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‡ 月潭『槇尾山平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』

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1.解題

槇尾山平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』とは

画像:木村徳應筆 俊正明忍律師像(西明寺像)

槇尾山平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』(以下『行業曲記』)は、黄檗僧月潭道徴1636-1713により貞享四年〈1687〉に著された、近世の日本仏教に重大な足跡を残した俊正明忍律師の伝記です。

著者の月潭道徴は、永源寺の中興二世となっていた臨済僧、如雪文巌の弟子として出家し、やがて京都嵯峨に直指庵を結んで住した独照性円の膝下に入って師と共に、明から日本に渡来してきた臨済宗黄檗派(黄檗宗)の隠元隆琦の門下に参じてその法を継いだ黄檗僧です。

月潭が最初出家の師としていた如雪文巌は、もと槇尾山平等心王院の衆徒であった全理惠燈を証明師として具足戒を受け比丘となるも、後に一絲文守の元に参じて臨済僧となりその跡を継いだ人です。

月潭が後に師事した独照性円は澤庵宗彭の門人で、後に肥前の興福寺に滞在していた明からの渡来僧、隠元隆琦の元に参じて長く随時し、その衣を継いでいます。最初は国内の移動を厳しく制限されていた隠元隆琦が移動の自由を許されて大阪・京都に来た際には、その門人の多くが元槇尾山衆徒の一人であってやがて天下の三僧坊と讃えられる野中寺を中興した慈忍慧猛律師から受戒しています。また、黄檗山萬福寺を落成して初めて執行された授戒に際しては、その高弟の一人であった戒山慧堅律師がその証明師として招聘され参加しています。

旧来の日本で根付いた臨済僧らからだけではなく、大陸から新来の臨済宗黄檗派の人からも、槇尾山に端を発する律僧らの戒脈と持律峻厳さは認められており、また実際のところ明朝の支那仏教における戒律についての状況も日本ほどではなくとも頽廃していたという事情もあったのでしょう、非常に多くの臨済僧が俊正明忍律師らが復興した戒と律との流れに参加しこれを受け、学んでいます。

(慈忍慧猛律師については別項、“戒山 『青龍山野中寺慈忍猛律師伝』”を参照のこと。)

そのような経緯もあり、月潭は若かりし頃に槇尾山に滞在あるいは出入りして律を学び、所蔵の典籍を比較的自由に閲覧していました。そして槇尾山衆徒らとも生涯親交を持っていたがために、その詩文の才に優れていることを見込まれ、この『行業曲記』の執筆を依頼されています。

そもそも、この『行業曲記』以前に俊正律師の伝記はすでに著されていました。同じく日蓮宗僧であったものの明忍律師らによる戒律復興に参加して転じて律僧となった省我律師から、深草元政(日政)がその編纂を依頼され著した『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』(以下『行業記』)がそれです。そしてその際に参考とされたのは、平等心王院衆徒の堯遠不筌によって記されていた『明忍律師之行状記』(以下『行状記』)です。

(『行業記』については別項“日政『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記”を参照のこと。)

よって『行状記』こそが律師の伝記の嚆矢と言えるのですが、その体裁は伝記というのには及ばぬ未編集のもので、その故に深草元政に依頼して『行業記』が著されたのでありましょう。

しかしながら、平等心王院の衆徒は『行業記』の内容に甚だ不満足であったようで、まったく律師の業績を伝えるのに不十分なものと見ていました。事実、『行業記』を著した深草元政自身がその末に「吾れ憾むらくは文獻足らず、律師の聲徳を述ぶるに堪へざることを」と述べている有り様で、参考とした『行状記』だけでは足りないとの自覚がなされていました。

月潭によれば、平等心王院第八代衆首であった雲松實道律師は「師の嘉言懿行、前哲の記する所を攟拾して遺すこと有るを以て、衷に歉無きこと能はず」と、彼らの祖師の偉業をより確かに伝える書が示されることを望んでいたと言います。そこで槇尾山衆徒の志を汲んで月潭が著したのが『行業曲記』です。

月潭は謙遜してあれこれ言っていますが、実際はその伝記を自ら記すことは名誉なことであったのでしょう。またその内容にも自信を持っていたようで、その題を「曲記」としています。

蒙修補始以菲才辭然再請弗輟嘉其念祖尚德暫不相㤀因按故堯遠筌公所錄事實與松公所傅聞重爲編次命曰行業曲記𥁋曲細而記其事也

最初は菲才〈才能が乏しいこと〉であることから辞退した。しかしながら再び請われたためやむを得ず撰すこととなった。その祖師を想い、その徳を尊んで片時も忘れないことを称えて、因みに原本である堯遠不筌公が記した事実〈『明忍律師之行状記』〉と雲松公の伝え聞く所とを按じ、改めて編纂した。名づけて『行業曲記』という。けだし曲細〈非常に詳細であること〉にその事を記したためである。願わくは(この『行業曲記』によって)来裔〈子孫。律師の法孫〉が(師を)歆艷〈羨慕〉して自らを励まさしめるものになるように、とそう命名したのである。

月潭『槇尾山平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』(西明寺蔵
[現代語訳:沙門覺應]

曲記とは、「曲細な伝記」すなわち非常に詳しい伝記であるということで、月潭の自信のほどが現れた題と言えるでしょう。そして確かに、存在する俊正律師の伝記の中で文字通り最も詳しいものとなっています。

月潭がここで「堯遠筌公の錄する所の事實と松公の傅へ聞く所とを按じて」などと言って既存の『行業記』に全く触れていないのも、その内容に対する不満と自身の著に対する自信を表したものと見ることが出来ます。

もっとも、いくら月潭が文筆に優れていたとは言え、本来はその祖師の伝記ですから彼ら槇尾山衆徒のいずれかが書くべきものです。結局、それを成し得るだけの知識教養を備えた者が、当時の槇尾山衆徒の中には居なかった、ということに尽きるのでしょう。事実、槇尾山から出て野中寺を律院として開くこととなる慈忍慧猛律師の弟子戒山慧堅律師や、そのまた弟子湛堂慧淑律師らは自らの手で僧伝を著しています。

戒山もまた俊正律師の伝記としてその著『律苑僧宝伝』に『槇尾平等心王院俊正忍律師伝』を著し収録していますが、これは『行業記』ならびに『行業曲記』を参照し、多く『行業曲記』の表現に倣ったものとなっています。

(戒山による伝記については、別項“戒山『槇尾平等心王院俊正忍律師伝』”を参照のこと。)

俊正明忍律師 ―近世における興律の祖

俊正明忍律師は、京都にあって代々朝廷に仕えてきた中原氏の出で、幼少の頃より(その齢からすれば)文筆に群を抜いて秀でていたと伝えられています。その直系の祖先は中原康綱で、吉田兼好の『徒然草』に「いみじかりけり」などと称賛されていた人です。

或人、任大臣の節會の内辨を勤められけるに、内記のもちたる宣命を取らずして、堂上せられにけり。きはまりなき失禮なれども、立ち帰り取るべきにもあらず、思ひ煩はれけるに、六位の外記康綱、衣被の女房をかたらひて、かの宣命をもたせて、忍びやかに奉らせけり。いみじかりけり。

ある人が、大臣を任命する節会〈天皇出席の宴〉の内辨〈承明門で行事を司る公卿〉を勤めた時、内記〈公文書の編纂・記録を司る公家〉が持っている宣命〈天皇の命令書〉を受け取らずに清涼殿に上がってしまった。これ以上ないほどの失態であったけれども、また戻って取りに行くわけにもいかずオロオロしていたところ、六位の外記康綱は、衣被の女房〈高位の女官〉に執り成してその宣命を持たせ、ひそかに手渡したのである。すばらしいことであった〈非常に気の利く人物である〉

吉田兼好『徒然草』第百一段
[現代語訳:沙門覺應]

明忍律師はそのような地下とはいえ公家の中原氏(といっても事情により名を継いだのは清原氏)を継ぎ、十六歳にして正七位上相当の官職である太政官所属の少外記および右少史の両職を拝命していましした。

しかし、幼少時に学問を授けらた高雄山寺の晋海僧正の薫陶忘れ難く、また世の様々な苦しみを経験していく中で出家への思い立ち難く、ついに出家を果たしています。ところが、出家してはみたものの、当時の日本には「真の意味での仏教僧」など存在しないこと、すなわち正しく戒律を受持する僧侶の無いことを、あるいは敬愛する僧正から聞かされ、知ることとなります。

事実、鎌倉期の嘉禎二年1203に興正菩薩叡尊や大悲菩薩覚盛ら四人によって果たされた戒律復興の流れは、すでに室町期以降長く続いた戦乱によって途絶え、以来全く律は断絶していました。たとい人が望んだとして、これを受持することは不可能となっていたのです。

そこで律師は真の仏教僧たるべく戒律復興を志すに至ります。

ただ、具体的にどのようにすべきか律師は、当時他のほとんど多くの僧らがそうであったように、初めまるでわからなかったようです。律師に一つ残されていた道は、興正菩薩らの先蹤に倣って再び戒律復興すること、あるいは大陸の支那に渡り彼の地で律を直接受けることでした。

しかし、朝鮮経由で明代の支那に往くにしろ、支那に直接渡るにしろ、当時は秀吉による朝鮮征伐すなわち文禄・慶長の役が終わって間もない事でその双方とも国交は断絶しており(といってもちょうどこの頃、対馬の宋家は公文書偽造して勝手に国交を回復しようとしており、後に実際に回復した)、ためにかの地に渡って受戒することは非常に困難なことでした。

ところがその後、奇しくも志を同じくしていた日蓮宗の慧雲と劇的に邂逅。そしてさらに西大寺にて律学を志している時にその寺僧友尊とも出会い、明忍らは嘉禎二年の昔に叡尊律師など四人が通受自誓受という方法によって律を復興したことを知ったのです。まさにこの出会いによって、律師らは再び日本仏教界に律の復興を果たすことが可能となっています。

(慧雲については別項“戒山『慧雲海律師伝』”を参照のこと。)

明忍律師はもとは真言宗の人ではありましたが、そもそも律自体、そしてまたその復興自体は特定の宗派に限って行われるような性質のものではなく、また律師らが元々は真言宗、日蓮宗という別々の宗派に属していたこともあるのでしょう。律師らによる戒律復興は、その後の江戸期における日本仏教の諸宗派に極めて重大な影響を及ぼすこととなります。

当法樂寺から出られた慈雲尊者は、まさしく明忍律師らに端を発した戒律復興の流れにある人で、慈雲尊者ご自身も幾度か言及され、その伝記 『律法中興縁由記』をすら書き遺されています。

けれども、にも関わらず、日本に律をもたらされた鑑真大和上を始め、鎌倉期の第一期戒律復興を果たされた西大寺の叡尊律師や唐招提寺の覚盛律師、極楽寺の忍性律師らに比すれば、まったくと言っていいほど世に知られていないのが俊正明忍律師です。

これは極めて遺憾なことと言わざるを得ません。

もっとも、そのように世に知られていない要因は、明忍律師およびその同志たる慧雲律師や友尊律師が、戒律復興を果たされた後十年も立たずして次々と、矢継ぎ早に早逝されてしまっていることがあるのでしょう。また律師らはその間、多くの著述をなされたということがなかったということもあるのでしょう。

律を復興して間もない頃にあって、それを現実に行い、定着していくことは容易でなくてその暇など無く、また経済的にもそのような余裕も無かったとも考えられます。

その故に、数年間という実に短期間であったとは言え、その間に幸運にも明忍律師らの門下に入ることが出来た龍象らとその末流こそが、むしろ今に至るまでより知られているのでありましょう。

明忍律師らが戒律復興した地である山城国の平等心王院〈西明寺〉、そしてその法孫たる慈忍慧猛律師によって復興された河内国の野中寺、同様にその法孫というべき真政圓忍律師によって興された和泉国の神鳳寺〈明治の廃仏毀釈で廃寺〉の三ヶ寺は、江戸期に天下の三僧坊と讃えられました。そしてこれら三僧坊より、江戸期には数多の傑僧が輩出されています。

およそ江戸期における戒律に関して名を馳せた僧・律院で、明忍律師を淵源とせぬ者など一人としてありはしません。

ただし、野中寺の慈忍や戒山に比べ、天下の三僧坊と讃えられた槇尾山は、時代を経るにつれ律院として求心力も他宗への影響力も無くし、大した人材を排出することも無くなっていきます。

天台安楽律の玄門などは、「平等心王院の衆徒は輪番住職の次を誰にするかで常に争っている」、「大鳥山神鳳寺は律院などと称しているがまともに機能してはない」などと批判し、結局野中寺の戒山に頼っています。

戒は三学の始め

現在、日本仏教では再三にわたって戒も律もその伝統は「完全に」途絶え、一部の外国僧や留学僧を除いては、ほとんど全くまともな仏教僧が存在しない、真に仏教を説く僧が無い、という事態を迎えています。

そのようなことから、ここでせめて明忍律師という若き獅子らの孤軍奮闘により、近世においていかに戒律復興されたかを世に多少なりとも知らしめるため、ひいては戒律とは一体仏教においていかなるものであるのか、日本においてそれがいかにしてよく行われようとしたかの理解が少しでも世間に広まることを祈り、この明忍律師の諸伝記を紹介する次第です。

事を始めんと欲すれば、その基を知らずんばあるべからず。

良果を得んと欲すれば、まず大地を耕さざれば得るべからず。

単に明忍律師の生涯ばかり知ったところで、ただ歴史の一幕を知ったに過ぎないでしょう。明忍律師およびその後の律僧らや興律運動を正しく掴むのには、彼らが模範とし敬慕したその源を知らなければなりません。

故に明忍律師の行業を知ることをきっかけに、叡尊律師や忍性律師、さらには明恵上人や解脱上人、そして鑑真和上や道璿律師へと遡り辿っていき、そこには縷のようであったとしても明らかな一つの流れを見て取ることができるでしょうけれども、その源泉は間違いなく律蔵にあることを知り、そして終には釈迦牟尼仏所説の真に何たるかを知るに至ることを期します。

また、この明忍律師の生涯に触れることを機縁として、この扶桑の地に再び興律の志を持ち、現実としてそれを成し遂げんとする幾ばくかの人の現れることを願んでやみません。

小苾蒭覺應 拝記
(horakuji@gmail.com)

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2.凡例

本文

本サイトで紹介している月潭『槇尾山平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』は、槇尾山西明寺に所蔵本を底本とした。

原文・現代語訳を併記し、対訳とした。もっとも、それぞれいずれかをのみ通読したい者の為に、対訳とは別に、原文・現代語訳のみの項を設けている。

原文は、原則として底本のまま旧漢字・異字体を用いている。ただし、表示上どうしても対応しない旧字・異字の場合は現行の文字を用いた箇所もある。また書き下し文は敢えて現行通用する漢字に置き換えず、原文にあるものそのままを用いた。

書き下し文および現代語訳には読解しやすいよう段落を設けているが、これは編者によるもので原文に基づいたものではない。

現代語訳は、旧漢字・異字を現行のものに人名を除いては原則としてあらため、逐語的に訳すことを心がけた。もっとも、現代語訳を逐語的に行ったと言っても、読解を容易にするため、原文にない語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は( )に閉じ、挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。注意されたい。

難読と思われる漢字あるいは単語につけたルビは[ ]に閉じた。

語注

語注は、とくに説明が必要であると考えられる仏教用語などに適宜付した。

原意を外れた錯誤、知識不足の為の誤解を含む点など多々あると思われる。願わくは識者の指摘を請う。

小苾蒭覺應 拝記
(horakuji@gmail.com)

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