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支那・日本における僧伽分派に対する見解

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1.大衆部における伝承

仏陀の予言

『舍利弗問経[しゃりほつもんきょう]』とは、仏陀がご入滅される以前、王舎城(Rājagṛha[ラージャグリハ])において、その経題が示しているように、舎利弗(Śāriputra[シャーリプトラ])尊者からの様々な質問に仏陀釈尊が答えられるという内容の比較的短い「経典」です。支那東晋代に漢訳されたといいますが失訳であって、訳者は不明です。

(経典として伝えられているものであるが故に、その他の部派が伝える史書の類とは別のものであると、一応は見たほうがよいものです。)

『舎利弗問経』には、具体的に仏滅後の年数を挙げ、僧伽が分裂して様々な部派を形成する様と、それらの部派が着す袈裟の色や特に優れた点などの特徴の一部い言及している一説があります。

比較的漢訳された年代が早かったためか、部派の名はほとんど漢訳されず、音写されています。

『舎利弗問経』に説かれる五部派の特徴
No. 部派名 長所 袈裟の色
1 摩訶僧祇部(大衆部) 勤學眾經宣講真義。以處本居中。 黃衣
2 曇無屈多迦部(法蔵部) 通達理味開導利益。表発殊勝。 赤衣
3 薩婆多部(説一切有部) 博通敏達以導法化。 皂衣
4 迦葉維部(飲光部) 精勤勇猛攝護衆生。 木蘭衣
5 彌沙塞部(化地部) 禅思入微究暢幽密。 青衣

ここに挙げられている五つの部派の律蔵は、支那において五部律と言われ、インドにてはこの五つの律蔵が行われているものと伝承され、飲光部を除くその律蔵の請来と翻訳がなされています。

さて、『舎利弗問経』では、「摩訶僧祇部。勤学衆経宣講真義」ならびに「摩訶僧祇其味純正。其餘部中如被添甘露」と説いていることから、ひとまずは摩訶僧祇[まかそうぎ]つまり大衆部[だいしゅぶ]の伝えたものであろうことが推測されます。もっとも、経の後半において文殊師利の名が挙げられるなど、その内容は純粋に大衆部のものとは考えにくいことから、これを一応「大衆部系の法脈を受けたもの」の典籍とするのが妥当です。

(故に、この項の題を“大衆部所伝の僧伽分派説”としたものの、それが正確なものと全く言うことは出来ません。)

この経典では、仏滅後に僧伽が分裂して諸部派が形成され、その中で大衆部こそが正系であるとしてはいるものの、しかし他部派の存在を排他的に見てはいません。

律の規定の改変を主張したのは上座部

『舎利弗問経』では、ある長老比丘が律について増広することを主張、これが僧伽で論争となるも収集がつかず、ある比丘が国王にその裁定を求めた、と説かれています。

仲裁を依頼された国王は要請に応じて、旧来の律を護持することを主張する側と、律の改定を求める側とを集めて多数決を行います。これを律では行籌[ぎょうちゅう]といいます。籌とは、竹や木などで作られた細長い棒のことで、これは要するに数取り棒なのですが、僧伽での行事で参加人数を確認するときや投票などを行うときに使用されるものです。

(まったくの余談ながら、行籌はすべての律蔵に説かれている、いわば僧伽運営方式の一つなのですが、南方の分別説部諸国ではこれを全く忘れてしまっており、行籌がどうなされるか知る者はおらず、またどのようなものかも分かっていません。律の伝統はいまだ伝えられ、僧伽は一応存在しているものの、しかし率直に言って、僧伽は僧伽として機能していません。対して律の伝統を失ってサンガが消滅した日本では、おかしなもので、いまだこれを形式上でも使用する伝統が布薩などの儀式において残っています)。

結局、旧来の律を護持する側が圧倒的多数で、改定論者は極少数との結果が得られ、そこで王は、旧律も新律のいずれも仏説であるが、それぞれを護持する者達は別々に住することと裁定した、とされています。

ここでは、一般的にされている「上座部は、仏説である律の厳修を固持した伝統的保守的、長老達の派。大衆部は若い者が主体で、故にその数も多かった革新的な僧達の派」という見方とは、まったく正反対の姿が描かれています。むしろ律の増広を主張したのは、上座部を形成した者達であったというのです。

さらに、ここでもう一つ注目すべき点は、問題となった点が、律の条項の削減あるいは緩和などではなく「増広」であったということです。仏在世の当時、釈尊の従兄弟であったという悪名名高いDevadatta[デーヴァダッタ](提婆達多)が、五事と言って、同じように律を増広してより厳格にすることを提案し、釈尊に拒絶されたことが知られています。いわばこれと同じようなものであったというのでしょうか。

結果として、旧律の護持を支持した者達は多数で長老あったため摩訶僧祇[まかそうぎ]、新律の護持を支持した者達は、その主張を初めに為した長老に従ったということから他俾羅[たびら]と名づけられたとしています。

摩訶僧祇とは、サンスクリットMahāsāṃghika[マハーサーンギカ]の音写語で大衆部[だいしゅぶ]。他俾羅とは、サンスクリットSthavira[スタヴィラ]の音写語で、パーリ語で言うところのthera[テーラ]です。本来、この語は「厚い」「堅い」あるいは「古い」「老人」などを意味するものですが、特に仏教ではこれを転じて、上座を指すようになっています。

論争の解決法として国王による仲裁のもと採られた多数決は、律蔵に規定されている僧伽内の論争解決法、七滅諍法[しちめつじょうほう]の他人語毘尼であると思われます。

さて、これによって得られた結果ならば、僧伽として律蔵の規定に基づく正式なもので、四方僧伽として承認され、ゆえにあらゆる現前僧伽が服すべき決定事項のはずです。しかし結局、僧伽は分裂。さらに佛滅後200年から400年のうちに次々に僧伽が分裂していくであろう、と『舎利弗問経』には記されています。

このように、『舎利弗問経』においては、一般的な上座部と大衆部とについてのイメージとはまるで異なる記述が見られます。その真偽については、やはり他部派所伝の典籍と同じく、自派の正統性を主張するためのものである、ということを考えなければならぬものです。

といっても、この典籍はあくまで「経典」であって、そこに示される部派の分裂は予言なのではありますが。しかしまた実際のところ、大衆部の律蔵である『摩訶僧祇律』の波羅提木叉に記載される条項数は、他の諸律蔵と比べて最も少ない218ヶ条となっています。

『舎利弗問経』に説かれる、部派に関するその他の事柄

『舎利弗問経』には、その他の部派分裂を伝える典籍とは異なって、仏滅後、誰人によって法が相承されてきたか(正確には「されるであろうか」)の相承について言及しています。

ここでいまさらながら一応、『舎利弗問経』ではいかなる文脈において僧伽分裂の相が示されているかを要略して示しておきます。

仏滅後になされるであろう付法相承を説いた後、世に仏教を弘めるに一大功ある孔雀輸柯王すなわちマウリヤ朝のアショーカ王の孫にあたるという、弗沙蜜多羅王(Puṣyamitra)が王位を嗣ぎます。

この王、自らの名を後世に残すには如何にすれば良いかを群臣に問います。すると群臣の一人が、それには善悪両極端の二つの道があると言い、一つは先王(アショーカ)の如く仏教を擁護して八万四千の塔を造立すること。また一方は、仏教を弾圧して堂塔を破壊し、僧尼を殺戮することであるといいます。

そこで王は、自分には先王ほどの器量はなく善なる術をとることは出来ないから、逆の術をとらんとして仏教の弾圧を開始。実際に堂塔を破壊し、僧尼を殺戮したため、しばらく世から法は隠れることとなります。

しかし、因果によって王ならびにその一族は死に、新たな王に変わって再び仏法が世に行われるようになる。ところが、そこで起るのが律についての異見であって、ついに僧伽の分裂に触れていく、というのが『舎利弗問経』の中程に説くところです。

すなわち、『舎利弗問経』では、僧伽の根本分裂ならびに大衆部における最初の分裂はアショーカ王以降に起り、そしてそれは仏滅後200年以前のことであると説かれています。

だだし、この経にはアショーカ王の即位年代などについてまったく言及されていません。そして、ここで仏教弾圧、いわゆる破仏を行ったアショーカ王の孫とされる人物は、実際は孫などではなく、アショーカ王没後のマウリヤ朝において反乱を起こし、ついに王権を奪ってシュンガ朝初代王となった将軍プシュヤミトラのことです。あるいは「インドらしく」、マウリヤ朝滅亡後の話を時系列を無視して入れているのかも知れませんが、素直に読むと根本分裂はシュンガ朝に入ってプシュヤミトラが死んでから起こったこと、いや、起ることであるとされています。

しかしながらそうすると、本経では部派の分裂が仏滅後いつごろに起るかについては根本分裂は200年以前、そして枝末分裂はおおむね200から300年と説かれているため、シュンガ朝に入ってからでしかもプシュヤミトラ没後というのでは無理が生じます。ただし、アショーカ王が晩年に全く力を失い、その没後まもなくマウリヤ朝が衰退し滅亡することは、僧伽にとっての箍[たが]が外れることを意味したのかもしれません。

あるいは、破仏が行われた後だと万一したならば、そこには地域的な混乱などがあったでしょう。僧伽が分裂するのはそのような社会状況下であろうことを、本経は示唆しているものと捉えて良いと思われます。

さて、この付法相承について記している典籍は、その他漢訳のものにも見られますので、参考までに以下に示しておきます。また、これは付法相承ではなく、律の相承を伝えるまったく別のものであるのですが、セイロンでの伝承(『島史』・『大史』等所説)も併記しておきます。

『舎利弗問経』とその他典籍に説かれる付法相承の比較
No. 『舎利弗問経』
(大衆部?)
『阿育王経』
(有部?)
『阿育王伝』
(根本有部?)
セイロン伝[律相承]
(分別説部大寺派)
1 大迦葉 摩訶迦葉 摩訶迦葉 Upāli
2 阿難 阿難 阿難 Dāsaka
3 末田地 末田地 Sonaka
4 舎那婆私 舍那婆私 商那和修 Siggava
5 優婆笈多 優波笈多 優波毱多 Moggaliputta-tissa

(『阿育王伝』は説一切有部すなわちカシミール地方の有部の伝承を、『阿育王伝』は根本説一切有部すなわち中インドの有部の伝承を伝えるものと現在考えられています。)

上に併記したそれぞれ五人は、仏滅後からアショーカ王の治世までの僧伽を代表した大徳たちです。五人目(『阿育王伝』では四人目)となる人が、アショーカ王の師であった比丘とされます。ここで一つ問題となるのが、アショーカ王即位までの仏滅後年代となります。アショーカ王の即位年は、セイロン伝では仏滅後218年としています。しかしまた、上に示したように、その間たった五人の長老によって律の相承がなされたというのですが、それではあまりにも長きに過ぎるようです。

さて、これもまた余談となりますが、最後に一つ。『舎利弗問経』において、無屈多迦部すなわち法蔵部は仏滅後200年から300年の間に、薩婆多部(説一切有部)より生じるとされています。

しかし、これはやや不明瞭な記述なので、あるいはその前に有部から生じるという彌沙塞部(化地部)から出たものかも知れません。いずれにせよ、有部か化地部から生じたものですが、経文には「目揵羅優婆提舍。起曇無屈多迦部」ともしており、この部派は『目揵羅優婆提舍』(Maudgalyāyana-upadeśa?) なるものに基づいて起こったものであることを説いています。これはおそらく「目蓮によって説かれた論書」のことなのでしょう。

『異部宗輪論』には「従化地部流出一部。名法蔵部。自称我襲採菽氏師」、あるいは『部執異論』に「従正地部。又出一部。名法護部。此部自說勿伽羅是我大師」とあり、法蔵部は化地部から生じたものであって、自ら目蓮の法系を継ぐものと称していたとあります。目蓮とは、やはり仏陀の大弟子のうちの一人のことでしょう。そして目蓮は阿毘達磨を詳説したことを諸部派、少なくとも有部ならびに分別説部でも言っていますから、この『舎利弗問経』の記述を勘案すれば、目蓮に帰せられるいずれか論書に従って派を形成したものだと考えられます。

しかし、この部派の論書はほとんど伝わっていないため詳細を知ることは不可能です。

この部派の律蔵は『四分律』で現存し、その律の伝統は日本では滅んだものの、未だ台湾などにて行われています。

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2.大衆部所伝の僧伽分派説図

『舎利弗問経』所伝の僧伽分裂説図

以下、『舎利弗問経』に基づき、僧伽がいかに分裂したかの経緯を出来るだけ忠実に、そして誰でもこれを明快に理解できるよう図表としたものを示します。と言っても、上に触れたように、本経の記述ではアショーカ王治世の位置などが曖昧ではあります。

また、『舎利弗問経』にある音写語としての漢語だけでは、少々分かりにくい点があるので、該当するであろう一般にいわれる部派名をその下に併記しておきました。ただし、大衆部系の部派にはそれが妥当かどうか不明なものもあります。

図表:『舎利弗問経』所伝の僧伽分派説図

小苾蒭覺應 敬識
(horakuji@gmail.com)

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