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支那・日本における僧伽分派に対する見解
『ターラナータ仏教史』とは、今もチベットにてよく信頼され用いられている、Tāranātha[ターラナータ]によって著された、インド仏教の歴史書『インド仏教史』の略称です。
ターラナータとは、西暦1575年、チベットgtsan[ツァン]に生まれ、17世紀初頭に活躍した、西蔵(チベット)仏教のサキャ派(Saskyapa)の分流チョナン派(Jonaṇpa)の学僧です。チベット名は、Kundgaḥ sñiṇpo[クンガ・ニンポ]。
ターラナータは、インド巡錫からチベット帰国の後、齢34才のとき、すなわち西暦1608年にこの『インド仏教史』を著しています。彼はこの書を編纂するにあたり、先行する偉大な大学匠Bu ston[プトゥン]など先徳の史書を踏襲した上で、当時のチベットに伝わるインド仏教史に関する典籍、伝承を広く集めています。それはインドのみにとどまらず、チベットへの仏教伝来や、セイロンなど辺境の島へ伝わっていた仏教の状況にも及んでいます。
インドの史書一般と同様、ややその記述内容に混乱が見られるものの、それまでの伝承の誤りを糺すなど示唆に富むものとなっています。
さて、ターラナータは、第二結集の時期に関し、チベットに正伝する律蔵(「根本説一切有部律」)には仏滅後110年と説かれているため、これを支持しつつ、しかし他部の律蔵には200年、220年に行われたとする説があること、あるインド史にはアショーカ王の没後に行われたとする説があることを紹介しています。
いわゆる根本分裂について。ターラナータは、Mahādeva[マハーデーヴァ](大天)が五事の「非法」を唱えたことにより、ただちにサンガが分裂したとはしていません。
大天は、父母と阿羅漢を殺害(仏教では最悪・極重とされる五つの罪の三つを犯)し、すでに自ら為したことながらその罪を恐れ滅罪のために、これを隠して比丘となった人であるといいます。仏教では、出家し得ない者の条件を定めているのですが、大天はなしたその行為はまさにその条件に該当するのため、隠す必要があったのです。なお、出家して比丘となっても、それが後に発覚した場合はただちに還俗となります。
さて、もともと聡明であった大天は、出家してたちまち三蔵に通じ、よく禅定をおさめていたため、周囲から阿羅漢と崇められていました。
ところがある日、大天が“Pratimokṣa-sūtra[プラティモークシャ スートラ]”を解説するに、「五事」(『異部宗輪論』の五事に同じ)を主張。長老達はこの大天の見解に反対するも、青年比丘達はこれを支持。長老達と大天を支持する青年比丘達は対立し、大きな諍論が勃発したといいます。長老らがこれを否定したのは「経説に反する」ためであったといいます。
なお、この話は『大毘婆沙論』(『婆沙論』)にても全く同様に伝えられているところで、チベットでも同様に伝承されていたのでしょう。
そして大天の死後、チベットの伝承においては悪魔の化身ともいわれる、その支持者であったBhadra[バドラ]という比丘が、また別の五非事を提唱。これによって、さらにサンガに数々の異見が巻き起こって収拾が付かなくなったといいます。
これはおそらく、6世紀頃に中観派(自立論証派)の学僧として活躍し、現在もチベットにて偉大な大学僧の一人として讃えられているBhavya[バヴィヤ](清辨)によって著された“Nikāyabhedavibhaṅgavyākyāna”チベット訳の伝承を受けての記述だと思われます。また、この原因として、「異国語」にて経典が説かれるようになったことにより、経典の語法や字義について誤解がされるようになったことも挙げています。
この後、Nanda[ナンダ]王の時代に、Nāga[ナーガ]あるいはNāgasena[ナーガセーナ]という学徳ある比丘が出、また再び「大天の五事」を宣伝してサンガに論争を惹起。これによってサンガは、ついに四部に別れたといいます。この論争の中、Dharmaṣreṣthī[ダルマシュレーシュティー]という阿羅漢が、諍い多く騒がしいサンガを棄て、北部地方に去ったといいます。
ところで、ここに登場する大天の五事を宣伝したという、ナーガあるいはナーガセーナという比丘は、分別説部が伝えるところのMilindapañha[ミリンダパンハ]もしくは漢訳『那先比丘経』に登場する、ナーガセーナと同一人物であるかもしれません。西北インドに侵入したギリシャの王Menandros[メナンドロス]とナーガセーナとの問答を記したこの書には、ナーガセーナが五事の一部を承認するとおぼしき発言をしていることが認められます。
セイロン分別説部の律蔵の注釈書“Samantapāsādikā“には、 インド亜大陸に開教のため派遣された人の一人として大天(派遣先はMahisakamaṇḍalaでおそらく南インド)の名が挙げられています。この大天をして三達智に到る大徳と讃えていることも見られます。セイロンの王統史である“Dīpavaṃsa”(『島史』)には、大天はセイロンに仏教を伝えたというマヒンダの出家時の和尚であるとしています。
分別説部が伝えるアビダルマの根本七論書の一つ、Moggaliputta Tissa[モッガリプッタ ティッサ]によって編纂されたなどと伝えられる“Kathāvattu[カターバットゥ]”(『論事』)では、説一切有部が非法とした五事を、同じく非法であると断じています。しかし、『論事』はより後代に編纂されたものと考えるのが妥当で、他派の伝承を勘案した場合、アショーカ王より早くても百年は経過していなければこの書は成立し得なかったでしょう。
さて、セイロンの伝承に登場するこの大天という人、五事を主張したとされる大天と同一人物である可能性があります。
まず、セイロンの根本分裂ならびに枝末分裂に関する伝承には多く不審点があり、もっともこれはすべての部派の伝承に不審点があるのですが、アショーカ王当時に僧伽が分裂完了して諸部乱立していたとはまず考えられません。すなわち、その時点で上座部も大衆部も存在しておらず、故に「上座部あるいは大衆部の比丘」さらにその教義など存在していなかったと思われます。あるいは、アショーカ王の後援によって各地に派遣された比丘たちが、むしろ諸部派の形成に関わった可能性も高く、故に五事を主張したという大天と同一人物である可能性が浮上します。大天は後代、大衆部が盛んとなる南インドに派遣されていることも、この可能性を一段と高めています。
いずれにせよ、チベットの伝承では、これはすなわち説一切有部、特に根本説一切有部での伝承と言えますが、マハーデーヴァとバドラ、ナーガセーナの三人は、サンガを撹乱し、仏教を乱した張本人と見なされています。
さて、この後に出たナーガの追従者たるSthitamati[スティタマティ](堅慧)は、ふたたび大天の五事を強く主張。論争を拡大させたことが、さらに分裂を繰り返すことになったきっかけとなったといいます。すでに四部に分裂していたサンガは、最終的に十八部に分裂したと伝えられています。
四部(根本の四部)に分裂した部派とは、Mahāsāṃghika(大衆部)・Sarvāstivāda(説一切有部)・Vatsiputrīya(犢子部)・Haimavatā(雪山部)の四部であるといいます。
サンガでの論争、それはVīrasena[ヴィーラセーナ]王の晩年に始まり、Nanda[ナンダ]王とMahāpadma[マハーパドマ]王の全期、Kaniṣika[カニシカ]王の初期までのおよそ63年間に及んだといいます。カニシカ王の代になり、東方よりPārśva[パールシュヴァ](脇尊者)なる阿羅漢が到来したことにより、この王のもとにて有部の伝承では仏滅後の第三回目のサンガ大会議、第三結集を開催。ついに多年にわたった論争は終結するも、比丘達はそれぞれの見解の相違に基づいて十八のグループを形成し、それらが部派として成立したといいます。
(現在、一般にはセイロンの伝承にあるアショーカ王のもとにて開催された結集を第三結集とし、ここで行われた結集は第四結集と言う場合があります。もっとも、ここで説一切有部が行った結集の200年ほど前に、セイロンの上座部の伝承では、セイロンにて第四結集が行われ、経典など仏典が筆写・文字化されたと伝えられています。)
さて、この結集の後、つまりサンガでの大論争の終焉を迎えたことによって、それまで口誦でのみ伝えられてきた律(毘奈耶)が、ここに初めて文字に筆写され、経と論は校訂されて文字化されたといいます。
ちなみに、ターラナータは、この結集以降に、大乗が仏滅後ようやく人間界に流布するに適切な時期となったため、大乗経が世に広まり始めた、と伝えています。
このことから、チベットの伝承では、サンガが論争によってばらばらになる間、つまり仏滅後から諸部派が形成して落ち着くまでの間には、大乗の教えは隠れて世間でまったく流布していなかった、との認識にあることが知られます。
以下に挙げた表は、寺本婉雅訳『ターラナータ仏教史』を参照して作ったものですが、問題点が多く、大幅に改良しなければならないものです。しかし現在、管理人がチベット文献にアクセスし得ない環境にあるため、今は一応、過去に表示していたものをそのまま掲示しておきます。
小苾蒭覺應 敬識
(horakuji@gmail.com)
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