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‡ 瑜伽戒 ―四重四十三軽戒

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1.瑜伽戒

瑜伽戒とは

瑜伽戒[ゆがかい]とは、『菩薩地持経』あるいは『菩薩善戒経』、そして『瑜伽師地論』本地分菩薩地瑜伽処戒品にて説かれる菩薩戒であり、三聚浄戒[さんじゅじょうかい]の一環でその具体です。

(三聚浄戒については別項“三聚浄戒”を参照のこと。)

『菩薩地持経』は、中印度から五胡十六国時代の北涼に至った印度僧、曇無讖[どんむせん]により晋安帝代396-419に訳出されたもので、『瑜伽師地論』に二百年以上も先駆けて支那に伝わっていたものです。というのも、これは内容的に後代遅れて伝わった『瑜伽師地論』の本地分菩薩地とほとんど全同で、実際その部分訳・同本異訳であったためです。

故に『菩薩地持経』は末尾に「経」と題されていますが、しかしその体裁も内容も経典ではなくいわゆる論書の類であって、事実そのように扱われてきました。初期の漢訳仏典の標題には、しばしば経と論との区別がつけられていないものがあるのですが、まさに『菩薩地持経』がそれで、論であるのに経と題された典籍の一つです。しかし、それが実際は論書であっても、支那に初めてもたらされた菩薩戒〈三聚浄戒〉を体系的に説く典籍でもあったために専ら依用され、『菩薩戒経』あるいは『菩薩地経』とも称されています。

次に『菩薩善戒経』とは、南朝宋代の元嘉年間424-453に求那跋摩[ぐなばつま]〈Guṇavarmanによって訳出されたもので、一巻本と九巻本との二本あります。後代にはこの二本が合され、一巻本を巻第十として十巻本とされたものも存しています。

一巻本には「優波離問菩薩受戒法」との副題が付されていますが、その題の通り特に菩薩の受戒法に焦点があてられたものです。これを支那の華厳宗第三祖法蔵は、その内容に基づいて『重楼戒経』とも呼称しています。

九巻本はその体裁も内容もいわゆる経典です。いわば菩薩とは何かを主題としたもので、六波羅蜜を明かしていく中に菩薩地戒品があり、菩薩が受けるべきものとしていわゆる三聚浄戒が説かれています。

一巻本もまた同じく三聚浄戒がいかなるものかを説きますが、それぞれ明らかにする戒の範囲が異なった部分があるなど、一巻本と九巻本とはいわゆる広略の関係にはありません。また、単純に一巻本は九巻本の部分訳であると言えるものでなく、そのようなことから両本が合されて十巻ともされたことがあったようです。

そして『瑜伽師地論』とは、玄奘によれば弥勒菩薩の所説を無着菩薩Asaṅgaが聴聞して著したとされる典籍で、大乗において最も重要な書の一つです。特に瑜伽行唯識派では根本典籍の一つとなっています。

無着菩薩は伝統的には仏滅後一千年の頃に生まれた人であるといい、現在は四世紀の人であったと見なされています。つまり、先に挙げた『瑜伽師地論』の部分訳である『菩薩地持経』とは、無着によって著されて間もない頃に支那にもたらされていたものです。

玄奘は無着および『瑜伽師地論』について、以下のように伝えています。

阿踰陀國。周五千餘里。國大都城周二十餘里。穀稼豐盛華菓繁茂。氣序和暢風俗善順。好營福勤學藝。伽藍百有餘所。僧徒三千餘人。大乘小乘兼功習學。天祠十所。異道寡少。《中略》
城西南五六里。大菴沒羅林中有故伽藍。是阿僧伽唐言無著菩薩請益導凡之處。無著菩薩夜昇天宮於慈氏菩薩所受瑜伽師地論 莊嚴大乘經論中邊分別論等。晝爲大衆講宣妙理。《中略》
無著菩薩健馱邏國人也。佛去世後一千年中誕靈利見承風悟道。從彌沙塞部出家修學。頃之迴信大乘。其弟世親菩薩於説一切有部出家受業。

 阿踰陀国Ayodhyāの周囲は五千余里、国の大都城の周囲は二十余里である。穀物の実り豊かで華果も盛んに茂っている。人々の気質は温和であり、その風俗は善順、福を積むことに熱心であって学芸に勤めている。伽藍は百有余ヶ所あって、その僧徒は三千人余りあり、大乗小乗を兼ねて習学している。天祠〈神霊を祀った祠〉は十ヶ所あるが外道〈バラモン教徒など仏教外の思想・宗教〉は実に少ない。《中略》
 城の西南五、六里にある大菴没羅林〈大マンゴー林〉には昔の伽藍がある。これは阿僧伽Asaṅga唐では無著と言う菩薩が請益して人々を教導した所であった。無著菩薩は夜に天宮Tuṣita. 兜率天に昇って慈氏菩薩Maitreya. 弥勒のもとで『瑜伽師地論』・『荘厳大乗経論』・『中辺分別論』等を聴聞し、昼は大衆の為にその妙理を講宣したのである。《中略》
 無著菩薩は健馱邏国Gāndhāraの人である。仏陀が世を去られた後一千年に誕まれた。生まれつき聡明で承風悟道し、彌沙塞部〈化地部〉にて出家修学したが、しばらくして信を大乗に廻らした。その弟、世親菩薩Vasubandhuは説一切有部〈説因部〉にて出家受業した。

玄奘『大唐西域記』巻五(T51. P896b
[現代語訳:沙門覺應]

サンスクリット原題はYogācārabhūmi-śāstraで、その意は「ヨーガ行(者)の境地に関する論書」。それを玄奘が自ら印度にて学んで請来し、漢訳して『瑜伽師地論』としたもので、全百巻という大部の著となっています。道宣『大唐内典録』によれば、『瑜伽師地論』が訳出されたのは唐代太宗の治世、貞観廿一年647のことであったとされます。

先程から幾度か「瑜伽戒」との名称を用いていますが、いまだ『瑜伽師地論』がもたらされていなかった支那では当初、これを「地持戒」と呼称していました。そして、六世紀から七世紀の支那にて、偽経の疑い濃厚とされていたはずの『梵網経』が、突如として鳩摩羅什訳として用いられだします。結果、その所説の梵網戒と地持戒とは、支那における菩薩戒の二大系統として重んじられ、それがそのまま朝鮮と日本とに受け継がれています。

なお、『梵網経』は梵本および西蔵語訳も断片として伝わっておらず、また印度およびその周辺において言及された典籍もなく、依行されたその痕跡も全く無いものです。さらにその内容があまりに支那的で、鳩摩羅什訳とするにもかなり無理のある文体であると言わざるを得ないものです。支那の古徳らが偽経であると見なし、現在の学者らがほとんど支那撰述の偽経であると断じているのも無理からぬものとなっています。

(梵網戒については別項“十重四十八軽戒”を参照のこと。)

さて、そんな折、玄奘が主として唯識や阿毘達磨の膨大な典籍を印度から持ち帰って翻訳していった中でも『瑜伽師地論』の影響力は非常に大きいものでした。また玄奘自身、『瑜伽師地論』に基づいていくつかの菩薩戒関係の典籍を編集して実用したため、以降はそれらが主要となり「瑜伽戒」と呼称されるようになっていきます。そこで旧来の『菩薩地持経』を旧論、新来の『瑜伽師地論』を新論とも称するようにもなっています。

よって瑜伽戒との呼称は印度以来の本来のものではなく、例えばyoga-śīlaあるいはyogācāra-śīlaなどと言った梵語に基づくものではなくて、あくまで支那以来の便宜的なものです。

『瑜伽師地論』が支那にもたらされて以降、唯識を宗とする派が形成され盛んとなる中、その注釈書がいくつか著されています。一つは玄奘の最も近い門弟であってその跡を継いだ慈恩大師基による『瑜伽師地論略纂』。そして、海東沙門すなわち新羅僧でやはり唯識の学僧であった遁倫〈道倫〉による『瑜伽論記』です。『瑜伽師地論略纂』は文字通り簡略なものであるのに対し、『瑜伽論記』は比較的詳細な注釈書で、その二本共に古来日本でも多く参照・依用されています。

朝鮮の古代、新羅では玄奘の元に直に参じた優秀な学僧が幾人かあって唯識が盛んに研究され、また必然的に律や菩薩戒の研究が行われてたのでした。

ところで、この点世間では多く誤解されているようですが、いくら弥勒説であったとしても唯だ論書にのみ説かれる条項であったならば、それは所謂「戒」などとは言えぬものです。戒というからには、その根拠はあくまで仏所説の経か律かに依るものでなければなりません。

そこで、日本における伝統説では、『瑜伽師地論』所説の戒とはそもそも『菩薩善戒経』にて説かれた戒を弥勒菩薩が詳説したものである、とされています。そして実際、以上に挙げた諸典籍のうち『瑜伽師地論』が最も詳しく、体系的に説いたものであることから、『瑜伽師地論』をこそ主として瑜伽戒が語られることがほとんどとなっています。

瑜伽戒とは、あくまで『菩薩善戒経』を本拠としつつその他諸経所説の戒を統合したもの、というのが伝統的見方です。

問。諸教三聚同異云何 
答。修多羅義根本所説。要略明相在本業經。阿毘達磨廣釋分別。體相窮究在瑜伽論。兩本善戒如來自説。彌勒詫此説瑜伽論。故瑜伽論全同善戒。攝論唯識全同瑜伽。

問:諸教における三聚浄戒の同異はどのようであろうか。
答:修多羅sūtra. 契経の義が根本の所説である。要略してその内容を明らかにしているのは『菩薩瓔珞本業経』である。(大乗の)阿毘達磨では広くこれについての注釈・解説が行われているが、その本質にまで迫って突き詰めているのは『瑜伽師地論』である。(一巻本と九巻本の)両本の『菩薩善戒経』は如来自ら説かれたものであるが、彌勒菩薩がこれに事寄せて説かれたのが『瑜伽師地論』であった。そのようなことから『瑜伽師地論』は全く『菩薩善戒経』に同じである。また『摂大乗論』と『成唯識論』(における三聚浄戒に関する所論)は全く『瑜伽師地論』に同じである。

凝然『律宗綱要』巻上(T74. P7b
[現代語訳:沙門覺應]

現代の文献学からの見方がどのようなものであるにせよ、仏教としての伝統的見方としては、そのような理解は正しいものです。事実、『瑜伽師地論』自体にて、その所説の戒がいかなるものかが以下のように述べられています。

復次如是所起諸事菩薩學處。佛於彼彼素怛纜中隨機散説。謂依律儀戒攝善法戒饒益有情戒。今於此菩薩藏摩呾履迦綜集而説。菩薩於中應起尊重住極恭敬專精修學。

また次に、以上の様に起てた諸々の菩薩の学処は、世尊が彼此の経に於いて様々な機会にて散説されたものである。いわゆる律儀戒saṃvara-śila・摂善法戒kuśala-saṃgrāhaka śīla・饒益有情戒sattvārtha-kriyā-śīlaに拠って、今この菩薩蔵bodhisattva-piṭakaの摩呾履迦mātṛkā. 論において総集して説く。菩薩は(この菩薩戒を)尊重して最も恭敬し、勤め励めなければならない。

弥勒説 無着著『瑜伽師地論』巻四十(T30. P521a
[現代語訳:沙門覺應]

ここで最初に挙げられる律儀戒(摂律儀戒)とは、出家や在家などその者の立場によって異なるものでこれを七衆別解脱戒とも言うのですが、その他多くの経典や律蔵・論蔵にて広く説かれる常識的なものです。その故に『瑜伽師地論』では、しばしばその必要から部分的に言及され解釈されてはいますが、その内容の一々を特に詳らかにはしません。

次に、要略して言えば、摂善法戒[しょうぜんぽうかい]とは六波羅蜜を、そして饒益有情戒[にょうやくうじょうかい]とは四摂法を実現するためもので大乗に特有のものです。これを不共[ふぐう]といいます。冒頭、瑜伽戒とは「三聚浄戒の一環」であると述べましたが、その具体的内容が瑜伽戒です。

瑜伽戒の構成

瑜伽戒の構成は、特に厳重に護るべきとされる四他勝処法とその他四十三の戒条からなっています。そのようなことから、これは特に日本においてのことですが、瑜伽戒をまた四重四十三軽戒とも呼び習しています。

もっとも、四重四十三軽戒との呼称は、『菩薩善戒経』や『菩薩地持戒』・『瑜伽師地論』にて説かれているためそう言うのではなく、『梵網経』にてその所説の戒を自ら「十重四十八軽戒」と言っているのに合わせたもので、本来のものでありません。

そして実は、瑜伽戒の四他勝処法以外の戒条の数え方には諸説あって典籍や朝鮮と日本の論師によって異なり、これを「四重四十二軽戒」であるとか「四重四十四軽戒」・「四重四十五軽戒」であるとする場合もあります。これが瑜伽論について知らんとする者を混乱させる要因の一つとなっているようです。

まず、四十三軽戒とするのは『瑜伽師地論』に基づくものであって、一般にこれが正説とされます。

しかしながら、先行していたその部分訳である旧論、『菩薩地持経』に基づくと四十二軽戒です。これは『瑜伽師地論』にはある一箇条が、他の箇条に統合されているのではなく、そもそも欠けて無いためです。

また、八世紀頃の新羅における唯識の祖とされ戒律にも精通して『梵網経古迹記』などを著した太賢[たいけん]〈大賢〉は四十五軽戒としています。

太賢と同じく新羅僧の遁倫[とんりん]〈道倫〉は、その中で圓測[えんそく]や憬興[きょうこう]など朝鮮諸師による既存の見解を紹介しつつ四十二軽戒・四十三軽戒・四十四軽戒・四十五軽戒説を挙げ、諸説どのような理由で異なっているかを逐一説明しています。その上で、遁倫は『瑜伽師地論』に基づく四十三軽戒を正説としています。

日本では、東大寺戒壇院の凝然[ぎょうねん]が支那および朝鮮での既存の説を集成し、これについてその著のあちこちで言及しています。しかし、これは支那以来のことでもありますが、菩薩戒すなわち三聚浄戒について瑜伽戒に限らず(本来全く別系統である)『梵網経』ならびに『菩薩瓔珞本業経』等の所説の戒とを合して理解しているためか、諸説いずれかを必ずしも正説とはしておらず、しばしば四十四軽戒の名を用いています。

さて、以上のように諸説ありはしますが、瑜伽戒とは四他勝処法とその他四十三の戒条によって構成される、四重四十三軽戒のものであると一応認識して誤りないものです。

他勝処法

他勝処法とはpārājayika-sthānīya-dharmaの漢訳で、本来的には律における比丘・比丘尼の最重罪を指す語であってpārājikaに同じであり、漢訳仏典では一般に波羅夷[はらい]と音写され通用しています。実際、『菩薩地持経』では「波羅夷処法」としています。

pārājikaという語の構造は、para(他の)+√aj(動かす・投げる)para+√ji(勝つ)などと一応解釈出来ますが、玄奘は後者の意であるとしてそう訳したのでしょう。『瑜伽論記』において遁倫は、なぜこれを他勝処と言うかについて「若犯此戒者他所勝(もしこの戒を犯したならば他に勝たれる)」と説明しています。故に、他とはすなわち煩悩・魔のことであって、それに負かされて為される行為であるから他勝処という、とされます。

pārājikaの漢訳には他に、特に律蔵において不応悔罪[ふおうけざい]や断頭罪といった語がありますが、それを犯すことが比丘としてどれほど重い罪となるかをよく表したものとなっています。もし波羅夷罪を比丘もしくは比丘尼が犯した場合、その者はただちに僧伽から追放され、今生において二度と比丘・比丘尼となることは出来ません。そのように、懺悔しても許されない罪であるから不応悔罪であり、また比丘・比丘尼としての死罪を意味するから断頭罪とされるのです。

しかしながら、これは『瑜伽師地論』自体にてそう説明されていることですが、瑜伽戒において説かれる他勝処すなわち波羅夷は、律のような不応悔罪や断頭罪とはされません。菩薩がそれらの一条でも犯したならば、彼は「相似菩薩」すなわち偽菩薩であると断ぜられはしますが、破戒を悔いて懺悔したならば再び受戒出来るものとされます。これは一応、瑜伽戒が出家・在家に通じて説かれたものである、ということもあるのでしょう。

とは言え、総体としてみたならば、そもそも『瑜伽師地論』自体は多く出家者を対象として説かれたものであって、その所説の戒はいきおい主に出家者を対象としたものとなっています。よって、瑜伽戒自体もその対象はあくまで出家者に比重が置かれたものであることを理解しておく必要があります。

非諸菩薩。暫一現行他勝處法。便捨菩薩淨戒律儀。如諸苾芻犯他勝法即便棄捨別解脱戒。若諸菩薩由此毀犯。棄捨菩薩淨戒律儀。於現法中堪任更受非不堪任。如苾芻住別解脱戒犯他勝法。於現法中不任更受
略由二縁捨諸菩薩淨戒律儀。一者棄捨無上正等菩提大願。二者現行上品纒犯他勝處法。

 菩薩らが、もし一たび他勝処法pārājayika-sthānīya-dharmaを犯して菩薩の浄戒律儀を捨したとしても、それは比丘らが他勝法を犯したならば別解脱戒prātimokṣasaṃvaraの棄捨となるのとは異なる。もし菩薩らがこれを犯して菩薩の浄戒律儀saṃvaraを捨したとしても、現世において再度受けることが出来る。比丘が別解脱戒を受けていながら他勝法を犯したならば、現世において二度と受け(比丘とな)ることが出来なくなるのとは異なる。
 略して言えば、菩薩が浄戒律儀を捨すことになるのには二つの場合がある。一つには無上正等菩提の大願を捨てた場合、二つには上品纏adhimātra paryavasthānaの他勝処法の違反を行った場合である。

『瑜伽師地論』巻四十(T30. P515c
[現代語訳:沙門覺應]

菩薩とは「菩提を求める衆生」の意であると一般にいわれます。

この『瑜伽師地論』の一節では、無上正等菩提の大願を捨てたならば菩薩戒の捨となるといわれ、すなわちその者はもはや菩薩ではないとされます。菩薩の本質とは、やはり無上正等菩提を得んとの大願を有していることであって、一般の菩薩についての認識は正しいことがここに確かめられるでしょう。

上品纏[じょうぼんてん]の違反とは、他勝処法を犯しておきながらそれを自他に対してまったく恥じず〈無慚愧〉、かえってさらに愛楽[あいぎょう]〈愛好して願い求める心〉して「これぞ功徳である」などと思い、あるいは言った場合です。

では、瑜伽戒における四他勝処とはいかなる内容のものか。それを原文に併せて現代語にて要約を示したならば以下の通り。

四他勝処法
  戒相
貪求利敬讃毀戒
第一
若諸菩薩為欲貪求利養恭敬自讃毀他是名第一他勝処法 自身の利益や名声を得ることを目的に、自らを称揚して他者を誹謗中傷すること。
性慳財法不施戒
第二
若諸菩薩現有資財性慳財故有苦有貪無依無怙正求財者来現在前不起哀憐而修恵捨正求法者来現在前性慳法故雖現有法而不給施是名第二他勝処法 自身に資産の余裕があるにも関わらず、その財を慳貪して、苦しみの中にある貧しく頼る者も無い者が恵みを乞いに来たっても、憐れむことなく施しをしないこと。また正しく法を求める者が来たっても、法を(他人に説くことを)惜しんで、法を説いて教えないこと。
長養忿纏不捨戒
第三
若諸菩薩長養如是種類忿纏由是因縁不唯発起麁言便息由忿蔽故加以手足塊石刀杖捶打傷害損悩有情内懐猛利忿恨意楽有所違犯他来諌謝不受不忍不捨怨結是名第三他勝処法 様々な怒りを増長させ、粗暴な言葉を発して自ら制すること無いこと。手足や石・刀・杖など(様々な手段)で、生けるものを打ちつけ、傷つけ、悩ますこと。猛烈な怒りを心に懐いて、(自らに対して為された)過ちについて他者が謝罪しに来ても許さず、我慢すること無く、怨みを捨てないこと。
《怒りを自ら制すること無く、身口意の三業によって、他者を害すること》
愛楽像似正法戒
第四
若諸菩薩謗菩薩蔵愛楽宣説開示建立像似正法於像似法或自信解或隨他転是名第四他勝処法 菩薩蔵〈大乗〉を謗って、像似正法〈似非仏教〉を悦び、説き、示し、作り上げること。あるいは自ら(像似の正法を)信仰し、あるいは他者に従って信仰すること。 痴慢

阿羅漢果を至上のものとせず、自らを無上菩提を求める菩薩であると認める者は、上記の四他勝処法を違犯[いぼん]しないよう、特段に意識しなければなりません。

なお、『瑜伽論記』において遁倫は、瑜伽戒の四他勝処法とは『梵網経』所説の十重禁の第一から第六までの前六戒を省略したものであると理解しています。しかし、これはあくまで遙か後代の支那および朝鮮における理解であって、それを日本の諸宗も引き継いでいるのですが、そもそも印度以来のものではありません。

像似正法 ―似非仏教

四他勝処法の四箇条はどれも理解しやすい内容のものであろうと思います。

しかし、最後の愛楽像似正法戒で戒められる「像似正法」については、具体的にどのようなものであるかの補足説明が必要でありましょう。これを単に「像似正法とは相似の正法のことです」だとか「像似正法とは、仏陀の教えであるかのようで実は違う教え・思想のこと」などと、それはそれで正しい言ではあるのですが、抽象的にして済ませるわけにはいかない。

実は『瑜伽師地論』では菩薩地分ではなく別の章〈摂事分調伏事〉において、像似正法とはどのようなものかが示されています。

云何名爲像似正法。謂略有二種像似正法。一似教正法。二似行正法。若於非法生是法想。顯示非法以爲是法。令他於中生正法想。如是法教實故諦故。非是正法。而復像似正法顯現。是故名爲似教正法。若廣爲他如是宣説。令他受學亦自修行。妄起法想習諸邪行。而自憍慢稱言我能修是正行。應知是名似行正法爲廣宣説像似正法。復説中間嗢拕南曰
初法等五種 次根等諸見
非處惡作等 後暴惡戒等

 何が像似正法であろうか。略して二種の像似正法がある。一つには似教正法[正法に似た教え]、二には似行正法〈正法と似た修行〉である。
 もし非法非真理〉に対して「法〈真理〉である」と想い、非法をもって「これが法である」と示し、他者に対してそれを「正法である」と想わせること、「このような法教は真実であって、真理である」と。それは正法ではないにも関わらず、しかし正法に似通わせて顕したものである。そのようなことから似教正法という。
 もし広く他者の為にこのように宣説して他者に受学させまた自らも修行して、妄りに「これこそ法である」と想って種々の邪行を修習し、しかも自ら驕り高ぶって「我こそよくこの正行を修行する者である」などと自称したならば、そのようなのを似行正法と言い、広く像似正法を宣説することとなる。また中間の嗢拕南uddāna. 無問自説〉を説いて曰く、
初めに法等の五種、次に根等の諸見と、
非処悪作等と、後に暴悪戒等なり。

『瑜伽師地論』巻九十九(T30, P872c
[現代語訳:沙門覺應]

この一節ではまず総説した後に偈頌が示されていますが、これに続いてさらにその具体例が列挙されていきます。最後に説かれているウダーナは一見意味不明と思われるでしょうが、それはその具体例をまず総括して言ったものです。

現在においてもなお、巷間には大乗について全く無根拠に、あるいは牽強附会して語る者があまりに多くあるようです。それはすなわち瑜伽戒にて言われる像似正法を、まさに正法であると信じ、また説く者らが多くあることに他なりません。

そこで、冗長となる感は否めませんが、しかし瑜伽戒だけでなく大乗というものを正しく理解するにおいても極めて重要な点であるため、ここではそれらを理解しやすいよう原文とその概略を併記したものを表にして以下に示します。

(ただし、今の所これを説く摂事分の梵本が伝わっておらず、したがってただ玄奘訳の漢文のみに依ったもので、しかも浅学愚蒙なる余輩のなしたものであるため、まったく原意を外れた錯誤となっている可能性があります。さらに詳しくは碩学についてその教導に従うことを勧めます。)

像似正法
原文 意味 対応偈頌
諸以如來所説法教相似文句。於諸經中安置僞經。於諸律中安置僞律。 如来の法教と相似した語句・表現による偽経を諸経の中に紛れ込ませ、また諸律の中に偽律を紛れ込ませること。 法等
由増益或損減見。増益虚事損減實事。由此方便於無常等種種義門。廣爲他人宣説開示如是如是自他習行。 増益〈常見〉あるいは損減〈断見〉の邪見に基づいて虚事を増益して実事を損減するなど、(その誤った見解を)用いて無常等の種々の(仏教本来の)教えに仮託して他人の為に説き示し、またそのように自ら修行し、他者にも修行させること。
於宣説補特伽羅所有經典。邪取分別説有眞實補特伽羅。 人があらゆる経典を説示しているのを邪に理解し分別して、真実の人〈不滅の霊魂の如き意味での人、補特伽羅の意か?〉があると説くこと。
於種種假有法中。宣説開示爲實有性。 種々の仮有の法について、これを実有であると説示すること。
於遠離一切戲論究竟涅槃。分別爲有或爲非有。説爲有性或非有性。 一切の戯論を遠離した究竟涅槃を分別して「有る」あるいは「有るに非ず」とし、これを有性あるいは非有性であるとすること。
有一類補特伽羅。作如是説。世尊宣示稱揚讃歎密護根門。由是因縁寧不視色。乃至於法不以意思。而不繋念觀視衆色乃至以意思惟諸法。 「世尊は(現・耳・鼻・舌・身・意の)根門を密護(して色等の諸境に惑わされぬように)することを説示され、称揚され讃嘆された。そのようなことから、むしろ色を見ず、乃至、法を思はないようにしよう」と言って、繋念して諸々の色を観察せず、乃至、意を以て諸々の法を思惟しないこと。 根等諸見
聞世尊宣示稱歎簡靜而住。便作是言。寧無咎責不測量他。於應毀者而不呵毀。於應讃者亦不稱讃。而不有所呵毀稱讃。 世尊が物静かに生活することを説示され、讃嘆されたことを聞いて、「むしろ過失無き者を責めることをしても、他人を評価などしない。謗るべき者を謗らず、讃えるべき者を讃えず。(自他共に)呵責・称賛のいずれもすることなど無い」などと(解釈して)言うこと。
聞世尊宣示稱歎和氣軟語。便作是言。受默然戒都無言説爲極善哉。 世尊が優しく穏やかに語ることを説示され、讃嘆されたことを聞いて、「黙然戒を受けて一切言葉を発しないことこそ最も善きことであるとされた」などと(解釈して)言うこと。
聞世尊宣示稱歎節量衣食。便作是言。斷食而住露體而行最爲妙善。 世尊が衣食について節度あることを説示され、賛嘆されたことを聞いて、「断食し、裸でいることが最も善い」などと(解釈して)言うこと。
聞世尊宣示稱歎離諠雜住。息諸言説及以事業。便作是言。棄捨臥具。寂靜閑居。無所修習爲極美妙。 世尊が喧しく雑多な生活を離れ、諸々の議論や事業から離れるよう説示され、賛嘆されたことを聞いて、「臥具を捨てて寂静に閑居し、何も修習すること無くあるのが最も美妙である」などと(解釈して)言うこと。
聞佛説心將導世間。心營造一切。隨心所生起皆自在而轉。於如是等諸經義趣不如實知。或有一類。由惡取執作如是言。唯有一識馳流生死。無二無別。 仏陀が「心が世間を導く」・「心が一切を作り出す」・「心に従って生起するものは全て自在に転ずる」と説かれているのを聞いて、それら(が説かれた)諸経典の正しい意味について如実に理解せず、悪しき取執に基づいて、「ただ一つの識のみがあって、それが生死流転するのだ。(識に)二つ無く、別個のものも無い」などと(解釈して)言うこと。
聞佛許持戒士夫補特伽羅受百味食百千衣服。障道妙欲。設此品類正受用時亦不爲障。或有一類。由惡取執作如是言。世尊所説障道諸欲。若有習近不足爲障。 仏陀が持戒の人には百味の飲食・百千の衣服を受けることを許されたということを聞いて、道を修めるのに障害となる扇情的事物であっても布施として受けることは障りとなることはないのだと理解し、悪しき取執に基づいて、「世尊が説かれた道を修めるのに障害となる扇情的事物に、もし近づき親しんだとしても、障りとなることなど無い」などと(解釈して)言うこと。
聞佛説諸阿羅漢於現法中於食言説蘊界處等不捨不取不如實知。便作是説。如我解佛所説法者。阿羅漢僧於其死後無所覺了。 仏陀が「諸々の阿羅漢は現法〈現世〉において、食・言説・五蘊・十八界・十二処等について捨てることもなく、取ることもなく、また如実に知ることもない」と説かれているのを聞いて、「我が仏陀の説かれた法を理解したならば、阿羅漢僧にはその死後において悟ったことなど無いこととなる」などと(解釈して)言うこと。
有一類。不如實知世俗勝義二諦道理。違二諦理。作如是言。諸蘊無我。云何無我造作諸業令我觸證。 如実に世俗諦・勝義諦の二諦の道理を知らず、二諦の理を誤解して、「諸々の蘊が無我であるならば、どうして無我が種々の業を造って、しかし我にその報が現れるのであろうか」などと(解釈して)言うこと。
本性愚癡多行謗毀。彼於九種内正住心不如實知。於諦觀行念 住觀行不如實知。由不知故。爲他宣説唯信解作意是奢摩他品。唯信解作意是毘鉢舍那品。唯信解作意能得究竟。自亦習行。 その本性が愚昧であって多くの誹謗をなす者が、九種心住〈等持にいたるまでの九段階の定心。止行の階梯〉のうちの正しき心住について如実に知らず、また四諦の観行・四念住の観行について如実に知らず、その無知なるが故に他者の(正しくない)言葉・教導を鵜呑みにして無闇に信じ、(誤っているものを指して)「これは奢摩他〈止〉である」・「これは毘鉢舍那〈観〉である」・「これによって究竟〈涅槃〉を得る」などと他者に説き、また自ら修行すること。
非處惡作而不思惟。 非処悪作に違犯しながらそれを思惟しないこと。 非処悪作
於其讀誦觀行作意。皆有堪能而樂僧事。亦於其中見勝功徳。爲他宣説。 読誦・観行・作意において堪能であり、僧事〈授戒や布薩など僧伽における行事〉を行うことを願い、それに勝れた功徳があると見た者が、他者の為に説き示すこと。《特にこの項目はその意味内容が不明瞭》
於戒於修有所堪能。而於惠施見勝功徳。遊歴諸方。於自禁戒所遮止處多有毀犯。集諸財物奉佛法僧。 持戒および修習において堪能であり、布施には勝れた功徳があると見た者が、諸方に遊歴して禁戒にて制止されている行為に多く違犯することによって諸々の財物を集め、それを仏法僧の三宝に供養すること。
於善説法毘柰耶中既出家已。展轉相引專以聽聞爲其究竟。 (仏陀により)善く説かれた法と毘奈耶〈律〉において出家しながら、(修禅もせず思惟もせず)ただそれらを聴聞することだけを以てその究竟とすること。
見諸苾芻大族大福多獲衣等所有利養。捨少欲等而往其所恭敬叙慰現親誨喩。令新苾芻邪心動作。 多くの親族や多くの信者がある比丘が多くの衣などの布施を得ているのを見て、少欲を捨ててその比丘の所にいって媚びへつらい、(そのさもしい様を見せることで)新たに比丘となった者の邪心を惹起させること。
棄捨如來所説甚深空性相應所有經典。專樂習學隨順世間文章呪術。而不自察懷聰明慢。又欲令他知己聰敏。 如来が説かれた甚深なる空性に関する経典を捨てて、世間に通用あるいは迎合した言説・呪術を習学し、自らが優れているなどと慢心を懐きながらもそれに気づかず、あるいは他者に自分が聡明であることを知らしめようとすること。
折伏暴惡及諸犯戒。爲欲於彼暴惡犯戒作不饒益發起惡思。 暴悪なる者や諸々の犯戒者を折伏し、そのような暴悪あるいは犯戒の者に不利益を被らせようとして、悪しき思考を起こすこと。 暴悪戒
搆集種種矯詐威儀。 種々なる人を欺き騙す威儀を作り出すこと。
以解世間文章呪術。多求多獲所有利養。 世間に通用あるいは迎合した言説・呪術を理解し実践して、様々な利養を多く求め、多く得ようとすること。
損惱於他以其非法積聚財寶作有罪福。 (人や神、動物など問わず)他者を損害し、その非法なる行為でもって財宝を収得し、罪ある福をなすこと。
即於彼能引無義像似正法。以諸因縁開示建立。 以上のような不正なる像似正法を諸々の因縁をもって(他者に)開示し、作り上げること。

なにやら、ここで避けるべき像似正法の具体例とされるもののいくつかは、まさに現代の日本の寺家など僧職者らのほとんどや仏教系新興宗教団体の職員や信者らが当たり前のように説き行っているものに他ならない、逆の意味で実に現実的なもののようです。

しかし、これが著されたのは今から1600年程も前の北印度においてのこと。以上のように具体的に説かれているのは、むしろ当時の印度において同様の者が数多あったことの証といえるかもしれません。そしてそれらと同じような輩が、時と場を全く移した現代日本においてもなお世に跋扈して、似非仏教をもって仏教としているのでしょう。

誠に憐れなのはそれを他者から説かれて真剣に信じ、純粋にそれを行っている人々と言えるでしょう。そして、最も罪作りなのはそのように信じさせている輩共です。世には人に信仰させる者らは実はそれを全然信じていないという事態が往々にしてありますが、自ら深く信じて他にも勧める者らもまた実にタチの悪いものです。

もはやこれは悲劇であると同時に喜劇であるという、一度で二様に楽しめてしまう滑稽なる事態でありましょう。

これは全く余談となりますが、日本の近世最初期になされた戒律復興の機運が百年を経たころから弛緩してまた元の木阿弥となりかけていた際、これを今一度正そうとした慈雲尊者は、以上の如き『瑜伽師地論』所説の相似正法を意図し、それを正すために正法律を提唱して釈尊の昔に帰ろうとの運動をしています。

(慈雲尊者の正法律については、別項“慈雲『根本僧制』 ―正法律とは何か”を参照のこと。)

実際、以上のように避けるべきものとして像似正法なるものの具体が明らかとなっていれば、それを意識して避けることは比較的容易いことです。大乗を奉ずる者、菩薩戒を受持する人は、これらをよく気をつけて特に戒めて避けるべきことです。

四十三軽戒

瑜伽戒における四他勝処以外の余戒について、ここでは『瑜伽師地論』の所説に従って四十三箇条、いわゆる四十三軽戒としてその戒相を示します。

その前にまず、四十三軽戒が示される『瑜伽師地論』菩薩地の瑜伽戒品第十之二の冒頭には、以下のように説かれていることを知る必要があります。

如是菩薩安住菩薩淨戒律儀。於有違犯及無違犯是染非染軟中上品。應當了知。

このように菩薩は、菩薩浄戒律儀に確固として依り、その違犯āpatti・無違犯anāpatti、染汚kliṣṭa・非染汚akliṣṭa、そして軟品mṛdu・中品madhya・上品adhimātraと(のそれぞれ違いやその詳細を)を理解しなければならない。

『瑜伽師地論』巻四十一(T30, P516a
[現代語訳:沙門覺應]

この一節によって、いわゆる四十三軽戒にて制される行為を行ったとして、これを違犯[いぼん]あるいは違越[いおつ]〈sātisāraというのですが、場合によりその罪の程度に違いがあることが示されています。

無違犯とは、戒に抵触しないことであるのは勿論として、たとえ該当する行為をしたとしても罪とならない場合のことです。先ずそれは精神錯乱・心神喪失状態にあった者がなした場合、大なる苦しみに逼迫した者が意図せずなした場合、特定の状況・条件下にてなされた場合です。その者の責任能力の有無が問われるためです。

そして、これは言うまでもないことかもしれませんが、いまだ瑜伽戒を受けたことが無い者が制される行為を為した場合や、受戒以前に為していた場合も無違犯となります。いわゆる法の不遡及ですが、このあたりの規定はもはや戒ではなく、律におけるそれと全く同一です。

およそ二千六百年前、釈迦牟尼に依って制定された律の規定は、近現代の法律の概念と相似したものです。よって、仏教における戒や律全般について、ユダヤ教やイスラム教などのそれと同じき「いわゆる宗教的戒律だ」などと考えるのみで、そのような法律的見方を以てしないとまるで見誤ることとなるでしょう。

また、すでに浄意楽地[じょういぎょうち]〈śuddhāśaya-bhūmiに至った菩薩がなした場合も無違犯とされます。浄意楽地に至った菩薩とは、『瑜伽師地論』にて説かれる菩薩の十種の階梯における第四番目の已浄意楽[いじょういぎょう]の菩薩のことで、『十地経』で説かれる所の初地歓喜地以上の菩薩のことです。

なぜ高位の境地に至った菩薩は同じ行為をしたとしても無違反とされるのか。私見ながらそれはおそらく、道を已に得た者にはいわゆる道共戒[どうぐうかい]が備わって、もはや自ずから悪を為すことは無くなるという前提あってのことでしょう。大乗において道共戒が備わるとされるのは、まさに十地の初めである歓喜地に至った者です。なお、積極的に十善業道を行うのは第二離垢地に至ってからとされます。

そもそも戒にしろ律にしろ、それらは本来、あくまで身体と言語による行為を制するものです。が、十善を戒としたならば、そこには慳貪・瞋恚・邪見という三種の心についての戒が含まれており、通常の意味での戒とは異なったものとなります。已に浄意楽地に至った菩薩は十善が自然に備わり、愚かさや悪しき動機に基づいて何らか行為を行うものでは決して無いという大乗の見方、信仰というものがここに表れているのでしょう。

さて次に、染汚[ぜんま]〈kliṣṭaとはなんから戒に違反した際、その動機が特定の煩悩に基づいていた場合です。対して非染汚は、行為としては違犯となっていても、その動機・理由が怠惰や不注意などに由った場合です。これをそれぞれ染汚違犯・不染汚違犯と言います。

そして、軟品〈下品〉・中品・上品とは、五つの観点から、戒に抵触した際の罪を三種に分類したものです。その五つの観点とは自性・毀犯・意楽・事・積集ですが、これらをここで詳細にすることは煩雑と過ぎたものとなろうため略します。

(その詳細を知りたい者は、『瑜伽師地論』巻九十九「摂事分調伏事総択摂」を参照のこと。)

では四十三軽戒の内容について、それを要略して示せば以下のようなものとなります。なお、それぞれ戒の名目は凝念がその著『梵網戒本疏日珠鈔』にて用いたものを記しています。また表右端には『瑜伽論記』の解釈[げしゃく]に依り、それぞれの戒条が大乗の修道において具体的に何を目的としたものであるか約したものを記しています。

これは瑜伽戒の四十三軽戒とはまさに六波羅蜜〈六度〉と四摂法を正しく行じるためのものであると、遁倫〈道倫〉によって具体的に示されたものとなっています。

四十三軽戒
名目 戒相 約六度四摂法
不共礼讃三宝戒
第一
仏菩薩を祀る制多caitya. 祀堂(仏宝)・大乗の経蔵や論蔵(法宝)・僧伽にある十地以上の菩薩僧(僧宝)の三宝に対し、身・口・意業による供養を小分たりともしないこと。 障財施 障施 障六度
利養恭敬生著戒
第二
貪欲で足ることを知らず、種々の利益や名声に対して執着を起し、その執着を捨てないこと。
不敬耆長有徳戒
第三
耆長〈上座僧・尊宿〉や敬すべき有徳の同法者が来訪したのに、憍慢・嫌恨・瞋恚の心を起して、立って出迎えず上席に案内しないこと。会話・論談・慶弔のために他者が来訪したのに、憍慢・嫌恨・瞋恚の心を起して、道理に叶った発言や応対をしないこと。
憍慢不受請施戒
第四
他者からその居家や他寺において飲食や種々の生活用品を(自身に対して)供養するための招待を受けたのにも関わらず、憍慢・嫌恨・瞋恚の心を起して、その場所に行かず、供養を受けないこと。
嫌恨不受重宝戒
第五
他者から種々の金・銀・真珠・摩尼・瑠璃など財宝の布施をされたにも関わらず、憍慢・嫌恨・瞋恚の心を起して、それらの布施を受けないこと。
嫌恨不施其法戒
第六
他者が法〈教え〉を求めて来訪したにも関わらず、嫌恨・瞋恚・嫉妬の心を起して、法を施さないこと。 障法施
棄捨犯戒有情戒
第七
凶悪な犯戒の者に対し、嫌恨・瞋恚の心を起して、その凶悪な犯戒者であることを理由に見捨て、彼を利益しないこと。 障無畏施
遮罪共不共戒
第八
*
菩薩は、声聞と共通する波羅堤目叉(律)を護り、未だ信無き者に信を起こさせ、すでに信有る者らの信を深めさせるべきである。また利他を重きとするが故に、声聞には制限されて共通しない、種々の衣鉢・坐臥具・絹衣の布施を無制限に受けて蓄えるべきである。にも関わらず、嫌恨・瞋恚の心を起して、利他を忘れ、利他の活動も方策もしないこと。 障戒
性罪一向不共戒
第九
*
菩薩は、利他の為であって慈心をもって深く思惟した結果としてならば、(戒や律で禁じられる)殺生・偸盗・邪淫〈出家者の場合、婬自体が不可〉・妄語・両舌・綺語・悪口など諸々の性罪〈それ自体が悪しき行為〉を犯したとしても、それはむしろ多くの功徳となるのに、それらを行わないこと。
求利味邪命法戒
第十
ただ自らの利益の為であるのに偽り欺いて、そうでは無いかのように振る舞って利益を求め、邪に生活して恥じること無く、その生活を固持して捨てることが無いこと。
掉動心不寂静戒
第十一
心に落ち着き無く寂静を願わず、声高に騒いで飛び跳ね、他者を笑わせようとすること。
不欣涅槃厭煩悩戒
第十二
菩薩は涅槃を願うべきでなくむしろ厭うべきであり、また煩悩・随煩悩を畏れてその断滅や遠離を願うべきでなく、三無数劫の長きを生死流転して大菩薩を求めるべきであると説くこと。
悪称誉不護雪戒
第十三
他者からの不名誉な誹謗中傷を被っているにも関わらず、それを晴らさないこと。もしそれが事実であるならば、その批判される行為を止めないこと。
応行辛楚不行戒
第十四
他者に対し、辛楚〈痛み苦しむこと〉や猛利〈甚だしいこと〉なる行為をすることが、むしろその者自身の利益となることがわかっているにも関わらず、その者がその過程に受けるであろう憂い悩みを思って、行わないこと。
罵瞋等報罵等戒
第十五
他者から罵られて罵り返したり、怒りを受けて怒りを返したり、打たれて打ち返したりすること。 障忍
侵犯若疑不謝戒
第十六
自らが他者(の権利など)を何らか侵害し、あるいはその事実は無くとも侵害したと疑われたにも関わらず、嫌恨・軽慢の心を起して、如法に謝罪しないこと。
他侵来謝不受戒
第十七
他者から自ら(の権利など)が侵害され、その者から如法に謝罪を受けたにも関わらず、嫌恨して害意を懐き、その謝罪を受け入れないこと。
懐忿堅持不捨戒
第十八
他者に怒りを懐いても、自らその怒りを継続させて捨てないこと。
貪供事御徒衆戒
第十九
(自身に対する)奉仕を貪って、衆gaṇaを率い養うこと。 障精進
懈怠耽睡臥倚戒
第二十
自らの懶惰・懈怠によって、不適切な時期と時間に、睡眠・横臥・倚坐の楽を貪ること。
談説世事度時戒
第二十一
染汚の心によって、世事について論談し、虚しく時日を送ること。
憍慢不求禅法戒
第二十二
心を治めるために定を修めようとするも、嫌恨・驕慢の心を起して、師のもとに詣でてその教えを請わないこと。 障禅
忍受五蓋不捨戒
第二十三
貪欲、瞋恚、惛沈・睡眠、悼挙・悪作、疑(の五蓋)を起してこれを堅持し、捨てないこと。
貪味静慮為徳戒
第二十四
静慮禅那(の境地)を貪り味わって、それを功徳であるとすること。
不許学小乗教戒
第二十五
「菩薩たる者は声聞乗の法教を聴聞・受持・精勤・修学してはならない」などと論じて説くこと。 約法 障慧
棄菩薩蔵学小戒
第二十六
菩薩蔵大乗経典を詳しく研究せぬまま、声聞蔵三蔵を専らにして修学すること。
仏教未精学異道戒
第二十七
仏教を詳しく研究せぬまま、異道〈外道・他宗教〉の論説に従って精勤・修学すること。
越正法翫外論戒
第二十八
菩薩法大乗から逸脱し、異道の論説に従って研究し、毒を扱うかのようにでは無く、むしろ深く尊重・愛楽・味着して、親近すること。
深真実義不信戒
第二十九
*
菩薩蔵を聴聞して、その甚深義・真実義や諸仏・菩薩の神通力を信じること無く誹謗し、「道理に叶っておらず、真理に関わり無く、如来の所説では無く、有情を利益するものでは無い」などと言うこと。
愛恚自讃毀他戒
第三十
貪欲・瞋恚の心を起して、自らを称揚して他者を誹謗中傷すること。 就人
説正法不住聴戒
第三十一
正法が講説され、あるいは(正法について)議論され決着されるというのに、驕慢・嫌恨・瞋恚の心を起して、その場所に行って聞かないこと。
於説法師毀笑戒
第三十二
説法師dharma-bhāṇaka pudgalaを軽蔑して尊敬せず、嘲弄して批難し、「ただ文字面を追うのみで核心を突いていない」などと言うこと。
所応作不為伴戒
第三十三
他者が何事かを為そうとしているにも関わらず、嫌恨・瞋恚の心を起して、その助力とならないこと。その事とは、道の往来・準備・財の防護・訴訟の和解・祝宴・福祉など。 障同事 障四摂
病若苦不供事戒
第三十四
有情が重い病に罹っているのを見たにも関わらず、嫌恨・瞋恚の心を起して、その有情の元に行って見舞わず看護しないこと。 障愛語
行非理不為説戒
第三十五
他者が現世・後世の為として、むしろ種々の不道理anayaな行いをしているのを見たにも関わらず、嫌恨・瞋恚の心を起して、その者の為に正しい道理を説き示さないこと。 障布施
不知恩不酬法戒
第三十六
以前、恩恵upakāraを受けたことのある有情に対し、その恩を知らず理解せず、嫌恨の心を起して、その恩に応えて報いようとしないこと。
失財等愁不開解戒
第三十七
他者が財産・親族・地位を喪失するなど困難な状況にあって嘆き悲しんでいるにも関わらず、嫌恨の心を起して、その者のところに行って慰撫しないこと。
求飲食等不給戒
第三十八
飲食物など(自らの蓄えに)余裕があるにも関わらず、嫌恨・瞋恚の心を起して、(貧困や飢渇の苦しみの中にある有情に対して)飲食物などを分け与えないこと。
摂徒衆不教給戒
第三十九
弟子parṣadaを率いていながら、嫌恨の心を起して、適時に正しく教授せず、正しく呵責しないこと。また、(弟子が)窮乏していることを知りながら、その者の為に信者である長者・居士・婆羅門などに如法に依頼して、衣服・飲食・坐臥具・医薬や生活必需品を適時に供給させないこと。
於他不隨心転戒
第四十
嫌恨の心を起して、有情に心を向けないこと。 障利行
他有徳不顕揚戒
第四十一
嫌恨の心を起して、他者が実に徳があるにも関わらずそれを世間に広めようとせず、他者が実に栄誉あるにも関わらずそれを賛嘆しようとせず、他者が実に(法を)良く説いているにも関わらず「善い哉!sādhu」と讃えないこと。
可呵責等不作戒
第四十二
呵責・治罰・躯擯すべき他者に対し、染汚心を起して、呵責しないこと。あるいは呵責したとしても、治罰して如法に教誡しないこと。あるいは治罰して如法に教誡したとしても躯擯しないこと。
応恐怖等不作戒
第四十三
種々の神通変現の力を具えたにも関わらず、それによって信施を受けるのを避ける為に、恐怖すべき有情を恐怖させず、また引摂すべき有情を引摂しないこと。

ここで一応注意しておきますが、以上に示した戒相はあくまで四十三軽戒の概略に過ぎないものであり、先に示した無違反や染汚・不染汚とされる事例は全く挙げていません。よって、よりその詳細を知りたい者は、『瑜伽師地論』あるいは『菩薩戒本』〈『瑜伽戒本』・『菩薩戒経』に同じ〉の該当する一節を熟読する必要があります。

以上のように、瑜伽戒における種々の戒条は、『梵網経』所説の十重四十八軽戒と比したならば、非常に体系的なものであって解りやすく、誠に現実的なものであることが知られるでしょう。これら戒条のほとんどは、日常の生活にどこまでも則したものであって、非現実的で実現不可能に思われる類のものではありません。

ただし、第九の性罪一向不共戒は瑜伽戒において最も特異な戒条です。

これは所謂「一殺多生」を是認しているもので、律儀戒にて重軽共に戒しめている殺生や窃盗などその行為自体が悪とされる十不善業、すなわち性罪[しょうざい]をその動機や目的の如何によっては許したものです。

例えば、ある一人の暴虐なる者があって今まさに多くの人々を殺害・傷害しようとしているとして、しかしその者を殺めたならば多くの人々の生命を救い得ることが確実ならば、それを殺傷しても罪とはならず、むしろ積極的に殺傷せよとしているのです。

もっとも、それはあくまで「菩薩戒として」であって、もし出家である菩薩比丘がどのような理由であれ意図的に殺人など犯してしまえば、それは文字通りの波羅夷罪(断頭罪・不可悔罪)となって、彼は比丘僧伽から追放され、もう二度と出家することはできなくなります。

この性罪一向不共戒について、もし狂信的新興宗教団体や過激思想を持つ者などが恣意的に理解したならば、むしろ自身らの暴挙を正当化する根拠として実践されてしまう危うさを孕んでいます。実際、日本の戦前戦後という比較的短い期間においてもこの思想に依拠して重大な事件を引き起こした者が少なくありません。

とは言え、現実の俗世間では、日本では比較的稀ではあるものの世界各国の警察組織や軍事組織において「一殺多生」はごく当たり前に行われていると言っていいものです。死刑を廃止した国であっても極めて危険な犯罪者など「条件次第では」その場で射殺されます。射殺した者は表彰されることはあっても罰せられることなどありません。それは勿論、俗法の体系とその裏付けがあってこそのことです。

あるいは、『礼記』に「苛政は虎より猛なり」などとありますが、暴虐なる為政者によって多くの人民が弾圧され、ついに民衆が放棄してその為政者を殺害したとして、それがもちろん完全に違法行為であっても治安擾乱やテロであると糾弾せず、むしろ革命であるとして讃えることは、洋の東西も古今も問わず俗世にしばしば見られることです。

ところで、先にこの四十三軽戒は典籍や人によって数を異にしていると述べましたが、ここでそれについて少しく詳細にしておきます。

先ず四十二軽戒とするのは旧論、すなわち『菩薩地持経』であって、それは新論すなわち『瑜伽師地論』に説かれる第九の性罪不共戒が欠けて無いためです。

次に四十四軽戒とするのは、第八の遮罪共不共戒を共と不共とに分けてのことです。凝然はこれをそれぞれ遮罪堅持共学戒と遮罪有縁不共戒としています。そして四十五軽戒とする場合は、これは遁倫の説によれば第二十九の不信深法戒を不信解と毀謗両舌とに開いてのことです。同じく凝然はこれらを不信深義戒と不強信受深義戒と名づけています。

要するに、いずれの説にせよ戒の内容が変わっているわけではなく、ただそれをより詳細にするか否か程度の差に過ぎません。

さて、先に瑜伽戒は僧俗通じたものでは一応あるけれども基本的に出家本位であることを指摘しましたが、これらは比丘として僧院にある者でもその護持する律と衝突・乖離したものとなっていません。この点も梵網戒とは大きく異なっている点です。そのようなことから、瑜伽戒は無着菩薩がこの『瑜伽師地論』を(弥勒菩薩の説示を聴聞して)著したという当時の、大乗の出家菩薩らのあり方が直に反映したものと見ることも出来るでしょう。

もっとも、そのような千数百年前の印度における先徳らのあり方に思いを馳せることは充分意味あることではありますが、今はこの瑜伽戒がいかなる内容のものであるかをまず理解し、現実にそれぞれの人生に持して活かすことこそ肝心。

ここではそれをこそ目的として、以上の瑜伽戒の戒相を略示しています。

持戒の功徳 ―成就三種円満

三聚浄戒、すなわち菩薩戒を現実に受持することによる功徳は何か。それは三種の円満が成就されることであると、『瑜伽師地論』にて説かれます。

如是菩薩依止一切自毘奈耶。勤學所學。 便得成就三種圓滿安樂而住。

このように、菩薩がすべての自毘奈耶svavinyaに依って勤めて学んだならば、三種の円満saṃpattiを成就samanvāgataして安楽に住す。

『瑜伽師地論』巻四十一(T30, P521b
[現代語訳:沙門覺應]

ではその三種の円満とは何か。それを簡略に示せば以下の通り。

三種円満
  意味
加行円満
prayoga-saṃpatti
諸菩薩於淨戒中行無缺犯。於身語意清淨現行。不數毀犯發露自惡。 その菩薩は、浄戒を受けてその行いに違犯なく、身体と言葉と心との行いが清浄で妥当となって、しばしば罪を造らず、また自ら(為した)悪を発露する。
意楽円満
āśaya-saṃpatti
諸菩薩爲法出家不爲活命。求大菩提非爲不求。爲求沙門爲求涅槃非爲不求。如是求者不住懈怠下劣精進。不雜衆多惡不善法雜染後有有諸熾然衆苦異熟。當來所有生老病死。 その菩薩は、法dharmaを求めて出家したのであって生活jīvikāの為にでなく、大菩提mahā-bodhiを求めて求めずとせず、沙門śrāmaṇaおよび涅槃nirvāṇaを求めて求めずとしない。そのように求める者は、懈怠śrāmaṇaにして精進を欠くことhīnavīryaが無く、種々の悪・不善の法・不浄なる後有・灼熱の苦の異熟果、及び未来世に生・老・病・死を受けることはない。
宿因円満
pūrva-hetu saṃpatti
諸菩薩昔餘生中修福修善。故於今世種種衣服飮食臥具病縁醫藥資身什物。自無匱乏。復能於他廣行惠施。 その菩薩は、過去の他生pūrva anyā jātiにおいて福を積み善を修めたが故に、現世において種々の衣・托鉢による飲食・坐臥具・病時の医薬・家具など欠乏すること無く、また他者にも広く施すことが出来る。

戒とは防非止悪のものです。

五戒であれ十善戒であれ、自ら戒を持し日頃よく気をつけて自他に苦をもたらす行為を自ら制するよう生きる者は、次第にであっても非法を離れ、自らの悪を止めることが出来ます。そして、その結果として畏れなく、不安なく、後ろめたい思いを離れて、心軽やかに生きることが出来るようになれば、瑜伽を修めるその土壌が整います。

持戒とは止観を修める者に、いや、仏教者はすべからく行じなければならない必須のものですが、それは「ホトケ様が定められたことであるから、とにかく守れ。バチが当たる」などというものでなく、自らが自らを救うための必須条件です。

そもそも仏教の修道とは、戒・定・慧の三学を次第して行じるものです。戒なくして定はなく、定なくして慧など有りえません。故に戒は、苦海から脱せんとする者、菩提を求める者はその最初に必ず受け、その初めから十全とは行かないことは当然として、しかし漸く勤めて修めるべしとされます。

また、これはあくまで副次的なものではありますが、戒を持して生きることはまた福徳でもあり、その果報として来世において物理的に恵まれるということもあるとされます。宿因円満として言われているのがそれです。

戒とは「富は悪である。何が何でも誰であれ清貧を貫け」などと理不尽に強制するものではありません。財貨などの富は、出家者は除外されますが、人によって全く異なるそれぞれの分際で法に則る限りにおいていくらでも稼ぎ、蓄えたらよいでしょう。そこで問題となるのは、それをどのように見て扱い、どう使うかです。

さて、そのような諸々の果報、持戒の功徳が示されたのが三種の円満です。

『瑜伽師地論』はまた項を改め、持戒の功徳はいかなるものであるかを重ねて示しています。

如是菩薩大尸羅藏。能起當來大菩提果。謂依此故菩薩淨戒波羅蜜多得圓滿已。現證無上正等菩提。乃至未證無上菩提。依此無量菩薩戒藏正勤修習。常能獲得五種勝利。一者常爲十方諸佛護念。二者將捨命時住大歡喜。三者身壞已後在在所生。常與淨戒若等若増諸菩薩衆。爲其同分爲同法侶爲善知識。四者成就無量大功徳藏。能滿淨戒波羅蜜多。五者現法後法常得成就自性淨戒。

このような菩薩の大尸羅蔵mahā śīla-skandha. 大戒蔵は、来たるべき大菩提果の基となるものである。すなわちこれに依って菩薩の浄戒波羅蜜多śīla-pāramitāを円満して現に無上正等菩提を証し、乃至、未だ無上菩提を証していない者は、この無量なる菩薩戒蔵に依って正勤修習して、常に五種の勝利pañcānuśaṃsaを獲得する。一つには常に十方諸仏によって護念される。二にはまさに命終せんとする時、大なる歓喜に包まれる。三には命が終わって後、転生した処々において、常に浄戒と等しいもしくはそれ以上の諸菩薩衆と同分となり、あるいは同法侶となり、善知識となる。四には無量の大功徳蔵puṇya-skandhaを成就し、よく浄戒波羅蜜多を満足する。五には現法dṛṣṭa dharma. 現世が終わって後、性戒prakṛti-śīlaを成就する。

『瑜伽師地論』巻四十二(T30, P522c
[現代語訳:沙門覺應]

戒とは、声聞であれ大乗であれ、菩提を得ることの基礎として修めることが第一義です。

声聞乗・大乗の別を問わず仏教を奉ずる者であるならば、まったく独自の僻事や遠大なる思想を言葉遊びかのように云々するのでなく、現実の生活において正しく戒を理解し受持しないことはまったく有り得ません。

(そもそも戒とは何かについて、その詳細は別項“戒とは何か”ならびに“戒の伝統的定義”を参照のこと。)

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2.瑜伽戒の実際

受戒法

瑜伽戒とは以上に述べたようなものであるとして、ではそれをいかにして受け得るのか。

その方法には従他受(従他正受)と自誓受(自浄心受)の二種あります。ただし、それは前述した瑜伽戒のみ受ける方法というのではなく、三聚浄戒として総じて受ける術です。

先ず従他受とは、誰か他者を戒師として請うて戒を受ける、正当な受戒法です。その戒師となりえるのは出家・在家を問いません。しかし、戒師となるのは、すでに三聚浄戒を受持して智と力とを具えており、よく自ら戒の内容を理解して他にそれを詳らかに示しうる者でなければなりません。

なお、これは具足戒の授受とは異なるため、戒師以外のいわゆる証明師[しょうみょうし]などの人を別途に要しません。『瑜伽師地論』所説の三聚浄戒の受戒においては戒師が証明師を兼ね、また十方の諸仏諸菩薩にその証明を請うためです。

『瑜伽師地論』では、従他受にしろ自誓受にしろ、それぞれどのように戒を請うべきか、戒を受けることを誓うべきかの次第や、戒を授受する両者がその際に用いるべき一連の文句が定められています。

そのような定められた文句あるいは行為を、これは律に倣っての用語ですが、白[びゃく]あるいは羯磨[こんま]といいます。白とは、確認を意味するjñaptiの漢訳。羯磨とは、行為・業を意味するkarmaの音写で普通「かつま」と読みますが、戒や律の用語としてはれを特に「こんま」と読んでいます。

ここで全くの余談ながら、日本における仏教用語の読み方は基本的に呉音で行われますが、しばしば呉音でも漢音でも唐音でもない、特殊な読みが行われることがあります。羯磨を「こんま」と読むこともその一例ですが、他にこの項でしばしば出している意楽という語も特殊な読みがなされます。意楽とは、意志や意図を意味するāśayaの漢訳ですが、「いぎょう」と読んで「いらく」とは決して読みません。

術語の特殊な読みなどは仏教に限らず様々な業界でもある程度行われるものでしょうが、これらもそのような語の一つです。もしこれらを「かつま」であるとか「いらく」などと読むと、途端に基本的なことをまったく踏まえておらず、その浅学菲才が顕となって恥をかくこととなるので注意が必要です。

とはいえ、これは日本ならではの特殊な事情なのですが、同じ仏教でも比較的新しい時代に伝わった禅宗などは、呉音よりも唐音読みを好んで用いる傾向があって、この問題は中々複雑です。宗によって正しいとされる読みが異なるためです。たとえば禅宗では経行を「きんひん」と唐音で読みますが、伝統的には呉音で「きょうぎょう」と読むのであってどちらも間違いとされないようなものです。さらに同じ禅宗であっても江戸期に明代の支那から伝わった臨済宗黄檗派(黄檗宗)など、また異なった明代の読みを行っています。

閑話休題。白・羯磨とは何かを現代風に言えば、いわば宣言あるいは提議と議決です。また、羯磨とはその原義どおりに行為のことで、律では特に「律に基づく行事、もしくは作法」が意味されます。

そしてそのような規定の言葉としての白と羯磨とは、そもそも翻訳者が異なることによる違いが第一にあるのですが、経や律・論など典籍によってそれぞれ若干異なっています。そのため、『瑜伽師地論』所説の羯磨を特に「瑜伽羯磨」と称します。ただし、これについては後に若干ながら補足説明します。

若諸菩薩欲於如是菩薩所學三種戒藏。勤修學者。或是在家或是出家。先於無上正等菩提發弘願已。當審訪求同法菩薩。已發大願有智有力。於語表義能授能開。

もし菩薩であってそのような菩薩が学ぶべき三種の戒蔵を勤めて修学しようと望む者は、在家であれ出家であれ、先ず無上正等菩提に対して弘願を発しなければならない。そして、審らかに同法の菩薩で、すでに大願を発して智あり力あり、その言葉の意味をよく伝えて解説出来る者を(戒師として)求め、その膝下に参じなければならない。

『瑜伽師地論』巻四十(T30. P514b
[現代語訳:沙門覺應]

さて、三聚浄戒を受持することを発願した者は、その受戒に際して印度の礼法に則り、先ず戒師に対して五体投地してその両足に自らの額をつける勢いにて礼拝。心を鎮めて三宝の徳および戒師を恭敬しつつ、偏袒右肩して踞跪[こき]〈腰を落として左膝を立て右膝を地につける坐法〉あるいは長跪[ちょうき]〈上体を起したまま両膝を地につける坐法〉して合掌しなければなりません。

そして受者および戒師は、以下のような白・羯磨をもって戒を授受します。

従他受
  羯磨文 現代語訳 現代語訳
受者 我今欲於大徳所或長老所或善男子所。乞受一切菩薩淨戒。唯願須臾不辞労倦哀愍聴授 私は今、大徳のもと或いは長老のもと、或いは善男子のもとにおいて、一切の菩薩の浄戒を乞い受けようと思います。どうか願わくは一瞬としても厭うこと無く、私を哀れんで授けることを許し給え。 発願
唯願大徳或言長老或善男子。哀愍授我菩薩淨戒 どうか願わくは大徳よ或いは長老よ、或いは善男子よ、哀れんで私に菩薩の浄戒を授け給え。 請師乞戒
戒師 汝如是名善男子聴或法弟聴。汝是菩薩不 汝、《受者の名》という名の善男子よ或いは法弟よ、聴きなさい。汝は菩薩であるか? 問遮
受者 はい。
戒師 発菩提願未 菩提を求める誓願を発しているか?
受者 已発 すでに発しています。
戒師 汝如是名善男子或法弟。欲於我所受諸菩薩一切学処受諸菩薩一切浄戒。謂律儀戒摂善法戒饒益有情戒。如是学処如是浄戒。過去一切菩薩已具。未来一切菩薩當具。普於十方現在一切菩薩今具。於是学処於是浄戒。過去一切菩薩已学。未來一切菩薩當学。現在一切菩薩今学。汝能受不 汝、《受者の名》という名の善男子よ或いは法弟よ、私のもとで諸菩薩の一切の学処・諸菩薩の一切の浄戒、すなわち律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒を受けようとする者よ、これらの学処・浄戒とは、過去の一切の菩薩は已に具え、未来の一切の菩薩はまさに具え、現在の一切の菩薩は今修めているものである。汝はこれを能く受けるか否か? 授戒
受者 能受
《三説》
能く受けます。
《三度、同じやりとりを繰り返す》
戒師 《對佛像前。普於十方現住諸佛及諸菩薩。》
某名菩薩今已有我某菩薩所。乃至三説受菩薩戒。我某菩薩已為某名菩薩作証。唯願十方無辺無際諸世界中諸仏菩薩第一真聖。於現不現一切時処。一切有情皆現学者。於此某名受戒菩薩。亦爲作証
《三説》
《戒師は仏像の前にて、十方の諸仏諸菩薩に対して、以下のように白す》
《受者の名》という名の菩薩は、今すでに私《戒師の名》菩薩のもとに於いて、乃至三説して菩薩戒を受けました。私《戒師の名》菩薩は、已に《受者の名》菩薩の為にその証明を致します。どうか願わくは十方無辺無際の諸世界にある諸々の仏・菩薩など最も尊き、可視不可視のすべての時、すべての有情の現に覚せる者らよ、この《受者の名》という受戒の菩薩の為に、またその証明をなしたまえ。
《三度、同じ文句を繰り返す》
証明

以上のように次第して、といっても表中ではその最中に行うべき所作や心念などは省いていますが、戒師は受者に戒を授け、また受者は戒を受けて受戒は成立します。

ただし、上代の支那で現実に行われた瑜伽戒の受戒に際しては、上に挙げた『瑜伽師地論』の文言に必ずしも正確に則っては行われなかったようです。というのも、『瑜伽師地論』の翻訳者である玄奘自身が、これら『瑜伽師地論』菩薩地戒品にある受戒次第の一節を丸ごと抽出し、そこで玄奘は自ら適宜に語句の改変や挿入などして、現実の受戒に用いるのに適した受戒法則として体裁を整えた、『菩薩戒羯磨文』を編纂しているためです。

そのようなことから、一般に言われる「瑜伽羯磨」とは、むしろ『菩薩戒羯磨文』所説のそれを指したものとなっています。

白・羯磨における文言は、それらは真言や陀羅尼などとは全く性質を異にしたものであって、典拠にある語を一字一句たりとも変えてはならないような類のものではありません。そもそもそのようなものであれば翻訳すらままならないでしょう。その要はあくまで自他に対してその意味が通じて理解できることで、文意が同一であれば語句の若干の異同など問題とはなりません。

(もっとも、伝統的にはそれぞれ手前勝手に改変などされず、その根拠とした典籍にある言葉を尊重して、あくまでそれに沿ったものとされます。)

また、玄奘が若干編集の手を入れているといっても、玄奘は自ら印度の那爛陀寺Nālandā-saṃghārāmaにおいて師事した大学僧戒賢Śīlabhadraから直に菩薩戒すなわち三聚浄戒を受けているため、印度における受戒について実地の経験と知識とが『菩薩戒羯磨文』に反映されているとは充分に考えられることです。

故に、往古の日本の律宗においても、三聚浄戒の授受に際してはむしろ『菩薩戒羯磨文』に則って行われています。特に例えば鎌倉期の興正菩薩叡尊は『菩薩戒羯磨文釈文鈔』を著してそれに注釈を加えています。

現代では瑜伽戒についての知識と実践とを持ち合わせている僧職の人など、律宗においてすら全く絶無となっていますが、少なくとも近世終わりまでは瑜伽戒は日本においても確かに行われていました。故に日本の覚盛によって考案され、叡尊らと共に実行されて以来連綿として行われた自誓受戒というものを理解するについても、また近世の日本における律宗の動向を知るにつけても、この瑜伽戒自体や『菩薩戒羯磨文』の知識は不可欠です。

(上掲の表では羯磨を原文のまま漢文で示しましたが、日本における実際の受戒においては伝統的に、和漢混淆で独特に読み下したものが用いられます。)

さて、先程述べたように、この受戒は基本的に授者と受者の一対一でも成立するものです。この点は律の授受に必ず必要とされる三師七証、すなわち十人以上の比丘が授戒に参加することが要請されるのとは異なります。また、その十人のうちの一人は具足戒を受けて最低でも十年以上、そして他の二人は五年以上を経過しており、経律に精通したものであることが不可欠の条件とされるのとも異なります。

三聚浄戒の戒師となり得る者は、その戒を受けてからの年数について問われることはありません。ただし、これについては後述しますが、その他に具えていなければならない諸々の徳がかなり厳しく規定されています。

従他受戒の形式としては、律の授受法に用いられる白四羯磨[びゃくしこんま]に倣ったものとなっている点、在家の別解脱戒となる五戒や八斎戒の受戒法とは一線を画したものとなっています。

一応、ここで注意しなければならない点は、この受戒によって三聚浄戒を受けたとしても、出家者の場合は律儀戒をこの受戒だけで具えたことにはなり得ません。なんとなれば、特に比丘にとっての律儀戒とはまさしく律のことですが、それは別途、律の所制に則って三師七証など諸条件をすべて満たした上で、正しく白四羯磨による具足戒を受けていなければならないためです。あるいは沙弥の場合ならば、自身の和上から十戒を正しく受けなければなりません。

正確には、菩薩戒受けることを望む人は、在家であれ出家であれ、事前にそれぞれの立場に応じた戒あるいは律を受けていなければなりません。でなければ菩薩戒を受けることは出来ないのです。

そもそも、伝統的に瑜伽戒の本拠とされる『菩薩善戒経』にはこうあります。

菩薩摩訶薩成就戒。成就善戒。成就利益衆生戒。先當具足學優婆塞戒沙彌戒比丘戒。若言不具優婆塞戒得沙彌戒者。無有是處。不具沙彌戒得比丘戒者。亦無是處。不具如是三種戒者得菩薩戒。亦無是處。譬如重樓四級次第。不由初級至二級者。無有是處。不由二級至於三級。不由三級至四級者。亦無是處。

菩薩摩訶薩が戒〈摂律儀戒〉を成就し、善戒〈摂善法戒〉を成就し、利益衆生戒〈饒益有情戒〉を成就するには、先ず優婆塞戒〈五戒〉・沙彌戒〈十戒〉・比丘戒〈二百五十戒〉を具足し学ばなければならない。優婆塞戒を具えずして沙彌戒を得ることなど有り得ず、沙彌戒を具えずして比丘戒を得ることもまた有り得はしない。そのような(優婆塞・沙弥・比丘の)三種の戒を具えずして菩薩戒を得ることもまた有り得ないのである。それは譬えば四階建ての楼閣が次第して(建てられて)いるようなものである。一階無くして二階を造ることは有り得ず、二階無くして三階を造ることは有り得ず、三階無くして四階を造ることが有り得ないように。

求那跋摩訳『菩薩善戒経』(T30. P1013c
[現代語訳:沙門覺應]

この点について、印度はもとより当時の支那僧らには常識でわざわざ言及する必要もなかったのかもしれません。

いや、『瑜伽論』自体でも、比丘・比丘尼の律儀戒に限っては自誓受が通用しないことを、万一そのような主張がなされたことに備えてのことでしょうけれども、その理由を含めて明らかにしています。

隨轉差別者。謂有堪受律儀方可得受。此中或有由他由自而受律儀。或復有一唯自然受。除苾芻律儀。何以故。由苾芻律儀非一切堪受故。若苾芻律儀。非要從他受者。若堪出家若不堪出家。但欲出家者。便應一切隨其所欲自然出家。如是聖教便無。軌範亦無。善説法毘柰耶而可了知。是故苾芻律儀無有自然受義

 隨転の差別とは、律儀を受けるに堪えるのであれば、まさに受けることが可能たることである。これについて、あるいは他者に由り〈他受〉または自らに由って〈自誓受〉律儀を受ける方法がある。あるいはまたさらに一つ、ただ自然受〈従他でも自誓でもなく、自然に戒を備える〉がある。ただし、苾芻律儀〈ここでは比丘律儀の名を以て出家すべての立場に該当するものとされる〉は例外である。なんとなれば、苾芻律儀は万人が受けるに堪えるものではないからである。もし「苾芻律儀は、必ずしも従他受によるもので無い」などとしてしまえば、出家に堪えようが出家に堪えなかろうが、ただ出家を望んだならば、たちまちの誰であっても思うがままに自然と出家(であると自称)することが可能となってしまうであろう。もしそのような主張がまかり通るのであれば、聖教〈仏法〉は軌範など無いものとなり、また理解すべき善説の法〈教え〉と毘柰耶〈律〉とは無きに等しいものとなろう。そのようなことから、苾芻律儀には自然受の義は成立しないのである。

『瑜伽師地論』巻五十三 摂決択分(T30. P589c
[現代語訳:沙門覺應]

このように明瞭に、ここでは出家の五衆をすべて苾芻律儀としてまとめ言っていますが、出家分の律儀戒は自誓受も自然受[じねんじゅ]も有り得ないと断じられています。

ところが後代ともなると、支那にてそのような見解が全く無かったわけでもありませんが、特に印度から程遠くまた支那とも海を隔てた日本では、三聚浄戒あるいは梵網戒を受けるだけで比丘となり得るなどといった、本来ならばありえない主張がなされていくことになります。

実は鑑真大和尚が日本に正規の戒律をもたらす以前、日本で僧とされていた者らは、ただ三聚浄戒を自誓受したことによって比丘となり得ると思い、実際そのとおり実行していました。しかしながら、鑑真の渡来によってそれが非法であって全く認められるもので無いと諭され、しぶしぶながらも旧戒を捨てて新たに鑑真から正式に受戒しています。その時、彼らを承服させるのに示されたのが、まさに今示した『瑜伽論』の一節であったといいます。

もっとも、三聚浄戒をただ自誓受することによって比丘となり得るかどうかの問題は、中古の日本で鑑真由来の戒律がまったく断絶し、日本仏教界全体が再び無戒状態となった際になされた戒律復興にも関わっていくこととなり、そう一概に言うことが出来なくなっていくのですけれども。

(三聚浄戒自体について、あるいはその構成や授受に関しては、別項“三聚浄戒”を参照のこと。)

さて、次に自誓受ですが、それは文字通り自ら誓って戒を受ける方法です。しかし、これは菩薩戒を受けんとするも戒師となるべき資格を具えた人を全く見いだせない際のやむを得ない代替手段であって、いわば二次的受戒法です。これは必然的に従他受に比すればその次第はかなり簡便なものとなっています。

自誓受といってもその受者は、これは象徴として具体的な形あるものを要請してのことでしょうけれども、如来像の前にて受戒すべきとされます。受者は如来像の前にて心を鎮めて三宝を恭敬しつつ偏袒右肩し、踞跪あるいは蹲跪[ぞんき]〈膝を地につけずしゃがむ坐法〉して合掌し、以下のように自ら誓って戒を受けるのです。

若不會遇具足功徳補特伽羅。爾時應對如來像前自受菩薩淨戒律儀。應如是受。遍袒右肩右膝著地。或蹲跪坐作如是言。我如是名。仰啓十方一切如來已入大地諸菩薩衆。我今欲於十方世界佛菩薩所。誓受一切菩薩學處。誓受一切菩薩淨戒。謂律儀戒攝善法戒饒益有情戒。如是學處如是淨戒。過去一切菩薩已具。未來一切菩薩當具。普於十方現在一切菩薩今具。於是學處於是淨戒。過去一切菩薩已學。未來一切菩薩當學。普於十方現在一切菩薩今學。第二第三亦如是説。説已應起。所餘一切如前應知

もし(菩薩戒を持して戒を授けるだけの)徳を具えた人に出逢うことが出来なかったならば、その時には如来像の前にて自ら菩薩の淨戒律儀を受けよ。それには以下のように受けなければならない。遍袒右肩して右膝を地に著け、或いは蹲跪して坐しこのように言え。
「私《受者の名》は、敬って十方一切の如来・入大地の諸菩薩衆に申し上げます。私は今、十方世界の仏菩薩の御下にて、誓って一切菩薩の学処を受け、誓って一切菩薩の浄戒、すなわち律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒を受けたいと思います。それらの学処・浄戒は、過去の一切の菩薩がすでに具え、未来の一切の菩薩はまさに具え、現在の一切の菩薩が今修めているものです。それらの学処・浄戒について、過去の一切の菩薩は已に学び、未来の一切の菩薩はまさに学び、現在の一切の菩薩が今学んでいるものです。」
第二、第三と以上のように繰り返して言わなければならない。誓い終わったならば座を立つが、その他のすべては前の(従他受)と同様であると知るべきである。

『瑜伽師地論』巻四十一(T30, P521b
[現代語訳:沙門覺應]

自誓受の場合、以上のように独りただ自ら誓ってそう言うのみです。ただし、これは印度以来の伝統として、必ず三度繰り返して言わなければなりません。

以上のように『瑜伽師地論』所説の自誓受は、特に中古以来の日本において『占察経』や『梵網経』などの(中国撰述の偽経の疑いが極めて色濃い)経説に則って行われた、自誓受戒とは比べるべくもないほど簡素なものです。

なお、菩薩戒は声聞戒の「尽形寿」すなわち「この身命が終わるまで」とするのとは異なって「尽未来際」であるとされますが、それは以下のように説かれていることによります。

若諸菩薩轉受餘生忘失本念。値遇善友。爲欲覺悟菩薩戒念。雖數重受。而非新受亦不新得

もし菩薩が(現世の生を死によって終え、来世に)転生parivṛtta-jātiして(前世での)記憶をなくすも、善友kalyāṇa-mitraに出会って(前世で受けた)菩薩戒を想起せんとして再々度(菩薩戒を)受けたならば、それは初めて受けたものでも新たに得たものではないのだ。

『瑜伽師地論』巻四十(T30, P521a
[現代語訳:沙門覺應]

菩薩戒とは、有情が生死流転して数々の生を経巡ってもなお失うことのないものです。その故は、戒を受けた時に備わる戒体というものの為だとされます。そのような菩薩戒の戒体の永続性を、これは日本で言われだした言葉だと思われますが、「一得永不失」と言います。

実はこの戒体について、それが心に属するものであるか物に属するものであるかなどと部派以来様々に論じられ、それぞれが見解を異にしています。特に場所と時代を移して支那および日本ともなると、印度以上に抽象的議論となって空論化し、むしろ宗論を戦わせる道具、宗我を育む要因ともなって収束がつかなくなっています。

日本では、菩薩戒の一得永不失であることを逆手にとって、中世に戒律が全く廃れるようになる頃には「無戒の比丘より破戒の比丘」と言い始め、ついには自らの破戒を誇るようにさえなった者が多く出現しています。

そもそも戒を護持しない者が、あるいはそれによってむしろ戒にますます違犯するような者が、どれだけ戒体について口角泡を飛ばすかの如く議論したとしても、それはまったく虚しいことでしかありません。現実に戒を極力持して六波羅蜜、すなわち福徳と智慧の二資糧を満足していくことこそ最も肝要です。

実に皮肉な話となりますが、今なお正しく菩薩戒を受持しようと思う者は、そのような無益な宗論・過度な形而上的議論から離れるべきです。

とはいえ、現代は有益無益問わず、学問の対象としてではなく道としての仏教についてのまともな議論など、僧職者らの間ですら微塵もなされることもない時勢です。日本仏教においては戒も律も蒸発して無く、瑜伽戒などその名目すら知られていない時代となっています。そんな時にあって菩提心を発した者は、まずはたとい犀の角のようにであったとしても、戒を自ら受け独り勤めていくのが善いでしょう。

さて、以上のように「三聚浄戒の受戒法には」従他受と自誓受の二種があるとして、律儀戒のそれには従他受と自誓受、そして自然受の三種があるとされます。では、それら方法の間に功徳の多少などの違いがあるのか。

問諸有律儀若由自受。若由他受。若從他受若自然受。如是所受律儀所獲福徳。爲有勝劣差別不耶。答若等心受亦如是持。當知無有差別。

問:諸々の律儀はあるいは自受に由り、あるいは他受に由り、あるいは従他受に由り、あるいは自然受に由るものである。そのように受けた律儀には、その方法によって獲られる福徳に優劣などの違いはあるだろうか。
答:もし等しき心で受け、また同じく護持しているのであれば、そこに違いなどは無い。

『瑜伽師地論』巻五十三 摂決択分(T30, P591c
[現代語訳:沙門覺應]

これはその功徳について述べられているもので、その正統性について述べられたものではありませんが、受者が「等心」によって受持しているのであれば、戒の受法がどのようなものであったとしても違いなど無いと明かされています。

たとえば、在家の人で三聚浄戒を受けたいと願ったとして、しかし五戒を受けたことが無く、また授け得る出家者も全く身近に見出すことが出来ないならば、まず五戒を自誓受したら良いでしょう。そしてその上で、三聚浄戒を正しく受けたら良い。出家の律儀戒は全く例外であるとして、在家の五戒や八斎戒ならば自誓受であっても引け目を感じる必要など全くないことは上記の一節に明示されていることです。

戒師と受者の条件

三聚浄戒の戒師は、これは当然と言えるかもしれませんが、誰であっても勤め得るものではありません。たとえその者がどれだけ聡明であったとしても、そもそも浄信śrāddha無き者から戒を受けてはならないと規定されます。『大智度論』に「仏法の大海は信を以て能入す」と説かれますが、そんな者から受けたならば受者は(その意義や実践について)よく思案avakalpayetすることはなく、畢竟意味が無いためです。

また、慳lubdha・貪lobhābhibhūta・大欲maheccha・不知足asaṃtuṣṭaなどある者も戒師とはなり得ないとされます。さらには破戒者śīla-vipanna・戒を軽視する者・怠惰な者śaithilika、あるいは瞋krodha・恨upanāhaある者、不堪忍多き者akṣāṃti-bahula、他者の破戒に我慢ならない者、怠惰な者、懶惰なる者、昼夜無く睡眠するを楽しみ、横臥を楽しみ、仰臥を楽しみ、世間話を楽しむ者からも戒を受けてはなりません。

そして、落ち着き無き者、(印度の習俗に基づいて穢れを清めるために)牛乳を撒く際にも善心に集中して修習することが出来ない者、暗愚śaithilika・愚昧の類momuha-jātīya・極めて鬱々とした心saṃlīnacitta śaithilikaなる者、さらに菩薩の経蔵および菩薩蔵bodhisattva-piṭakaの論mātṛkāを誹謗する者もまた、戒師として不適格とされます。

以上のように見た時、三聚浄戒の戒師になり得る者は、出家在家を問わないとは言え、出離の徳ある者でなければならないことが知られるでしょう。しかし、その受戒に際して条件が課せられるのは受者についても同様です。

とは言え、戒師に比すればその条件は緩くなっています。たとえ仏教徒として七衆いずれかの別解脱律儀を具えていたとしても、菩薩蔵を誹謗する者、あるいは(大乗において)信無き者には、三聚浄戒を授けてはならないとされるのみです。その故は、大なる功徳を生むはずの菩薩戒を受けさせることが、逆に大なる罪業を造る因となってしまうためです。

そこで、万一、信無き者や決意無き者に授戒するような事態を防ぐため、このことは受戒法の項で言及すべきであったことかもしれませんが、三聚浄戒を受戒することを希望する者には、先ず菩薩蔵の論、そして学処〈戒〉および違反の具体的内容を説くべきとされます。それによって、その受者自らがよく考え、そのような菩薩戒を受持するに自分が堪えうるか、ただ他者から勧められただけで受けるのでなく、また他者より優れようとして受けるのではないことを確かめさせるのです。

このようにして初めて、受者は自らの信と意志とに基づいて菩薩戒を受け得ます。

ところで、受者に事前にその内容を事細かく開示する点は、律の受戒とは全く異なっています。律すなわち具足戒を受けるに際しては、その詳しい内容が事前に開示されることは決して無いためです。

具足戒の場合、その受戒中に於いてすらその戒相が一々詳しく説かれることは無く、ただ受戒が成立した直後に最重罪である四波羅夷罪と出家生活の根本指針である四依法が示されるのみです。その故は、当初それらの内容を受戒が完了する前に説き示していた際、受者が「あまりに厳しくて自分には無理だ」と受戒の途中で尻込みして辞めてしまったことがあったためと伝えられています。

そもそも、律蔵に規定される様々な条項の詳しい内容を、具足戒を受けていない者に明らかにすること自体が禁じられています。その逐一を信者非信者を含めて在家者が知ったならば、世間話や噂、あるいは他者のあら捜しをして誹謗を加えることを好む者の恰好の的になって、僧伽に何の益も無くむしろ混乱するであろうためです。

このような点においても、三聚浄戒の授受には菩薩としての利他の精神が生かされ反映されていることが知られるでしょう。

懺悔法

前述したように、瑜伽戒の内容であるいわゆる四重四十三軽戒の戒条を犯した場合、その罪は四重あるいは四十三軽のいずれであってもすべて悪作[おさ]であるとされます。

又此菩薩一切違犯。當知皆是惡作所攝。應向有力於語表義。能覺能受。小乘大乘補特伽羅。發露悔滅。若諸菩薩以上品纒違犯。如上他勝處法失戒律儀。應當更受。

これら菩薩の一切の違犯āpattiは、悪作duṣkṛtaに包摂されると知られなければならない。まさに力あり、言葉の意味を表現・理解・受諾できる小乗の人Śrāvakayānīyaあるいは大乗の人Mahāyānikaに、発露し懺悔しなければならない。もし菩薩が上品纏を以て他勝処法に違犯したならば戒律儀を失う。(それでもなお菩薩戒の受持を望むのであれば)また再び受けよ。

『瑜伽師地論』巻四十一(T30, P521a
[現代語訳:沙門覺應]

悪作とはduṣkṛtaの漢訳で、律ではしばしばその音写である突吉羅[とっきら]との語が用いられます。それは本来律の用語であって、罪としては最も程度が軽いものです。一人あるいは複数の上座もしくは同法侶に懺悔[さんげ]することによって許される罪です。

なお懴悔はまた懴罪[さんざい]や悔過[けか]などといい、その方法を懺法[せんぽう]といいます。そして懺悔して罪ある状態から脱することを、出罪あるいは還浄[げんじょう]といいます。

すでに述べたように、瑜伽戒の四他勝処法すなわち四波羅夷法は、律におけるそれとは全く異なって基本的に懺悔出罪が可能です。故に菩薩戒を受持した者が四他勝処法を犯したとしても、これは本来の用語からすれば非常におかしな話となりますが、悪作とされるのです。

すなわち、瑜伽戒は四重四十三軽戒などと称されるものの、実際その内容の重要性はどれも等しく同じであってほとんど変わりないものです。律ではその罪の軽重について五篇七聚[ごひんしちじゅ]を立てますが、瑜伽戒では波羅夷などといいながらその実、悪作(突吉羅)のみのいわば一篇一聚であるためです。支那・日本にて瑜伽戒に並んで重用された梵網戒の場合は波羅夷と悪作の二篇とされ、瑜伽戒とは異なっています(もっとも、伝統的には瑜伽戒も一応二篇と見なされています)。

このような点について詳しく知るには律の知識が不可欠となります。『瑜伽師地論』でも散説されてはいますが、やはり律蔵自体を理解するのに如くものではありません。

ところで、発露懺悔するべき対象について、これには意外に思う者があるかもしれませんが、声聞乗と大乗いずれの人でも可であるとされます。その要は、出家在家を問わず仏教徒であって、自らの懺悔の言葉を理解できる人であることのみです。このような規定からは、『瑜伽師地論』が著された当時の印度における大乗の徒らのあり方がいかなるものであったかの一端を伺うことも出来るでしょう。

さて、ただしその例外として、もし人が四他勝処法のいずれかを犯して、しかしそれを恥じることもなく逆に誇って「功徳である」などと言った際は、上品纏の違犯[いぼん]であって懺悔出罪不可です。よってその者は違犯と同時に菩薩戒を失うこととなります。けれども、本人にその意志さえあれば、再受戒が可能とされます。

そこで、もし人がなんらか菩薩戒の違犯をして懺悔すべき時は、これは律のそれに倣って、どのように懺悔すべきかが規定されています。

まず何らか違犯をした者は、中品纏による違犯であれば三人以上の人に対し、また小品纏による違犯であれば一人の人に対して、具体的にいずれの戒を犯したかを発露しなければなりません。そうした後、さらに正しく以下のように言うべきとされます。

長老專志或言大徳。我如是名。違越菩薩毘奈耶法。如所稱事犯惡作罪。餘如苾芻發露悔滅惡作罪法。

静聴したまえ、長老あるいは大徳よ、私(懺悔者の名前)は、菩薩毘奈耶法bodhisattva-vinayaに違越しました。すでに告白したように悪作の罪に違犯しました。

『瑜伽師地論』巻四十一(T30, P521a
[現代語訳:沙門覺應]

こうして発露し終わったならば、その罪を懺悔しなければなりません。しかし、その方法について、『瑜伽師地論』は「比丘が発露して悪作の罪を悔滅する法の如く」せよというだけで詳らかにしません。

ではそこで、律における比丘の悪作の罪を懺悔する法とはどのようなものか。その一例を示せば以下のようなものです。

向一比丘懺悔文應至一清淨比丘所偏露右肩。若上座禮足右膝著地合掌説罪名。説罪種。作如是言
長老一心念。我某甲比丘。犯某甲罪。今從長老懺悔。不敢覆藏。懺悔則安樂。不懺悔不安樂。憶念犯發露。知而不覆藏。長老憶我清淨。戒身具是清淨布薩第二第三亦如是説。彼受懺者應語言 自責汝心生厭離即答言爾

一人の比丘に対しての懺悔文 一人の清淨比丘の元にて偏露右肩し、もし上座ならば礼足して、右膝を地に著け合掌し、先ず(自ら犯した)罪名を述べてその罪種を言い、以下のように言え。
「長老よ一心に聴きたまえ、私《名前》比丘は。《罪名》の罪を犯しました。今ここに長老に従って懺悔し、敢えて覆蔵〈隠し立て〉いたしません。懺悔すれば安楽となり、懺悔せざれば不安楽です。(我が罪を)憶念して違犯を發露し、知って覆蔵いたしません。長老よ、我が清淨の戒身具是と清淨布薩とを憶したまえ。」第二・第三と同様に言え。そこで懺悔を受けている者はこのように言わなければならない。
「自ら汝の心を責め、(罪業に対して)厭離の思い起こせ。」懺悔者はこれに応えて「はい」と言うこと。

曇諦訳『羯磨』出曇無徳律T22. P1056a
[現代語訳:沙門覺應]

ここでは法蔵部の律蔵に基づく出罪の方法を示しました。無着菩薩がもと弥沙塞部すなわち化地部の人であったという当時の事情を鑑みたならば、その律蔵の漢訳である『五分律』のそれを出すべきであったかもしれません。しかし、律の懺悔法などいずれの律蔵でも大同小異でほぼ同じであるため、ここでは敢えて支那および日本でもっとも依行された『四分律』系統のものとしています。

これは軽微な違犯の場合で、ただ一人の比丘に対して懺悔する方法ですが、基本的に三人に対しても言うべき言葉や所作は同じです。対首懺[たいしゅさん]などと言われる懺悔法です。これらを懴悔可能な違犯についての懴悔法をまた出罪羯磨とも言います。

比丘であれば、これは特に軽微な悪作等の違犯についてのものであるが故に、むしろ日常的に行われる懺悔法であって特別なものでありません。今でも南方の分別説部の比丘らは日常的に対首懺を行じています。よって『瑜伽師地論』でもそのような常識的な懺悔法についてわざわざ詳細に言うことを省いたのでありましょう。

しかし、この懺悔に関しても、その資格ある戒師が身近に無い場合があるのと同様、懺悔すべき人が身近に無いことがあります。そこでそのような場合、自ら心の中において以下のように念じるべきとされます。

若無隨順補特伽羅可對發露悔除所犯。爾時菩薩以淨意樂起自誓心。我當決定防護當來終不重犯。如是於犯還出還淨。

もし隨順し相対して発露し、違犯した罪を懺悔すべき人が無い時には、(違犯した)菩薩は浄意楽を以て自誓心を起し、
「私は決意して未来を防護し、同じ違犯を再び犯すことは無い。」
と念じなければならない。このようにして(その菩薩は)所犯の罪から出で清浄となる。

『瑜伽師地論』巻四十一(T30. P521b
[現代語訳:沙門覺應]

これは律で最軽微な悪作の違犯をした時の懺悔法である「心念」に倣ったものです。

因みに戒や律における清浄であるとか浄であるとかいう語について、往々にして誤解されているのですが、それは物理的に清潔であるとか精神的に清らかであるとかいうことをほとんどの場合意味しません。それは戒もしくは律の規定に違反していないこと、あるいはその状態を意味するものです。

例えば金銭のことを、律において不浄などと言う場合がありますが、これは「金など穢らわしい」という意味でなく、比丘が金銭を直接受蓄することが律の規定に違反するものである為です。ちなみに般若系の経典類において清浄という場合、やはり清潔であるとか精神的に清らかであることを意味せず、それは無自性空であることを意味します。同じ語句でも文脈に依って全く意味が異なるので注意が必要です。

さて、誰でも過ちは意識的・無意識的にも犯してしまうものです。ましてや初発心の者、いまだ菩薩戒を受けて日が浅く、修道も未だ深まっていない者ならばなおさらです。故にこのような懴悔法、悔過の法は日常的に用いられるものであり、それは単なる通過儀礼であっても複雑怪奇なものであってもなりません。ましてはこれを、なにやら超常的な尋常ならざる儀式にしてもならないものです。

そもそも懺悔において最も肝要な点は、違犯した者がその違犯を同法侶に対しては覆蔵しないこと、つまり包み隠さないことです。

正法律興復の一環として

(慈雲尊者の正法律については、別項“慈雲『根本僧制』 ―正法律とは何か”を参照のこと。)

以上、瑜伽戒についてその概略ではありますが、これを知らんとする人には出来るだけ誰でも理解しやすいよう示しました。三聚浄戒と瑜伽戒とは本来不可分のものではありますが、三聚浄戒については別項を設けて詳説しています。

支那及び日本における伝統説では、瑜伽戒は梵網戒などと統合して大きく菩薩戒、すなわち三聚浄戒として包括的に理解されてきたのですが、ここでは敢えて瑜伽戒を梵網戒とは切り離して考えられるようしました。

そもそも律に大きく矛盾する条項や思想をはらむ『梵網経』や『菩薩瓔珞本業経』、そして『占察善悪業報経』などは、瑜伽戒とはまるで異なる系統のものです。その故それらを初めから交えて理解しようとすると、おそらく必ずその矛盾に突き当たってしまうでしょう。支那の祖師といわれる先徳らが打ち立てた伝統説はその矛盾を解消しようと様々に解釈され、いわゆる止揚が試みられたものですがその矛盾が消えることなど無く、歴史上様々な問題を生じさせています。

(梵網戒については別項“十重四十八軽戒”を参照のこと。)

大乗を知るについても、その歴史上起こった様々な問題の基を知るについても、律については勿論のこととして、まず瑜伽戒を知ることは不可欠のことであろうと思います。

しかしながら、現在の日本仏教では瑜伽戒の存在自体ほとんど忘れられ、まったくその存在すら知られなくなっています。辛うじてその名目をのみ知る人はあっても、その正体を知る人はやはりほとんど皆無であるようです。

無論、文献学として仏教を学ぶ徒やその学者らでこれを専門とする者は極少数ながらあり、細々ながらも堅実にその研究に没頭してその成果を出している人もあるでしょう。しかし、それはどこまでも仏教学としてであって、仏教としてこれを講じ得る人など仏教僧だと自称している日本の僧職の人には、それが律宗や法相宗に属する者であっても、すでに絶無といって過言でないようです。

日本における大乗とは、上に挙げた『瑜伽師地論』にて像似正法に他ならないものを家業として「これも仏教である」として宣伝し家人・団体を養うための営利でしかなく、あるいは「昔々のお伽噺」を文献学や考古学の対象として紙片の上で弄するだけのものとなっています。

そのような日本の中にあって戒や律についてあれこれ述べたところで、まったく虚しいことであろうことは充分承知しています。しかし、ここではそのような立場からではなく、学術的立場からでもなく、「仏教」としての見方を全く拙きながら正しく様々な典拠を直に挙げることに依って示しています。

声聞乗にせよ大乗にせよ、仏教に信を寄せることによって、得るものこそ多くあれ失うものなどありません。そして、大乗を志向する人はもちろんのこと、声聞の人でも瑜伽戒を学ぶことで失うことも過失となることも無い。

どれほどこの生において五欲を楽しみ謳歌し、栄誉や財をなしたところで、その死はあまりにあっけなく、また惨めに、孤独に訪れます。その時、それまで味わった欲も財も何の助けにもなりません。そして、どれほどその死を他者が傷み、弔ったところで、その人自身が救われることなどありはしません。

その人を救いえるのはその人自身のみ。そこでその救いの術を、様々に示したのが仏教です。

ここにその一端である瑜伽戒を明らかとすることによって、いつか近い将来にまた興法の人が現れることを俟つのみ。

非人沙門覺應(比丘慧照)
(By Araññaka Bhikkhu Ñāṇajoti)

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