真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 資延敏雄 「末法味わい薄けれども教海もとより深し」(5)

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1.原文

開陳したる是の如き辛辣の言、老いて頑迷固陋たる者の故なき悪口[あっこう]、由なき讒言[ざんげん]に非ず。世に、至愚と雖も人を責むるときは即ち明らかに、聡明ありと雖も己を恕するときは即ち昏しと云えり 。我則ち賊心入道に異なることなく、此の如き言を揮うに価する行業、微塵もなきこと重々承知。ただ命根まさに尽き果てんとする今、下機下根の老犬馬にて戒法興復するに力及ばずとも、ここに興法利生の願発すが故の所辯なり。もとよりこれ名聞利養の為に非ず。

『華厳経』に曰く「信は道の元、功徳の母なり」と。『智度論』には「仏法の大海は信を以て能入とす」と信の重きを明かすと雖も、今真言門徒の喧伝するところの信、邪[よこしま]にして澄浄・随順・不壊等の義、一としてなし。それ信徒拐かして闇然たる妄境に堕さしむの因、五結ますます強固にして悪趣に導くの縁なり。いかでか十信の初位にも達すべき。ただ口に南無云々とのみ唱え礼する人、滅後その舌、浄土に生じて蛭となり、その身は悪趣に転じて諸苦を受けんこと疑いなし 。およそ仏法に於ける信に曇濁・盲順・依存の義無し。信これ持戒、信これ修禅、信これ智慧なり。信これ勤修、心念、修禅、智慧獲得するの勝因10 なり。諸仏諸賢聖の遺徳に胡座して、一生の陽炎の如き楽を嘗め、多生を損なうこと勿れ。名聞利養に縛され、歌舞音曲に現[うつつ]を抜かして、悪趣に長く沈溺すること勿れ。

呑刀刮腸[どんとうかっちょう]11 して頭燃を払い12  、三学如法に具足して善逝[ぜんせい]13 の徳を世に顕せ。日に安般14 四念15 して四諦16 を観じ、以て賢聖十地17 の雲に登れ。上機上根なる者は、三密相応して大日の影自心に現し、以て真言門徒の証と為せ。

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2.語注

至愚と雖も人を責むるときは云々…世の中の人間は、自分が愚かでありながら人を責め立てるときは細々したところまで言い立てるものである。また逆に大変に利口で細かい点までよく頭の回る人間でも、自分の欠点をみずから指摘するときは気付かないものである、という范純仁の言葉。『宋名臣言行録』。→本文に戻る

賊心入道[ぞくしんにゅうどう]…仏教を信仰するでもなく、免税の特権や衣食住に困らないなどの理由で僧侶をするもののこと。または具足戒を受けずに比丘として生活する者のこと。→本文に戻る

下機下根[げきげこん]…頭も育ちも悪いこと。→本文に戻る

興法利生[こうぼうりしょう]…世に正法を実行し、衆生を導いて利益すること。→本文に戻る

名聞利養[みょうもんりよう]…名誉を求め、財産を欲すること。→本文に戻る

澄浄[ちょうじょう]・随順[ずいじゅん]・不壊[ふえ]等の義…『釈摩訶衍論』には信に十義ありと説かれる。その十とは則ち、澄浄・決定・歓喜・無厭・随喜・尊重・随順・讃歎・不壊・愛楽である。今の僧徒の唱える信は、まさしく盲信・狂信の類である。
信仰をもつこと自体は一概に肯定されるべきものでも否定されるべきものでもない。釈尊は時として「信を捨てよ」と言われている。ここでの「信」とは、迷信や旧来の宗教に対する盲信を意味する。
 仏教の信は、論理的思考と経験の両方に裏打ちされたものでなければならない、というのが第一義である。もっとも、人のごく素朴な信仰まで全て完全に否定する事はない。それは無理な話であって、そんなことをしては仏教は社会に受け入れられる事がなくなる。段階的に質の異なる信仰を持っていけばよい。→本文に戻る

五結[ごけつ]…欲界に於ける煩悩の五つ。すなわち、貪欲(満足を知らず、飽くことなく求める欲望)、瞋恚(怒り)、有身見(人やものの奥底には変わることのない霊や実体となるものがある、とする誤った見解)、疑(あまりに猜疑心が強く、あらゆることに確信をもてずに迷う心。仏教に対する疑い)、戒禁取見(誤った戒を、悟りに至る因だと信じて実行すること)。→本文に戻る

十信の初位…菩薩の五十三の階位の最初。口に大乗、大乗とのぼせる割には、誰も菩薩として第一段階にすら至りえていないことを言っている。→本文に戻る

ただ口に南無云々とのみ唱える人云々…浄土教が世を席巻した時代、口に念佛を唱えながらも悪行を平気で行う者が多かったことから、それを揶揄した話。
「世の中には大勢が極楽浄土に往生すること間違いなし、と大勢が唱えているのだから、極楽には人で溢れているはずなのに、或る人が極楽浄土に行ってみたところ、そこには人っ子一人無くひっそりしており、いるのは無数の蛭だけであった。よくみるとそれは人間の舌で、念佛を唱えた舌だけ極楽に来ていたのだった。そう、身体は地獄におちているのだ」
という話。ずいぶん昔から言われてきた話のようであるが、今も昔も人が変わらないという、一つの証であろう。→本文に戻る

10 信これ勤修[ごんしゅ]云々…信は五根・五力の最初。三十七菩提分の一。→本文に戻る

11 呑刀割腸[どんとうかっちょう]…心を入れ替えることを、刀を呑んで腸を刮ぐことに喩えた言葉。『南史』「荀白玉伝」に出。→本文に戻る

12 頭燃[ずねん]を払い…頭が燃えているのを消そうと必死になるように、努力して怠らないこと。『正法眼蔵』『往生要集』に出。→本文に戻る

13 善逝[ぜんせい]…善く逝きし者。仏陀釈尊のこと。如来の十号の一つ。→本文に戻る

14 安般[あんぱん]…サンスクリットĀnapāna smṛtiあるいはパーリ語でĀnapāna satiの音写、安那般那念[あんなぱんなねん]の略語。最初、呼吸を念と定の対象としてただ観じ、さらにその本質を深く洞察して修習法。仏陀が菩提樹下において成道した際、行われていたまさにその法。または四念処(四念住)とも言う。
 空海も高野山にて安般に没頭する間、天皇からの京都への招待すら手紙で無碍に断った。理由は瞑想に専念しているからというものであった。安般は仏教の瞑想の基礎にして、最も重要な修習法。五停心観の一つ。→本文に戻る

15 四念[しねん]…四念処または四念住のこと。身・受・心・法がそれぞれ不浄・苦・無常・無我であると観じること。悟りへの道。説一切有部での教義的には、三賢の一とされる。→本文に戻る

16 四諦[したい]…釈尊によって説かれた、苦・集・滅・道の四つの真理。世界は苦であるという聖なる真理。世界は様々な原因と条件とによって、仮に構成された実体のないものであるという聖なる真理。苦しみの生存の死滅という聖なる真理。苦しみの生存を死滅させる道という聖なる真理。大乗小乗ともに八万四千と言われるほど多様に説かれる仏教は、しかしすべてこの「四諦」と「十二縁起」とに集約される。→本文に戻る

17 賢聖十地[けんじょうじゅっち]…修行によって次第に悟りを深めよ、の意。もっとも、言葉としては、小乗大乗に通じて設定されている階梯、賢者と聖者の境地。さらに菩薩の階梯としての十地の意。→本文に戻る

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