真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 月潭『槇尾山平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』

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1.原文

蒙曾隨喜槇山經藏所鎭師手書聖典幷講律日記等多是用麤楮或取舊牘翻背寫焉在馬島時所闇寫梵網經跋尾云爲僃廢㤀艸書粗紙非敢輕慢佛語也昔日淸貧介約雖文房四寚亦似乏用而書寫不懈豈非精誠之所致耶至于捨親愛純道業曾獲鄕母書未𡮢啟讀纔頂戴訖投諸屋外谿流與吾門昺鐵面故事可併按焉又僧念正者𡮢聞野山賢俊大德語曰師在日有僧修曼殊洛叉法一夕假寐間夢大士告曰伱願見我生身卽高雄法身院俊正是也觀師梵德精嚴悲願宏㴱散異馥於易簀之際煥祥光於屬纊之時則謂之五臺應化亦何疑之有哉頃歳建仁長老松堂植公承釣命赴職于對府以酊菴公於暇日躳探師舊蹟且令人物色之然歳月稍久無人能識適一華菴老僧以僊者年九十餘尚善記往事公就渠詢之曰某童時曾見忍師始從洛至托居府内宮谷後厭人緣稍譁又移茅壇每愛府治西南夷崎山水奇絶經行其間鄕人不知其名但喚京都道者耳海岸精舍主僧智順欽師戒行往來密爾及圓寂後爲立牌位至今尚存闍維之所不豎𡨧堵只栽松樹一株而巳茅壇四山採伐殆盡獨其一株合抱偃蹇翠色鬱然斧斤莫敢侵云奥有現光雲松大德以師之嘉言懿行前哲所記攟拾有遺不能無歉于衷徴蒙修補始以菲才辭然再請弗輟嘉其念祖尚德暫不相㤀因按故堯遠筌公所錄事實與松公所傅聞重爲編次命曰行業曲記𥁋曲細而記其事也庶俾來裔有所歆艷而自厲云爾


貞享丁戼歳嘉平月中浣日峩山沙門道徴月潭和南謹撰

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2.書き下し文

1、曾て槇山の經藏に鎭ずる所の師の手書の聖典幷に講律日記等2を隨喜するに、多くは是れ麤楮3を用ひ、或は舊牘4を取て背を翻にして焉を寫す。馬島に在し時、闇寫する所の梵網經の跋尾に云く、廢㤀に僃るが爲に粗紙に艸書す。敢て佛語を輕慢するには非ずと。昔日、淸貧介約、文房四寚5と雖も亦た用に乏しきに似たり。而るに書寫懈らず。豈に精誠の致す所に非ずや。

親愛を捨て道業を純らにするに至ては、曾て鄕母の書を獲て未だ𡮢て啟き讀まず、纔かに頂戴訖て諸を屋外の谿流に投ず6。吾が門の昺鐵面の故事7と併せ按ずべし。

又、僧念正と云ふ者、𡮢て野山の賢俊大德8の語るを聞くに曰く、師の在りし日、僧有て曼殊洛叉の法9を修す。一夕、假寐の間夢むらく、大士告げて曰く、伱我が生身を見んと願はば、卽ち高雄法身院俊正10是れなりと。

師の梵德精嚴悲願宏㴱、異馥12易簀13の際に散し、祥光14屬纊15の時に煥かすを觀るに、則ち之を五臺16應化17と謂んも亦た何の疑しきをか之れ有んや。

頃歳、建仁長老松堂植公18、釣命を承けて19に對府の以酊菴20に赴く。公、暇日に於て躳ら師の舊蹟を探る。且つ人をして之を物色せしむ。然ども歳月稍久ふして、人の能く識りたる無し。適ま一華菴の老僧以僊と云ふ者、年九十餘、尚ほ善く往事を記す。公、渠に就て之を詢て曰く、某童たりし時、曾て忍師を見る。始め洛從り至て府内21宮谷22に托居す。後に人緣稍譁きことを厭て、又た茅壇に移る。每に府治の西南夷崎23の山水奇絶なるを愛して、其間に經行24す。鄕人、其の名を知らず。但だ京都の道者と喚ぶのみ。海岸精舍25の主僧智順26、師の戒行を欽んで往來密爾なり。圓寂の後に及で爲に牌位を立つ。今に至て尚ほ存す。闍維27の所、𡨧堵28を豎てず。只だ松樹一株を栽るのみ29。茅壇の四山、採伐殆ど盡く。獨り其の一株、合抱偃蹇として翠色鬱然たり。斧斤30も敢て侵すこと莫しと云ふ。

奥に現光の雲松大德31有り。師の嘉言懿行、前哲の記する所を攟拾して遺すこと有るを以て、衷に歉無きこと能はず32、蒙に徴めて修補せしむ。始め菲才を以て辭す。然ども再請して輟に弗す。其の祖を念ひ德を尚んで暫くも相㤀れざることを嘉して、因て故の堯遠筌公の錄する所の事實33と松公の傅へ聞く所とを按じて、重ねて爲に編次す。命て行業曲記と曰ふ。𥁋し曲細にして其事を記すればなり。庶くは來裔をして歆艷する所有て自ら厲まさ俾んと爾云ふ。


貞享丁戼歳嘉平月中浣日峩山沙門道徴月潭34和南35謹撰

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3.現代語訳

〈愚か者。月潭道徴が自らを謙遜して言う〉は、かつて槇尾山の経蔵に収蔵している師の手書きの聖典ならびに講律日記等を隨喜(して閲覧)したところ、その多くは麤楮〈粗い和紙〉が用いられ、あるいは旧牘〈古紙。反故〉を用いて、それを裏返しにして書写されたものであった。対馬島に在りし時、諳んじて書き写した『梵網経』の跋文には、
「(万一)廃忘した際に備えて粗紙に草書したのである。故意に仏陀の言葉を軽慢してのことではない」
と書かれていた。当時、(師が)清貧節約であったその様は、たとえ(硯・墨・紙・筆の)文房四宝であっても満足に用いることが出来なかったのであろう。にも関わらず書写を怠ることは無かったのである。誠に(師の仏道に対する)精誠の致すところであったろう。

親への愛を捨て、ひたすら道業を専らとする態度に至っては、かつて郷里の母から書を得ても、それを決して開き読むことはせず、わずかに頂戴してからこれを屋外の渓流に投げ捨てるほどであった。我が門〈禅宗〉の昺鐵面〈鉄面昺禅師〉の故事〈『禅関策進』に出〉と併せて考えるべきことである。

また、僧で念正と言う者が、かつて高野山の賢俊〈賢俊良永。槇尾山にて受具後まもなく退衆し、高野山円通律寺を創建。また法隆寺北室院を律院として中興した〉大徳が語るのを聞いたところに依ると、
「師の在りし日、ある僧が曼殊洛叉の法〈文殊菩薩の五字真言を十万遍唱える修習法〉を修した。ある夜、仮寝の間に夢を見たところ、大士〈菩薩〉が現れて告げるに、 『汝、我が生身を見ようと願うならば、すなわち高雄山法身院の俊正である』 とのことであった」
という。師の梵徳精厳にして悲願広深なることは、異馥〈異香〉を易簀〈死〉の際に散じ、祥光〈めでたい光〉を屬纊〈臨終〉の時に輝かしたことを見たならば、師は五台〈文殊菩薩〉の応化であったと言っても、また何の疑いもありはしないであろう。

最近、建仁寺の長老松堂宗植公〈建仁寺三百十一代長老〉が朝命を承けて朝鮮修文職に任じられ、対馬府内の以酊菴〈支那・朝鮮との外交拠点とした禅寺〉に赴いた。公は、余暇の日に自ら師の旧蹟を探ったのであった。また同時に人にもこれを探させた。しかしながら、(師が没してから)歳月もやや久しく、人でこれをよく知っている者が無かった。たまたま一華菴の老僧以僊という者が、その年九十余であったけれども、なお善くかつての事柄を伝えていた。そこで公は彼に就いて師のことを尋ねると、
「私がまだ童であったかつて、明忍師を見たことがある。始めは京都より来て府内の宮谷に居されていた。しかし後に(宮谷は対馬の市街であって)人縁がやや煩いことを厭い、茅壇に移られた。ことに府治の西南にある夷崎の山水が奇絶であることを愛され、そこを経行されていた。郷人らはその名を知らず、ただ『京都の道者』と呼ぶのみであった。海岸精舎の主僧智順は、師の戒行に随喜して往来密爾であった。円寂〈逝去〉された後、師の為に位牌を立てた。これは今に至ってもなお存している。闍維〈荼毘〉に付した地に卒塔婆は建てなかった。ただ松の樹一株を植えたのみである。茅壇の四山は伐採されてほとんど禿山となったが、独りその一株のみは合抱偃蹇〈一抱えとなるほどの大木で、のびのびと広がっていること〉として翠色鬱然〈青々として鬱蒼と茂っていること〉である。斧斤〈木樵〉らもそれを敢えて伐ることなど無かった」
とのことであった。

ここに現光寺の雲松實道大徳〈槇尾山衆僧の一人。現光寺中興・巖松院三世〉がある。師の嘉言懿行〈善言と立派な行い〉で、前哲が伝え記したものを蒐集して遺されたものがあるけれども、しかし本心から満足のいくものではなかった。そこで蒙に依頼してこられ、それを補完しようとされたのである。

最初は菲才〈才能が乏しいこと〉であることから辞退した。しかしながら再び請われたためやむを得ず撰すこととなった。その祖師〈明忍律師〉を想い、その徳を尊んで片時も忘れないことを称えて、因みに原本である堯遠不筌公が記した事実〈『明忍律師之行状記』〉と雲松公の伝え聞く所とを按じ、改めて編纂した。名づけて『行業曲記』という。けだし曲細〈非常に詳細であること〉にその事を記したためである。願わくは(この『行業曲記』によって)来裔〈子孫。律師の法孫〉が(師を)歆艷〈羨慕〉して自らを励まさしめるものになるように、とそう命名した。


貞享丁卯歳〈1687〉嘉平月中浣日 峩山沙門道徴月潭和南 謹撰

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4.語注

  • [もう]…道理の通じない愚か者。何もわからない子供。ここでは著者月潭が自身を謙遜してそう自称している。→本文に戻る
  • 師の手書の聖典幷に講律日記等…俊正明忍律師が自ら書写した典籍やその手紙など、その相当数が今も平等心王院(西明寺)に保存されており、特に重要な手紙などは軸装されて伝承されている。月潭はそれを平等心王院にて実際に読んでいたという。これは月潭がその伝記の編纂を頼まれる前のことであるというから、月潭は以前から平等心王院の衆僧と親しく交流、すなわち律を彼らを通して学んでいたのである。
     そもそも月潭の出家の師は如雪文巌であったが、彼は槇尾山平等心王院第八代衆首であった全理惠燈を証明師として比丘となったもと律僧であり、後に臨済宗一絲文守の門下に参じて臨済僧となった人である。ここで月潭が槇尾山でそのように祖師の書を閲覧出来ていたことは、彼らが他宗に転じていたからといってその関係がまったく途絶していたということは全く無く、むしろ親しく通じていたことの証であろう。初期の槇尾山に集ってその衆徒となった者のそれぞれ出自来歴を全て知ることは現在出来ないが、そもそもその中の多くが禅宗など他宗の者であったろう。→本文に戻る
  • 麤楮[そちょ]…粗い安物の和紙。→本文に戻る
  • 旧牘[きゅうとく]…古紙、反故。→本文に戻る
  • 文房四寚…文房四宝、すなわち筆・紙・硯・墨。→本文に戻る
  • 比丘[びく]…「(食を)乞う者」を原意とする、サンスクリットbhikṣuまたはパーリ語bhikkhuの音写語で、仏教では正式な男性出家修行者のこと。→本文に戻る
  • 曾て鄕母の書を獲て未だ𡮢て啟き讀まず云々…俊正律師は京の母公からの手紙を頂戴するのみで開き見ず、茅壇の庵のほど近くを流れる小川に捨てていたという。後代、その小川は律師のこの故事に因んで「文捨川[ふみすてがわ]」と称されていたという。現在、対馬でその名を知る者は、近隣の者ですらまったくいない。  近年、対馬の島民の間ではその行業は忘れられていく一方で、ほとんどまったく律師の名など知られていないけれども、対馬ではいまだ明忍律師の足跡を辿ることが可能である。なお文捨川とは、山中を流れるごくごく小さな小川であるが、現在はほとんど涸れており、雨が降った時にのみ山中の水が流れる程度のものとなっている。しかしながら山中、ところどころ昔の石積みでいわば護岸がなされているから、その昔は一定の水量があったのであろう。→本文に戻る
  • 昺鐵面[へいてつめん]の故事…南宋代の支那で編纂された『禅林宝訓』に載る逸話。鉄面昺禅師は法を尋ねて故郷を離れ行脚している際、(故郷からの)手紙を得てもそれを開き見ること無く、我が心を乱すだけであるとして地に投げ捨てていたという。この話は明代に編纂された禅のいわば入門書『禅関策進』にも収録されており、日本にももたらされて禅家に広く読まれた。月潭はここで、その鉄面昺禅師と俊正明忍律師とを重ねて見ている。→本文に戻る
  • 賢俊大德[けんしゅんだいとく]…賢俊良永。対馬宋家の息子で、若年で高野山にて出家させられていた。宋家の嫡子ではなく、次男三男や従兄弟であったのあろうが、当時宋家は次々代替わりしており、家内が混乱していたためであったろう。
     賢俊は対馬に里帰りしていた際、偶然にも俊正明忍律師と邂逅していた。そこで賢俊は俊正に受戒を請うたというが断られ、むしろ平等心王院に行くことを勧められている。そこで彼は、これは結果的にであったろうが、俊正の死後に慧雲のもとで沙弥出家して交衆し、その翌年に自誓受戒して比丘となっている。しかしながら初めての安居を終えたばかりにも関わらず、彼は槇尾山を出て高野山に帰ることの許しを請う。これはかなり非常識な、むしろ律を破る行為であったために当然許されず、しかしその主張をなんとしても押し通したい賢俊は京都所司代を巻き込んでの訴訟とした。結果的に彼はその主張が公儀によって許され高野山に帰り、真別処に円通律寺を開いて高野山における律学の道場とすることとなる。また、その後に法隆寺北室院を永世の律院僧坊として中興。終生、興律のために勤め、大阪叡福寺にてその生を終えている。詳しくは別項“戒山『霊嶽山円通寺賢俊永律師伝』”を参照のこと。→本文に戻る
  • 曼殊洛叉[まんじゅらくしゃ]の法…曼殊は文殊菩薩で、ここでは文殊菩薩の五字真言のこと。洛叉はサンスクリットの音写で十万の意。すなわち曼殊洛叉とは文殊菩薩の五字呪arapacanaを十万回唱える密教の修習法のこと。文殊信仰自体は真言密教において普通に見られるものであるが、律宗では西大寺叡尊の弟子忍性に顕著に見られた。→本文に戻る
  • 高雄法身院俊正…ここで念正なる僧が、それはいまだ俊正律師在世のときのことであると言うが、夢中に菩薩から聞いたという言葉は「槇尾山平等心王院俊正」ではなく「高雄法身院俊正」であったとされる。この言はその当時、いまだ槇尾山平等心王院の伽藍がいわゆる僧坊として全き状態でなかったことを示したものと見て良い。もしそれがすでに確立されたものであったならば、「高雄法身院俊正」ということは無かったであろう。故にこの伝承は現実味ある話として聞こえる。
     彼らは晋海僧正の後援のもと、神護寺の子院をむしろ本拠としていた。実際、同志であった友尊にしろ慧雲にしろ、逝去したのは槇尾山平等心王院ではなく、高雄山神護寺の子院においてであった。あるいは晋海は、神護寺の後継者として俊正律師を考えていたのかも知れない。俊正の出自としても、それに十分堪えうるものであった。→本文に戻る
  • 異馥[いふく]…尋常ならざる芳しい香り。→本文に戻る
  • 易簀[えきさく]…学徳の高い者や高貴な者が死ぬこと。→本文に戻る
  • 祥光[しょうこう]…吉祥なる光。あやしき光。→本文に戻る
  • 屬纊[しょくこう]…臨終、人の死に際。→本文に戻る
  • 五臺[ごだい]…五台山の略。文殊菩薩の居処(清涼山)として信仰される、支那の山。ここでは文殊菩薩自身を指していう語。→本文に戻る
  • 應化[おうけ]…応化身の略。化身。仏陀や大菩薩が衆生済度のために、その誓願力によって様々な姿に変化し現した存在とされるもの。→本文に戻る
  • 建仁長老松堂植公[けんにんちょうろう しょうどうしょくこう]…建仁寺三百十一代長老松堂宗植。彼もまた俊正律師を敬しており、自ら対馬に赴任したことを好機としてその足跡を辿った。臨済宗は、これを日本にもたらした栄西の昔はそもそも持律持戒で密教兼修なるあり方であったが、時代が下るごとに禅一向宗と化していった。そのようなところに俊正律師の活躍に影響され、意識的無意識的に往時のあり方をやや取り戻したのである。→本文に戻る
  • [しょく]…朝鮮修文職。ここでは釣命(朝命)としているが、江戸幕府が対馬の以酊庵に派遣した朝鮮との外交担当職。外交文書の作成や解読、使節の応対などを担った。特に漢文に秀でた禅宗の、京都五山の住職らが輪番でこの役に就いた。
     松堂宗植は朝鮮修文職第三十四代で、貞享三年三月から元禄元年四月までの二年間、この輪番職にて対馬にあった。→本文に戻る
  • 以酊庵[いていあん]…対馬に創建された朝鮮外交を担った施設。名目上は寺。 創始者は臨済僧景轍玄蘇であるが、彼は江戸幕府が開かれる以前から対馬の大名宋家に招かれ、その外交にあたっていた。文禄の役の際には秀吉の命を受け、朝鮮および明との交渉役となった。江戸期に入っても同様、朝鮮との交渉を一任される立場となって、慶長十六年にその拠点として以酊庵を開いた。
     以酊庵は消失して現存しておらず、当時あった場所もおおよその場所が分かる程度で確かなことは知られていない。現在、まったく別の場所に移された西山寺が以酊庵跡とされており、景轍の墓もそこに移設されている。→本文に戻る
  • 府内[ふない]…現在は厳原と言われている一帯の古名。→本文に戻る
  • 宮谷[みやだに]…清水山城東側一帯。今も宮谷の地名は残されており、厳原町宮谷としてある。当時、ここら一帯は対馬のいわば中心地であって、情報を収集するにも便利な地であったのであろう。あるいは俊正律師が、昔官人(中原氏・清原氏)であった時の何らかつてを辿った結果として、宮谷のような中心地に最初居住することになったのかもしれない。→本文に戻る
  • 夷崎[いさき]…現在の厳原港の南にある岬。戒山はここで「府治の西南」とするが、実際は府治から見ると南あるいは南東に位置する小さな崎である。宋家の船江からほぼ真東に位置する。茅壇のふもとあたり一体は、今は湾岸部を埋め立て新しい自動車道を走らせているが、往時はそこらは入り江の磯辺か浜辺であったろう。
     律師が住まっていたという萱壇から見下ろせば、今は雑木が生い茂って見難くなってはいるが、その昔は樹などほとんど無くて眼下にその入り江をはっきり見ることが出来たであろう。そしてその右端に夷崎を望むことが出来たに違いない。なお、今の対馬の島民には夷崎などという古名は知られておらず、地元民に聞いたとしても何らわかりはしない。→本文に戻る
  • 經行[きょうぎょう]…修禅で疲れた身体を伸ばし、和らげるためなどにゆっくりと歩くこと。けれども、ここでは単に「散歩した」という程度のことを表現としてこう言ったのであろう。なお、これを現在の禅宗は呉音でなく唐音で「きんひん」などと読むことが多い。→本文に戻る
  • 海岸精舎[かいがんしょうじゃ]…海岸寺。現在は浄土宗の寺院として現存。俊正律師が滞在した茅壇のほぼ真下の、海から少しく上がった所に位置する寺院。ほんの十数年前にはここに俊正律師像とその図像、および俊正律師のものと「される」(実際は間違いなく違う)五条袈裟があったが、韓国の盗賊によって盗まれ、今はその所在が知られなくなっている。→本文に戻る
  • 智順[ちじゅん]…海岸寺を中興した僧。出自など未詳。しかしながらその位牌は海岸寺に今も祀られており、元和四年十月一日に逝去したことは判明している。享年八十九歳。→本文に戻る
  • 闍維[しゃゆい]…荼毘に同じ。サンスクリットjhāpetaの音写。→本文に戻る
  • 𡨧堵[そと]…卒塔婆の略。墓塔。→本文に戻る
  • 只だ松樹一株を栽つのみ…当時植えられたというこの松は、今萱壇の山中に見出すことは出来ない。あるいはどこかに今もあるかもしれない。→本文に戻る
  • 斧斤[ふきん]…木樵。→本文に戻る
  • 現光の雲松大德[うんしょうだいとく]…雲松實道。槇尾山衆僧の一人。現光寺中興、巖松院三世。日政(深草元政)に『行業記』の執筆を依頼した省我比丘と同時に自誓受具した人。→本文に戻る
  • 師の嘉言懿行、前哲の記する所を云々…同門で同法侶たる省我の依頼により、日蓮宗の日政が著した『行業記』の内容に、まったく雲松は不満足であったのであろう。実際、『行業記』を著した日政自身はその末尾に「吾れ憾むらくは文獻足らず、律師の聲徳を述ぶるに堪へざることを」と述べているが、それは律師の偉業を伝え残すには全く足りないものと槇尾山衆徒らは不満であったのであろう。そこで文筆に優れ、また自身も律学を嗜んでいた月潭に白羽の矢を立てることとなったことが、ここで月潭自身によって語られている。→本文に戻る
  • 堯遠筌公の錄する所の事實…同じく槇尾山衆僧の一人であった堯遠不筌により編纂された『明忍律師之行状』。ここで「録する所の事實」と言われているように、これはただ書き残されたものを引き写し、また聞き集めたことを記した程度であって、公式の伝記とするには体裁がまったく整えられていないものである。その故に省我は日政にその伝記の執筆を依頼し、また雲松は改めて月潭により良いものの執筆を依頼したのであろう。
     本来、その祖師の伝記なのであるから、彼ら槇尾山衆徒のいずれかが書くべきものであるが、結局それを成し得るだけの知識教養を備えた者がその中に居なかったということに尽きるのであろう。事実、ここから出て野中寺を律院として開くこととなる慈忍慧猛律師の弟子戒山や、そのまた弟子湛堂らは自らの手で僧伝を著している。→本文に戻る
  • 峩山沙門道徴月潭[どうちょうげったん]…月潭道徴。永源寺の中興二世となった臨済僧、如雪文巌の弟子として出家し、やがて京都嵯峨に直指庵を結んで住した独照性円の膝下に入るも、師と共に明から日本に渡来してきた臨済宗黄檗派(黄檗宗)の隠元隆琦の門下に参じてその法を継いだ黄檗僧。隠元が黄檗山萬福寺で没して後、師の直指庵を継いでその二世となった。→本文に戻る
  • 和南[わなん]…サンスクリットvandanaの音写で、敬礼の意。僧同士の挨拶の際、特に下臈から上臈に対して用いる語。→本文に戻る

現代語訳 脚注:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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