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‡ 戒山『槇尾平等心王院俊正忍律師伝』

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1.解題

『槇尾平等心王院俊正忍律師伝』とは

画像:明忍律師図像 無断転載厳禁

『槇尾平等心王院俊正忍律師伝』(以下『律師伝』)は、近世の日本仏教界に重大な足跡を残された俊正明忍律師の伝記の一つです。著者はその法孫の一人である律師戒山慧堅(野中寺慈忍慧猛律師の弟子)で、元禄二年1689に出版された震旦(支那)および日本における持律・伝律の僧の伝記修正たる『律苑僧宝伝』に収録されているものです。

(慈忍慧猛については、別項“戒山 『青龍山野中寺慈忍猛律師伝』”を参照のこと。)

そもそも俊正慧猛律師の伝記は、この『律師伝』以前に、堯遠不筌『明忍律師之行状記』(以下『行状記』)を嚆矢として、日政『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』(以下『行業記』)・月潭道澄『槙尾平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』(以下『行業曲記』)の順に著されていす。そこで戒山律師は『律師伝』を撰するに際し、それらすべてを参照しながらも特に『行業曲記』の表現を多く借りたことが、その内容から知ることが出来ます。

(明忍律師の他の伝記については別項、“堯遠『明忍律師之行状記』”・“日政『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』”・“月潭『槙尾平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』”、および“慈雲 『律法中興縁由記』”を参照のこと。)

著者戒山律師は、慈忍慧猛律師が宇治田原巖松院にあったころからその門下に参じて沙弥となり、以来もっとも長く律師に仕えたという、もと隠元隆琦の弟子であって臨済宗黄檗派の禅僧だった人です。律師が野中寺を復興するために宇治から移った時も身を共にし、野中寺において具足戒を受け比丘となっています。

律師滅後は野中寺を出、諸方を遊行していましたが、兄弟子の慈真より野中寺に呼び戻されて慈忍律師が西大寺高喜長老から相承した菩薩流を慈真より受けてその正嫡となり、また野中寺の跡を継いでその第三世となっています。野中寺でしばらく後進を育てた後は、江州に居を移して安養寺を復興。ここを拠点に多くの弟子をまた育て、特に他宗派の持律を志す人々が自誓受戒するにあたってその証明師となっています。

戒山の特に優れた弟子に湛堂慧淑がありますが、戒山と湛道とは文筆に優れ、共に安養寺にあっていくつか貴重な著作を今に伝えています。その中の一つが『律苑僧宝伝』であり、その中に収録されたこの『律師伝』です。

なお、湛堂慧淑と当法樂寺の忍綱貞紀和尚とは親交があったようで、法樂寺方丈に祀られた釈迦牟尼像(現在は本堂右脇堂中央)は、江州安養寺から寄贈されたもので、往時は時を知らせるために使われた半鐘には湛道による偈文が彫られています。

俊正明忍律師 ―近世における興律の祖

明忍は、京都にあって代々朝廷に仕えてきた中原氏の出で、幼少の頃より(その齢からすれば)文筆に群を抜いて秀でていたと伝えられています。その直系の祖先は中原康綱で、吉田兼好の『徒然草』に「いみじかりけり」などと称賛されていた人です。

明忍律師はそのような地下とはいえ公家の中原氏(といっても事情により名を継いだのは清原氏)を継ぎ、十六歳にして正七位上相当の官職である太政官所属の少外記および右少史の両職を拝命していましした。

しかし、幼少時に学問を授けらた高雄山寺の晋海僧正の薫陶忘れ難く、また世の様々な苦しみを経験し出家への思い立ち難くして、ついに出家を果たしています。ところが、出家してはみたものの、当時の日本には「真の意味での仏教僧」など存在しないこと、すなわち正しく戒律を受持する僧侶の無いことを、あるいは敬愛する僧正から聞かされ、知ることとなります。

事実、鎌倉期の嘉禎二年1203に興正菩薩叡尊や大悲菩薩覚盛ら四人によって果たされた戒律復興の流れは、すでに室町期以降長く続いた戦乱によって途絶え、以来全く律は断絶していました。たとい人が望んだとして、これを受持することは不可能となっていたのです。

そこで律師は真の仏教僧たるべく戒律復興を志すに至ります。

ただ、具体的にどのようにすべきか律師は、当時他のほとんど多くの僧らがそうであったように、初めまるでわからなかったようです。律師に一つ残されていた道は、興正菩薩らの先蹤に倣って再び戒律復興すること、あるいは大陸の支那に渡り彼の地で律を直接受けることでした。

しかし、朝鮮経由で明代の支那に往くにしろ、支那に直接渡るにしろ、当時は秀吉による朝鮮征伐すなわち文禄・慶長の役が終わって間もない事でその双方とも国交は断絶しており(といってもちょうどこの頃、対馬の宋家は公文書偽造して勝手に国交を回復しようとしており、後に実際に回復した)、ためにかの地に渡って受戒することは非常に困難なことでした。

ところがその後、奇しくも志を同じくしていた日蓮宗の慧雲と劇的に邂逅。そしてさらに西大寺にて律学を志している時にその寺僧友尊とも出会い、明忍らは嘉禎二年の昔に叡尊律師など四人が通受自誓受という方法によって律を復興したことを知ったのです。まさにこの出会いによって、律師らは再び日本仏教界に律の復興を果たすことが可能となっています。

(慧雲については別項“戒山『慧雲海律師伝』”を参照のこと。)

明忍律師はもとは真言宗の人ではありましたが、そもそも律自体、そしてまたその復興自体は特定の宗派に限って行われるような性質のものではなく、また律師らが元々は真言宗、日蓮宗という別々の宗派に属していたこともあるのでしょう。律師らによる戒律復興は、その後の江戸期における日本仏教の諸宗派に極めて重大な影響を及ぼすこととなります。

当法樂寺から出られた慈雲尊者は、まさしく明忍律師らに端を発した戒律復興の流れにある人で、慈雲尊者ご自身も幾度か言及され、その伝記 『律法中興縁由記』をすら書き遺されています。

けれども、にも関わらず、日本に律をもたらされた鑑真大和上を始め、鎌倉期の第一期戒律復興を果たされた西大寺の叡尊律師や唐招提寺の覚盛律師、極楽寺の忍性律師らに比すれば、まったくと言っていいほど世に知られていないのが俊正明忍律師です。

これは極めて遺憾なことと言わざるを得ません。

もっとも、そのように世に知られていない要因は、明忍律師およびその同志たる慧雲律師や友尊律師が、戒律復興を果たされた後十年も立たずして次々と、矢継ぎ早に早逝されてしまっていることがあるのでしょう。また律師らはその間、多くの著述をなされたということがなかったということもあるのでしょう。

律を復興して間もない頃にあって、それを現実に行い、定着していくことは容易でなくてその暇など無く、また経済的にもそのような余裕も無かったとも考えられます。

その故に、数年間という実に短期間であったとは言え、その間に幸運にも明忍律師らの門下に入ることが出来た龍象らとその末流こそが、むしろ今に至るまでより知られているのでありましょう。

明忍律師らが戒律復興した地である山城国の平等心王院〈西明寺〉、そしてその法孫たる慈忍慧猛律師によって復興された河内国の野中寺、同様にその法孫というべき真政圓忍律師によって興された和泉国の神鳳寺〈明治の廃仏毀釈で廃寺〉の三ヶ寺は、江戸期に天下の三僧坊と讃えられました。そしてこれら三僧坊より、江戸期には数多の傑僧が輩出されています。

およそ江戸期における戒律に関して名を馳せた僧・律院で、明忍律師を淵源とせぬ者など一人としてありはしません。

戒は三学の始め

現在、日本仏教では再三にわたって戒も律もその伝統は「完全に」途絶え、一部の外国僧や留学僧を除いては、ほとんど全くまともな仏教僧が存在しない、真に仏教を説く僧が無い、という事態を迎えています。

そのようなことから、ここでせめて明忍律師という若き獅子らの孤軍奮闘により、近世においていかに戒律復興されたかを世に多少なりとも知らしめるため、ひいては戒律とは一体仏教においていかなるものであるのか、日本においてそれがいかにしてよく行われようとしたかの理解が少しでも世間に広まることを祈り、この明忍律師の諸伝記を紹介する次第です。

事を始めんと欲すれば、その基を知らずんばあるべからず。

良果を得んと欲すれば、まず大地を耕さざれば得るべからず。

単に明忍律師の生涯ばかり知ったところで、ただ歴史の一幕を知ったに過ぎないでしょう。明忍律師およびその後の律僧らや興律運動を正しく掴むのには、彼らが模範とし敬慕したその源を知らなければなりません。

故に明忍律師の行業を知ることをきっかけに、叡尊律師や忍性律師、さらには明恵上人や解脱上人、そして鑑真和上や道璿律師へと遡り辿っていき、そこには縷のようであったとしても明らかな一つの流れを見て取ることができるでしょうけれども、その源泉は間違いなく律蔵にあることを知り、そして終には釈迦牟尼仏所説の真に何たるかを知るに至ることを期します。

また、この明忍律師の生涯に触れることを機縁として、この扶桑の地に再び興律の志を持ち、現実としてそれを成し遂げんとする幾ばくかの人の現れることを願んでやみません。

小苾蒭覺應 拝記
(horakuji@gmail.com)

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2.凡例

本文

本サイトで紹介している戒山『槇尾平等心王院俊正忍律師伝』は、『大日本仏教全書』巻105所収の『律苑僧宝伝』を底本とした。

原文・現代語訳を併記し、対訳とした。もっとも、それぞれいずれかをのみ通読したい者の為に、対訳とは別に、原文・現代語訳のみの項を設けている。

原文は、原則として底本のまま旧漢字を用いている。ただし、書き下し文は、適宜現行の漢字に変更した。

書き下し文および現代語訳には読解しやすいよう段落を設けているが、これは編者によるもので原文に基づいたものではない。

現代語訳は、逐語的に訳すことを心がけた。もっとも、現代語訳を逐語的に行ったと言っても、読解を容易にするため、原文にない語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は( )に閉じ、挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。注意されたい。

難読と思われる漢字あるいは単語につけたルビは[ ]に閉じた。

脚註

脚註は、とくに説明が必要であると考えられる仏教用語などに適宜付した。

原意を外れた錯誤、知識不足の為の誤解を含む点など多々あると思われる。願わくは識者の指摘を請う。

小苾蒭覺應 拝記
(horakuji@gmail.com)

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