真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 貞慶『南都叡山戒勝劣事』

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1.原文

凡東大寺戒壇者。月氏震旦日域三箇國共許之法式也。 聖武天皇以天平勝寶六年五月六日。於東大寺可立戒壇之由。被下 綸言之刻。大唐終南山道宣律師。重受戒弟子南泉寺弘景律師門資龍興寺鑑眞和尚。幷中天竺曇無懴三藏弟子揚州白塔寺沙門法進。此二人和上奉 勅宣也。而中納言藤原朝臣高房爲行事勅使。仍鑑眞法進二人和上勅使相共依經任圖令建立東大寺戒壇院。被寄廿一箇國。

天平勝寶六年甲午被造始。至于同七年。速疾二箇年之内被造畢。大唐終南山道宣移天竺之戒壇鑑眞卽任終南山之戒壇立南都戒壇院畢。法進又同傅印度之風儀出戒壇之圖畢。非和州始戒壇。月氏震旦之舊風也。於東大寺具足戒誰可生疑網乎。

夫尋大唐終南山之戒壇者。道宣律師任印度之風欲建戒壇時。忽一人聖人自然化現。示其戒壇之方法。而道宣不信之處。沙彌來求彼聖人。其時道宣律師問沙彌曰。聖人誰人哉。沙彌答曰。聖人是賓頭盧尊者也。此時道宣律師始生信。任聖人告掘地。下至水際。四角各有一堅石。高六尺也。件石上有銘。是此迦葉佛時。比丘戒之壇場。號淸官寺戒壇。云々 

而今東大寺戒壇。偏寫彼儀式。實非同唯釋迦一佛月氏之戒壇兼寫久遠迦葉之法式。夫南都戒壇者。依唐土天竺之舊儀。任前佛後佛之遺跡。登壇受戒之法式。以南都戒壇可爲本也。

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2.書き下し文

凡そ東大寺戒壇1とは、月氏2震旦3日域4の三箇國共に之を許す法式なり。聖武天皇、天平勝寶六年五月六日を以て、東大寺に戒壇を立つべきの由を綸言下さらるの刻、大唐終南山の道宣律師5の重受戒の弟子にして南泉寺の弘景律師6門資、龍興寺7の鑑眞和尚、幷に中天竺曇無懴三藏8の弟子にして揚州白塔寺の沙門法進9、此の二人の和上10は勅宣を奉る。而て中納言藤原朝臣高房11を行事勅使と爲し、仍ち鑑眞・法進の二人の和上と勅使と相共に經に依り12に任て、東大寺戒壇院を建立せしめて、廿一箇國に寄せらる。

天平勝寶六年甲午に造始せられ、同七年に至る。速疾二箇年の内に造せられ畢ぬ。大唐終南山の道宣、天竺の戒壇を移し、鑑眞卽ち終南山の戒壇に任て南都の戒壇院を立て畢ぬ。法進、又同く印度の風儀を傅へて戒壇圖を出し畢ぬ13。和州に始る戒壇に非ず、月氏・震旦の舊風なり。東大寺の具足戒に誰か疑網を生ずべきや。

夫れ大唐終南山の戒壇を尋れば、道宣律師、印度の風に任て戒壇を建んと欲せる時、忽ち一人の聖人自然に化現して、其の戒壇の方法を示す。而て道宣これを信ぜざる處、沙彌14來て彼の聖人を求む。其の時道宣律師、沙彌に問て曰く、聖人誰人かと。沙彌答て曰く、聖人是れ賓頭盧尊者15なりと。此の時、道宣律師、始て信を生ず。聖人の告るに任て地を掘て、下水際に至り、四角に各の一堅石有て、高さ六尺なり。件の石上に銘有り。是は此れ迦葉佛16の時、比丘戒の壇場にして、淸官寺戒壇17と號すと云々。 

而て今、東大寺戒壇、偏に彼の儀式を寫す。實に唯だ釋迦一佛・月氏の戒壇に同じに非ず、兼て久遠迦葉の法式を寫すものなり。夫れ南都の戒壇とは、唐土・天竺の舊儀に依て、前佛後佛18の遺跡に任ふ。登壇受戒の法式19、南都の戒壇を以て本とすべし。

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3.現代語訳

およそ東大寺の戒壇とは、月氏 〈印度〉・震旦 〈支那〉・日域 〈日本〉の三箇国に共通した法式(に基づいたもの)である。聖武天皇が天平勝宝六年〈754〉五月六日をもって、東大寺に戒壇を立つべきことの綸言を下された時、大唐終南山の道宣律師の重受戒の弟子である南泉寺の弘景律師の門資、龍興寺の鑑真和尚、ならびに中天竺曇無懴三蔵の弟子である揚州白塔寺の沙門法進、この二人の和上が勅宣を奉った。そして、中納言藤原朝臣高房を行事勅使とし、鑑真・法進の二人の和上と勅使と相共に経典に基づき図に依って、東大寺戒壇院を建立させて、廿一箇国に寄せられた。

天平勝宝六年甲午〈754〉に造営を始めて同七年〈755に至り、速疾にただ二箇年の内に落成した。大唐終南山の道宣は天竺の戒壇を模範として(終南山に同じものを)建て、鑑真は終南山の戒壇に倣って南都の戒壇院を立てたのである。法進はまた、同じく印度の風儀を伝えて戒壇図を出した。(東大寺戒壇とは)和州にて初めて創始された戒壇ではなく、月氏・震旦の旧風(に倣ったもの)である。東大寺の具足戒に対し、一体誰が疑網を生ずることなどできようか。

そもそも大唐終南山の戒壇(の由来)を尋ねてみれば、道宣律師が印度の風儀に倣って戒壇を建てようとした時、突如として一人の聖人がどこからともなく化現して、その戒壇の方法を示したのであった。しかし道宣はそれを信じなかったところ、一人の沙彌がその聖人を訪ねてきたのである。そこで道宣律師は、その沙彌に「聖人は何者であろうか」と聞いてみると、沙彌は「その聖人は賓頭盧尊者です」と答えた。その時、道宣律師は初めて(その聖人の言うことを)信用するようになった。そして聖人の告げるままに地を掘って水際まで至ると、その四角にそれぞれ一つの堅石があり、その高さは六尺であった。その石には銘が彫られており、「これは迦葉仏の時、比丘戒の壇場であって、清官寺戒壇と号す」とあったという。 

そこで今、東大寺戒壇とは偏にその儀式を写したものである。実にただ釈迦一仏、月氏の戒壇と同じだけでなく、兼ねて久遠迦葉 〈迦葉仏〉の法式を写したもの。そもそも南都の戒壇とは、唐土・天竺の旧儀に依り、また前仏後仏の遺跡に倣ったものである。登壇受戒の法式は、南都の戒壇をもって本とすべきものである。

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4.語注

  • 戒壇[かいだん]…サンスクリットで「戒壇」に直接該当する語はupasampadā-sīmāmaṇḍla、これを今仮に漢語に直訳したならば「具足戒界壇」となろうが、印度や南方において普通は単にsīmā(界)という。
     比丘・比丘尼が律に準拠して生活するには様々な界、摂僧界(大界)・摂衣界・摂食界などを設定することが必須であるが、そのうちいわゆる戒壇とは特に具足戒の授受などを行う際の、ある一定の限られた区域・境界のこと。小界の一つ。戒壇とは、ただ具足戒の受戒のための施設・建築物と思われることが多いが、受戒以外にも布薩や僧残罪の出罪など、僧伽における重要な儀式を行う場ともなる。
     なお、支那・日本ではその理解に混乱があるが、本来、戒壇が授戒の場といってもそれはあくまで具足戒に限られるのであって、沙弥出家のための十戒や大乗の徒として必須となる菩薩戒(三聚浄戒)を授ける際には、戒壇なるものに於いて行う必要は無い。実際、支那においても過去、「大乗戒壇」なる、菩薩戒をのみ授けるための戒壇など存在したことはなかった。そもそも菩薩戒を説く諸経論に、菩薩戒は戒壇において授けよ、などと説くものは存在しない。菩薩戒の授受に戒壇など必要ないのである。
     しかし、比叡山上に大乗戒壇なるものの設置が勅許されて以降、日本では「戒は必ず規定の戒壇の上で授け、あるいは受けなければならないもの」という誤った理解が定着するようになった。→本文に戻る
  • 月氏[がっし]…支那・日本における印度の古名。→本文に戻る
  • 震旦[しんたん]…サンスクリットcīna-sthānaの音写。「支那の地」の意。
    支那とは、その初めての統一王朝、秦のインドにおける呼称であった、サンスクリットcīnaの音写である。sthānaは土地、場所の意。→本文に戻る
  • 日域[にちいき]…日本。→本文に戻る
  • 道宣律師[どうせんりっし]…南山律宗祖。七世紀、唐代の支那において活躍した優れた学僧であり律僧。主として終南山西明寺に住して律についての講演や著述に励んでいたことから南山大師と云われ、またその律宗は南山律宗と称された。
     当時、支那の律宗には他に懐素による東塔宗や法礪による相部宗などが存しており、道宣はその法礪にも学んでいるが、後に主流となったのは南山律宗であった。また、日本に律を伝えた鑑真和上は南山律宗の系統であり、その孫弟子にあたる。そのようなことから、道宣による『四分律』の注釈書『行事鈔』などは、日本の律宗はもちろんのこと全宗派的に絶対的権威ある書として用いられた。もっとも、鑑真は日本渡来に際し、懐素や法礪、そして光統律師の疏をももたらしており、それらもまた道宣の書に併行して当初は盛んに学ばれた。→本文に戻る
  • 弘景律師[こうきょうりっし]…恒景律師とも。荊州覆船山玉泉寺にあったという律僧。鑑真が実際寺において受戒する際、その戒和上となった人。→本文に戻る
  • 龍興寺[りゅうこうじ]…鑑真が智満を師として沙弥出家した後に過ごした寺。もと大雲寺と称したが後に改称して龍興寺となった。現在の揚州江陽県にあったが現存しない。→本文に戻る
  • 曇無懴三藏[どんむせんさんぞう]…五世紀初頭に支那に渡来した印度僧。大乗の『大般涅槃経』・『金光明経』・『大集経』・『菩薩地持経』・『優婆塞戒経』など、その後の支那仏教に重要な影響を及ぼす諸経典を訳出したことで知られる人。→本文に戻る
  • 法進[ほうしん]…揚州白塔寺の僧。鑑真に従って日本に渡来した十四人の比丘のうちの一人。律学および天台教学に秀でていた学僧。しばしば天台三大部を講演しており、日本における天台教学の普及の端緒を開いている。当時の日本における律学の基礎ともなる『沙弥十戒並威儀経疏』を著したことでも有名。
     ここで貞慶は「恩覚奏状」ならびに『興福寺僧綱大法師等奏状』に倣い、法進が曇無懴の弟子であったとしているが、まず時代が合わない。→本文に戻る
  • 和上[わじょう]…サンスクリットupādhyāyaあるいはパーリ語upajjhāyaが中央アジアのいずれかの胡語に転訛していた語の音写。和尚とも。支那そして特に日本では高僧への敬称で用いる例が多く、ここで貞慶もそのような意で用いているが、本来、和上とは「自身の師僧」のことであって敬称でも、何かの位を表すものでもない。例えば人が具足戒を受けんとする時、その絶対条件の一つとして「自身の和の名を言えること」があるが、それはすなわち師僧の有無を問うているのである。
     また、具足戒の授戒が行われる際、和上の役割はその受者の責任者・身元保証人となって、その者に具足戒を授けて比丘とすることの許しを僧伽に対して乞うことである。そして受戒後には、その新比丘の師僧、いわば出家者としての父となって、基本的に最低五年間、比丘として身に備えるべき行儀作法や経論の知識を授け教導しなければならない。しばしばこの点、日本では誤解している者が多いが、受具の際における戒和上とは「戒を与える者」ではなく、「戒を(僧伽が)与えることの許しを乞う者」であり、よって授戒を主導する者などではない。具足戒の授戒は、一般に三師七証によってなされなければならないと言われるが、その三師とは和上・羯磨師・教授師であり、授戒を主導する者は羯磨師[こんまし]である。
     なお、比丘が弟子をとって沙弥とし、受具足戒式においてその和上となるには、法臘十年以上であって経律に通じ、弟子を教導しうるだけの器量が備わっていなければならない、と律で規定されている。ちなみに、義浄は和上・和尚は誤った音写であるとし鄔波馱耶[うぱだや]との音写を用いた。→本文に戻る
  • 藤原朝臣高房[ふじわらのあそんたかふさ]…平安初期の貴族。延暦十四年〈795〉生、仁壽二年〈852〉没。
     これもまた『恩覚奏状』ならびに『興福寺僧綱大法師等奏状』にそうあるからのことであるが、ここで東大寺戒壇院の創建に関わった者として藤原高房の名を挙げているのは甚だ不審で、全く時代が合わず、また高房が中納言に位したこともない。→本文に戻る
  • [ず]…道宣『關中創開戒壇図経』(『戒壇図経』)。いかにして支那に戒壇が創立されたかの因縁、およびそもそも戒壇とは何か、如何にして戒壇を創るべきか等が記された書。その理想・参考とするべきは印度の祇園精舎における戒壇であると道宣は述べ、この書を以て支那における「印度以来の正しい戒壇の相」を伝えるものであるとした。
     ただし、道宣は一度として支那を出たことはないため印度における実際を見たことなどあるはずもなく、ただ諸々の論書および律蔵の所説を斟酌し、さらに(胡僧などから)聞き集めたことをもって戒壇の正しい相なるものを主張した。故にその正統性は甚だ疑問符の付くものである。事実、道宣が正しいとした戒壇の相に同じ遺構は、印度にも吐蕃(西蔵)にも見出すことは出来ず、また南方諸国においても認められない。道宣のやや後代、律の実際を知るため印度及び南海諸国を巡って、見聞した事実を具に記録した義浄は、逗留したナーランダー大僧院に戒壇のあることを伝えているが、それは道宣が正統であるとした三段構えのものではなく、高さ二尺で一丈四方の一段のものであったという。
     しかしながら、支那および日本では、(伽藍配置に関してはほとんど再現されることはなかったけれども)この書に示された、三段構成の戒壇の相をもって印度以来、三国伝灯のものであると見なされ、事実その通りに作られた。東大寺戒壇院にしろ唐招提寺にしろ、幾度か焼失しているため当時のそのままの遺構は無いが、今も道宣が正しいとした三段構成の戒壇の相が再現され伝えられている。→本文に戻る
  • 法進、又同く印度の風儀を云々…後に東大寺戒壇院に併せて「天下の三戒壇」と称されることなる、下野薬師寺と筑紫観世音寺に戒壇の造立に際し、主として法進が尽力したことを言っているのであろう。ここで「戒壇圖を出し畢ぬ」と述べているということは、貞慶の当時、法進は道宣のそれに基づいた「戒壇図」を描いていたという伝承があったのかもしれない。しかしながら、そのような法進による「戒壇図」があったことは現在まったく知られない。→本文に戻る
  • 沙彌[しゃみ]…サンスクリットśrāmaṇera あるいはパーリ語sāmaṇeraの音写。求寂[ぐじゃく]や息慈[そくじ]、勤策男[ごんさくなん]などと漢訳される。未だ具足戒を受けていない、仏教における見習い出家者。出家ではあるけれども立場としてはあくまで見習いであるため、僧伽(僧宝)の成員には含まれない。
     仏教では原則として数え年十四となって沙弥としての出家が可能となり、二十歳以上で心身ともに健全であれば具足戒を受けて比丘となることが出来る。もし、比丘となるための諸条件を満たさず、またなんらか欠格条項に一つでも触れていたならば、比丘となることは出来ず、二十歳を超えても生涯沙弥のままでいなければならない。→本文に戻る
  • 賓頭盧尊者[びんずるそんじゃ]…賓頭盧とは、そのサンスクリット名Piṇḍola BhāradvājaPiṇḍolaの音写。支那でその神通力が非常に優れていたという仏陀の直弟子の一人。十六羅漢の筆頭としても挙げられる。
     仏教伝来して以来蔓延っていた支那における格義仏教の弊害を廃し、また漢訳に際しての誤りを正すべく奮闘した人に、釈道安がある。道安が自らの諸経典への解釈が正しいかどうか不安に思っていたある日、その夢に白髪まじりの眉毛の長い胡人が現れ、その理解が道理に沿ったものであることを告げた。果たしてその人とは賓頭盧尊者であったといい、共に仏教を広めようと誘われ、また時時に食の供養をせよと云われたという。以降、支那では特に食堂に賓頭盧尊者をその上座に祀り、その前に食事の供養を設けることが慣わしとなった。これを日本でも受け継ぎ賓頭盧尊者は食堂に祀られるが、それは現在も特に禅宗にて根強く伝えられている。→本文に戻る
  • 迦葉佛[かしょうぶつ]…釈迦牟尼仏の前に現れていた仏陀。迦葉はサンスクリットKāśyapaの音写で、その漢訳は飲光。過去七仏のうち第六仏。→本文に戻る
  • 淸官寺戒壇[しょうかんじかいだん]…長安清官郷(現在の陝西省西安県長安区)に位置する浄業寺の戒壇。浄業寺は道宣がしばし住して著述・講演した寺。→本文に戻る
  • 前佛後佛[ぜんぶつごぶつ]…前仏は迦葉仏であり、後仏とは釈迦牟尼仏のこと。釈迦牟尼の一化に留まらず、それが先代の仏陀の化から通じたものであること。→本文に戻る
  • 登壇受戒の法式[ほっしき]…人(沙弥)が戒壇に上がって具足戒を受ける次第(順序)・方法。あるいは、戒壇そのものの形態のこと。
     貞慶の当時、すでに持戒持律の僧は滅び、戒律の相伝は全く絶えて無くなっていたものの、しかし通過儀礼としての受戒は戒壇院にて行われていた。そして、その東大寺戒壇院における受戒を管掌していたのは、興福寺東西両金堂の堂衆であり、律宗・律学の本拠は唐招提寺でも東大寺でもなかった。しかしながら、その律宗を本宗とする筈の東西両金堂の堂衆らも堕落を極めてもはや律学についてまるで無知となっており、戒壇院における受戒の内容も全く乱れた不如法のものとなっていた。これを興福寺の学侶らが春日社における法華八講の場において問題視したことを契機として、興福寺にあった実範がその復興を志し、まず著したのが『東大寺戒壇院受戒式』一巻であった。これはすでに天平の昔に法進が著していた、『東大寺受戒方軌』の焼き直しというべきものである。しかし、それはただの式次第であって、それを著したからといって戒律復興などする筈もなく、それまで戒壇院で行われていた中身の全く無い通過儀礼としての受戒の内容を、形式上は正しいものとして変えようとするに過ぎないものであった。結局、実範の戒律復興への志を果たすことは叶わなかったが、その遺志は蔵俊・覚憲を経て、興福寺の貞慶に受け継がれた。
     ここで貞慶が主張している「南都の戒壇を以て本とすべし」とは、まず東大寺の戒壇の形態と由来とが三国伝来のものであってさらに前仏の代にまで遡りえる正統なものであることと、そこでの受戒の方式・内容とが同じく最も伝統的・正統なものである、ということ。→本文に戻る

現代語訳 脚注:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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