常に蒸し暑いこと。→本文に戻る
  • 容色變ぜず…遺体が腐敗し、腐臭を漂わせなかったということ。これは西蔵(チベット)でも言われることであるけれども、成就者といわれる仏道において一定の悉地を得た者の遺体は、死後その遺体が醜く変ずることが無い、などと言われる。西蔵では、真の成就者の遺体は「消えてなくなる」などとすら言われるが、今もその信仰は続いており、ダライ・ラマ十四世もその法話の中で度々言及している。→本文に戻る
  • 和歌を綴て之を悼む…晋海僧正にとって俊正はその幼少時から教導してきたまさに最愛の直弟子であり、共に戒律復興を成し遂げた同志であった。その弟子が遠い対馬にて逝去し、その死を知らされた後にあらためてその手紙を受け取り、読むこと。無常迅速とはいえ、僧正にとってそれはあまりに悲しく、あまりにつらいことであったろう。公家出身であり、また親王などとの親交があった僧正らしいことであったろうが、その思いを和歌に託し、弟子の死を悼んだのである。その和歌とは、「打見よと かねのしもくの筆の跡 まつ泣聲そ もよをされける」であった。道依が持ち帰った僧正宛の最後の手紙、そして臨終の間際に筆を走らせた書を直に見た時、実際その書の筆跡を見れば、それが尋常ならざる状態で書かれたものであることが、ほとんど一見して判ぜられるである。まして平生のそれをよく知るものであればなおさらであろう。それは、僧正らが見て涙しないわけがないものであった。
     人の死を悼むため、あるいはその悲しみを表するのに和歌を読むこと、現代の平等思想による弊害というべきか、むしろ総じて文化程度がかなり引き下げられてしまった日本の現状では、およそ思いもつかない行動であろう。
     実は明忍律師が亡くなる五日前の慶長十五年1610六月二日、同志友尊律師が逝去していた。年老いた晋海僧正やその同道の人々にとって、次々と同志が若くして亡くなってしまったことはひどく痛ましく、そして悔しいことであったに違いない。そしてまた僧正と慧雲律師もその翌十六年、立て続けに没している。また同時に自誓受具した五人目の人、玉圓空溪律師は平等心王院第三代を独り継ぐことと成るが、しかしさらにその翌年の慶長十七年四月十八日に示寂している。
     思えば、これら同時期に次々と示寂していった四人、五人の同志は、まさに宿世の縁によって共に戒律復興を成し遂げられたのに違いないのであった。→本文に戻る

現代語訳 脚注:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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