真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ Majjhima Nikāya, Ānāpānasatisutta(中部『安般念経』)

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1.現代語訳

安般念経

このように私は聞いた。――ある時、世尊はサーヴァッティのプッバーラーマ[東園]にある鹿母講堂において、衆多の証知した(高名な)上座の弟子らと共に、――尊者サーリプッタ、尊者マハーモッガッラーナ、尊者マハーカッサパ、尊者マハーカッチャーヤナ、尊者マハーコッティカ、尊者カッピナ、尊者マハーチュンダ、尊者アヌルッダ、尊者レーヴァタ、尊者アーナンダ、そしてその他の証知した高名な上座の弟子らと共に、留まっておられた。

さてその時、上座比丘たちは、新比丘たちを教え、諭していた。またある上座比丘たちは、十人の比丘を教え、諭していた。またある上座比丘たちは、二十人の比丘を教え、諭していた。またある上座比丘たちは、三十人の比丘を教え、諭していた。またある上座比丘たちは、四十人の比丘を教え、諭していた。彼ら新比丘たちは、上座の比丘たちに教誡され訓誡され、崇高で以前よりもさらに勝れたる(境地)を知った。

その時、十五日の布薩の日にして自恣の満月の夜、世尊は、露地にて比丘僧伽に囲まれ坐されていた。そこで、世尊は、清閑として沈黙している比丘僧伽を見渡され、比丘たちに告げられた。――「比丘たちよ、私はこの(汝ら比丘たちの)行跡[進歩]に満足している。 比丘たちよ、私の心はこの行跡に満足している。その故に、比丘たちよ、いまだ得ざるを得るがため、いまだ達せざるに達するがため、いまだ現証せざるを現証するがために、さらに一層つとめ励め。私はここサーヴァッティにてコームディーの四ヶ月祭を待つであろう」と。さて、地方の比丘たちは聞いたのであった――「皆が言うには、世尊は彼のサーヴァッティにてコームディーの四ヶ月祭を待たれるであろう」と。彼ら地方の比丘たちは、世尊にまみえるためにサーヴァッティに赴いた。さて彼ら上座比丘たちは、さらに一層、新比丘たちを教え、諭していた。またある上座比丘たちは、十人の比丘を教誡し、訓戒していた。またある上座比丘たちは、二十人の比丘を教え、諭していた。またある上座比丘たちは、三十人の比丘を教え、諭していた。またある上座比丘たちは、四十人の比丘を教え、諭していた。彼ら新比丘たちは、上座の比丘たちに教誡され訓誡され、崇高で以前よりもさらに勝れたる(境地)を知った。

その時、十五日の布薩の日にしてコームディーの四ヶ月祭となる満月の夜、世尊は、露地にて比丘僧伽に囲まれ坐されていた。そこで、世尊は、清閑として沈黙している比丘僧伽を見渡され、比丘たちに告げられた。――「比丘たちよ、(この汝ら)衆は駄弁を弄することがない。比丘たちよ、(この汝ら)衆は無駄口をたたくことから離れている。清浄なる真実において安立している。比丘たちよ、そのようなのがこの比丘僧伽である。比丘たちよ、そのようなのがこの衆である。そのような衆とは、もてなさすに値するものであり、(食事などを)供えるに値するものであり、供養するに値するものであり、合掌するに値するものであり、この世界におけるこの上ない福田である。比丘たちよ、そのようなのがこの比丘僧伽である。比丘たちよ、そのようなのがこの衆である。そのような衆に、少々(の物)が与えられれば多く(の利益)がもたらされ、多く(の物)が与えられてより多く(の利益)がもたらされる。比丘たちよ、そのようなのがこの比丘僧伽である。比丘たちよ、そのようなのがこの衆である。そのような衆は、この世においてまみえることは稀である。比丘たちよ、そのようなのがこの比丘僧伽である。比丘たちよ、そのようなのがこの衆である。そのような衆は、行李と共に長い長い道のりを赴き、まみえるに値する衆である。」

「比丘たちよ、この比丘僧伽には、煩悩を滅ぼし、(修行を)完成し、為すべきことが為され、重荷を下ろし、自己の利益をすでに得、生存にまつわる軛を滅ぼし尽くし、完全なる理解によって解脱した、阿羅漢たちが存する。――比丘たちよ、そのような比丘らが、この比丘僧伽には存している。比丘たちよ、この比丘僧伽には、五下分結を盡くし、(死後には天界に)化生してその世から(人界へと)還ってくること無く涅槃を得る者[不還]たちが存する。――比丘たちよ、そのような比丘らが、この比丘僧伽には存している。比丘たちよ、この比丘僧伽には、三結を盡くし、貪欲と瞋恚と痴とを減衰する一来があり、一度だけこの世に戻って苦しみの終焉を成すであろう。――比丘たちよ、そのような比丘らが、この比丘僧伽には存している。比丘たちよ、この比丘僧伽には、三結を盡くし、もはや悪趣に堕ちることが無く[不退転の]、三菩提に至ることが決定した、預流が存する。――比丘たちよ、そのような比丘らが、この比丘僧伽には存している。」

「比丘たちよ、この比丘僧伽には、四念処の修習に専心没頭して住している比丘たちが存する。――比丘たちよ、そのような比丘らが、この比丘僧伽には存している。比丘たちよ、この比丘僧伽には、四正勤の修習に専心没頭して住している比丘たちが存する。…乃至…四神足に、…乃至…五根に、…乃至…五力に、…乃至…七覚分に、…乃至…八支の聖道[八正道]の修習に専心没頭して住している比丘たちが存する。――比丘たちよ、そのような比丘らが、この比丘僧伽には存している。比丘たちよ、この比丘僧伽には、慈の修習に専心没頭して住している比丘たちが存する。…乃至…悲の修習に専心没頭して住している、…乃至…喜の修習に専心没頭して住している、…乃至…捨の修習に専心没頭して住している、…乃至…不浄の修習に専心没頭して住している、…乃至…無常想の修習に専心没頭して住している比丘たちが存する。――比丘たちよ、そのような比丘らが、この比丘僧伽には存している。比丘たちよ、この比丘僧伽には、アーナーパーナサティ[安般念]の修習に専心没頭して住している比丘たちが存する。比丘たちよ、アーナーパーナサティが修習され習熟されたときには、大きな果報と大きな利益がある。比丘たちよ、アーナーパーナサティが修習され習熟されたときには、四念処を完成する。四念処が修習され習熟されたときには、七菩提分を完成する。七菩提分が修習され習熟されたときには、明と解脱とを完成する。」

「では比丘たちよ、アーナーパーナサティがどのように修習され、どのように習熟されたときには、大きな果報と大きな利益があるであろうか?比丘たちよ、ここにおいて比丘が、阿蘭若に行き、あるいは樹下に行き、あるいは空屋に行って結跏趺坐し、身体を直くし面前に念を備える。彼はただ念じて入息し、ただ念じて出息する。」

「①長く入息しては『私は長く入息している』と、彼は知る。長く出息しては『私は長く出息している』と、彼は知る。②短く入息しては『私は短く入息している』と、彼は知る。短く出息しては『私は短く出息している』と、彼は知る。③『私は一切身を覚知して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は一切身を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。④『私は身行を止息させて、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は身行を止息させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。」

「⑤『私は喜を覚知して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は喜を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑥『私は楽を覚知して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は楽を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑦『私は心行を覚知して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心行を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑧『私は心行を止息させて、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心行を止息させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。」

「⑨『私は心を覚知して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑩『私は心を満足させて、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心を満足させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑪『私は心を統一して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心を統一して、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑫『私は心を解脱させて、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心を解脱させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。」

「⑬『私は無常を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は無常を随観して、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑭『私は離欲を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は離欲を随観して、出息する』と、彼は学ぶ。⑮『私は滅を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は滅を随観して、出息する』と、彼は学ぶ。⑯『私は捨離を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は捨離を随観して、出息しよう』と、彼は学ぶ。実に、比丘たちよ、アーナーパーナサティがこのように修習され、このように習熟されたならば、大きな果報と大きな利益がある。」

「では比丘たちよ、アーナーパーナサティがどのように修習され、どのように習熟されたならば、四念処が完成するであろうか?どのような時であれ、比丘たちよ、比丘は長く入息しては、『私は長く入息している』と知り、長く出息しては『私は長く出息している』と、彼は知る。短く入息しては『私は短く入息している』と知り、短く出息しては『私は短く出息している』と、彼は知る。『私は一切身を覚知して、入息しよう』と、彼は学び、『私は一切身を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。『私は身行を止息させて、入息しよう』と、彼は学び、『私は身行を止息させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。その時、比丘たちよ、比丘は熱心に、正知し、念じ、身体における身随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。比丘たちよ、――入息と出息、これを名づけて“ある種の身体”であると、私は説く。この故に、比丘たちよ、比丘はその時、熱心に、正知し、念じ、身体における身随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。」

「どのような時であれ、比丘たちよ、比丘は『私は喜を覚知して、入息しよう』と学び、『私は喜を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。『私は楽を覚知して、入息しよう』と彼は学び、『私は楽を覚知して、出息しよう』と彼は学ぶ。『私は心行を覚知して、入息しよう』と、彼は学び、『私は心行を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心行を止息させて、入息しよう』と、彼は学び、『私は心行を止息させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。その時、比丘たちよ、比丘は熱心に、正知し、念じ、感受における受随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。比丘たちよ、――入息と出息によく意を用いること、これを名づけて“ある種の感受”であると、私は説く。この故に、比丘たちよ、比丘はその時、熱心に、正知し、念じ、感受における受随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。」

「どのような時であれ、比丘たちよ、比丘は『私は心を覚知して、入息しよう』と学ぶ。『私は心を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心を満足させて、入息しよう』と、彼は学び、『私は心を満足させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心を統一して、入息しよう』と、彼は学び、『私は心を統一して、出息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心を解脱させて、入息しよう』と、彼は学び、『私は心を解脱させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。その時、比丘たちよ、比丘は熱心に、正知し、念じ、心における心随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。比丘たちよ、念を失って正知することがなければ、アーナーパーナサティの修習は無いと、私は説く。この故に、比丘たちよ、比丘はその時、熱心に、正知し、念じ、心における心随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。」

「どのような時であれ、比丘たちよ、比丘は『私は無常を随観して、入息しよう』と、彼は学び、『私は無常を随観して、出息しよう』と、彼は学ぶ。『私は離欲を随観して、入息しよう』と、彼は学び、『私は離欲を随観して、出息しよう』と、彼は学ぶ。『私は滅を随観して、入息しよう』と、彼は学び、『私は滅を随観して、出息しよう』と、彼は学ぶ。『私は捨離を随観して、入息しよう』と、彼は学び、『私は捨離を随観して、出息しよう』と、彼は学ぶ。その時、比丘たちよ、比丘は熱心に、正知し、念じ、法における法随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。般若[智慧]により、貪欲と憂いとの捨断を見、彼は“明らかに観る者”となる。この故に、アーナンダよ、比丘はその時、熱心に、正知し、念じ、法における法随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。」

「実に、比丘たちよ、アーナーパーナサティがこのように修習され、このように習熟されたならば、四念処を完成する。」

「では比丘たちよ、四念処がどのように修習され、どのように習熟されたならば、七覚分が完成するであろうか?どのような時であれ、比丘たちよ、比丘が、熱心に、正知し、念じ、この世における貪欲と憂いとを調伏して、身体における身念処に住する時には、その比丘に確立された忘失することの無い念がある。どのような時であれ、比丘たちよ、比丘に確立された忘失することの無い念がある時には、その比丘に念覚分の生起がある。比丘が念覚分を修習する時には、念覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。」

「彼はそのように念に住し、般若によってかの法を簡択し、考察し、深慮するに至る。どのような時であれ、比丘たちよ、比丘がそのように念に住し、般若によって、かの法を簡択し、考察し、深慮するに至る時には、その比丘に択法覚分の生起がある。比丘が択法覚分を修習する時には、択法覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。」

「般若によってかの法を簡択し、考察し、深慮するに 彼には努力[精進]が弛むことなく生起する。どのような時であれ、比丘たちよ、般若によってかの法を簡択し、考察し、深慮するに 比丘に努力[精進]が弛むことなく生起する時には、その比丘に精進覚分の生起がある。比丘が精進覚分を修習する時には、精進覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。」

「努力が生起したならば、穢れなきことからの喜びが生じる。どのような時であれ、比丘たちよ、比丘に努力が生起し、穢れなきことからの喜びが生じた時には、その比丘に喜覚分の生起がある。比丘が喜覚分を修習する時には、喜覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。」

「喜びある意識に対して、(彼の)身体が軽安となり、また心も軽安となる。どのような時であれ、比丘たちよ、比丘に、喜びある意識に対して身体が軽安となり、また心も軽安となる時には、その比丘に猗覚分の生起がある。比丘が猗覚分を修習する時には、猗覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。」

「軽安なる身体と安楽に対して、彼は心を統一する。どのような時であれ、比丘たちよ、比丘に、軽安なる身体と安楽に対して、彼が心を統一する時には、その比丘に定覚分の生起がある。比丘が定覚分を修習する時には、定覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。」

「彼は、そのように統一された心を“明らかに観る者”となる。どのような時であれ、比丘たちよ、比丘が、そのように統一された心を“明らかに観る者”となる時には、その比丘に捨覚分の生起がある。比丘が捨覚分を修習するときには、捨覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。」

「どのような時であれ、比丘たちよ、比丘が感受における…乃至…、心における…、熱心に、正知し、念じ、この世における貪欲と憂いとを調伏して、法における法随観に住する時には、(その比丘に)確立された忘失することの無い念がある。どのような時であれ、比丘たちよ、比丘に確立された忘失することの無い念がある時には、その比丘に念覚分の生起がある。比丘が念覚分を修習する時には、念覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。」

「彼はそのように念に住し、般若によってかの法を簡択し、考察し、深慮するに至る。どのような時であれ、比丘たちよ、比丘がそのように念に住し、般若によって、かの法を簡択し、考察し、深慮するに至る時には、その比丘に択法覚分の生起がある。比丘が択法覚分を修習する時には、択法覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。」

「般若によってかの法を簡択し、考察し、深慮するに 彼には努力[精進]が弛むことなく生起する。どのような時であれ、比丘たちよ、般若によってかの法を簡択し、考察し、深慮するに 比丘に努力[精進]が弛むことなく生起する時には、その比丘に精進覚分の生起がある。比丘が精進覚分を修習する時には、精進覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。」

「努力が生起したならば、穢れなきことからの喜びが生じる。どのような時であれ、比丘たちよ、比丘に努力が生起し、穢れなきことからの喜びが生じた時には、その比丘に喜覚分の生起がある。比丘が喜覚分を修習する時には、喜覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。」

「喜びある意識に対して、(彼の)身体が軽安となり、また心も軽安となる。どのような時であれ、比丘たちよ、比丘に、喜びある意識に対して身体が軽安となり、また心も軽安となる時には、その比丘に猗覚分の生起がある。比丘が猗覚分を修習する時には、猗覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。」

「軽安なる身体と安楽に対して、彼は心を統一する。どのような時であれ、比丘たちよ、比丘に、軽安なる身体と安楽に対して、彼が心を統一する時には、その比丘に定覚分の生起がある。比丘が定覚分を修習する時には、定覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。」

「彼は、そのように統一された心を“明らかに観る者”となる。どのような時であれ、比丘たちよ、比丘が、そのように統一された心を“明らかに観る者”となる時には、その比丘に捨覚分の生起がある。比丘が捨覚分を修習するときには、捨覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。比丘たちよ、四念処がこのように修習され、このように習熟されたならば、七覚分を完成する。」

「では比丘たちよ、七覚分がどのように修習され、どのように習熟されたらならば、明と解脱とを完成するであろうか?比丘たちよ、ここにおいて比丘が、念覚分を修習する。遠離により、離欲により、滅によって、棄捨[涅槃]へと至る。彼は、択法覚分を修習する。…乃至…、精進覚分を修習する。…喜覚分を修習する。…猗覚分を修習する。…定覚分を修習する。…捨覚分を修習する。遠離により、離欲により、滅によって、棄捨へと至る。実に比丘たちよ、七覚分がこのように修習され、このように習熟されたならば、明と解脱とを完成する。」と。

これが、世尊の説かれたことである。心にかなった彼ら比丘たちは、世尊の言葉を喜んだ。

安般念経第八 了

日本語訳:沙門覺應
(horakuji@gmail.com)

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