真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 戒山『槇尾平等心王院俊正忍律師伝』

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1.原文

七年師二十七歳。移居高山寺。與雲尊二公同祈好相。依大乘三聚通受法自誓受戒。專勵止作隨行。因與雲倶講行事鈔。幾及周歳。其餘律典及後二戒學。靡不硏覈精微焉。時三大部世未曾刊行。師往名刹借宋刻古本。手自繕寫。以備撿閲。晉海公嘉師興律之志。建廬于槇尾山平等心王院之故址。延師居焉。院乃弘法大師之上足智泉法師之所建也。樂善之徒爲造佛殿僧寮淨廚等屬。蔚爲精藍。結界立法。一式舊制。四方學律之侶。慕風騈臻。海公慮僧糧不給。乃割捨東照神君所賜腴田若干畝。以充之。南京有高珍者。粹篇聚之學。師招之遞相講演。誘訓來學。人皆謂。嘉禎之風再振斯時矣。

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2.書き下し文

七年、師二十七歳、移て高山寺1に居し、雲尊二公と同じく好相2を祈る。大乘三聚通受法3に依て自誓受戒4し、專ら止作隨行5に勵む。因て雲と倶に行事鈔6を講じて、幾ど周歳に及ぶ7。其の餘の律典及び後二の戒學8、精微を硏覈せずと云ふこと靡し。

時に三大部、世に未だ曾て刊行せず。師、名刹に往て宋刻古本を借り、手自から繕寫して以て撿閲に備ふ。晉海公、師の興律の志を嘉して、廬を槇尾山平等心王院9の故址に建て、師を延て居せしむ。院は乃ち弘法大師の上足智泉法師10の建つ所なり。樂善の徒、爲に佛殿・僧寮・淨廚等の屬を造り、蔚して精藍11と爲す。結界の立法、一に舊制に式る。四方學律の侶、風を慕て騈臻12す。海公、僧糧の給はざるを慮て、乃ち東照神君賜る所の腴田若干畝を割捨13し、以て之に充つ。

南京に高珍14と云ふ者有て、篇聚の學15を粹む。師、之を招て遞相講演し、來學を誘訓す。人皆謂ふ、嘉禎の風16、再び斯の時に振ふと。

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3.現代語訳

慶長七年〈1602〉、師二十七歳、(西大寺から)高山寺に居を移し、慧雲と友尊の二公と同じく好相を祈った。そして大乗三聚通受法に依って自誓受戒し、専ら止作隨行に励んだ。その後、慧雲と倶に(奈良の諸寺院において)『行事鈔』を講じること、ほとんど一年間に及んだ。またその他の律典、及び後二の戒学について、微に入り細を穿って研究しないということはなかった。

ところでその時、(南山大師による『四分律』の注釈書『行事鈔』・『羯磨疏』・『戒本疏』の)三大部は、世間に未だ曾て刊行されたことがなかった。そこで師は、名刹を訪れて宋刻の古本を借り受けて手ずから校訂し、(来たるべき出版の時のために)検閲して備えた。

晋海公は師の興律の志を喜び、庵を槇尾山平等心王院の故址〈跡地〉に建て、師を招いて居住させた。平等心王院は、弘法大師の上足智泉法師が開創した地である。(晋海公の後援により)楽善の徒の為に、仏殿・僧寮・浄厨など諸施設を造り、整備して精舎伽藍とした。(これを四方僧坊として)結界する法は、偏に旧制〈古来の規定〉に則った。四方の律を学び持さんとする者等は、その風儀を慕って雲集した。晋海公は、(僧坊の)糧食(を支える寺田・領地)の未だ無いことを慮り、そこで東照神君〈徳川家康〉から(神護寺の復興のために)賜った田地若干畝を割いて平等心王院のために充てたのだった。

南京〈奈良〉(の西大寺)に高珍という者があって(律蔵の規定を分類した)五篇七聚などの律学に精通していた。そこで師は、彼を(平等心王院に)招いて、共に代わる代わる(律学を)講演し、そこに訪れていた学徒らを教導した。そのようなことから人は皆、「嘉禎の風儀が再びこの時代に盛んとなった」と言いはやした。

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4.脚註

  • 高山寺[こうざんじ]…京都嵐山の北西にある寺院。梅尾山高山寺。鎌倉期の昔、明恵上人によって開かれた。明忍律師の当時、高山寺は高雄山神護寺の管理化にあった。
     高山寺が明恵上人の古跡であることは古来よく知られており、明忍律師らは明恵上人が勧請したという梅尾山の春日社および住吉社の前において自誓受戒したと伝えられる。なぜ春日社の前かと言うに、日本の律家では、日本で戒律が廃れた際にはその伝統を春日明神が引き継いで伝えるという伝承に基づいたのであろう。これは明恵上人の夢に春日明神が頻繁に現れ、様々に上人を外護したという伝承にも由来する。そもそも始めは以白としていた僧名を(おそらくは自誓受戒を契機として)明忍と改名したこと自体、律師の明恵上人への思慕の現れであったろうと思われる。→本文に戻る
  • 好相[こうそう]…夢や白昼夢、あるいは現実に現れる、何か好ましい兆し。持戒して修禅や礼拝を日々に繰り返す中に見るべきものとされる。
     なぜここで律師らが「好相を祈る」、すなわちその好相を得るために修行したのかといえば、『梵網経』に戒を犯した物や戒を失った者、あるいは戒を得ていない者は、必ず戒を実際に得る前に「好相を得なければならない」と規定されているためであり、実際に興正菩薩叡尊や大悲菩薩覚盛らは各々自誓受戒する前に、礼拝・修禅を幾数日も繰り返し修め、好相を得ていたことに依る。
     なお、律に限って言えば、それを正統な手段で受けることが可能な状態であれば「好相を得る」必要など全くなく、そもそも好相などという語自体、一切言及されない。好相とはあくまで大乗にて言われる、しかも極めて限定された中で説かれるものであることに注意。→本文に戻る
  • 三聚通受[さんじゅつうじゅ]…三聚とは、元『華厳経』に説かれ『瑜伽師地論』などにて詳説された三聚浄戒の略。三聚浄戒とは、摂律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒の三種をいうもので、いわゆる戒と律とを大乗の立場から包摂して説かれたもの。通受とは、そもそも「僧俗が通じて(共通して)受けるもの」という意味であったが、日本の鎌倉期以来「三聚浄戒を通じて(まとめて)受ける」という意味に変じて用いられた。ここでいう三聚通受とは、比丘となるための具足戒(律)を三聚のうち摂律儀戒に配し菩薩戒を後二の戒に当てて、まとめて受けることの意。
     三聚浄戒のそれぞれに、律や菩薩戒などが割り当てられるが、経論によって諸説あってその内容は必ずしも一定しない。本来的には『瑜伽師事論』の所説に従うべきものであり、実際印度にて直接その教えを受けた玄奘三蔵らの存在もあって、支那でその説に従う者が実際にあった。しかしながら、支那撰述の偽経の疑い濃厚である『菩薩瓔珞本業経』は、三聚浄戒(三受門)の摂律儀戒の内容として十重禁戒(十波羅夷)を挙げているため、これに影響を受けた支那の律宗の人に、『梵網経』の十重四十八軽戒と『瓔珞本業経』の諸説を合して理解する者が現れ、そのような解釈が日本に伝えられた。それを伝えた人、それが鑑真大和上である。
     この三聚浄戒の内容についての問題は後代、しばしば問題にされることがあった。例えば凝念大徳などはその著『律宗綱要』において、三聚浄戒の内容について諸経論によって説が不同であることについて詳細に論じている。→本文に戻る
  • 自誓受戒[じせいじゅかい]…現前の師を立てず、誰にも依らずして、「自ら戒を受けることを誓う」ことによる受戒法。一般にこれが可能なのは五戒に限られる。が、大乗経において、といってもそれはただ『占察善悪業報経(占察経)』に限られるのであるけれども、以下のように自誓受によって「正しく受戒」出来ることが述べられている。「復次未來之世。若在家若出家諸衆生等。欲求受清淨妙戒。而先已作増上重罪不得受者。亦當如上修懺悔法。令其至心得身口意善相已。即應可受。若彼衆生欲習摩訶衍道。求受菩薩根本重戒。及願總受在家出家一切禁戒。所謂攝律儀戒。攝善法戒。攝化衆生戒。而不能得善好戒師廣解菩薩法藏先修行者。應當至心於道場内恭敬供養。仰告十方諸佛菩薩請爲師證。一心立願稱辯戒相。 先説十根本重戒。次當總擧三種戒聚自誓而受。此亦得戒。復次未來世諸衆生等。欲求出家及已出家。若不能得善好戒師及清淨僧衆。其心疑惑不得如法受於禁戒者。但能學發無上道心。亦令身口意得清淨已。其未出家者。應當剃髮被服法衣如上立願。自誓而受菩薩律儀三種戒聚。則名具獲波羅提木叉。出家之戒名爲比丘比丘尼。即應推求聲聞律藏。及菩薩所習摩徳勒伽藏。受持讀誦觀察修行」(T17. P904c)。
     また『占察経』は、鎌倉期よりずっと以前の天平の昔にて、日本仏教界に諍論を生じさせていたものでもあった。その問題とは、鑑真大和上によって正規の具足戒がもたらされた際、従来の僧正など官位についていた僧らが、大和上による伝戒とその受戒をいわば拒否したことである。鑑真大和上のもとで具足戒を授戒することについて、彼らはすでに正統な仏教僧であっていまさら具足戒など受ける必要はない、と難色を示したのであった。その根拠としたのが前掲の『占察経』であった。彼らが反抗したのには政治的・経済的理由もあったであろう。なんとなれば、彼ら自身の「(占察経による)受戒」を否定してしまうことは則ち、彼らの既存の立場・既得権の消失を意味するのであるから。
     けれども結局、これには聖武天皇の強い意向があり、また彼らの立場が安堵されたこともあって、反抗の構えを見せていたそれ以前のいわば相似僧らは鑑真大和上に対して弟子の礼をとって授戒を受けたのであった。要するに、『占察経』による自誓受戒(による比丘としての受戒の正統性)は、いわば天平の昔に否定されていたのであった。ところが、鎌倉期のどうやっても正統な方法で受具することが叶わなくなっていた当時、戒律復興をなんとか果たそうとした覚盛によって、過去に否定されていたはずの『占察経』、および法相宗の諸典籍を根拠に自誓受具の正当性が主張され、ついに実行された。その自誓受によって戒律復興を果たした四人のうちの一人が叡尊律師であった。後に覚盛は唐招提寺に、叡尊は西大寺に入り、それぞれ拠点にして新たな律宗の展開をみせる。が、実は叡尊と覚盛の戒律について見解・見どころはかなり異なっており、それが現代に至るまで律宗と真言律宗の間の軋轢の元となった。
     なお、ここでは自誓受戒をしたのは明忍律師、慧雲律師、友尊律師の三人であったとしているが、実はこれに晋海僧正そして玉圓空溪も加わっており、総勢五人で自誓受戒している(『自誓受具同戒録』西明寺文書)。そもそも三人で自誓受戒というのは道理に合わない。僧伽が成立するには最低四人の比丘がその成員として必要であるから、それは必ず四人以上でなされるべきものである。事実、叡尊律師らの自誓受戒もはじめ四人によってなされたのである。この四人というのは偶然の数字ではなく、そうでなければならないという背景があった。→本文に戻る
  • 止作隨行[しさずいぎょう]…止作とは止悪、作とは作善の意。随行は実際に戒律に従って生活すること、現実に持戒すること。→本文に戻る
  • 行事鈔[ぎょうじしょう]…支那の南山大師道宣によって著された『四分律』の注釈書『四分律刪繁補闕行事鈔』の略称。およそ日本において律を学ぶ者は必ず学び、常に参照していた書。
     明忍律師と慧雲律師とが『行事鈔』を講じられた場所は、『律苑僧宝伝』巻十五「慧雲海律師伝」では、南都の安養寺・龍徳院・戒蔵院など諸寺院においてのことであったと伝えられる。→本文に戻る
  • 幾ど周歳に及ぶ…『明忍律師之行状記』には「其比南都ニヲイテ忍雲兩師行事鈔ヲ講談ス慶長九年二月十一日ヨリ始テ同年十二月廿日一部ヲ終ル其ノ中間講談ノ日都テ貳百八十四日闕日廿三日」とあって、奈良の諸院における『行事鈔』の講義は慶長九年二月十一日より十二月二十日までと、およそ十ヶ月間に及ぶものであったという。→本文に戻る
  • 後ニの戒学…三聚浄戒、すなわち摂律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒の後二について。叡尊(西大寺系)における、いわゆる法相戒観にもとづく理解では、摂律儀戒に律蔵所説の具足戒(二百五十戒)が当てられ、その律蔵は特に『四分律』に依るもので、その実際にあたっては南山大師道宣の解釈が専ら用いられた。そして摂善法戒と饒益有情戒には、『瑜伽師地論』(『菩薩持地経』)所説の瑜伽戒、および『梵網経』(ならびに『瓔珞本業経』)所説のいわゆる梵網戒が当てられた。律儀を『行事鈔』にもとづいて理解・実行するだけでなく、後二の瑜伽戒と梵網戒についての研究とその実行にも余念が無かった、との意であろう。
     なお、この三聚浄戒のそれぞれに何を配当するかの理解は、すでに鎌倉期以来の西大寺系と唐招提寺系とで異なっており、各々がその独自性を過度に主張しだすや、愚かな宗派主義、縄張り根性を発揮して、律とはそもそも何かの本義を忘れ、律の実行すらも廃れていく一大要因となった。近世における戒律復興運動においても同様の事態が発生し、詮無い宗派主義と宗論の基となっていく。
     もっとも、俊正明忍律師らにはそのような宗派主義的意識は皆目なく、ただ律の実践に依って仏教自体を復興しようとの気概があった。→本文に戻る
  • 槇尾山平等心王院[まきおさんびょうどうしんのういん]→本文に戻る
  • 智泉法師[ちせんほうし]…弘法大師空海の甥で弟子であった僧789-825。空海に十年先んじて逝去しており、その死をひどく悼む空海の達嚫文が伝わっている。→本文に戻る
  • 精藍[しょうらん]…跡形もなくなること。→本文に戻る
  • 騈臻[べんしん]…伴って一つに集まること。。→本文に戻る
  • 東照神君賜る所の云々…慶長五年1600、晋海僧正は徳川家康に「一山三衣にも事欠く有様なれば、願わくは寺領境内地先規の如く返附せられ度云々」とその神護寺の窮乏した状態を訴え、その翌年訴えどおりに寺領千五百町歩が「返還」された。晋海僧正は、その貴重な神護寺の経済基盤となる寺田の幾分かを槇尾寺平等心王院を律院として再興するために分与し、明忍律師らの経済基盤としたのである。個人で遁世するというだけならば兎も角、「律の復興」を志し、さらにそれを持続するにはその最低限の経済基盤が現実問題として必須である。ただし、それをあくまで最初から求めると本末転倒となる。まさに最澄が言ったという「道心の中に衣食あり。衣食の中に道心無し」は真実である。
     豊臣秀吉の天下統一以降、日本全国ほとんど全ての寺院が所有していた荘園、寺領の大部分は没収されていた。また豊臣秀吉による刀狩りは、半士半農であった庶民の武装解除だけを目的としたのではなく、時にそこらの大名・豪族も手を出せないほどの武力を保有していた大寺院の武装解除もその目的であった。またさらに秀吉は、そのような武力を二度と持てないよう、その潤沢な経済基盤を奪うために寺院から寺領を取り上げたのである。これは秀吉が織田信長がさんざんと寺院勢力に手を焼いた経験からの政策であったろう。
     秀吉は抵抗の構えを見せた寺院に圧倒的武力を見せつけて威嚇した後、根来寺など最後まで抵抗したために徹底的に叩いた寺院もあったが、多くは白旗を上げてきた寺院相手にまずは一旦ほとんどの寺領を取り上げ、後に交渉次第でその一部を返還するなど、いわばアメとムチとを上手く使い分け、寺院の勢力を削ぎつつ懐柔していった。
     徳川家康はそのような秀吉の政策を引き継ぎ、アメとムチという形で一旦取り上げた寺領を恩を売る形で再度与えるということを行いつつ、寺院諸法度を次々発布して諸寺院を徹底的に管理する体制を構築していった。「近世、仏教・寺院は国家に締め付けられた」ということのみ主張する者もあるが、そもそもそのような事態を招いたのはそれまでの寺院の僧徒のあり方に他ならなかった。→本文に戻る
  • 高珍[こうちん]…西大寺の歴代長老の中に高珍の名は見えない。しかし、鎌倉末期に西大寺長老を勤めた明印高湛以来、「高」の文字を頂く者はほとんど寺内の一、二臘など高位の者に限られたようで、その名からすると寺内でも上位の学僧であったのであろう。なお、慶長七年の当時、西大寺長老であった者は四十五代高秀栄春であり、これを継いで第四十六代となったのが高久奎玉であった。→本文に戻る
  • 篇聚[ひんじゅ]の學…篇聚とは律蔵に説かれる律をその罪の軽重や種類によって分類する五篇七聚の略。ここでは律学のこと。→本文に戻る
  • 嘉禎の風…叡尊・覚盛・円晴・有厳の四人により東大寺大仏殿前において嘉禎二年1203になされた自誓受戒による戒律復興後、特に西大寺を拠点とした叡尊らの律宗が繁盛した当時の風儀を指す。
     明忍律師による慶長の戒律復興以降、持律持戒を志した人々のほとんどは自身らが明忍律師はもとより、その基として興正菩薩叡尊があることを意識していたが、それはそもそも明忍律師らに強く意識されたものであった。本文に戻る

現代語訳 脚注:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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