真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 戒山『槇尾平等心王院俊正忍律師伝』

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1.原文

慶長元年。竟就海公圓頂相。時年二十有一矣。稟瑜伽法行。晨修夜勤。不敢少懈。至忘寢食。海公指而語人曰。此子吾家之精進幢也。一日師喟然嘆曰。戒乃三學之首。戒既廢。定與慧何自而生。所恨此邦律幢久仆。未有能扶之者。吾儕忝厠緇倫。豈忍坐視乎。遂奮志。徑往南都。覓古聖遺敎。專事紬繹。不翅飢渇之嗜飲食也。但以未得人開導。不能無凝滯焉。因與同志僧慧雲抵西大寺。寺雖已久廢。尚有多聞宿學能說開遮持犯之法。師與雲從而習之。所有凝滯雪融冰釋矣。寺有僧友尊者。亦嗜律學。感二師道誼之篤。其締莫逆之交。

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2.書き下し文

慶長元年、竟に海公に就て頂相を圓にす。時に年二十有一なり1瑜伽法行2を稟け、晨修夜勤すること敢て少しも懈らず、寢食を忘るに至る。海公、指して人に語て曰く、此の子吾家の精進幢なりと。

一日、師喟然として嘆じて曰く、戒は乃ち三學の首なり3。戒既に廢れば、定と慧、何より生ぜんや。恨むらくは、此邦の律幢久しく仆れ、未だ能く之を扶ける者有らざることなりと。吾儕、忝くも緇倫に厠る。豈に坐視することを忍ばんやと。

遂に志を奮て、徑ちに南都に往き、古聖の遺敎を覓めて專ら紬繹を事とし、翅だ飢渇之るも飲食を嗜らず。但だ未だ人の開導を得ざることを以て、凝滯無きこと能はず。

因に同志僧慧雲4と與に西大寺5に抵る。寺已に久しく廢すと雖も、尚ほ多聞の宿學有て能く開遮持犯の法6を說く。師、雲と與に從て之に習ふ。所有の凝滯、雪融冰釋す。寺に僧友尊7という者有て、亦律學を嗜む。二師の道誼の篤きに感じて、其の莫逆の交り8を締ぶ。

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3.現代語訳

慶長元年〈1596〉、ついに晋海公のもとで剃髪、出家した。時に年二十一のことである〈『明忍律師行業記』では出家したのは二十四歳、慶長四年のことであったと伝える〉。瑜伽法行〈真言密教の四度加行〉を受け、朝に夕に勤め修してけっして怠ること無く、それは寝食を忘れるほどであった。晋海公は、(そんな師を)指して、
「この子こそ我が一門の精進幢〈最も努力する人、その象徴〉である。」
と人に語っていた。

ある日、師はため息をつき嘆いて言った、
「戒とは(戒学・慧学・定学の)三学の最初である。戒が廃れて無かったとしたならば、定と慧とは一体何から生じようか。(いや、生じることなどありはしないのだ。)残念なことには、我が国の律幢は久しく倒れ、いまだこれを再び起こし、立てようとする者の無いことである。私は忝くも出家の一員となりえた者である。どうしてこれを坐視したままでいられようか」
と。

そこで師は、遂にその志を奮ってただちに南都に行き、古の聖者の遺教を求めて専ら(戒律のなんたるか、その復興の術を)明らかにすることを事とし、たとい飢渇しても飲食を貪ることなど無かった。しかしながら、いまだ(その道に詳しい碩学の)人による教導を得られず暗中模索であった。

(ところが偶然、)志を同じくする僧慧雲と邂逅して、共に西大寺を訪れることとなる。西大寺はすでに久しく(実際に戒律を持す者など)無くなってはいたけれども、しかしなお多聞の宿学はあり、よく開遮持犯の法は講説していた。そこで師は慧雲と倶にその宿学の下で(律学を)習ったのである。するとそれまで知らずわからなかった数々の疑問は、あたかも雪が融け、氷が砕けるかのように立ち消えたのである。ところで西大寺には僧友尊という者があり、彼もまた律学を嗜んでいた。(友尊は、明忍と慧雲との)二人の師の道を求める志の篤さに感じ、その莫逆の交りを結んだのであった。

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4.脚註

  • 時に年二十有一なり…ここで戒山は律師の出家年時を元禄元年としているけれども、そもそも堯遠『行状記』および日政『行業記』では元禄四年(廿四歳)とし、月潭『行業曲記』では元禄二年(廿一歳)とする。まず、出家年代については『行状記』ならびに『行業記』説が正しいと思われるが、ここで戒山が何に基づいて元禄元年出家としたのかは不明。おそらくは月潭に倣って単に二年としようとしたところを誤って元年と記したのであろう。→本文に戻る
  • 瑜伽法行[ゆがほうぎょう]…真言密教。ここではその初歩、入門の修行となる四度加行のこと。もっとも、明忍律師は自身が晋海僧正のもと修めたそれについて、「十八道ヲ開白シ四度加行セリソレモ猶カタチノミナル有樣ナリ本意ナケレハ」でまったく満足出来るものでなかったと、『明忍律師之行状記』に伝えられる。俊正律師は自身なりに加行を真剣に取り組んだのであろうけれども、それは自身の目指す出離の証果を、その兆しをすらも見出すものでなかったのであろう。
     もっとも、四度加行が形式的に行われるようになっていたのはおそらく平安後期以来のことであった。そもそも、鎌倉の叡尊が興律を志したのは、持戒を欠いた状態で密教を修めても何ら「仏教として」意味をなさないことについて思い悩み、ついにそれが全く持戒・持律を等閑視したことに起因することを気づいたことによる。→本文に戻る
  • 戒は及ち三學の首[はじめ]なり…戒・定・慧という仏道修業の階梯における三学は、持戒をその基礎とすること。地盤の堅固でないところに、何も建てることは出来ないように、持戒を確立していなければ定も慧も生じ得ないこと。そもそもこれは仏教におけるいわば常識であるが、日本の戒律復興を志した人々はほぼ全く同様の言葉は口にした。→本文に戻る
  • 慧雲[えうん]…明忍律師と共に第二期戒律復興を果たした僧。諱が慧雲、字は蓼海[りょうかい]。和泉国出身。もと日蓮宗徒。ここに「観行即の慧雲」と称されたとあるが、『律苑僧宝伝』巻十五「慧雲海律師伝」では、観行とは止観のことであって、衆中において止観について、といってもそれは通仏教的なそれではなくて天台大師智顗の『摩訶止観』すなわち支那の天台教学であったというが、最も詳しかったということからかく称されたという。
     慶長十五年1610明忍律師が対馬において客死した後、平等心王院の第二世住持となる。しかし、慧雲もまたその翌十六年、高雄山神護寺にて示寂。行年は明らかでない。慧雲律師の生涯については別項“戒山『慧雲海律師伝』”にて詳説している、参照のこと。→本文に戻る
  • 西大寺[さいだいじ]…孝謙天皇開基の和州(奈良)の寺院。平安期に衰退し、鎌倉期叡尊に中興された。以来、律宗(西大寺系)の中心寺院の一つとなるが、室町期には再び頽廃。律の実行は失われてただ教学としての律学をのみ修める場となっていた。→本文に戻る
  • 沙門[しゃもん]…サンスクリットśramaṇaあるいはパーリ語samaṇaの音写語。静める人、あるいは努める人の意。また桑門との音写語もしばしば用いられる。漢訳語には息心・勤息・静志・淨志・貧道などがある。 仏陀釈尊ご在世の当時、インドにバラモン教とは異なる自由思想家で出家遊行していた人々の称であったが、今は特に仏教の出家修行者を意味する語。→本文に戻る
  • 友尊[ゆうそん]…明忍律師と共に第二期戒律復興を果たした僧。諱は友尊、字は全空。慧雲に同じく元法華宗の僧であったが脱宗して西大寺の門に入っていたと言われる。慶長十五年1610六月二日、明忍律師に先んずることただ五日、示寂。→本文に戻る
  • 莫逆の交り…非常に親しく交際すること。→本文に戻る

現代語訳 脚注:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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