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‡ 訶梨跋摩 『成実論』止観品(現代語訳)

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1.現代語訳

成実論 巻第十五
止観品 第百八十七

訶梨跋摩 造
姚秦三蔵 鳩摩羅什 訳

問い: 仏陀は様々な経典の中で諸々の比丘達に説かれている。「あるいは森林にあっても、あるいは樹下にあっても、あるいは人気のない処においても、まさに二法を修めなければならない。所謂止と観とである」と。もし一切の禅定などの教えを皆ことごとく修めなければならないものだというならば、何故にただここでは止観とだけ説かれたのであろうか。

答え: 止を定と名づけ、観を慧と名づけるのである。一切の善法を修めることによって生じるものは、この(止と観との)二つにすべて収められるものであり、および散心における聞法と思法との慧もまたこの(止と観との二法の)中に集約される。この二つの方法でもってよく仏道は成じられるのである。その故は、止は能く煩悩を遮り、観は能く断滅するからである。止とは(刈るべき)草を捉えるようなものであり、観は(その捉えた草を)鎌で刈るようなものである。止とは地面を掃くようなものであり、観は(汚れ・臭いの元である)糞を取り除くようなものである。止は垢をぬぐうようなものであり、観はそれを水にて洗い落とすようなものである。止は水に浸すようなものであり、観は火にて熱するようなものである。止は癰[はれもの]に(膏薬を)付けるようなものであり、観は(癰を)刀にてそぎ落とすようなものである。止は脈を強くするようなものであり、観は刺血によって(根治させる)ようなものである。止は心を制し調え、観は没心を起こす。止は(汚れた)金を濯ぎ洗うようなものであり、観は火でもって炙るようなものである。止は縄を引いて(根を起こす)ようなものであり、観は剗[せん]を用いて(地面を平らかにする)ようなものである。止は毛抜きで刺を挟むようなものであり、観は剪刀で髪を切るようなものである。止は甲冑のようなものであり、観は武具のようなものである。止は安定して(狙い)構えるようなものであり、観は矢を放つようなものである。止は(薬用の)膩[あぶら]を服用するなものであり、観は薬を飲むようなものである。止は朱肉を調えるようなものであり、観は印を押すようなものである。止は金属を精錬するようなものであり、観は(その精製した金属でもって)器を作るようなものである。

また、世間の生ける者(特に人々)は皆な二つの極端に陥り、一方は極端な禁欲主義を指向し、他方は極端な享楽主義に奔るが、止は能く極端な享楽主義を捨て、観はよく行き過ぎた苦行主義を離れる。また、七浄の中の戒浄と心浄とは止に配当され、他の五浄は観に配当される。八大人覚の中の六覚は止に配当され、余の二覚は観に配当される。四憶処(四念処)においては初めの(身念処・受念処・心念処の)三憶処を止に配当し、第四憶処(法念処)は観に配当される。四如意足(四神足)は止に配当され、四正勤は観に配当される。五根の初めの(信根・精進根・念根・定根の)四根は止に配当され、慧根は観に配当される。これは五力もまた同様である。七覚分(七覚支)の中の三覚分は止に配当され、他の三覚分は観に配当される。念は止と観との両方を含むものである。八道分(八正道)の中の三分は戒に配当され、二分は止に配当され、三分は観に配当される。もっとも、戒は止に属するものである。

また、止は能く貪欲を断じ、観は無明を除く。経の中に説かれているとおりである。止を修するのは則ち心を修めることであり、心を修れば則ち貪欲の享受が断じられるのである。観を修するのは則ち慧を修することであり、慧を修めれば則ち無明が断じられる。また貪欲を離れる故に心解脱を得、無明を離れる故に慧解脱を得る。これら二つの解脱を得たならば、この他に解脱すべきものなど無いために、ただ止と観との二つを説くのである。

問い: もし止観が能く心を修め慧を修し、心と慧とを修するからこそ、能く貪欲と無明とを断ずるというのであれば、では何故、定めて止は能く心を修めて貪愛を断じ、観は能く慧を修して能く無明を断じる、と説くのであろうか。

答え: 散心における諸々の心相続は、色・受・想・行・識において生起するものである。この相続心は、止が修められることによって止むため、止は能く心を修めると説かれるのである。(散漫にして諸欲に耽溺する)心の息むことから、智が生じる。故に、観は能く慧を修すると言われる。観によって修行することが、すべて慧を修すると名づけられる。初めの慧を名づけて観とし、(観によって)後に生じるのも慧とする。もし、経の中に止を修して貪欲を断じると説かれているのは、「遮断」を説いているのである。どのようにして、かく知られるであろうか。それは、色等の外的対象に対する欲望として貪欲を生じたとしても、もし止による楽を得たならば、もはや再び生じる事がなくなるためである。経典の中に説かれているとおりである。行者が浄喜を得た時は、不浄喜を捨てる、と。もし無明が断じだれると説かれていれば、それは究竟断のことである。どのようにして、かく知られるであろうか。無明を断じることによって、貪欲等の煩悩が断滅せられて余すところがないためである。経典の中でまた、貪欲を離れるが故に心解脱を得ると説かれているのも、「遮断」と名づける。無明を離れることによって慧解脱を得るのは、「畢竟断」である。解脱には二種有る。時解脱と不壊解脱である。時解脱は遮断であり、不壊解脱は畢竟断である。

問い: 時解脱とは、五種の阿羅漢の無漏解脱であり、不壊解脱とは不壊法の阿羅漢の無漏解脱であろうが、何故ただ(時解脱をもって)遮断と説くのであろうか。

答え: これは無漏解脱ではない。なんとなれば、時解脱は、ただ止の力によって一時的に煩悩を遮すことについて名づけられるものである。完全に断滅せられないことによって、(止の力が失われた)後に再び煩悩が生起するのであるから、無漏でもない。このような解脱を、「時愛解脱」と名づける。煩悩を尽くした阿羅漢には、愛執するものなど何もない。

問い: もしそうであるならば、「聖者が愛好するところの戒」というものは無いのであろうか。

答え: 諸々の修行途上の者らは、いまだ煩悩が尽きてはないために我心が、しばしば起こる。ために戒について愛執を生じるのである。阿羅漢は、我心を断滅しており、愛を生じることはないのである。

問い: 瞿提(ゴーディカ)阿羅漢は、時解脱したにも関わらず六度にわたって退転。七度目に得た時解脱から退転することを恐れたために、刀でもって自害した。もし、有漏を失したのであれば自害する必要はなかった。このことから知られるであろう、時解脱は有漏ではないということが。

答え: 瞿提は、修めていたところの断結の禅定から退転すること六度に渡り、七度目に再びこの禅定を得たとき、自殺しようと思い立ったのである。まさにその時、阿羅漢道を得たのである。そのため、魔王は(瞿提は修行途中で命を落としたと思い込み)「未完の修行者が死んだ」と云って、その遺骸の周囲を廻って彼の意識を探し求め、(しかしついに見つからずして、)仏陀にこのように申し上げたのである。「世尊よ、一体どうして汝の弟子は、いまだ煩悩を尽くさずに自ら死んだのであろうか」と。仏陀は答えられた。「この人(瞿提)は、すでに渇愛を抜っして涅槃に入ったのである」と。

問い: もし貪欲を名づけて遮断とするのであれば、経典の中にある「貪心より解脱を得、恚癡心より解脱を得」との説、「貪喜を断じることによって心は好解脱を得る」との説、また「欲漏より心は解脱を得る」との説、これら経説は、すべて実解脱では無く遮解脱とするべきであろう。

答え: これら経説の中ではまた別して無明の断が説かれているのである。故に知るべきである、これらは畢竟解脱である、と。もし貪欲を断じることを、ある場合には遮断でありと言い、またある場合には畢竟断であるなどと説くのであれば、もし真智が生じていないのであればこれを遮断とし、真智が生じているのであれば畢竟断である。止を修めるだけでは、畢竟して貪欲が断じられるということは無い。もしそれが可能であるというのならば、外道もまた能く貪欲を畢竟断することが出来るであろうが、実際はそのようなことはない。このようなことから、ただこれは遮断である。

問い: 経の中に説かれている、「止によって心を修し、観によって解脱を得る。観をもって心を修め、止によって解脱を得る」と。これは一体どういうことであろうか。

答え: 行者に、もし禅定によって縁滅智が生じれば、これを名づけて「止をもって心を修し、観によって解脱を得る」とするのである。もし散心をもって陰・界・入などを分析し、このことによって縁滅の止を得たならば、これを名づけて「観をもって心を修め、止によって解脱を得る」とする。もし、念処などの達分を得て心を摂めるのは、「倶修止観」という。すべての行者は、皆この(止と観との)二法によって心を滅し、解脱を得るのである。

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