真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 資延敏雄 「末法味わい薄けれども教海もとより深し」

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1.原文

また高祖大師、真言行人須[すべから]く顕密二戒を堅持すべしと御遺誡され、重ねて『御遺告』の十八に曰く「夫れ以[おもん]みれば女人は是れ万性[ばんしょう]の本、氏[うじ]を弘め門を継ぐ者なり。然れども佛弟子に於いて親厚[しんごう]すれば、諸悪の根源、嗷嗷[ごうごう]の本[もとい]なり。是を以て六波羅蜜経に曰く、女人に親近すべからず。若し猶お親近せば善法皆な盡きなむ等と云云」と。

しかるに今時、我ら寺家[じけ]悉く妻妾[さいしょう]蓄えて是を常とし、寺寺に媒嫁[まいけ]し、相嫁[あいか]して血脈一統を造り、人の寺家在家の出自を問うて軽重の別を用うる。これ佛家転じて婆羅門と堕したの証。たまさか方服を着して庫裏に居直る禿頭の類、布施無きは経を読まずと非法に信施を掠め盗り、世事に自ら参与して、貴人に好[よし]みを結んではこれを悦ぶ。伽藍に財施あれば、心地[しんぢ]忽ち濁悪[じょくあく]に染まり、有力[うりき]の檀越[だんおつ]あれば媚び諂[へつら]いてさらにこれを求むる。

今の僧徒、悉く得度沙弥の式にて不婬を誓い、三聚戒壇10 進具11 して不犯[ふぼん]を重ね誓して形を沙門12 に比しながら、あろうことか佛前婚儀13 に及びてこれに毫も疑念を抱かず、「これ佛縁なり」「有り難き哉、これ如来の導きなり」と狂談して寿[ことほ]ぎ、なお比丘の名を騙って14 一向恥じぬは、世の盗賊にも遙かに劣れり。三昧耶戒15 にて「大師の教えの如く、我誓って修行して云々」と述べ誓う舌、妄語の斧となって己が身を裁断す。

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2.語注

御遺戒[ごゆいかい]…空海『弘仁遺誡』。詳しくは戒律講説『弘仁遺誡』を参照の事。→本文に戻る

媒嫁[まいけ]…男女の仲をとりもって、その結婚の中継ぎをすること。僧侶が仲人などするのは、四波羅夷罪に次ぐ重罪で、十三僧残の一つに挙げられる。僧侶が行ってはならない最たる行為の一つ。→本文に戻る

方服[ほうぶく]…僧侶の着すべき、律にかなった袈裟衣。僧侶は袈裟衣以外の服装、洋装や和装などいかなる俗服であっても、これを着用してはならない。近年は作務衣[さむえ]や改良服[かいりょうふく]などというものが、あたかも僧侶の装束であるかのように思われているがトンデモナイ誤解。 僧服に関して、インドや東南アジアと全く同じ恰好をせよ、というのではない。それらの国と全同とまでは言わなくとも、律蔵の規定に適いつつ、しかも風土・気候にも対応する僧服は伝えられている。それが褊衫[へんざん]・裙[くん]である。もっとも、褊衫もまたいわば略装であり、僧祇支と涅槃僧とを用いるのが本儀。その昔、中世から近世にかけてもそのような認識は日本でも持たれており、その現物はいわば下着であることから保存され伝えられたものはおそらく無いが、実際に着用されていた。
 なお、真言宗や禅宗などで今も用いられている直綴[じきとつ]は、褊衫・裙をむやみにつなげてしまった出来た宋代の支那以来の非法の衣であり、中世でも栄西や叡尊などは「絶対に着用するべきではない」ものとして見なしていた。道元の師、長翁如浄もまた「直綴など決して着るべきではない」としていた(『宝慶記』)が、道元はその教戒を無視して直綴を着用している。そのようなこともあって現在の禅僧らは直綴を当たり前に着用しているのであろう。
 その昔は高野山でも改良服も、ましてや作務衣など決して着用する事はなかった。これを用いようとする者があったとき、それは非法であるとの非難が起こって決着したが、いつのまにかただ「便利」という理由により、皆がなし崩しに着用しだしたのだという。規律のない故である。改良服も作務衣も僧侶の恰好としてはあり得ない、完全に非法な俗服。→本文に戻る

布施なきは経を読まず…僧侶は布施が無ければいくら頼まれても経を読んではいけない、という非法の習い。これを近年は、古くからの決まりごとであると思いこみ、平気でこれを公衆の面前で口にする無知蒙昧の徒が多い。これによってまた大衆も、読経は仏教という商売におけるサービスの一環であって、それにはサービス料金が加算されるのは当然という程度に認識している者も多い。僧侶は、対価を求めて経を読むことがあってはならない。また、読経の対価としての金品を受け取ってはならない。→本文に戻る

世事に自ら参与…世間の行事に、自ら積極的に参加することは戒められている(『遺教経』) 。なぜか。社会からの要請によって参加しなければならないこともあろうが、それらは出家者としての修行に大きく差し障るからである。しかし、今や「修行」などというのは「宗団の規定するところの僧侶資格」を取得する為の通過儀礼に過ぎない。そこで在家者から「大変な修行されたんでしょ?」などと僧侶らが聞くと、気恥ずかしく思う者が多い。
 いまや彼らにとって「修行」など絵空事なのである。そこで、本来の「修行」をする必要も、意志もない僧侶を生業とする者の中には、「世事に自ら参与」することはむしろ名誉であり、また義務であるとすら考える者が多い。中には「世事に参与することが修行」という者がある。本末転倒なことである。人間、なにか社会的に認められる行為をしていないと、自分に自信が持てないのであろう。僧侶として生きていくのに、自信や誇りをもつ根拠を、仏典にまったく求められないために、「社会的評価」という極めて流動的なものにその根拠を求めるのであろう。さもしいことである。→本文に戻る

貴人に好みを結んで…世事に自ら参与するのと同じく、宮家や政治家あるいは○○国大使や、大会社社長や会長、世間の誰もが知るような名家の末裔や芸術家など、いわゆる権力者や著名文化人と交際をもつことをステータスとし、それを鼻に掛けて方々に語る者は甚だ多い。ある程度の財産があり、社会的地位も固まった年寄りが、次に求めるのはいつの時代も名誉であろう。→本文に戻る

有力[うりき]の檀越[だんのつ]…有力な資産家・財産家で、寺院に寄進をする者。檀越とは「布施する人・施主」の意。寺院に高額な寄進をする者が現れれば、住職はそれはもうこれを大切にして「離すまい」とする。普通一般の檀家の家には、役僧任せにして決して行く事はなくとも、資産家の家には自ら赴くのは常である。一般の檀家に対しては法話も、その真似事すらしようとしないが、資産家となると態度はまるで違って、無理に「法話の様な話」をして僧侶然としようとするのが普通である。人間らしい行為であろうが、僧侶らしい行為ではない。→本文に戻る

不婬[ふいん]…一切の性行為から離れる事。セックスはもちろんのこと、自慰もゆるされない。セックスについて、相手が同性であろうと異性であろうと、動物であろうと、あるいは性器を模した道具を用いての擬似性交渉であっても、それらを犯せばただちに追放となる。単純な自慰の場合は、懺悔によって許されるが、相当に厳しい罰が科される。
 仏教の出家者が結婚など、なにかの冗談である。実際、明治維新に僧侶の妻帯肉食が国法として許されたのち、高野山でも大正時代の初めに大師教会講堂において「僧侶の結婚式」が執りおこなわれた。ここに参列していた高野町の在家の人々は、新郎の僧侶と新婦とが共に般若心経を唱えだしたのを見て、おもわず吹き出し、町人一同そのあまりの滑稽さに失笑の渦が巻き起こったという話が伝わっている。しかし、時代と共に、その冗談・滑稽はいまや常識となり、義務とすら考えられるようになった。→本文に戻る

三聚戒壇[さんじゅかいだん]…三聚浄戒を受けた戒壇。もっとも、ここでの意は三聚浄戒を授けるためだけの戒壇というものでは無く、そもそもそのようなものは存在しない。三聚浄戒は戒壇において授けなければならない類のものでは無いためである。戒壇とは、人が具足戒を受けて比丘となるために必要な、僧伽によって指定されたある特定の区域のことであるが、現今は「通受」といい三聚浄戒を受けることで、後二の戒だけではなく律儀戒もまとめて受けてしまおうという(本来は絶対にありえない非法の)方法を取っているため、このように表現している、。→本文に戻る

10 進具[しんぐ]…具足戒をうけること。しかし、具足戒は三聚浄戒を通受して受けることは本来出来ない。→本文に戻る

11 沙門[しゃもん]…仏教の出家者。「努める人」の意。→本文に戻る

12 仏前婚儀[ぶつぜんこんぎ]…近年は著名な僧侶、世に高僧などと称えられる者によって『仏前結婚式次第』なるものすら発刊され世に出ている。彼らはここで、まことに浅ましいことであるが、キリスト教のそれに習って、指輪の交換ならぬ数珠の交換を行い、あろうことか受戒式まで併せて執りおこなうのである。ここまで来るともはや呆れてモノも言えぬ。
 そもそも、先に挙げたように、僧侶は世間の婚儀に関わってはならない。仏前s婚儀さらには神前婚儀などというものが始まったのは、明治維新以降、キリスト教の婚儀を見た仏教と神道の人々が、これにあこがれ模倣して始めた時代の浅い、しかもそれぞれなんの根拠もない、きわめてくだらない儀礼である。実際、目の前で僧服を着た者等が「では新郎新婦は数珠の交換を」などと取り澄ました顔で言っているのを見るのは失笑を禁じえない。→本文に戻る

13 比丘の名を騙って…日本仏教界には残念ながら「比丘」はいない。比丘とは、仏教の正式な出家修行者、正式な僧侶である。しかし、稀に、いやしばしば自らを「比丘○○」と称する者が現れるが、彼らに比丘たる根拠やその資格は「全く無い」。比丘ではないのに比丘を名乗り、布施などを受けて生活する事は「賊心入道」と言われる。→本文に戻る

14 三昧耶戒[さまやかい]…『大日経』などを根拠とし、密教の修行者に説かれる戒。真言宗の僧徒はこれを必ず受ける。その受戒中、「大師の教えの如く、我誓って修行して」云々と誓うのであるが、毛頭「誓って修行」する気などなく、ただ言われたとおり復唱するだけである。そもそも、彼らは「大師の教え」はもとより仏教などというものが何かまるで知らない。経典を「読誦すること」はあっても、「読むこと」はないためである。あるいは、例えば算数も出来ないのに数学をやろうと試み、理解してもいないのに理解しているふりをする如き態度を、仏教についてとる。→本文に戻る

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