真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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1.部派仏教

破れた一味和合

仏陀は、菩提樹下にてついに無上正等覚を得られます。

その後、一度は説法を躊躇されるものの、梵天らの要請によって世にその悟られた法を開示されることを決心され、まず以前修行を共にしたことのある五人の苦行者らにその悟られた内容を初めて説法されます。いわゆる初転法輪です。ついにその五人すべてが阿羅漢となって、ここに僧伽が誕生します。以降、つぎつぎと釈尊の教導に預かって聖果に至るものが現れ、僧伽の成員は次第に大きくなっていき、またインド各地に存して各々、時には釈尊から厳しく呵責されるなどしつつも、一味和合を旨として僧伽は存していました。

(僧伽とは何か、その根本的あり方についての詳細は“僧伽について”の各項、特に“現前僧伽と四方僧伽”を参照のこと。)

一味和合といっても、それは僧伽という組織のあり方・規定にその成員すなわち比丘全員が則っていた、ということにすぎません。仏陀の大弟子といわれる偉大な阿羅漢に師事していた比丘たちは、その師と同様の傾向をもつ者が多かったようで、それぞれ大弟子のもとには、いわば(組織というのとは異なる)小集団という如きものが形成されていたことが知られます。譬えば、舎利弗尊者の弟子らには理知的な者が多く、大目連尊者の元には神通に長けた者が多く、あるいは摩訶迦葉尊者には厳しく頭陀を行じる比丘が多く集っていたと伝えられています。

また、釈尊ご在世の当時から僧伽には様々な争いの種がありました。いや、争いもたびたび起こっています。例えば、ある土地の比丘たちが放逸に流れて非法の習いを法として行い、またそれを在家の者らが支持するなどしていました。これを、他所の比丘たちから批難されたことをきっかけとしてその土地と他所の比丘たちとの争いにまで発展。釈尊自らが仲裁に入られても中々収集がつかなかった、などということすらもあったと、現存する諸律蔵がならび伝えています。

このような出来事が起こったことに依って、僧伽内で罪の解釈や非法の習いの是非についてなどに関する議論や争いの収拾方法が制定され、律の規定が様々になされてきました。その結果、少なくとも釈尊ご在世の当時は、たとえばある地方の比丘らが、その他の地方とは異なった独自の主義主張などを唱えて僧伽がバラバラになるなどということはありませんでした。

あるいは、

しかしながら仏滅後、これはいつのことか正確にはわからないのですが、一味和合を旨としていたはずの僧伽は、おそらく二、三百年の間に次第にバラバラとなっていき、ついに二十の部派にまで分裂してしまいました。

この経緯について、経律論の三蔵において伝える典籍は(一部例外を除いて)存在していませんが、現在伝わっているいくつかの部派独自の概論書や史書などにおいて、それぞれ部派の伝承を伝えています。

そもそも、僧伽がバラバラとなっていく嚆矢が何であったか、それを仏滅後第二結集と呼称される

諸学者によって学問上の要請から創作された様々な呼称

あいうえw

原始仏教・初期仏教・部派仏教
- 定義
原始仏教 根本仏教 釈尊在世から入滅後しばらくの期間の仏教。
初期仏教
部派仏教 根本分裂から枝末分裂によって、およそ十八あるいは二十(またはそれ以上)に分派し、それぞれの教義を確立し教線をはった仏教

 

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2.

 

小苾蒭覺應 敬識
(horakuji@gmail.com)

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