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‡ 貞慶『南都叡山戒勝劣事』

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1.解題

解脱上人貞慶

画像:解脱上人貞慶(唐招提寺蔵)

『南都叡山戒勝劣事』とは、中世初頭、鎌倉前期に活躍した興福寺出身の法相宗僧、解脱上人貞慶[じょうけい]〈1155-1213〉によって著されたとされる書です。

貞慶とは、藤原南家の藤原通憲[みちのり](信西[しんぜい])の孫、藤原貞憲[さだのり]の子であった人です。信西が平治の乱で失脚して死に、縁座によってその子息であった父貞憲もまた失脚した〈一般に土佐に流罪となって殺されたとされるが、実際は京で出家入道して生西と名乗っていた〉ことにより、信西の子で興福寺にて出家していた叔父の覚憲[かくけん]に引き取られて僧となっています。

貞慶は、そのような藤原氏出身とは言え没落した家柄の子弟であったものの、叔父でありその師でもある覚憲の元で学問の研鑽にいそしみ、やがてはその学徳の高さと弁舌の鋭さ・巧みさで頭角を現しています。ついには、官僧としての出世に必須であった数々の大きな論議法会、いわゆる南都三大会[なんとさんだいえ]に出仕し、その将来を嘱望される存在となっていきました。

しかし当時、出家などと言ってもそれは名ばかりのことで、南都にしろ北京にしろ並み居る諸大寺の内実は貴族の庶子の処世の場に過ぎず、俗世における門閥貴族社会の引き写しというべきものでした。学僧として行う数々の仏典の読誦・研究など、そのような「出家社会というもう一つの俗世」における出世のため術に過ぎず、ただ知識と弁舌のみ鍛えてその実践など一切しないし出来ない、という頽廃した状況であったのです。

貞慶はそのような当時の出家社会を嫌い、と言ってもそんな単純な話でも無かったのでしょうけれども、建久四年〈1193〉の三十九歳のころ、ついに興福寺を出て遁世。山深い笠置寺に入っています。

遁世とは、本来、脱俗して出家することを意味する語です。しかしながら、中世となると、すでに僧として出家していながらも、もう一つの俗界と化していた大寺院などから出、多くの場合は都市部から離れた山間部や地方の小寺院・庵に入ることを意味するようになっています。それは、いわば「二度目の出家」というべきものを示す語で、それを果たした者を遁世僧と云いました。

それにしても遁世とは面白い語で、中世に「二度目の出家」といった意味で用いられるようになったのは、当時の僧俗の人々も仏教界が全く堕落していることを自覚していたからこそのことであったのでしょう。

遁世[とんせい]の 遁は時代にかきかへむ 昔は遁 今は貪

遁世の「遁」の字は、時代を経て書き換えられる。
昔は「(俗世から)遁れる」であったが、今は「(俗世を)貪ぼる」である。

無住『沙石集』三
[現代語訳:沙門覺應]

さて、貞慶は笠置に遁世したとはいえ、しかし興福寺を捨てて絶縁したというのでは全然なく、以降も興福寺のために様々に力を尽くしています。貞慶の活動は実に幅広く、興福寺復興のための資材をつのる勧進はもとより、興福寺の末寺としての唐招提寺の復興にも携わっていました。

そもそも貞慶は藤原氏一族の人であり、言うまでもなく興福寺は藤原一門の氏寺であって、法相宗の本拠にして大和一国を統べていた大寺院です。そのような興福寺と縁など切れようはずもなく、そのような意志も全く無かったでしょう。

法然が布教を開始していた専修念仏の浄土教に対し、これを国家として停止させるべきことを興福寺一門を挙げて求めた『興福寺奏状』がありますが、それは貞慶によって起草されたものです。そして、それを起草した元久元年〈1204〉は、貞慶が興福寺を出て笠置寺にあること十年を過ぎた頃のことでした。

貞慶は、仏教の篤信者であった公卿、藤原長房[ながふさ]の信を受け、様々にその後援を受けていましたが、承元四年〈1210〉にはこれを出家の弟子として海住山寺[かいじゅうせんじ]に迎え、覚真[かくしん](慈心坊)の名を与えています。

また承元のこの頃、貞慶は興福寺の律宗を再興し、ひいては仏教自体を復興するために、戒律復興の拠点たる道場を設けて律学を振興せんとする願いを綴った、『戒律興行願書』を著しています。

(別項“貞慶『戒律興行願書』”を参照のこと。)

そして建暦二年〈1212〉、その覚真が、貞慶の戒律復興の意を受け、興福寺内に新たに建立したのが常喜院でした。常喜院とは、特に戒律を研究するためのいわば専門道場です。貞慶はそこで、ここに若く優秀な僧二十口を定員として集め、律学の講演を開始しています。

その常貴院の律学の徒として最初に参加した僧二十口の中の最年少者が、嘉禎二年〈1236〉に同志の叡尊[えいそん]や有厳[うごん]・円晴[えんしょう]と共に戒律復興を果たし、やがて唐招提寺の中興の祖となる覚盛[かくじょう]でした。

しかし、常喜院が建てられて三年も経たぬ元仁二年〈1213〉二月、貞慶は五十九歳でその寿を終えています。貞慶没後、常喜院における律学の振興は戒如[かいにょ]が引き継ぎ、先にも述べたように海住山寺は覚真が継いで、それぞれ戒律復興のための礎を築いています。

さて、そもそも何故、貞慶は戒律復興のためとしてその道場を興福寺に建てたのか。

それは中世の当時、今でこそ律宗の本山とされている唐招提寺は、そもそもが鑑真の隠居寺であったようなもので南都七大寺にも入らぬ一寺院に過ぎず、しかも荒廃しきって興福寺の末寺の一つとなっていました。また、比叡山延暦寺の僧徒を除く全ての宗派の僧の受戒を行う場であった東大寺戒壇院は東大寺の管理下にはなく、これを取り仕切っていたのが興福寺東西両金堂の堂衆となっていたためです。

興福寺は法相宗の本拠であると同時に、律宗の本拠でもあったのです。

実は貞慶以前、時代を遡ること少しの平安末期(十二世紀初頭)には、やはり興福寺から中川少将上人とも言われた実範が出て、戒律復興の先鞭をつけていました。

実範が戒律復興を志したのは、本来は律宗を本宗として東大寺戒壇院における授戒を取り仕切り、また律宗を興隆すべきはずの興福寺東西両金堂の堂衆がその役目をまったく果たさず、頽廃ぶりが目に余ると学侶から問題視されたことをきっかけとするものでした。

(実範についての詳細は、別項“戒山『中川寺實範律師伝』”を参照のこと。)

唐の龍興寺の鑒眞和尚、聖武天皇の御宇、本朝に來て、南都の東大寺、鎭西の觀世音寺、下野の藥師寺、三の戒壇をたて給ひ、毘尼の正法をひろめ、如法の受戒を始め行ぜしかども、時うつり儀すたれて、中古より只名ばかり受戒というて、諸國より上りあつまりて、戒壇はしりめぐりたるばかりにて、大小の戒相もしらず、犯制の行儀もわきまへず。わづかに臈次をかぞへ、虚しく供養をうくる僧寶になりはてて、持齋持律の人跡たえぬる事をなげきて、故笠置の解脱上人、如法の律儀興隆の志深くして、六人の器量の仁をえらびて、持齋し律學せしむといへども、時いたらざりけるにや、皆正躰なき事にてありけれども、堂衆の中に器量の仁を以て、常喜院と云ふ所にて、夏中の間、律學し侍り。持齋すべき供料なんどはからひおかる。夫も夏をはれば、持齋もせずして、如法の儀なかりけるに、近比かの學者の中より發心して、如法の持律の人、世間におほし。かの本願上人の御志の感ずる所にや。

 唐の龍興寺の鑑真和尚は、聖武天皇の御宇に本朝に到来し、南都の東大寺・鎮西の観世音寺・下野の薬師寺に三つの戒壇を建てられ、毘尼vinaya. 律〉の正法を広めて如法の受戒を始め行じられた。
 けれども、時代が移るとその儀は廃れてしまい、中古〈平安時代〉よりただ「名ばかり受戒」と云って、(僧となろうとする者が)諸国より(東大寺に)上り集まって、(戒を授受する両人共に自身らが何をしているかも解らず)戒壇の上を走り巡るだけのこととなった。(そのような者らは、戒壇院で受戒したといっても形式ばかりのことで)、大乗〈菩薩戒〉・小乗〈律〉の戒相〈戒律の具体的内容〉も知ることはなく、犯制〈僧侶としての禁則〉の行儀をわきまえてもいない。(夏安居が終われば)ようやく臈次〈比丘としての席次。安居を過ごした回数〉を数えるばかりで、(比丘としての内実など全く無いにもかかわらず、)虚しく供養を受けるだけの(偽の)僧宝に成り果たのである。
 持斎持律の人跡が絶えてしまっている事を嘆いた故笠置の解脱上人〈貞慶〉は、如法の律儀を興隆する志を深くし、六人の器量〈才知優秀〉の人を選抜して、持斎〈持戒〉・律学させた。しかしながら、その時機にはまだ至っていなかったのであろう、その皆がまるで本来からかけ離れた有様であった。そこでまた、(興福寺東西金堂の)堂衆の中から器量の人を選んで常喜院という所にて、夏中〈夏安居の三ヶ月〉の間、律を学ばせ、(常喜院にて)持斎させるための供料〈経費の布施〉など工面したのである。しかし、それも夏〈安居〉が終わったならば、(常喜院の律学に参加していた者等が)持斎することなどなく、如法の儀など行われることはなかった。
 ところが近頃〈嘉禎二年以降〉、その(常喜院の)学者の中から発心して如法の持律の人〈覚盛等〉が出たことにより、今や世間に多く見られるようになった。これは、かの本願上人〈実範〉の御志の果報というものであろう。

無住『沙石集』三 「律學者の學と行と相違の事」
[現代語訳:沙門覺應]

そのようなことからも、戒律復興の狼煙は自然に興福寺から上げられることになった、いや、それは必ず興福寺から上げられるものでなければなりませんでした。

『南都叡山戒勝劣事』 ―再燃した法相・天台の論争

本書『南都叡山戒勝劣事』がいつ頃著されたものか定かではありません。そもそも日付どころか貞慶の署名もなく、ただ解脱上人(貞慶)の起草として伝えられているだけのものです。

(ここでは伝統説に従い、本書を貞慶による書であるとして扱っています。)

その内容は、題目に「南都叡山戒勝劣事」などとありますが、南都と比叡山とにおける戒律の優劣を論じたものではありません。それは、そもそも東大寺戒壇院の由来を訊ねてその正統性を論じたもので、かえって比叡山上の戒壇およびそこで授受される出家戒としての梵網戒がいかなる仏典・伝統・史実にも根拠の無いものであることを述べており、その勝劣というのではなくむしろその真偽を言ったものです。

そして、そのような『南都叡山戒勝劣事』は、戒律復興を志した貞慶によって、突如として著されたものではありません。それは、貞慶より半世紀ほど前に生じていた延暦寺よりなされた法相宗への誹謗に対する法相宗からの反論を引き継いだものでした。

『南都叡山戒勝劣事』の原型となる書、それは『応和宗論記恩覚奏状』という、一般にはほとんど知られていないものです。その中の「恩覚奏状」とは、もと興福寺の学僧で恩覚[おんかく]という人が、白河天皇によって建立された六つの御願寺のうち最大であった法勝寺という、四箇大寺〈興福寺・東大寺・延暦寺・園城寺〉に匹敵する南都の壮麗な大寺院に、伝灯法師としてあった応保二年〈1162〉、二条天皇を頂く朝廷に対して奏された書状です。

応保の当時、延暦寺は、園城寺の覚忠僧正〈慈円の実弟〉が第五十世天台座主に補任されたことを不服とし、これを拒絶しようと強訴していました。

そもそも比叡山延暦寺は、その前年の永暦二年〈1161〉、園城寺がその別院であった宇治の平等院に戒壇を建立しようとしているのではないかと疑って蜂起し、小競り合いを起こしています。

比叡山延暦寺の僧徒らは、円珍の門流いわゆる寺門派の拠点となっていた園城寺が、藤原道長や白河上皇など貴人の信を得て以降ますます繁盛していたことを嫉妬し忌々しく思っていました。そして、延暦寺は、園城寺がさらに大きくなり、戒壇や灌頂など僧として重大な儀式を自前で執行し得る機能を備えて完全に独立した存在となることを、非常に恐れていたのです。

事実、それからさらに時を遡った長久二年〈1041〉と延久二年〈1070〉の二度に渡り、園城寺は寺内に戒壇を建立したい旨を公とし、まず諸宗にその可否を問うていました。そのような園城寺からの具申に対し、南都六宗および真言宗の諸大寺は反意を示すことはなかったのですが、しかしただ独り猛烈に拒絶の意を示したのが延暦寺でした。

画像:頼豪阿闍梨 鉄鼠伝説

その後、白河天皇の皇子誕生の祈祷に携わった園城寺の実相房頼豪[らいごう]〈1003-1084〉は、承保元年〈1074〉に無事敦文親王が誕生したその功績の賞として、実際に園城寺に戒壇〈この時、頼豪が求めたのは菩薩戒壇ではなく三昧耶戒壇であったと『太平記』ではいう〉を建立することを求めています。それを白河帝は許そうとするも、延暦寺からの猛烈な反対にあって遂に実現されませんでした。

(後代、頼豪はその恨みから断食して憤死し、鼠の妖怪となって延暦寺の経蔵を襲った、などという説話が創作されています。もちろんそんな話は真っ赤なウソで、頼豪は断食で死んでなどおらず、その十年後に八十二年の人生を穏やかに終えています。そのような詮無い俗説が生じた影には、延暦寺に与する者が、戒壇建立を望み続けた園城寺および頼豪の世評を失墜させようとする卑しい意図があったように思われます。)

そして承保二年〈1075〉、それが元で両寺の武力衝突に発展。永保元年〈1081〉には、両寺の僧徒は互いの境内に攻め入りあうなど抗争が激化し、ついに園城寺一山は灰燼に帰しています(その三年後の応徳元年〈1084〉に復興)。

ところで、長久と延久年間に園城寺が戒壇を寺内に建立することの可否を諸宗に訊ねた時、法相宗の諸大寺が反対していなかったという事実は見過ごしてはならない点です。なんとなれば、それはすなわち法相宗が中古通じて天台宗における独自の菩薩戒に対する見解や受戒制度に異を唱え、批判し続けていたのでなかったことの証となるためです。

もっとも、だからといって法相宗を始めとする南都諸宗が、その昔の最澄の主張に納得し、日本天台宗の大乗戒壇の正統性を承認するようになっていた、というわけでは全くありません。しかし、仏教として正統性あるものとして認められたというのではなくとも、すでに朝廷の認可を得て既成事実化して久しく、またそれによる影響が、たとえば南都の僧の一部に最澄の主張した大乗戒を認めてそれを受けたいと望む者が現れるなど、様々な形で及んでいました。

さて、そのように延暦寺と園城寺との間での権力や勢力争いが展開される中、園城寺の僧徒は延暦寺戒壇で受戒することを良しとせず、というよりそんなことが不可能となる程両者の確執が厳しいものとなっていたのでしょうけれども、東大寺戒壇院にて受戒することとなっていました。

誰であれ僧となるには必ず受戒しなければなりませんが、当時の国法として、正式な受戒の場は日本全国の中に、天台宗以外のすべての僧徒となる者のための鑑真以来の三戒壇と、天台宗徒のみが利用する義真以来の延暦寺の戒壇以外にはありませんでした。園城寺の門徒は天台宗徒であるとはいえ、しかし延暦寺で受戒することが出来ないならば、必然的に僧となるための場は東大寺戒壇院(と東西の二戒壇)以外にはありませんでした。

そして応保二年〈1162〉、園城寺の者(覚忠)が天台座主に補任され、また園城寺の僧徒が東大寺戒壇院にて受戒していることを許しがたいとした延暦寺は、「智証〈円珍〉の門人は法相の権宗[ごんしゅう]〈真実ではない仮の教え〉を学んで円頓〈日本天台宗〉の教文を捨てる」と云い、また「南都具足戒は唯だ声聞の小戒である」と断じて園城寺を激しく謗り、園城寺の僧徒が再び比叡山の戒壇で受戒することを国法として縛るよう、朝廷に要求しています(朝廷は叡山の要求どおりその勅を下すも、園城寺はそれを拒絶)。

いわゆる山門派と寺門派の諍いなど天台宗における内紛に過ぎず、ほとんど関わり無い法相宗ではありました。いや、一応、寺門派の受け皿となっていたという程度の関わりはありました。しかし、そのような、いわば「とばっちり」で南都の戒壇および法相宗が難じられることを聴き逃がすことは出来ませんでした。そこで、その延暦寺の言の非を訴え、さらには法相宗と天台宗の真偽を糺そうとして朝廷に出されたのが「恩覚奏状」です。

恩覚は、比叡山の大乗戒壇および菩薩戒単受の制度を全く誤った根拠なきものであると断じ、比叡山延暦寺は本来、興福寺の末寺に過ぎないのであって、またその戒壇の建立に際してわざわざ東大寺戒壇の土まで移植して建てられた事実のあることから、東大寺戒壇の末戒壇であるとしています。

このような批難の応酬は、平安初期に展開した南都の僧綱と最澄との諍論と法相宗の徳一と最澄と間でなされた論争とが、時代を超えて再燃したものでした。

さて、前述したように、興福寺における戒律復興への気運は、そのような延暦寺と園城寺の諍いに起因した興福寺から延暦寺への反論・批判がなされる以前、すでに実範によって生じていたものです。が、上に示した当時の情勢を鑑みたならば、そのような法相宗における延暦寺の所言に対する強い反感・反発によっても、興福寺における戒律復興への意識が高められていったのだと見ることが充分に可能となるでしょう。

中世における戒律復興は、そのような様々な当時の事情を背景に、ようやく成し遂げられていきます。

応和宗論 ―忠算と良源

ところで、実は「恩覚奏状」が呈された時から遡ること二百年前の応和三年〈963〉八月、宮中清涼殿にて、村上天皇の御前で諸宗の優劣を決するための宗論が行われていました。いわゆる応和宗論です。

それに参加したのは法相宗・華厳宗・三論宗・天台宗でしたが、実質は法相宗対天台宗との因縁の対決というべき宗論でした。その主題は『法華経』の解釈であって、これを五日間朝夕の十座に渡って問答形式にてその優劣を競う、というものです。

天台宗で最も優れた論客は良源[りょうげん]〈後の第十八代天台座主。慈恵大師・元三大師〉で、三日目の朝座におけるその弁舌には、天皇初めとする公卿など聴衆一同感動し、涙を流さぬ者は無かったといいます。

ところが、五日目の朝座で行われ法相宗対天台宗の問答で、問者を勤めた仲算[ちゅうざん]という若く出自も決して高くなかった学僧の弁舌が、にわかに天皇の注目を引くこととなっています。そこで急遽、仲算は夕座の問者も重ねて務めるよう命じられています。すると仲算は、夕座の問答において、先日なされた良源の言の一々を引いてその所論を尽く論破していったのですが、それに良源はなんら反論することが出来ず追い詰められ、ただ口と眼とを閉じるばかりとなったといいます。

結果、宗論は法相宗の勝利となり、仲算は村上帝から直々に称賛される栄誉を得ています。そして、法相宗は「六宗の長官」に任じられ、東大寺の華厳宗を抑えて南都六宗を統べる位置を確固たるものとしています。しかし朝廷はまた一方、これは天皇の御前で、しかも天台が本経とする『法華経』についての問答で面目を失うという失態を犯した良源、すなわち天台宗に配慮してか、以降は諸宗がなんであれ宗論を戦わすことを禁止する勅を下しています。

さて、時は移ってその二百年の後、園城寺を非難してそれ以上の権勢を誇らせぬよう強訴するついでに、法相宗を「権教[ごんきょう]」であるといい、また戒壇院にて授受される戒律を「声聞小戒」であると公式に中傷したことは、(それが意図的であったか無意識にであったかは不明であるものの、)まさに往時の村上帝の勅命に延暦寺が反するものでした。

応和の宗論以降の興福寺と延暦寺とは、しばしば荘園や末寺の所属問題で衝突し、小競り合いを起こすことはありました。しかし、応和の宗論で手痛い敗北を、しかも天皇の御前で喫した天台宗にとってそれがまた再現されることはなんとしても避けたいことであったのでしょう、その後に宗論という形で公式に衝突することはありませんでした。

そんな中、突如として延暦寺が天台宗の内紛にかこつけてこれを破るのであれば、興福寺もこれを坐視して何ら反論しないわけにはいかない、というのが、「平安初期に展開した僧綱や徳一と最澄との論争が、時代を超えて再燃した」理由でした。

事実、「恩覚奏状」が草されたその翌年の長寛元年〈1163〉には、法勝寺の恩覚がそうしたような個人としてではなく、興福寺の僧綱等が法相宗として『興福寺僧綱大法師等奏状』を上奏しています。これは「恩覚奏状」に同じく、延暦寺による南都の戒壇および法相宗を謗ることの非を、その歴史や仏典の根拠を辿って訴えるものです。しかし、『興福寺僧綱大法師等奏状』はただそう云うだけに留まらず、さらに一歩進んで、延暦寺戒壇における受戒の停止を求め、また延暦寺をもって興福寺の末寺とすることを朝廷に求めています。

その論拠は、延暦寺が、園城寺を延暦寺から出た円珍の門流の寺であって、故に延暦寺の末寺であると云うのであれば、延暦寺とは最澄も義真も元は興福寺僧の弟子であってそれが建てた寺であり、故に興福寺の末寺である、というものです。延暦寺の理屈をそのまま裏返して言ったもので、一つ筋は通った面白い言ではありましょう。

無論、そのような上奏など、すでに延暦寺戒壇が勅許されて久しく、また延暦寺僧徒が数々の無理難題で強訴を繰り返していても、依然として天台宗を信仰する皇家・公家もあったため、朝廷が受け入れる筈もないことで、実際受け入れられませんでした。朝廷は、この問題はあくまで延暦寺と園城寺との諍いであって、興福寺が口を挟むべきことではない、と回答。朝廷はしかも、興福寺の奏状を突き返しています。それは前代未聞のことであったようで、興福寺はそれにも不満を漏らしています。

その後、延暦寺がどのように動いたかというと、同年、時を置かずに園城寺に攻め入って再び伽藍・諸堂を焼き討ち、すでに十一世紀初頭から続いていた両寺の血みどろの抗争は、ますます激化の一途を辿っています。

それは結局、ただの醜い権力争い・門閥抗争であり、また同一宗における内紛であるが故に迂遠な宗論など弁説による解決など望むべくもないことで、刀杖という暴力に走って安直に片を付けようとしたのでしょう。けれども、それはもはや仏教者の振る舞いでは決してなく、もちろん国家鎮護の要を自称する者らの所業などでも全くない、修羅や禽獣にまるで変わりのない卑しく浅ましいものでした。

中世における戒律再興の黎明

前述したように、当時の興福寺は法相宗と律宗の本拠であり、遠くは印度以来、近くは鑑真以来の戒律の伝統を護持するものであると自ら誇っていました。

しかしながら、興福寺の学侶にしろ堂衆にしろ、そのように誇るのはどこまでも虚栄に過ぎませんでした。なんとなれば、興福寺を初め東大寺など南都のいずれの大寺においても、戒律など誰も学ばず顧みず、ただ通過儀礼として授戒を漫然と行うようになっており、すでにその実質的伝統を失った状況であったためです。前述したように、唐招提寺は荒廃しきって廃寺同然の有り様でした。

興福寺の堂衆も延暦寺の大衆らに同じく、何か不満があれば春日山の神木を伐り倒し、それを担いで都に強訴していたり、対立していた東大寺など他寺へ押し入って破却・放火し、僧徒を殺傷したりするなど暴虐を働いていたのは同じです。

仏教僧が刀杖を携えて他の身命を害し、ましてや寺を焼き人を殺すなど、言うまでもなくあってはならないことです。

若佛子。不得畜一切刀杖弓箭鉾斧鬪戰之具。及惡網羅殺生之器。一切不得畜。而菩薩乃至殺父母尚不加報。況餘一切衆生。若故畜一切刀杖者。犯輕垢罪。

 仏子は、いかなる刀・杖・弓・箭・鉾・斧など戦闘のための道具を所有してはならない。および(漁猟・狩猟のための)悪しき網羅など殺生を目的とした道具など、すべて所有してはならない。
 菩薩たる者、もし父母を殺されたとしても、決して報復してはならない。一切衆生は言うまでもない。もし故意にいかなる刀杖でもこれを所有したならば軽垢罪となる。

《伝》鳩摩羅什訳『梵網経』盧舍那佛説菩薩心地戒品第十 卷下
T24. P1005c
[現代語訳:沙門覺應]

日本天台宗が、大乗の徒が至高にして唯一護持すべきものであると主張し、法相宗などその他諸宗では律に併せて受持すべきものとしていた梵網戒には、以上のように明瞭に武具を蓄えることや他を殺傷してはならないことが説かれています。律蔵において、この類の行為が禁じられていることは言うまでもありません。

結局、興福寺にしろ延暦寺にしろその主張がまるで事実を反映していない虚言・虚勢に過ぎなかったことは、両者同様でした。しかし、一点異なることは、「戒律(特に律)は必ず如法に受け、護持しなければ僧ではない」という理解・認識を、たとい自身等がまったく依行を欠いていたとしても、法相宗を始めとする南都諸宗が持ち続けていたことです。

そして当時、その戒律復興に向けての狼煙は、先に述べたように少将上人実範によって上げられていました。実範の生年は伝わっておらず、現在も判明していませんが、東大寺戒壇院における受戒儀を正すための『東大寺戒壇院受戒式』が著されたのは保安三年〈1122〉のことで、その没年は天養元年〈1144〉であったことが知られています。

貞慶が「恩覚奏状」における戒律についての所言を要略して『南都叡山戒勝劣事』を著したのは、それが当時、興福寺で志されていた戒律復興に直接関わる内容のものであって、南都の僧徒らに日本における伝戒の歴史的経緯と東大寺戒壇院の重要性を再確認させ、これを再興する義務を負った興福寺の東西両金堂の堂衆など律学を志す者らを鼓舞するためであったのかもしれません。

ところが、貞慶による常喜院から出た覚盛および叡尊らにより、ついに現実のものとして果たされることになる中世の戒律復興は、これは実に皮肉なことにと言うべきか、最澄以前の道璿や鑑真以来否定され続けていた、そしてまた最澄以降の実範や貞慶もまた同じく否定していた、「ただ三聚浄戒を受戒することによって比丘となり得る」という主張と方法によるものでした。そのような受戒法を、覚盛は「通受」などと呼称しています。

実際、中世における戒律復興の嚆矢であり、覚盛や叡尊の門流らが等しくその始源であったと尊崇する実範は、このように自ら述べています。

戒是佛法壽命。衆生福田。三學依之立。七衆因之成焉。有云。若總受三聚淨戒者。雖不別受比丘別解脱戒而成菩薩比丘性。地持等説。攝律儀戒中有七衆別解脱戒。故淨影破云。此義不然。菩薩戒中雖復通攝七衆之法。一形之中不可竝持七衆之戒。隨形所在要須別受。如人雖復總求出道隨入何地別須起心方便趣求。此亦如是云云 道璿和上同淨影意也。故大小乘一切苾芻皆別得其別解脱戒成苾芻性。

 戒とは仏法の寿命、衆生の福田である。三学はこれより立ち、七衆はこれより成じる。ある者は言う、
「もし三聚淨戒を総受したならば、比丘の別解脱戒を別受せずとも菩薩比丘性を成じる。『菩薩地持経』等に「摂律儀戒の中に七衆別解脱戒が含まれる」と説かれている」
と。しかし、故に(その類の主張を)淨影慧遠は論破して、
「そのような理解は正しくない。菩薩戒の中にもまた通じて七衆の法を包摂しているとは言え、一形一つの立場で(出家・在家の)七衆戒全てを併せ持つことなど出来はしない。その形立場の所在に応じて必ず別受しなければならないのだ。それは、あらゆる人が解脱の道を求めたとしても、各々の様々なる境地にあって、それぞれ異なる決心に相応しい方法によって、その道を歩むようなものである。この(三聚浄戒とは別途に律儀を別受しなければならない)ことについても同様である」
と云っている『大乗義章』。道璿[どうせん]和上も淨影の見解と同様であった。故に大小乗の一切の苾芻[びっしゅ]〈比丘〉も皆、別してその別解脱戒を受けてこそ苾芻性〈比丘性〉を成じることが出来るのだ。

実範『東大寺戒壇院受戒式』(日蔵 vol.13, P485a
[現代語訳:沙門覺應]

また、本稿で紹介する『南都叡山戒勝劣事』において貞慶もまた、これは興福寺一門の所見をそのまま引き継いだものではありますが、やはり言を等しくしてこのように述べています。

夫尋戒根源。凡於菩薩所修六波羅蜜。戒波羅蜜中有三種不同。一者攝律儀戒。謂正遠離所應遠離法。二者攝善法戒。謂正修證應修證法。三者饒益有情戒。謂正利益一切有情。其中第一律儀戒者。聲聞菩薩大乘小乘共受戒也。以此律儀戒或名具足戒。或名比丘戒。故方成大小比丘僧。設雖菩薩先受比丘戒卽烈比丘衆。其上可受菩薩戒也。若菩薩不受比丘戒者。是應非比丘衆哉。若菩薩受比丘戒名爲菩薩比丘衆。

 そもそも戒の根源を尋ねてみれば、およそ菩薩が修める六波羅蜜の戒波羅蜜の中に三種の不同がある。一つは摂律儀戒、すなわち正しく遠離すべき法を遠離すること。二つには摂善法戒、すなわち正しく修証すべき法を修証すること。三つには饒益有情戒、すなわち正しく一切有情を利益することである。
 その中の第一、律儀戒とは声聞・菩薩、大乗・小乗の共に受ける戒である。この律儀戒をあるいは具足戒と言い、あるいは比丘戒とも言って、(律儀戒を受けるが)故に大乗・小乗の比丘僧と成りえる。たとい菩薩であったとしても、(出家であれば)先ず比丘戒を受けて比丘衆に列なる。その上で菩薩戒を受けなければならない。もし菩薩であって比丘戒を受けていない者は、まったく比丘衆ではないのだ。もし菩薩であって比丘戒を受けたならば、それを名づけて菩薩比丘衆という。

貞慶『南都叡山戒勝劣事』(日蔵 vol.13, P495a
[現代語訳:沙門覺應]

以上示したように南都の歴代は、「三聚浄戒の受戒によっては比丘となり得ない」という認識、さらには「具足戒を自誓によって受けることは決して出来ない」という認識を通じて持っていました。いや、それは何も日本の南京の諸大徳に限ったことではなく、印度および支那における大乗教徒らが共有していた常識であり、それが経律に基づいた正統な理解でした。

中古の当時、南都の僧綱が最澄を激しく批判し、また近古に至っても同じく興福寺が延暦寺を非難したのは、そのような常識を前提としてのことです。

しかしながら、こともあろうにその興福寺から出た覚盛が発案して戒律復興を現実のものとした受戒方法とその背景にある思想は、「三聚浄戒の受戒によって比丘となり得る」というもので、さらに「それは自誓受することによっても可能である」というものでした。実際、覚盛や叡尊らは「通受自誓受によって比丘となった」とすることによって、戒律復興を果たしたものとされています。

それは、覚盛がその昔に最澄の主張した受戒法を参考として導入したというのではなく、その論拠や内容などはもちろん異なったものではありました。けれども、結果的にそれは、天平の昔の鑑眞渡来以前の旧僧らのあり方や、弘仁年間になされた最澄の主張に相似したものとなってしまっています。

覚盛や叡尊など四人の同志らが三聚浄戒を通受で、しかも自誓受戒によって戒律復興を果たしたとするのは、嘉禎二年〈1236〉のことです。そして、覚盛がその方法を案出したのは、(これは考証を要することですが)その二、三年前のことであったようです。少なくとも、叡尊が覚盛からその構想を初めて聞いたのは、その前年の嘉禎元年〈1235〉のことでした。

嘉禎元年乙未卅五歳
正月十六日移住当寺自十八日至二月三日十五日開講読師戒如上人知足房 四ケ日覚証聖舜房十一ケ日三月十八日於東大寺戒禅院始聴聞四分律行事抄第一巻同秋於当寺東大寺聴聞余三巻開講師興福寺円晴律師也《中略》
然今春秋二季聴聞律部顧前所修多背正法無厭不浄財不足為出家無成律儀戒不可称仏子若無浄戒是遺教経文也諸善功徳皆不得生前々可悲依自此戒得生諸禅定及滅苦智恵後々無時重欲受戒能受五縁身器不浄所対七縁唯仏法時中種々思惟都無期方但五戒八戒許自誓受即受五戒為優婆塞脱虚受信施之咎離仮名苾蒭之称深修三密五相之観念専配自利々他之勝益但尋求一代聖教若無為方当如是行又憶念
興福寺覚盛律師貯為遂次竪義暗表無表章且有先年勧須詣彼禀承即参篭常喜院経十七箇日一遍披談畢以釈意明知大乗七衆依瑜伽等聖論所説通受三聚尽未来際自受従他随其発心皆悉得戒各得其性矣於是弟子歓喜余身渇仰撤骨

嘉禎元年乙未1235 三十五歳
 正月十六日、当寺〈西大寺〉に移住した。十八日から二月三日に至るまでの十五日間、講律が開かれた。読師は戒如上人知足房が四日間、覚証聖舜房が十一日間であった。三月十八日、東大寺戒禅院にて初めて『四分律行事抄』第一巻を聴聞した。同じ秋、当寺ならびに東大寺にてその他の三巻を聴聞した。開講師は興福寺の円晴律師であった。《中略》
 そのように今年の春・秋の二季に渡って律部を聴聞したところ、これまで自分が修めてきた行が多く正法に背いたものであったことが顧みられた。不浄の財を厭うことがなければ「出家」とするに足らず、また律儀戒を護持していなければ「仏子」と称することも出来ない。「もし浄戒がなければ、諸々の善功徳はすべて生ずることが無い」これは『遺教経』の文である。今まで(様々に修行してきたけれども、それが実は非法であったこと)は悲しむべきことだ。(同じく『遺教経には』)「この戒に依って諸々の禅定及び滅苦の智恵が生じることが出来る」ともある。これより後には(もはや非法のままで無益な修行に励む)時など無い。
 そこで重ねて(正しく仏弟子となるために)受戒したいと思うけれども、能受の五縁〈五助縁。『行事鈔』に説かれる発菩提心を助ける五種の縁〉に於いて(私自身が)身器不浄であり、所対の七縁〈叡尊が何を意図したものか不明瞭。あるいは『彌沙塞羯磨本』にある僧伽を正しく運営するための七縁か?〉は唯だ(末法ではなく、正しく僧事が行じられていた)仏法の時のみにおけるものであった。(今の日本において、出家者として正統な受戒をする何らかの方法が無いかと)様々に思惟したとしても、全くその可能性としてすら期待出来る術など無い。ただ(在家信者として受けるべき)五戒・八戒に関しては、自誓受が許されているのみである。そこで五戒を受けて優婆塞[うばそく]upāsaka. 在家信者となって、(似非出家であるにも関わらず信者から)虚しく信施を受けることの咎から脱し、仮名苾蒭[けみょうびっしゅ]〈ただ名前ばかりの比丘。「名字無戒の比丘」とも云う〉の称を離れよう。そうしてから、(在家の密教行者として)深く三密五相三密瑜伽・五相成身観の略。いわゆる密教の瞑想法の観念を修し、専ら自利利他の勝益を回向して、ただひたすら一代聖教を尋ね求める。もし(正しく比丘となるための受戒について)何の手段も無いならば、まさにそのように修行することにしよう。
 そういえば興福寺の覚盛律師は次の竪義[りゅうぎ]〈学侶・官僧となるために必須の論議法会における答者〉のために「表無表章」〈基『大乗法苑義林章』巻三〉を暗誦しているという。ならばそこで 、先年の勧めもあって、彼から(律学を)禀承[ほんじょう]すべしと思い、常喜院〈貞慶によって興福寺内に建立された律学の道場〉に参籠した。そして十七日間、(『表無表章』などを)一通り講義してもらった結果、その解釈の意によって明らかに知ったのである、大乗の七衆は『瑜伽論』等の聖論の所説に拠れば、三聚浄戒を尽未来際に自誓受あるいは従他受によってその発心に従い通受したならば、皆悉く戒を得てそれぞれの性を得ることが出来ることを。ここに至って弟子〈叡尊〉はその喜びに身を震わせて、渇仰撤骨〈骨の髄まで仏陀を深く信じること〉した。

叡尊『金剛仏子叡尊感身学正記』巻上
[現代語訳:沙門覺應]

このように叡尊は、東大寺および西大寺にて行われた律学の講義を聞いて、実は自身が出家と称するに値せず、さらには仏弟子と云うにすら及ばない者であることを一層自覚。そのような自身の欺瞞なる状態を何とか解消したいと思うもその方法が無く、途方にくれていました。しかしそこで、覚盛のもとで律についての講義を聞く中、覚盛の主張する三聚浄戒の通受によって比丘となり得るという構想に納得し、俄然として興律の志を燃やし、ますますその実現に向けて律学に励むようになったようです。

叡尊が自らその日記である『感身学正記』に記しているように、自誓受が許されるのはあくまで五戒・八斎戒であり、比丘となるために律を受けること、すなわち受具は、自誓受戒では成立しないということは、叡尊自身も最初認識していたことでした。そして、正統な受具がもはや当時の日本では不可能な状況にあることも、叡尊は確かに知っていた。そんな中、叡尊は覚盛の講義を聞いてその考えを改め、むしろそのために喜びに打ち震えた、というのです。

しかしながら、印度・支那そしてそれまでの日本における経緯と伝承とを前提とし、今その覚盛の所論を披覧してみたならば、多く疑念の余地があって直ちに首肯できるものなどでは全然ありません。忌憚なく言えばそれは、その全体とまではいかぬとも、多く堅白異同なものです。

貞慶は、その十年以上も前の建暦三年〈1213〉にすでに逝去してありませんでした。まさか貞慶も、自身の門弟からそのような主張が出てくるとは思っていなかったでしょう。

覚盛の主張は、主として法相宗が重要視してきた諸々の論書の所説を根拠としたものではありましたが、それまでの南都における伝統的理解から逸脱した、極めて特殊、いや、異常とすら言うべきものでした。その故にやはり、戒律復興を成し遂げたという当初は、南都においてもかなり物議を醸したようです。

しかし、どのような手段にせよ、覚盛らが戒律復興を果たしたとして実際に持戒持律の律僧としての活動を開始したことにより、その後それは既成事実化していきます。そして、覚盛は唐招提寺を、叡尊は西大寺を拠点とし、それぞれ三聚浄戒と具足戒に対して異なる所見を持っていたこともあり、各自異なる律宗の一流を構えていくことになります。

ここで紹介する『南都叡山戒勝劣事』は、そのような覚盛と叡尊、そしてさらにいうならば貞慶と同時代、自ら宋代の支那に渡って戒律及び天台教学を学び京都の泉涌寺を拠点として律宗の一派を構えた俊芿[しゅんじょう]など中世鎌倉期にさまざまに展開する直前の、興福寺を中心とした南都六宗における伝統的戒律理解を端的に示すものです。

貧道覺應 稽首和南
(horakuji@gmail.com)

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2.凡例

本文

本サイトで紹介している貞慶『南都叡山戒勝劣事』は、鈴木学術財団編『日本大蔵経』第13巻「宗典部 戒律宗章疏 二」所収『南都叡山戒勝劣事』を底本とした。

原文・現代語訳を併記し、対訳とした。もっとも、それぞれいずれかをのみ通読したい者の為に、対訳とは別に、原文・現代語訳のみの項を設けている。

原文は、原則として底本のまま旧漢字を用いている。ただし、現代語訳では、適宜現行の漢字に変更した。

書き下し文および現代語訳では読解を容易にするため適宜段落を設けたが、それらは全て訳者の意によるもので原文に拠ったものではない。

現代語訳は、逐語的に訳すことを心がけた。もっとも、現代語訳を逐語的に行ったと言っても、読解を容易にするため、原文にない語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は( )に閉じ、挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。注意されたい。

難読と思われる漢字あるいは単語につけたルビは[ ]に閉じた。

語注

語注は、とくに説明が必要であると考えられる仏教用語などに適宜付した。

原意を外れた錯誤、知識不足の為の誤解を含む点など多々あると思われる。願わくは識者の指摘を請う。

貧道覺應
(horakuji@gmail.com)

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