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今延暦寺戒壇者。出最澄之新儀不見釋尊之正説。於五印度之中者依何所圖哉。至四主之間者。寫何國壇哉。爰以昔弘仁 聖朝御時。延暦寺最澄。叡山可建戒壇之由雖經 官奏。諸寺僧侶不許。故 天判更不成。最澄終不遂素懐而歿畢。然後延暦寺別當國道朝臣伺賢政漸隱之尅。得佛法衰微之此。重歴 奏聞。蒙 勅許。
後義眞爲立叡山戒壇。謁南都戒壇院第九和上常詮僧都乞請東大寺戒壇院四角之土。籠叡岳戒壇令建立壇場畢。其義眞請文卽在東大寺。爰知以南都爲本戒壇。以叡山爲末戒壇云事。
何況最澄者興福寺所司仁秀寺主之門弟。於正倉院受具足戒之後任大安寺。其後登叡山可立戒壇之由。經 官奏之處也。次義眞者。興福寺東金堂衆延修之童子。童名糸牛丸也。又慈覺又名圓仁。者。於東大寺戒壇院受比丘戒。既於叡山戒壇仰傅戒之祖師。最澄義眞等皆以南都之門流也。爭可誹謗出家具足之大戒哉。
凡以菩薩十重禁戒四十八輕戒爲出家大僧戒云事。更無聖敎之所説。梵網瓔珞全無其説。善戒地持都無彼文。菩薩戒者。二界五趣出家在家通受之戒也。若以受此戒爲出家者。欲天色天之衆。龍神鬼神之類。奴婢畜生之羣。皆以可爲大僧哉。故以延暦寺戒壇爲出家戒之條。甚以無聖敎誠説。只爲受戒之作法者也。
而延暦寺僧徒迷戒相。以菩薩戒用出家之條。暗聖敎之所説。更迷戒相故也。知延暦寺僧侶者非比丘而着比丘之衣。非大僧而居大僧之位。豈不知戒律之作法哉。以叡山戒壇可爲末戒壇云事。道理既必然也。天台門葉歸伏戒律之根源。勿起諍論矣
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今の延暦寺の戒壇とは、最澄の新儀1に出て釋尊の正説に見へず。五印度の中には何の所の圖に依るか。四主2の間に至ては、何の國の壇を寫すか。爰を以て昔弘仁聖朝の御時3、延暦寺最澄、叡山に戒壇を建つべきの由、官奏を經ると雖も、諸寺の僧侶4許さず。故に天判更に成ぜず。最澄終に素懐を遂げずして歿し畢ぬ5。然るに後、延暦寺別當國道朝臣6、賢政漸隱の尅を伺て、佛法衰微の此を得、重て奏聞を歴て、勅許を蒙る。
後に義眞7、叡山戒壇を立る爲に、南都の戒壇院第九和上常詮僧都8に謁し、請じて東大寺戒壇院の四角の土を乞ひ、叡岳戒壇に籠て壇場を建立せしめ畢ぬ。其の義眞の請文、卽ち東大寺に在り。爰に知るべし、南都を以て本戒壇と爲し、叡山を以て末戒壇と爲すと云ふ事を。
何に況や最澄とは興福寺の所司仁秀寺主9の門弟にして、正倉院に於て具足戒を受ける10の後大安寺に任す。其の後叡山に登て戒壇を立つべきの由、官奏を經るの處なり。次に義眞とは、興福寺東金堂衆延修の童子にして、童名糸牛丸なり。また慈覺11又の名は圓仁とは、東大寺戒壇院に於て比丘戒を受け、既に叡山戒壇に於て傅戒の祖師と仰ぐ。最澄・義眞等皆、以て南都の門流なり。爭か出家具足の大戒を誹謗すべし。
凡そ菩薩の十重禁戒四十八輕戒12を以て出家の大僧戒と爲すと云ふ事、更に聖敎の所説に無し。梵網・瓔珞13、全く其の説無し。善戒14・地持15、都て彼の文無し。菩薩戒とは、二界五趣、出家・在家通受16の戒なり。若し此の戒を受ることを以て出家と爲せば、欲天・色天の衆、龍神・鬼神の類、奴婢・畜生の羣、皆以て大僧と為すべし17。故に延暦寺戒壇を以て出家戒と爲すの條、甚だ以て聖敎の誠説無く、只だ受戒の作法と爲すべきものなり。
而に延暦寺の僧徒、戒相に迷て、菩薩戒を以て出家に用るの條、聖敎の所説に暗く、更に戒相に迷ふが故なり。知るべし、延暦寺の僧侶とは比丘に非ず18して比丘の衣を着、大僧に非ずして大僧の位に居ることを。豈に戒律の作法を知らざるや。叡山戒壇を以て末戒壇と為すべし19と云ふ事、道理既に必然なり。天台の門葉、戒律の根源に歸伏して、諍論を起すこと勿れ20。
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今の延暦寺の戒壇とは、最澄の主張した「新儀」から出たものであって、釋尊の正説に根拠のあるものではない。一体、五印度の何れの所の図に依ったものであろうか。四主〈四州。全世界〉について言えば、何れの国の壇を写したものであるのか。このようなことから、昔弘仁の聖朝の御時、延暦寺最澄は、比叡山に戒壇を建てられるよう官奏したけれども、諸寺の僧侶は許さなかった。故に天判による許可が下されはしなかったのである。最澄は終にその素懐を遂げずに死去した。ところがその後、延暦寺別当国道朝臣は、(天皇自らによる)賢政が漸く衰えだした時勢を伺って仏法もまた衰微していく機会を得、重ねて奏聞して(最澄の『山家学生式』にある要望に対する)勅許を得たのであった。
そしてまた後に義真は比叡山戒壇を建てる為、南都の戒壇院第九和上常詮僧都に謁し、東大寺戒壇院の四角の土を乞い受けて、叡岳戒壇に籠めて壇場を建立したのであった。その義真の請文は東大寺に今もある。このようなことから知るべきである、南都(の東大寺戒壇)こそ本戒壇であって、比叡山(の戒壇)は末戒壇であるということが。
まして最澄とは興福寺の所司仁秀寺主の門弟であって、(興福寺)正倉院〈北倉院の誤伝〉において具足戒を受け、その後大安寺に住している。その後、比叡山に登って(ただ梵網戒をのみ授受する為の)戒壇を立てることを希望して官奏したのである。次に義真とは、興福寺東金堂衆延修の童子であって、童名を糸牛丸といった。また慈覚またの名を円仁というとは、東大寺戒壇院にて比丘戒を受け、叡山戒壇において伝戒の祖師と仰がれている。すなわち、最澄・義真など皆、南都の門流である。一体どうして出家具足の大戒を誹謗することなど出来ようか。
およそ菩薩の十重禁戒四十八軽戒を以て出家の大僧戒であると云う事など、更に聖教の所説に無い。『梵網経』・『菩薩瓔珞本業経』にも、全くその説は無し。『菩薩善戒経』・『菩薩地持経』にも、通じてそのような文は無い。菩薩戒とは、二界・五趣、出家・在家の通受の戒である。もしこの戒を受けることによって出家となるのであれば、欲天・色天の衆、龍神・鬼神の類、奴婢・畜生の群、(菩薩戒を受けることが出来る)皆すべては大僧となるであろう。故に延暦寺戒壇を以て出家戒とすることなど、なんら聖教の誠説に基づいたものでは無く、(何らの意味もない)「ただの受戒の作法」というべきものである。
にもかかわらず、延暦寺の僧徒は戒相に迷って菩薩戒を以て出家に用いているのは、聖教の所説に暗く、更に戒相に迷ったが故のことである。知るべし、延暦寺の僧侶とは比丘では無いのに比丘の衣を着、大僧では無いのに大僧の位に居していることを。どうして戒律の作法を知らぬままでいられようか。叡山戒壇とは末戒壇であると云う事の道理は既に必然である。天台の門葉らよ、戒律の根源に帰伏して諍論を起こすことなかれ。
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現代語訳 脚注:非人沙門覺應
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