真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 資延敏雄 「末法味わい薄けれども教海もとより深し」

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1.原文

波羅夷十重多犯[たぼん]の愚老、四大散ずれば忽ち龍戸[りゅうこ]に転ずること必定にて、斯様な弁舌を揮うは身の程を知らず、慚愧に堪えざることながら、敢えて諷せず してここに謇諤[けんがく]す。

高祖弘法大師、真言秘密の法門を讃して曰く。「顕薬塵[ちり]を払い、真言庫[くら]を開く。秘宝忽[たちま]ちに陳じて、万徳すなわち証す」 と。また曰く「三密加持即疾顕」と。

しかしながら今、我ら高祖の末徒を称したる者の有り様たるや如何[いかん]。真言行人に三密の鑰[かぎ]もて庫を開ける者なく、顕薬施して塵苦を払うの人も無し。ただ手に密印[みっちん]10 を弄[もてあそ]んで口に真言を囀[さえず]り、意[こころ]三毒11 を刹那として離れず、ついに仏日の影、行者の心水に影ずることなし12 。多くは三業13 放縦[ほうじゅう]四無量14 四摂15 の鉤縄そなえずして祈祷占術に専[もは]らし、邪命養身[じゃみょうようしん]16 して恥じず。甚だしきは霊ありと身見・邪見17 し、奇妙不可思議の弁舌を振るって衆人[しゅにん]を惑わす。煩悩即菩提18 即事而真[そくじにしん]19 の玄旨を牽強付会20し、五根21に縄掛けず、五欲22を恣[ほしいまま]にして華服玉食[かふくぎょくしょく]23、これ大欲なりと嘯[うそぶ]く者の夥多[かた]たること、羝羊[ていよう]24の群れの如し。嗚呼、我ら悉く飽食暖衣、逸居して教なく、些かも禽獣に異なることなし25

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2.語注

波羅夷[はらい]pārājikaの音写。波羅夷罪。懺悔しても決して許されず、これを犯せば僧侶としての死を意味する事から断頭罪とも言われる。具体的には、律蔵に説かれる、具足戒を受けた身でありながら一度でも犯せば僧侶としての資格を失い、生涯ふたたび僧侶となることは出来なくなる四つの行為。
 婬(あらゆる種類の性交渉)・盗(世間の法律でも重罪とされるほどの窃盗。支那日本では六文以上と規定される)・殺(殺人、殺人幇助または自殺の奨励により他者が自殺)・妄(達してもいない聖者の境地を得たと妄言)の四つ。→本文に戻る

十重[じゅうじゅう]…十重禁戒[じゅうじゅうきんかい]の略。『梵網経』で説かれる菩薩の重罪。殺生(生き物を故意に殺す)・盗(与えられていないものを盗る)・淫(性交渉)・妄語(虚言)・酤酒(酒類の販売)・説過罪(他人の罪を暴く)・自讃毀他(自分を誉め讃えて他者を中傷する)・慳貪(不必要に求めてしかも飽き足らない)・瞋恚(怒る)・不謗三宝(三宝を貶す)の十。戒であるため、基本的には他者からの罰則はないはずだが、犯せば仏教徒として波羅夷罪であると『梵網経』では断罪する。もっとも、『梵網経』に言う波羅夷は懺悔可能であるから、律蔵の波羅夷とは異なる。律蔵と『梵網経』とでは語の意味に大きく異なりがあるため、それらを読むときには注意が必要。→本文に戻る

四大[しだい]散ず…死ぬこと。身心を構成する四つの元素「地・水・火・風」の四つがばらばらになること。病気の場合は「四大不調」などという。→本文に戻る

龍戸[りゅうこ]…畜生道。動物の世界。「龍戸に転ず」とは、来世に動物として生まれ変わるとの意。義浄三蔵『南海奇帰内法伝』に出。→本文に戻る

慚愧[ざんき]…慚は、自らに対して恥じること。愧は、他者に対して自分を恥じ入ること(『倶舎論』説)。→本文に戻る

[ふう]せず…遠回しに批判しない、の意。諷は、遠回しに批判すること。→本文に戻る

謇諤[けんがく]…思うことを憚ることなく言うこと。→本文に戻る

顕薬塵を払い云々…空海『秘蔵宝鑰』にある、真言宗では有名な文言。顕教はモノに着いたホコリを払ってその本質に漸次近づいていくようなものであるが、密教はモノの真理の蔵を直接開く(モノの本質に直接迫る)ようなものであり、モノのあらゆる特性を認め生かす教えであると、顕教と密教の違いを喩えた言葉。→本文に戻る

三密加持即疾顕[さんみつかじそくしつけん]…「三密加持すれば即疾に顕る」。空海『即身成仏義』にある、真言宗では有名な文言。→本文に戻る

10 密印[みっちん]…手を様々な形に組む、密教に説かれる手印。仏陀の教えの象徴として、冥想中に用いられる。→本文に戻る

11 三毒[さんどく]…飽くことなく求める欲望と、怒りと、真理について無知であること。すべての苦しみの根源となる精神活動。伝統的に「貪・瞋・痴の三毒」と言われる。→本文に戻る

12 仏日の影云々…。→本文に戻る

13 三業[さんごう]…身体、言語、精神の三つの活動・行為。ようするに行為全般を意味する。つづく放縦とは、何の規律ももつことなく勝手放題にすること。→本文に戻る

14 四無量[しむりょう]…四無量心の略。その四つとは、慈(他者の苦しみを和らげようとする思い) ・悲(おもいやり、他者が安楽であれと願う思い)・喜(他者の善行をよろこぶこと)・捨(どのような感情であっても、それにとらわれないこと)。→本文に戻る

15 四摂[ししょう]…四摂法の略。その四つとは、布施(他者に仏教を教え説くことや、貧しい者に金品財産を与えること)・愛語(親愛な言葉使い)・利行(他者にさまざまな利益をもたらすこと)・同事(社会的行為や活動を他者と共にすること)。→本文に戻る

16 邪命養身[じゃみょうようしん]…僧侶が祈祷や占術に携わり、それによって金品を得ること。出家者が行ってはならない四つの邪な生活方法(四邪命)の一。得度の時に厳に戒められる。が、日本では、真言宗・天台宗はもとより、禅宗あるいは浄土ですらも、病気平癒・必勝祈願、ヤクヨケなどありとあらゆる祈祷が盛んに、根拠不明あるいは曖昧な儀礼によって、「意味不明の料金体系」のもと行われている。
 ただし、たとえばスリランカが特に著しいので引き合いに出すが、上は国家平安から下は病気平癒・長寿などを期して、あるいは先祖供養に類する大小の法事が、長くは一週間、短くは数時間行われるが、その送り迎えが高級車でないと不機嫌になる比丘、高額の布施をみずから要求する比丘が都会にはままある。布施の額が少ないと(日本と異なって法事の前に布施が渡される)、その読経時間や法話の時間がおうおうにして短かくなる。托鉢をする者は体勢としてほとんどなく、諸法事からの「収入」がその大半を占める。上座部仏教を古来信仰している国の中、金満の度合い、拝金主義的要素の度合いはスリランカがもっとも高い。
 ビルマやタイ、あるいはチベットでも様々な迷信、地方の習俗が混入した祈祷が行われている。いずれの国・地域であっても、大乗であろうと上座部であろうと、どのような教義を信奉していようとも、悪しき僧侶、卑しい比丘は存在するのだ。この点の教義が云々などまったく関係ない。
 先に述べたように、祈祷や葬送儀礼、占術をもっぱらとして、それによって養身(生活)するのが邪命養身であるが、その邪命養身する者は日本に限らず(日本の僧侶の場合はほぼ全員が該当)、世界の仏教国に満ちあふれている。結局、大乗であろうが小乗(上座部)であろうが、その堕落ぶりは、もはや程度の差にすぎない。→本文に戻る

17 身見・邪見[しんけん・じゃけん]…身見は、有身見[うしんけん]の略。人には霊魂などと言われることがある常住不変の存在がその本体としてあると見る、誤った見解。修行者としてそれほど高くない境地に至る間に捨て去られる見解。五下分結の一。
邪見とは、第一には仏教徒の判断基準となる仏陀の金言、三蔵に伝わる聖言にそぐわない、あやまったものの見方。あるいは輪廻転生や因果応報を否定する見解。
 もっとも、ここでは「有」だ「無」だなどとモノの実在を云々する見解についての批判でなく、「霊などと言われる不可思議なモノの存在と、その存在により害や恐怖を説き、その解決法を提示して金品をまきあげる」方法や思考について、このような方法で世に知られ、著名となった者をあるが、それらを批判するもの。→本文に戻る

18 煩悩即菩提[ぼんのうそくぼだい]…煩悩と菩提とは、たがいに固定的実体性をもたいない相依性の存在、いわゆる空なるものであって、本質的に異ならないこと。これをさらに敷衍して、煩悩を離れて別に悟りがあるわけではなく、煩悩も真如の現れであって究極的には否定されるものではないとする見解も生まれた。ただし、これはあくまで究極的な立場、仏果からの見解であって、実際として煩悩まみれの俗人がこれを言っても何の意味がなく、むしろそれは害毒ですらある。凡夫が口にするだけ無駄な言葉の一つといえる。→本文に戻る

19 即事而真[そくじにしん]…生滅変化して、彼此自他の差別がある目前の現象世界が、そのまま真理そのものであることを表現した言葉。空海などが主張。
 事物をそのまま、あるがままに観れば、現象世界はまさに「無常」・「無我」・「苦」たる真理なる姿を顕現している。だが、いたずらに凡夫の境涯にこれを説けば、「ははぁ、なるほど、このままでいいんだな」・「全てが真理のあらわれ?あぁ、やっぱり。生きるって素晴らしい、命って素晴らしい」などと、安易安直に現実肯定の御言であると誤解し、ひたすら獣の道を突き進むことになる。→本文に戻る

20 牽強付会[けんきょうふかい]…道理に合わないことを、自分の都合のいい様に解釈して用いること。→本文に戻る

21 五根[ごこん]…五つに分類される人間の感覚器官。眼・耳・鼻・舌・身(皮膚・粘膜)の五つ。→本文に戻る

22 五欲[ごよく]…五根の感覚対象である、色(物)・声(音)・香・味・触の「五境」に対してそれぞれ起こす欲望。観たいという欲望、聞きたいという欲望、嗅ぎたいという欲望、味わいたいという欲望、触れたいという欲望。五竟に対する嫌悪や拒絶も、これも含まれる。→本文に戻る

23 華服玉食[かふくぎょくしょく]…豪勢な食事に高級な衣服を着ること。贅沢の意。しばしば、金満生活を営む寺院、僧侶に対しての批判に、「むしろ大半の寺院経営は苦しく、豪奢な生活をしている僧侶はごく一部にすぎないのだ」などという反論がなされる。「副業をしてようやく寺院を経営している寺もあるのだ」と。欺瞞である。確かに、過疎地域などでは「苦しい寺院経営」をしている者もある。しかしながら、少なくとも一般家庭よりはずっと安泰安楽な生活を送っている者がほとんどであるのに変わりない。それが世間の目につくかつかないかの差である。世襲の宗教法人の財務など、「第三者の監査」など無いのであるから、きわめていい加減であってどうにでもなる。→本文に戻る

24 羝羊[ていよう]…雄羊。愚かな動物の意。→本文に戻る

25 飽食暖衣[ほうしょくだんい]、逸居して教なく云々…食べたいだけ食べ、着たいだけ着て、奔放に暮らし、教養も知性も道徳もないのであれば、その人は獣と何ら変わることがない、との意。「飽食暖衣 逸居して教無くば、則ち禽獣に近し」『孟子』からの引用。→本文に戻る

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