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1.律蔵の成立過程

仏伝としての性格

律蔵には、それが律の集成であるという性格上、経蔵や論蔵とは異なって、仏教の教義や修行法などについての細かい説示はほとんどありません。「何処で・誰が・何をした・故にこの規定が定められた」などといった、律制定に関わる仏陀やその弟子達の事跡の、淡々とした記録が大部分です。

しかし、むしろそれによって、釈尊の一生涯を通じて知ることが出来るという側面が律蔵にはあり、それを僧侶の法律書としてではなく、いわゆる仏伝として読むことも可能です。

ここでは、律蔵がどのように成立したものであるかを、律蔵自身が伝えている記事によって紹介します。ただし、現在まで伝わっている律蔵には、五種または六種の別があって、それぞれが伝承している語句や因縁譚などに若干の異同があり、それらを並列的に記すと理解に混乱をきたすおそれがあります。よって、ここでは中国・日本に最も縁の深かった『四分律』が伝える、律蔵成立の経緯を記しています。

四分律が伝える律蔵の成立経緯

律蔵がどのように成立したものであるか。『四分律』「集法毘尼五百人」にかなり詳しく伝承されています。律蔵の成立を知るにあたって、大変重要な箇所ですので、やや長くなってしまいますが、その概要(現代語訳)を以下に紹介します。

釈尊の入滅
釈尊が拘尸城(クシナーラー)のサーラ樹の林で亡くなられた時、摩訶迦葉(マハーカッサパ)尊者は五百人の比丘と共に波婆(パーヴァー)と拘尸城との中間地点にあって、そのことを知らずにいました。
そして摩訶迦様尊者達は、道の途中に出会った曼荼羅華を持つ一人のジャイナ教徒(もしくはアージーヴィカ教徒)によって、釈尊が一週間前に亡くなったことを知らされます。
尊者と共にあった比丘達の中には、いまだ悟りを得ていない者があり、その訃報を聞いた彼らは地面に打ち倒れて「釈尊は何故こんなにも早く亡くなられてしまったのか」と悲しみ、泣き叫んだのでした。
釈尊の死を喜んだウパンダンダ
ところが、跋難陀(ウパンダンダ)という比丘は、そのように嘆き悲しむ比丘達に対して、「長老よ、泣くのはおやめなさい。私達はあの老いぼれが死んだことによって、むしろ自由になったのではないか。彼は生前、我々に対してあれこれと口うるさく言っていたが、我々はもはや自由だ。好き勝手にやろう」と発言したのです。
跋難陀のこの発言を聞いて、大変不愉快に思った摩訶迦葉尊者でしたが、その場は比丘達に一刻も早く釈尊が亡くなった拘尸城に共に向かうことだけを指示します。
そして、拘尸城に辿り着き、阿難(アーナンダ)尊者と会って、釈尊の遺骸を荼毘に付した摩訶迦葉尊者は、跋難陀という比丘に先のような発言があったことを理由に、比丘達を招集します。
マハーカッサパ尊者の提案
そこで尊者は、「我々は今、釈尊が生前説かれた教えと律とをまとめなければならない。仏教以外の宗教者から「沙門瞿曇(ゴータマ)の定めた法律は煙のようなものだ。彼が生きていたときは皆守っていたが、死んでしまえば誰も守る者がいない」などと批難され、揶揄(やゆ)されないようにしなければならないのだ。比丘の中から仏陀の教えをよく記憶しており、智慧が優れた阿羅漢(あらかん)たる者を選出しよう」と提案され、了承されたのでした。
そして比丘達の中から適任者を選出した結果、499人の阿羅漢が選ばれます。
選ばれた500人
比丘達は、最後の五百人目に、阿難尊者を加えるべきであると推薦します。
ところが、摩訶迦葉尊者は「阿難はまだ悟っておらず、阿羅漢でないから、その中に入れることは出来ない」と、それに難色を示したのでした。
しかし、比丘達は再び「阿難は釈尊の随行をしていた人で、常にお側でその教えを聞いており、必ず様々な場面で質問をしていたのですから、数に入れるべき」と阿難尊者を推挙しました。
結局、摩訶迦葉尊者はこれを聞き入れ、阿難尊者を含めた500人の阿羅漢によって、釈尊が説かれた教えと律をまとめ、確認することになったのです。そして、それが行われる場所は、物資が豊かな土地であることによって、釈尊が亡くなられ、今比丘達が集まっている舎衛城(サーヴァッティー)ではなく、遥か遠い王舎城(ラージャガハ)にて行うことになりました。
悟っていなかったアーナンダ
さて、500人の中に選ばれた阿難尊者でしたが、尊者は自分以外の比丘499人が皆、阿羅漢であることに引け目を感じていました。
王舎城への途上にある毘舎離(ヴェーサリー)に着いたとき、そんな尊者に対して、跋闍子(ヴァッジプッタ)という優れた比丘が、「坐禅して心を修め、悟りを得よ。仏陀の教えを多く人に説くことが出来たとしても、それが一体何だというのだ」と諭します。これを聞いた阿難尊者は奮起し、それまでより真剣に冥想に励みだしたのです。
ついに阿羅漢となる
そんなある日、阿難尊者は、夜通し冥想して夜も明けようとする時間になるも、結局悟れず、その疲れた身体を少しく休めようと身を横たえます。そして、期せずして、ついにその時が訪れます。
尊者が身を横たえ、その頭が枕に着くか着かないかというその瞬間、ついに尊者は心に迷い無き悟りを得て、阿羅漢となったのです。
些細な律の条項は廃してもよい?
さて、阿難尊者を含む500人の阿羅漢は、王舎城に到着。釈尊が生前に説かれた教えと律とを集め、確認する集会を開始します。すると、それに先立って阿難尊者は、釈尊が亡くなる前に「些細な律の条項は廃止してもよい」と言われていたことを、皆に明かします。
ところが、その「些細な律の条項」とは具体的にどの規定であるかを、阿難尊者は釈尊に質問していませんでした。その時は釈尊が入滅されるという悲しみで頭がいっぱいであり、それどころではなかった、というのが阿難尊者の言い訳です。
そのため、「些細な律の条項」とは、「 四波羅夷法(しはらいほう)以外のすべてだ」、「いや、 四波羅夷法と十三僧残法(じゅうさんそうざんほう)以外のすべてだ」、「いやいや、 四波羅夷法と十三僧残法と二不定(にふじょう)以外のすべてだ」、「いやいやいや…」云々と、500人の阿羅漢の見解はまったく一致せず、集会はけんけんごうごうたる様相を見せます。
結局、誰も釈尊の言われた「些細な律の規定」とは何かを知らず、わからなかったのです。
律蔵制定の一大原則
そこで摩訶迦葉尊者は、「釈尊が生前定められなかったことは定めず、定められたことは廃してはならない。仏陀が定められたとおりに、我々は従うべきである」という、律蔵を制定するに当たっての一大原則を提議し、僧伽もこれを了承したのでした。
責められたアーナンダ
また、ここで摩訶迦葉尊者は、阿難尊者には釈尊に対して「些細な律の条項」とは何かを聞かなかったことを含める、7つの過失があるとしてこれを責め、懺悔するよう強く求めています。その七つとは、
一.些細な律の条項とは、具体的に何であるか釈尊に尋ねなかった。
二.釈尊の水浴びをするときに着る衣を、踏みつけながら縫った。
三.釈尊の遺体を女性に直に礼拝させ、その足を女性の涙で汚した。
四.釈尊からその延命の可能性の暗示を三度もされたのに無視した。
五.女性を出家させ(仏教が後代に正伝する期間を大幅に短縮させ)た。
六.釈尊から飲み水を三度までも請われたにも関わらず、応じなかった。
七.釈尊の随行人になるように三度までも請われたにも関わらず断った。
の七つです。
以上を過失として非難された阿難尊者は、それら摩訶迦葉尊者が挙げる7つの事項は、それぞれ自分なりの理由があって過失には当たらないと反論しますが、結局はしぶしぶながらも四百九十九人の比丘の前で懺悔しています。
三蔵の成立
さて、このようなことがあったのち、ようやく本題である、釈尊が生前に説かれた教えと律とを集め確認する作業が、摩訶迦葉尊者主導のもとに開始されます。
まず、優波離(ウパーリ)尊者によって、釈尊の定められた律の規定の一々について、何処で誰を原因として定められたかが語られ、間違いのないことが確認されて「律蔵」としてまとめられました。
そして次に、阿難尊者によって、釈尊が何処でどのような教えを説かれたかが語られ、間違いないことが確認されて、その内容によって「経蔵」と「論蔵」とに分類してまとめられました。ここに初めて律蔵・経蔵・論蔵の三蔵が成立します。
遅れてやってきたプンナ尊者
このことを聞きつけた、(第一結集に参加していなかった)富羅那(プンナ)尊者は、王舎城にやって来、自分もその教えと律とを確認したいと摩訶迦葉尊者に伝えます。そこで摩訶迦葉尊者は、富羅那尊者のために、五百人の阿羅漢を集めて先の集会を再現します。
そして、富羅那尊者は、すべてそれに間違いないことを確認します。しかし、食に関するただ8つの律の条項については、釈尊は生前許されたことがあった、と異論を唱えています。これに対して摩訶迦葉尊者は、たしかに富羅那尊者の言うようなことはあったけれども、それは一時的なものであったと答えます。
しかし、富羅那尊者はこれに納得せず、「釈尊には、すべてを明らかに見渡す智慧があったのだから、一旦禁じられたことを許され、それを再び禁じられるようなことはしないはず」と反論するのでした。
仏陀は全き智慧の人であるからこそ
これに対し、摩訶迦葉尊者は「釈尊には、すべてを明らかに見渡す智慧があったからこそ、一旦禁じられたことを一時的に許され、そして再び禁じられたのだ。富羅那よ、私達は「釈尊が生前定められなかったことは定めず、定められたことは廃してはならない。仏陀が定められたとおりに、我々は従うべきである」という取り決めをしたのである」と、僧伽として決定した方針を伝え、この五百人の阿羅漢による集会は幕を閉じたのでした。

『四分律』巻五十四(大正22.P966上段)

以上が、『四分律』「集法毘尼五百人」が伝える、釈尊滅後どのようにその教えと律とがまとめられ、伝承されることになったかの経緯です。

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2.第一結集

第一結集

仏滅後、僧伽から選ばれた500人の阿羅漢によって開かれたこの集会は、今一般に第一結集[だいいちけつじゅう]と言われます。仏教が、仏滅後もインド各地において広く信仰され、また世界宗教として現在にまで伝わることになるきっかけとなった、大変重要な出来事です。

補足ですが、上にみた『四分律』にある律蔵成立の経緯では、第一結集のおりに「律・経・論」の三蔵がまとめられたと伝承しています。しかし、実際には、いま我々が知るところの論蔵は、仏滅後相当の期間の中で形成されていったものであり、当時仮に論蔵としてまとめたものがあったとしても、今いわれるものとは異なります。

また律蔵についても、説一切有部の伝承では、この第一結集にてまとめられた律蔵は、「十誦」ではなく「八十誦」、すなわち優波離(Upāli[ウパーリ])尊者によって八十回に分かって誦出されたという大部のものであったといいます。しかし、アショーカ王の時代のおりに、有部伝では遺法相承の第五に挙げられる憂婆麹多[うばきくた](Upagupta[ウパグプタ])尊者が、後世の鈍根の者の為にと、今伝えられている説一切有部の『十誦律』に約したと伝えられています(僧祐『出三蔵記集』巻三)。

アーナンダの過失

ところで、ここからは余談となりますが、この第一結集には、後の時代にまで尾を引いて、ついには僧伽の分裂にまで発展する一因と考えられる問題があったことが知られます。

それは、阿難尊者が、「些細な律の条項(『四分律』での訳語では雑碎戒[ぞうさいかい]、『遊行経』では小小戒[しょうしょうかい])は廃止してもよい」という釈尊の遺言に対し、なんら具体的な質問をしなかった、という点です。

この問題は結局、摩訶迦葉尊者によって「釈尊が生前定められなかったことは定めず、定められたことは廃してはならない。仏陀が定められたとおりに、我々は従うべきである」という、釈尊が定められた律に対しての一大原則が設けられはしました。

しかし、この原則が設けられるまでの議論で、「些細な律」とは何を指すか阿羅漢達でも意見がバラバラであったことが、後代の比丘達の律蔵に対する見解の不一致につながって、僧伽の分裂にまで発展する事態を引き起こすことなってしまった、とも見られるからです。

相違している現存する6つの律蔵

この摩訶迦葉尊者によって設けられた、「釈尊が生前定められなかったことは定めず、定められたことは廃してはならない。仏陀が定められたとおりに、我々は従うべきである」という律蔵成立時の一大原則は、現存している律蔵すべてに通じて説かれてはいます。

しかし、現実には各律蔵によって、律の条項数が異なっているのです。特に、律の250ヶ条の禁止事項の中では、最も軽微な罪である衆学法[しゅがくほう]の内容・条項数が、律蔵によってかなり相違しています。

現存する律蔵を比較してみると、他の律蔵にはまったく記載がない事項が、ある律蔵には挙げられている、という場合もあれば、ほとんどの律蔵には確かに禁止または規定として記載されてはいても、ある律蔵では二百五十戒の中に数え、他の律蔵では数えていない、という場合もあります。

これは、後代の比丘達が、釈尊の言われた「些細な律とは衆学法である」、と見なしたためであるかもしれません。たしかに、諸律蔵で若干異なってはいるとはいうものの、それら衆学法の内容を逐一見ると、それはただ比丘としての行儀作法を説いているものがほとんどであって、きわめて重要とまで思えるものではありません。もっとも、だからこれを廃止または改変して良いとするのは、摩訶迦葉尊者を初めとする釈尊の直弟子達からなる律蔵成立時の僧伽の意向に、完全に反したことになってしまうでしょう。

ちなみに、『四分律』の衆学法にはちょうど100ヶ条ありますが、他の律蔵と比較して特徴的なのは、そこに仏塔に関する規定が含まれていることです。これは他の律蔵には見られない、『四分律』特有のものと言える規定です。

小苾蒭覺應 敬識
(horakuji@gmail.com)

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