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1.律とは

写真:「朝日の中、托鉢から精舎に帰る比丘(びく)と沙弥(しゃみ)達」(ミャンマー、インレー湖付近の片田舎にて)[撮影:石川覺應]

僧侶の法律

「律」とは、釈尊が僧侶に対してのみ定められ、今も僧侶であるならばすべからく行うべき、罰則を伴う禁止事項や行事規定です。

律は、サンスクリットまたはパーリ語のVinaya[ヴィナヤ]の訳語です。

Vinayaとは、その原意から言うと、「別々に」「分離」「拡張」を意味する接頭辞vi[ヴィ]と、「導く」を意味する√nī[ニー]から構成された、動詞Vineti[ヴィネーティ]に由来する、「取り除くこと」を意味する言葉です。これが転じて、僧侶の禁則事項あるいは行動規定について言われるものとなりました。

Vinayaは、漢訳経典の中で訳されずに、毘奈耶[びなや]または毘那耶[びなや]、毘尼[びに]とただ音写されたり、さらにはその用いる意味合いの異なりによって、律ではなく、調伏や滅、離行などと訳されていることがあります。

漢訳で用いられた「律」という漢字には、法令・規則・規定・原理などの意味があります。僧侶の禁止事項や行動規定が、何故に律という言葉に訳されたかと言えば、世間に布かれる法律によって、社会を規制して秩序あるものとするように、Vinayaが出家者たる僧侶の行動を規制して秩序をもたらし悪を防ぐための、まさに僧侶の規則・規定である、と翻訳者に解せられたからでしょう。訳語として適切なものです。

写真:「坐具に座り経典を暗誦する沙弥(しゃみ)達」(ミャンマー、首都ヤンゴン郊外の学問寺院にて)[撮影:沙門覺應]

僧侶の義務

ところで、仏教の出家者たる僧侶は、俗世間での家庭生活を離れ、サンスクリットでSaṃgha[サンガ]またはパーリ語でSaṇgha[サンガ]といい、漢語では僧伽[そうぎゃ]と音写される組織・共同体の中でこそ、僧侶として存在し、生活できるものです。

どのような組織であっても、組織を維持運営するためには、それが大きなものであればなおさらのこと、必ず規則規定が必要となります。そのように、仏陀が教えを広めてサンガという出家者組織が形成され、次第に大規模化していったことによって、サンガでも俗世間とは異なった出家者独自の法律が、必要となっていきました。そこで、仏陀釈尊によって、必要に応じて随時定められたのが律です。

社会でも人が法律に違反して罪を犯せば、法律の規定する罪の軽重に従ってそれぞれ刑罰があたえられるように、律でも僧侶が禁止された行為を犯すことがあれば、その罪の軽重に応じた罰則が科せられることが厳密に規定されています。

そして、律が仏陀釈尊によって定められ、その定められた律をうけることが僧侶として必要不可欠の第一条件となって以降は、僧侶は律を受け守っているからこそ僧侶たりえるようになりました。僧侶が律を守ること、律に則った生活を送ることは義務であり、アイデンティティーでもあるのです。

しばしば、「小乗は律を頑なに守ってきており、現在も南方の仏教は小乗で、形式的な律を守っている。しかし、大乗は寛容であり、また内容をこそ重視したために、形式主義に過ぎない律にあまりこだわることはなかった。日本仏教は大乗であるから、律などというものに拘泥せず、守ることもないのだ」などと言う人があるようです。

しかし、そもそも、律には小乗も大乗もありません。

律の異称 -具足戒・二百五十戒・五百戒-

僧侶であるならば誰でも、必ず遵守しなければならない「律」は、一般に具足戒[ぐそくかい]、略して具戒[ぐかい]と言われることがあります。

まず具足戒とは、「得ること」を意味するサンスクリットならびにパーリ語のUpasampadā[ウパサンパダー]の漢訳語で、仏教では「(比丘・比丘尼が必ず守らなければならない、完全な)法律・行動規定」、または「比丘(比丘尼)としての性を得ること」を指す言葉です。

また、律は二百五十戒や大戒、あるいは声聞戒[しょうもんかい]などと呼称されることもあります。

二百五十戒というのは、律には代表的なものとして、およそ250ヶ条の罰則を伴う禁止事項や行為規定があることからこう言われます。

もっとも、250という条項数については、男性出家者である比丘[びく]の律について言われることで、女性出家者である比丘尼[びくに]の律は、一般に五百戒と言われています。しかし、実際の比丘尼の条項数は、たとえば『四分律』でならば348ヶ条、「パーリ律」では311ヶ条で、およそ500と言うには及ばないものです。しかし、いずれにせよ、男性出家者よりも女性出家者の律は五割程多くなっています。

さて、二百五十戒や五百戒、具足戒などの言葉は、律を指して言われているのですから、「戒」という言葉が語尾に付されているのは、まったく不適切と言えます。戒と律とは異なるものですから、これは注意すべき点です。

声聞戒の声聞[しょうもん]とは、サンスクリットでŚrāvaka[シュラーヴァカ]あるいはパーリ語でSāvaka[サーヴァカ]と言い、その原義は「(教えを)聞く者」というほどのものです。ここから声聞戒は、特に「出家修行者の律」を意味します。

ところで、原語から言うと、漢訳語の声聞は適切なものと言えますが、しかし大乗の仏典においては「小乗の(出家)修行者」という、少々否定的な意味合いで用いられることがあります。

現在、古来大乗の立場から小乗[しょうじょう]と蔑称されてきた部派のうち、上座部と通称される分別説部[ふんべつせつぶ]という部派が一つだけしか残っていないという状況もあり、また伝統的仏教的見地からではなく近代以降に発達してきた文献学的な見地から、もはや小乗というのは控えようということが言われているため、代わりに別の伝統的な呼称である、声聞乗[しょうもんじょう]という名称でもって呼ぶことがあります。

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2.律の効用

写真:「沙弥(しゃみ)」(スリランカ南部、アハンガマのヴィドヤチャンドラ僧院にて)[撮影:石川覺應]

身体と言葉を正す

律には、それが法律であるという性質上、当然のことながら、僧侶の精神的行為までを制限する条項など存在していません。

僧侶は律に則った生活を送ることよって、少なくとも身体と言葉の行為は、おのずから悪しき、俗な卑しき行為から離れていくようになります。

このようなことから、Vinayaは、先に述べたように、調伏・離行などとも漢訳されたのでしょう。

よって、もちろん、僧侶は律を守ってさえいれば、心が清らかになって悟りが得られる、などと言うことはありえません。

悪しき心の働きを離れるためには、経典と論書を学習し、その上で止観[しかん]という仏教に特有の冥想を行って、徹底的に心身を観察、その本質を洞察。モノの無常なる真実のあり方を見つめて、智慧を磨いていかなければならないのです。

(詳細は仏教の冥想を参照のこと。)

律制定の目的 -仏教存続の要-

ところで、律がなぜ制定されたかについては、出家者が出家者として「安楽な修行」を続けるため、そして在家者の信仰と信頼を得るため、また、釈尊の説かれた教えが、長く、そして正しく後世に伝えるためである、ということが、律蔵の随所に明確に説かれています。

律とは、後の世に「仏教を存続させる」という、合目的的なものです。これは裏を返せば、律が正しく行われなくなれば、仏教はたちまち滅びの危機にさらされるということに他なりません。これについては、律蔵において詳しく論じられています。

(詳細は律の成立を参照のこと。)

写真:「食べ残った食事を貧しい子供達に与える比丘達」(ミャンマー、アマラプラの大僧院マハーガンダーヨンにて)[撮影:石川覺應]

現代の日本人の多くは、「二百五十戒」と聞くと、「なにやら厳しい」または「そりゃ多すぎる」、「ふん、時代錯誤でナンセンスな形式主義だ。必要ない」などといったイメージを抱くようで、現にその内容をまったくと言って良いほど知らずにそう思いこんでいる人が大半のようです。

これは、仏教のことをほとんど知らない人に限ったことでなく、日本で僧侶といわれる人々のほとんど、あるいは仏教学者と言われる人の一部ですら、同様の感想を持ち、同じように律蔵についてほぼ全く無知であるのです。

しかし、律蔵を偏見もつことなく実際に読んでみればただちに理解出来ることですが、律は極端な禁欲生活を要求するような厳しいだけのものでも、理不尽な形式主義のものでもありません。

律は合理的な規律

確かに、先にも述べましたように、律には代表的なものとして、およそ250の禁止事項や規定事項があります。250という数は、現代的感覚からすると非常に多いと感じられるようです。

しかし、その中には「その罪を犯すことの方が困難」と言えるようなものもいくつかあるものの、基本的には極めて実際的な条項、出家者達の実生活についての事項がほとんどで、それほど窮屈でも非常に多いと思われるようなものでもありません。ただし、「性」に関しては大変厳しいと言えるでしょう。

出家者達は、そのような律に則った生活を送ることによってこそ、出家者は出家者として、出家者組織であるサンガから、ひいては社会から支持され守られて生活し、修行に打ち込むことも出来るのです。また、出家者は、律によって成り立っているサンガにおいて生活していれば、律に違犯する機会は少なくなる、とも言えます。

それを譬えるならば、日本には、憲法に基づく刑法・民法など、二百五十どころではない膨大な量の法律があります。その中には、その犯罪をどうやって犯すのかもわからないようなものもあるようですが、それは基本的には日本人の生活に根ざした、実際的なものがほとんどであると言えるでしょう。そして、そのような法律によって、日本人は日本人として最低限の権利が守られ、その生活が保証されているのです。

しかし、日本人がこれら法律のすべてを一々知っているわけではなく、例えば交通法規など生活に関する法律のごく一部だけを知っているにすぎません。しかし、日本人として常識的に生活していれば、それを犯すことはほとんど無いようなものです。

もっとも、仏教の正式な出家者である比丘[びく]の場合は、原則として受戒してから最低でも五年間(優秀な者に限って最低五年間であって、並あるいは下愚は無期限)は、和上[わじょう]と呼ばれる長老比丘の下で、律を含めた様々なことを学ばなければなりませんので、出家者として知るべき基本的事項は、この期間内にすべて学習することになっています。

日本の刑法・民法に比べれば、二百五十ほどの条文すべてを完全に丸記憶することは難しいとしても、その大まかな規定を憶えることなど、まったく大したことではありません。よって、法律関係の仕事にでも就かない限り、日本人の大多数が法律のほとんどを知ることがない、というのとは異なって、律についてほとんど知らないような比丘は、「本来は」いないことになっています。

小苾蒭覺應 敬識
(horakuji@gmail.com)

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