真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 戒山『雲龍院正専周律師伝』

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1.原文

十九年有旨命修如法經。以資先帝冥福。香燈花旛之奉備極尊崇。四來隨喜者滿庭擁門。莫不感激而起信焉。上皇請師於禁中。講梵網經。百官聽者。悉皆悦懌。自爾毎月入大内講法華。楞嚴。遺敎等諸經。二十年以通受法自誓増受菩薩戒。眞空阿律師爲之證明。二十一年。上皇及東福門院。延師受戒法。至於公卿大夫。同受者其多矣。天恩降重。人皆以爲榮。師常篤志于護宗。以無礙辯誨人不倦。宗門大小部帙。及諸經論。輪環講授。而東山門風於是益振。學者謂。竹巖無恙時不減也。正保四年二月初示疾。上皇知之。遣亞相經廣存問。特敇爲泉涌寺主。時疾已革。不能詣闕謝。乃於牀上拈香祝聖。臨終面西。合掌端坐而化。實是月十八日戌刻也。世壽五十有四。僧臘三十有六。門人塔其全身于寺之後山。

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2.訓読文

十九年、旨有て命じて如法經1を修し、以て先帝2の冥福に資す。香・燈・花・旛、之を奉備して尊崇を極む。四來の隨喜者、庭に滿ちて門を擁す。感激して信を起さざる莫し。

上皇、師を禁中に請して、梵網經を講ぜしむ。百官聽者、悉く皆悦懌す。爾れより毎月、大内に入て法華・楞嚴・遺敎等の諸經を講ず。

二十年、通受法3を以て自誓4して菩薩戒5増受6す。眞空阿律師7、之の爲に證明す。

二十一年、上皇及び東福門院8、師を延べて戒法を受く。公卿大夫に至るまで、同じく受くる者其れ多し。天恩降重すること、人皆以て榮と爲す。

師、常に志を護宗に篤く、無礙辯を以て人を誨して倦まず。宗門の大小部帙、及び諸の經論、輪環して講授。東山の門風、是に於て益す振るふ。學者謂く、竹巖、恙無き時減ぜずと。

正保四年二月初、疾を示す。上皇之を知て、亞相經廣9を遣して存問し、特敇して泉涌寺主と爲す。時に疾已に革にして、闕を詣で謝すること能はず、乃ち牀上に於て拈香祝聖10す。臨終西に面して、合掌端坐して化す。實に是の月十八日戌刻なり。世壽五十有四、僧臘三十有六。

門人、其の全身を寺の後山に塔す。

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3.現代語訳

十九年1642、勅旨によって如法経〈一定の形式にも基づいた(特に『法華経』の)写経〉を修し、これによって先帝〈後円融天皇〉の冥福の資助とすることなった。(後水尾上皇によって)香・燈・花・旛などが奉納され、尊崇を極めた。四方から参加した隨喜者らが寺庭に満ちて門を取り囲むほどであり、(その荘厳さに)感激して信を起こさない者など無かった。

後水尾上皇は、師を禁中〈宮中〉に招いて『梵網経』の講義をさせた。百官などその聴衆は悉く皆、(その講義を)喜んだ。そのようなことから毎月、(師は)大内〈御所〉に入って『法華経』・『楞厳経』・『遺教経』等の諸経を講じられた。

二十年1643、通受法によって自誓して菩薩戒を増受。真空了阿律師がその証明師となった。

二十一年1644、上皇および東福門院〈後水尾帝の皇后。徳川和子〉は、師に従って戒法を受けた。公卿・大夫に至るまで、同じく受戒する者が多くあった。天恩降重〈帝からの寵愛〉することについて、人々は皆、栄えあることであると噂した。

師は常にその志を護宗に置かれ、無礙自在なる弁舌でもって人々を教え諭して飽くことがなかった。宗門における大小の部帙および諸々の経論を、順に繰り返し繰り返し講授された。東山の門風は、これによって益々振るうこととなった。学者は言う、「竹岩、恙無き時減ぜず」と。

正保四年1647二月初、病の徴候が現れた。上皇はこれを知り、亜相〈大納言〉の勧修寺経広を遣して存問〈見舞い〉し、(師を)特敇によって泉涌寺主とされた。

時に病はすでに重篤となり、(宮中に講義などで伺うことを)欠いていることを(上皇の元に直接)詣でて謝することも出来なくなったため、病床の上で拈香して祝聖〈皇の無病長寿を祈ること〉した。その臨終に際しては西方に向かわれ、合掌端坐して遷化した。それはまさに二月十八日戌刻のことであった。世壽五十四歳、僧臘三十六歳。

門人らは、師の全身を寺の後山に納め、そこに塔を建てた。

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4.語注

  • 如法經[にょほうきょう]…一定の形式にも基づいた、特に『法華経』の写経。→本文に戻る
  • 先帝[せんてい]…後円融天皇。→本文に戻る
  • 通受法[つうじゅ]…摂律儀戒・摂善法戒・饒役有情戒の三聚浄戒を、一度の受戒によって総て通じて受ける受戒法。特に摂律儀戒にいわゆる二百五十戒を当て、この通受のみによって比丘性を得ることが出来るとした。日本の鎌倉期、戒律復興を果たした覚盛によって考案された概念であり、その方法。これに対し、印度以来の本来的な受戒法は別受と言われる。→本文に戻る
  • 菩薩戒[ぼさつかい]…ここでは特に梵網戒を指したものではなく三聚浄戒のことであろう。→本文に戻る
  • 自誓[じせい]…本来的な受戒法ではなく、自ら誓うことによって受戒する法。
     本来、自誓によって具足戒を受けることは決して出来ない。必ず三師七証(僻地では三師二証)の現前僧伽から戒を授けられて比丘たることを認証される必要がある。これを従他受ともいう。 しかしながら、平安中後期に律の伝統が途絶え、鎌倉期には従他受が不可能となっていたため、緊急避難的に覚盛によって「考案」されたのが通受自誓受による受具足戒であった。この方法が考案されたことによって、叡尊および覚盛ら四人は嘉禎二年の戒律復興を成し遂げることが可能となった。そしてその方法こそが、後代の律僧の受戒法として標準なるものとされることとなる。
     しかし実は、その詳細や背景は大きく異なるものの、それは鑑真和上が唐から律を伝来する以前の日本仏教における僧界で行われていた方法とさして変わりないものへといわば先祖返りするものであった。その方法は鑑真和上によって否定され、また国家としても禁じたことから、日本に三戒壇なるものが成立したのである。また、平安初期に大論争を巻き起こした最澄による唯受梵網戒という主張の内容とも、見方によればさして変わりないものでもあった。→本文に戻る
  • 増受[ぞうじゅ]…すでに以前受けている戒あるいは律を、更に今一度重ねて受けること。→本文に戻る
  • 眞空阿律師[しんくうあ りっし]…真空了阿。薩摩出身。槇尾山平等心王院の衆徒で、明忍律師・晋海僧正・慧雲律師・友尊律師によって復興された律の法脈のその初期に連なる人。伝承では浪華川口の港にて対馬に渡らんとする明忍律師に出会い、そこで十善戒を授けられた人であるという。寛永三年1626四月十日、槇尾山にて自誓受。共に受戒したのは槇尾山十世となる了運不生律師。
     その後の寛永十五年1638、野中寺を中興することとなる慈忍慧猛の師となり、また雲龍院の正專如周が改めて自誓受戒するに際しての証明師となるなど重要な役割を果たしている。正保四年1647四月廿六日示寂。世寿五十四歳。→本文に戻る
  • 東福門院[とうふくもんいん]…後水尾帝の皇后。徳川和子。→本文に戻る
  • 亞相經廣[あそう つねひろ]…亜相とは大納言の唐名。經廣とは勧修寺経広(権大納言)のこと。本文に戻る
  • 祝聖[しゅくしん]…帝の無病長命を祈ること。→本文に戻る

現代語訳 脚注:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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