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‡ 戒山『槇尾平等心王院俊正忍律師伝』

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1.現代語訳

律師の諱は明忍、俊正はその字である。京兆の官吏中原氏の出身であって、権大外記康綱より九世の子孫である。父の名は康雄、朝廷に仕え少内記であった。母は某氏、淑徳ある人であった。

師は天正丙子四年〈1573〉に生れ、その容姿は優れて秀才であった。他の童子らの中にあって屹然として自ら異なったその様は、あたかも松の若木が葭の生い茂った中に一本すっくと立ち生えているかのようであった。父はその聡明であることを喜んで特に寵愛を加えた。

七歳の時、高雄山の僧正晋海公に従って内外典を学ばせられる。(書を素読させれば)伊吾〈声に出して言うこと〉(自ずから)口に上り、師の教授を煩わせることがなかった。

十一歳となって、父に呼び戻され家に戻り、そこで少内記を任されて家を継いだ。師は韻書〈『聚分韻略』〉を諳んじており、楷書を善くした。宮廷の殿上人らは聯句会が開かれる毎に必ず師に命じて(そこでの詩歌を)執筆させたが、その思うままに筆を振るって素早いこと様を見て、四座〈参加者一同〉は驚嘆するのであった。そのようなことから「神童」と讃えられていた。師はまた、心を家系の継承にも留めており、官職の暇を見つけては旧記を補って編纂し、遂に数十巻とまで成っていた。その名声は口々に噂されて縉紳〈貴人〉の間に起こった。

志学〈十五歳〉の後、少外記に昇進して右少史も兼ねた。朝廷の人々は皆、それを誉れとであると讃えたけれども、師はそれを本意とせず気にもとめなかった。(なぜならば)かつて晋海公の薫陶を受けたことによって、出家を志していたからである。世間での名誉や高い地位に就くことなど、ただ(盧生が立身出世を夢見て楚に向かう)旅の途中の邯鄲の地で(偶然出逢った道士から借りた枕でうたた寝すると、大いに栄華を極める一生涯の夢を見たが、目覚めてみればそれは炊きかけの黍飯が出来上がりもしない、実に半刻にも満たない間の儚い夢であったという)「半炊の夢」〈一炊の夢〉の如き夢幻に過ぎないものだと思っていた。そこで常に高雄山に登って山雲水石の間に遊び、家に帰るのも忘れるほどであった。晋海公はその志を憐れんで慇懃に(仏法をもって)教誨した。

慶長元年〈1596〉、ついに晋海公のもとで剃髪、出家した。時に年二十一のことである〈『明忍律師行業記』では出家したのは二十四歳、慶長四年のことであったと伝える〉。瑜伽法行〈真言密教の四度加行〉を受け、朝に夕に勤め修してけっして怠ること無く、それは寝食を忘れるほどであった。晋海公は、(そんな師を)指して、
「この子こそ我が一門の精進幢〈最も努力する人、その象徴〉である。」
と人に語っていた。

ある日、師はため息をつき嘆いて言った、
「戒とは(戒学・慧学・定学の)三学の最初である。戒が廃れて無かったとしたならば、定と慧とは一体何から生じようか。(いや、生じることなどありはしないのだ。)残念なことには、我が国の律幢は久しく倒れ、いまだこれを再び起こし、立てようとする者の無いことである。私は忝くも出家の一員となりえた者である。どうしてこれを坐視したままでいられようか」
と。

そこで師は、遂にその志を奮ってただちに南都に行き、古の聖者の遺教を求めて専ら(戒律のなんたるか、その復興の術を)明らかにすることを事とし、たとい飢渇しても飲食を貪ることなど無かった。しかしながら、いまだ(その道に詳しい碩学の)人による教導を得られず暗中模索であった。

(ところが偶然、)志を同じくする僧慧雲と邂逅して、共に西大寺を訪れることとなる。西大寺はすでに久しく(実際に戒律を持す者など)無くなってはいたけれども、しかしなお多聞の宿学はあり、よく開遮持犯の法は講説していた。そこで師は慧雲と倶にその宿学の下で(律学を)習ったのである。するとそれまで知らずわからなかった数々の疑問は、あたかも雪が融け、氷が砕けるかのように立ち消えたのである。ところで西大寺には僧友尊という者があり、彼もまた律学を嗜んでいた。(友尊は、明忍と慧雲との)二人の師の道を求める志の篤さに感じ、その莫逆の交りを結んだのであった。

慶長七年〈1602〉、師二十七歳、(西大寺から)高山寺に居を移し、慧雲と友尊の二公と同じく好相を祈った。そして大乗三聚通受法に依って自誓受戒し、専ら止作隨行に励んだ。その後、慧雲と倶に(奈良の諸寺院において)『行事鈔』を講じること、ほとんど一年間に及んだ。またその他の律典、及び後二の戒学について、微に入り細を穿って研究しないということはなかった。

ところでその時、(南山大師による『四分律』の注釈書『行事鈔』・『羯磨疏』・『戒本疏』の)三大部は、世間に未だ曾て刊行されたことがなかった。そこで師は、名刹を訪れて宋刻の古本を借り受けて手ずから校訂し、(来たるべき出版の時のために)検閲して備えた。

晋海公は師の興律の志を喜び、庵を槇尾山平等心王院の故址〈跡地〉に建て、師を招いて居住させた。平等心王院は、弘法大師の上足智泉法師が開創した地である。(晋海公の後援により)楽善の徒の為に、仏殿・僧寮・浄厨など諸施設を造り、整備して精舎伽藍とした。(これを四方僧坊として)結界する法は、偏に旧制〈古来の規定〉に則った。四方の律を学び持さんとする者等は、その風儀を慕って雲集した。晋海公は、(僧坊の)糧食(を支える寺田・領地)の未だ無いことを慮り、そこで東照神君〈徳川家康〉から(神護寺の復興のために)賜った田地若干畝を割いて平等心王院のために充てたのだった。

南京〈奈良〉(の西大寺)に高珍という者があって(律蔵の規定を分類した)五篇七聚などの律学に精通していた。そこで師は、彼を(平等心王院に)招いて、共に代わる代わる(律学を)講演し、そこに訪れていた学徒らを教導した。そのようなことから人は皆、「嘉禎の風儀が再びこの時代に盛んとなった」と言いはやした。

慶長十一年〈1606〉、師三十一歳の時のことである。師は自ら、
「私は通受自誓受の願いを遂げることは出来たけれども、しかしなお未だ別受従他受1を相承する望みを果たせずにある。伝え聞くに、大唐〈支那〉三韓〈朝鮮〉には仏法は今も善く伝えられ、行われており、名僧・碩学あって、その伝統は途絶えていないという。ああ、古人は法を求めて海を渡り山に登るなど艱難辛苦を厭うことなどなかった。私など取るに足らない者である。ここで敢えて勇ましく歩みを進め(古の大徳らの成した)芳蹤を継がないことがあろうか」
と思い至る。そこで高雄山に登り、弘法大師の像の前にて護摩法を修すこと百座。さらに自ら伊勢・八幡・春日の三神の祠に詣でて、その冥護を祈った。

その後、慧雲・友尊の二公に後を託して(平等心王院に入門した新学の)徒衆の教導を委ね、ただ一人颯爽として海の西へと旅立っていった。ただ道依のみが師に從って行った。初め平戸津を訪れ、次で対馬州に到った。ところが、如何ともし難いことに、国禁森厳であって海を渡ることは許されなかった。しかしながら師は(求法の)志を失うことはなかった。(対馬は)府内〈現:厳原〉の宮谷〈清水山城東側〉にしばらく寓居していたが、人の多くやや騒がしいことを厭い、茅壇〈有明山東側中腹〉に移った。師は府治の西南にある夷崎〈海岸寺の下方、海辺にやや伸びた崎〉の山水奇絶を愛して、その間を経行した。(対馬の)郷人は、師の名を知らず、ただ「京都の道者」と呼んでいた。

海岸精舎〈海岸寺〉の主である僧智順は師の戒行に随喜して、しばしば往来して親しく接していた。師は日常、縁に従う他に世事に就かず、鉢を携えて食を乞い、衣を繕ってその身を覆うのみであった。そのようにしてあること数年、まさに百苦を舐める日々を送っていながら、その志はますます堅固となっていた。筆を執って経律の要文を書き留めるなどして、その後の考証に備えた。師の勤め励む姿はまさにその様であった。船便のある度に書を慧雲及び平等心王院の山衆に贈っていた。その丁寧なる委嘱の内容は、(孤独で貧しき最中にあった)自らの事など脇において(持律持戒を旨とする)仏道を弘め護持することにあった。未だかつて一言としてその他の事に言及したことなどなく、言葉も多く記していることはなかった。

かつて郷里の母から手紙を得たことがあった。しかし、師は慇懃に頂戴してからそれを渓流に投じて、開き見もしなかった。それは(捨て難き)親の愛を捨て、道業にひたすら身を投じた決意の表れと見て取れる所行であった。

そんな中、突如として病に倒れたのである。しばらくしても一向に癒えることはなく、自らもはや病床から立てることはないことを知る。そこで書〈末後状。西明寺に現存〉をしたためて晋海公に送った。そして手に短杖を執って坐席を叩きつつ、しばしば仏号〈阿弥陀仏名〉を唱えて、安養〈極楽浄土〉に往生することを願った。その時、たちまち紫雲がたなびき、多くの宝華が乱れ落ちてくる様を見たのである。そこで師は筆を執って書いた手紙にはこうある、
「我がこの病苦など須臾〈わずかの間〉の事に過ぎない。あの清涼なる雲の中に諸々の聖衆と相い交わることが出来れば、どれほどの大快楽であろうか。八功徳水の満ちる七宝の蓮池こそ、私が生まれ変わる処である」
と。そう書き終わって結跏趺坐して逝去した。

時に慶長十五年〈1610〉六月七日のことである。閲世〈世寿〉三十五歳、坐〈夏坐・法臘〉若干夏。溽暑〈蒸し暑い時期〉の最中のことであったけれども、(遺骸の)容子は(腐って)変わることはなかった。道依は荼毘に付した後にその霊骨を収め取り、(師の生前所用の衣鉢など)道具を担いで慌ただしく京へと帰った。槇尾山の衆徒はその訃報を聞いて哀慟すること、あたかも親を亡くしたかのようであった。晋海公は、(師がその末後にしたためた)書に接してさめざめと涙を流し、和歌を詠んでその死を悼んだ。道依は(出家して)平等心王院の衆徒らと共に、山に律師の塔を建てた。

師は平生、淨域〈浄土〉に繫念していた。講律の暇に好んで恵心僧都源信師の『往生要集』を読んでいた。また、かつて『自誓受戒血脈図』を作り、興正菩薩の下に讃辞を連ねて、「三聚を并呑して戒身を長養す。法を耀して生を利す。千古未だ聞かず」 と書している。

師の在りし日、ある僧が文殊洛叉の法〈文殊菩薩の真言を十万返念誦する密教の修習法〉を修した。ある日の夕べ、うたた寝している間の夢で菩薩が現れて、彼に
「汝が私の生身を見ることを願うならば、それは高雄法身院にある俊正である」
と告げて言ったのだという。

師の入寂の後、相継ぎ(平等心王院に端を発する)律門から輩出された者は甚だ多い。仏国高泉性潡禅師は師の為に墓塔の銘を譔した。

賛じて曰く、
嗚呼、明忍師はどうして困難であると思わなかったのであろうか。通受自誓受法が久しく行われなくなっていたことにより、化教〈定と慧〉の学を願い求めて環海を諸方に尋ね、行宗〈南山律宗〉の一門は皆老死してその名をさえ聞いたことの無い者がある時代となって、明忍師はこの法を崛起して嘉禎の先蹤〈興正菩薩らによる戒律復興の昔〉を迫ったのである。その力を律宗がまさに滅びようとする時代に振るったのである。この行跡に及びえるものなど何があるであろうか。
嗚呼、明忍師はどうして困難であると思わなかったのであろうか。別受従他受の法を万里の遠きに求め欲したのである。また人の成し難いことは、対馬島に僑寓〈仮住まい〉して幾度の寒暑を経、風飡露宿〈風餐露宿。野宿すること〉して文字通り百苦を経験したことである。自らの身命を軽くして法を重んじたその風儀は、真に難きを易くして弱き者を奮い立たせるものであった。(師の行業は)古の聖者・賢者のそれと比べて、何ら遜色ないものであろう。
惜しいことに(師の)福徳がその智慧には及ばず、世に生まれてから幾許にもならずして遷化したことである。しかしながら、(師が律を復興して平等心王院から輩出された、その)法孫は相継いで断えることがなく律道は日に行ぜられ、天下の人々は知ったのである、師の徳沢〈恵み・恩恵〉が及ぶのは、どこか(自身らを離れた)遠くではないことを。

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