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枝末分裂 -部派仏教-
ブッダが亡くなられた直後、その死を聞いて「我々はもはや自由だ!」などと喜ぶ比丘がありました。
これに危機感を覚えた摩訶迦葉(Mahākāśapa[マハーカーシャパ])尊者主導のもと、「仏教以外の宗教者から「沙門ゴータマの教えと律は煙のようなものだ。彼が生きていたときは皆守っていたが、死んでしまえば誰も守る者がいない」などと批難され、揶揄されないように」との目的で、えりすぐりの五百人の阿羅漢が集められます。
そして、近年一般に第一結集[だいいちけつじゅう]と呼称される、仏陀が残された教法を後世に伝えるための、教法編集の大会議が開かれます(伝統的にはこれを、五百集法蔵・五百集法毘尼・第一集法などと呼称)。ここに、仏陀の高弟達によって、ブッダの残された教えは、Dharma[ダルマ](法)とVinaya[ヴィナヤ](律)、あるいは律蔵・経蔵・論蔵の三蔵(の原型)にまとめられます。
しかし、この場で、ブッダが阿難(Ānanda[アーナンダ])尊者に残されていた、「些細な律の条項は廃しても良い」との遺言について問題が発生します、まず、阿難尊者が「些細な律の条項」とは具体的に何か、ということについて釈尊に質問していませんでした。そして、その「些細な律の条項」とは何かについて、五百人の阿羅漢達の意見がまったく異なったために会議は混乱し、紛糾しています。
結局、「ブッダが決められた律の条項は一つも廃せず、また新たに律として制定もしない」ことが、四方サンガとして公式に決定されます。そして、この方針は、現在伝わる全ての律蔵に、明確に記述されています。
(詳細は”律蔵の成立”ならびに”僧伽-比丘達の集い-”を参照のこと。)
しかしながら、仏滅後100年(『四分律』説)あるいは110年(『十誦律』説)を経たとき、毘舍離(Vaiśālī[ヴァイシャーリー])にあった跋闍子(Vṛjiputra[ヴリジプトラ])という比丘が、律つまり仏説に違反しない行為として十ヶ条を提唱。実際に彼の地の比丘達は、これを実行していました。その十ヶ条とは以下のもので、伝統的にこれを、十事[じゅうじ]といいます。
No | 十事 | 内容 |
---|---|---|
01 02 02 |
二指抄食 指浄 二指浄 |
昼食後でも、日時計の影が指二本分の間は再度食事を採れる。 |
02 03 03 |
得聚楽間 近聚楽浄 聚楽間浄 |
ある村で食事をした後でも、他の村で再度食事を採ることが出来る。 |
03 07 04 |
得寺内 貧住処浄 住処浄 |
同一の結界内(寺内など)でも、別々に布薩などの行事を行うことが出来る。 |
04 06 05 |
後聴可 證知浄 随意浄 |
他比丘に委任せずしてサンガの行事に欠席しても、事後承認出来る。 |
05 05 06 |
得常法 如是浄 久住浄 |
サンガの行事を、律に準ぜずとも当地の慣例に随って行うことが出来る。 |
06 04 07 |
得和 生和合淨 生和合浄 |
食事を取り終わったことを宣言して後でも、ヨーグルトを採ることが出来る。 |
07 01 01 |
得與鹽共宿 鹽淨 鹽淨 |
前日までに受けた塩を棄てずとも、(牛の角で出来た容器に入れるなどして)備蓄することが出来る。 |
08 | 飮闍樓羅酒 行法浄 水浄 |
発酵寸前の酒(椰子汁酒)であれば、飲むことが出来る。 |
09 | 得畜不截坐具 縷邊不益尼師檀淨 益縷尼師壇壇淨 |
大きな布を裁断して縫い合わせずとも、坐具として用いることが出来る。 |
10 | 得受金銀 金銀宝物浄 金銀浄 |
金・銀・財宝を布施として直接受け取ることが出来る。 |
今は一応、諸律蔵のなか比較的詳しくこの経緯を伝えている法蔵部の律蔵、『四分律[しぶんりつ]』所説の十事の順序に従って、これを挙げています。同時に、説一切有部の『十誦律[じゅうじゅりつ]』と、古来『四分律』の注釈書と見なされるも、近年分別説部の律蔵の注釈書であることが判明した『善見律毘婆沙[ぜんけんりつびばしゃ]』所説の十事の訳語も併記しています。それぞれ順序が異なっている場合は、番号を振ってその順序を示してあります。
さて、たまたま毘舍離を訪れていた耶舍迦那子(Yaśas[ヤシャス])という比丘が、それら十事が行われていることを知ります。それらを非法であると、特に金銀を布施として受け取ることを拒絶し非難したところ、逆に彼は、当地の比丘達の怒りをかってその地から排斥されます。そこで彼は、他所の長老らに支援を要請。他所の長老達、この長老のうち数人は阿難尊者の直弟子という驚くべき長寿の人だったと言いますが、それら十事は律に違反するものと判断します。
そこで、これら十事が行われている毘舍離に赴き、それを如法であるか非法であるかを、サンガとしての正式な行事によって裁定すべく、七百人の阿羅漢(比丘)が、毘舍離に集結。律蔵に規定される方法(他人語毘尼[たにんごびに])によって、その是非を採決します。これは、他のどの方法でもサンガでの論争が解決できない場合に採られる最終手段です。結果、毘舍離の比丘達の行為は律違反、非法であると決定されて、この会議は散会しています。
なお、現存する諸律蔵のうち、『摩訶僧祇律』だけは、十事ではなく金銀を受納することの是非を問うためにこれが行われたとし、やはり他と同じくこれを非法と断じています。
(サンガでの論諍解決法については”四分律戒相-七滅諍法-”を参照のこと。)
上に述べたこの仏滅後100年頃に起こったこの事件は、伝統的には七百集法毘尼または第二集法蔵などと言われ、近年一般には第二結集[だいにけつじゅう]と言われます。
しかし、これを第一結集と同じく「結集」、つまりサンガとして行われた法と律との大編纂会議であったと見ることは、実は律蔵自身の記録によるかぎり出来ません。何故か。それは、律蔵には、一地方の比丘達が主張した十項目について、他所の長老など比丘達が彼の地に集まって非法であることと決定し、散会した、ということを伝えているに過ぎないからです。
もし、ここで仏滅後まもなく行われた結集と同じように、法と律との合誦が行われ、あるいはその確認が行われていたならば、律蔵にそれがはっきりと記述されていておかしくありません。いや、その経緯などがこれだけ明確に記述されておきながら、その「結集」という極めて重要な行事自体が行われことをまったく記していないのは不合理でしょう。それが行われたならば、間違いなく記述されているはずのことです。しかし、現在伝わる律蔵のいずれもが、そのようなことを一切伝えていません。
よって、律蔵自身の記述からすると、仏滅後100年ほどにあったというこの十事についての事件は、一地方のサンガにおける事件にすぎず、これを結集であったと見ることは出来ません。
諸々の伝統的呼称が示しているように、諸伝承ではこれを第二回目の結集であったと見なしています。現在もこれを受け、このとき結集があったと見なして、第二結集と呼称しています。しかし、このような事件があって、それを解決するために比丘達が集まったのは事実であったとしても、ここで結集が行われたというのは甚だ疑わしく思われます。
仏滅後和合を保っていたというサンガは、第二結集と呼ばれる事件が起こった後、それからどれほどの期間が空いたのかは不明ですが、ここで初めて大きく二つに分裂したと言われます。これを現在、一般に根本分裂[こんぽんぶんれつ]と呼称します。
先に触れたように、今伝わる諸律蔵には、いわゆる第二結集にて十事(あるいは金銀の受納)を非法とした、ということだけを伝えています。サンガの分裂、それは仏教にとって、律の規定からしてもとんでもない重大事件です。しかし、サンガが分裂したという大事件を伝える律蔵は、一つとしてありません。
今、根本分裂といわれるサンガの分裂の原因と経緯を伝えている典籍は、極めてわずかです。それらの典籍が伝えるところによると、サンガは最終的に十八から二十の部派に分かれたといいます。それらの部派は、それぞれの三蔵を伝持し、おのおの若干異なる教理体系を築いて勢力をもっていたようです。部派の成立史もそれぞれ伝えていたことでしょう。
しかし、イスラム教勢力のインド浸入とインド教の台頭などによって、主だった僧院はことごとく破壊され、僧侶達は殺傷されます。その難を逃れた僧の多くはチベットに落ち延びたようです。現代では、13世紀初頭(西暦1203年)、当時最大の大学僧院であったVikramaśilā[ヴィクラマシラー]が破壊されたことをもって、インドから仏教が消滅した、とされています。
しかし、チベットの伝承などからすると、必ずしもインドから仏教が完全に姿を消したわけではないようです。また、現在のバングラディシュ(ベンガル地方)に難を逃れた僧達があり、細々ながら仏教は行われていたようです。
しかし幸運にも、ただ一部派のみ、分別説部[ふんべつせつぶ](通称:上座部)の一派が、独立した部派として現在も残っています。これは、インド中央から遠く離れたセイロンという辺境の島に伝わり、また東南アジア諸国にも伝播し、その歴史の中で紆余曲折を経ながらも、最終的に時時の国王の支持を取り付けたことによって残存。いまだ東南アジア・南アジアで大きな勢力を保っています。この部派が作ったセイロンの王統史は、セイロンでの根本分裂に関する伝承を伝える典籍の一つです。
そしてまた、インドで最大勢力を誇っていた説一切有部[せついっさいうぶ]と、大衆部[だいしゅぶ]に属する根本分裂について記している典籍が、比較的早い時期に中国やチベットにもたらされて翻訳され、今に伝わっています。これらもその経緯をそれぞれ伝えています。
またさらに、インドで仏教が滅ぼされた時、比較的北インドならびに西インドに近く、6世紀中頃以来多くの高僧らによって、説一切有部や経量部、特に根本説一切有部[こんぽんせついっさいうぶ]の教学がそっくりそのままと、大乗の諸派が直接伝えられていたチベットに、先にも触れたように、僧達の一部が難を逃れています。これによって、チベット仏教には、北インド・中インドから直接伝わった多くの伝承が保存されています。
いずれにせよ、いま我々が知り得る「根本分裂」についての伝承はわずかであって限られています。
それら仏滅後100年ほど経てから分裂を繰り返して成立していった部派それぞれは、他の派の存在を認めつつも、自派こそがもっとも純粋にブッダの教えを伝承し、もっともよくブッダの教えを理解して行っている、と主張し合っていたようです。また、他の部派の伝承や教理を非法、非仏説などと批判しあってもいたようです。実際、現在唯一残っている部派も、自派こそが純粋無二であり、もっとも正統である、などと主張しています。
これは「分派」ということを考えれば、当然のことと言えるでしょう。まさか自派が非法であることを認めて「派」を形成し、自派を非法であるとして伝承するものがあろうはずがありません。よって、それら部派の伝承は、自派が正統であることを証明するために記されたものであって、諸部派の伝承を比較すると齟齬が見られるのは当然と言えます。
さて、それら伝承では、先に触れたように、それぞれが異なる根本分裂の原因を伝えていますが、大別すると二つです。
一つはセイロンの叙事詩と大衆部所属と思われる典籍が伝えるもので、上に挙げた十事のように、律についての異見が元となったというもの。もっとも、セイロンの王統史は十事が原因であったとするも、大衆部の典籍は十事などといわず、「一部の長老が律の増広を主張した」ことが原因としています。もう一方は、大天の五事と言われる、阿羅漢についての異見が元となったとするものです。これは説一切有部の伝承です。
ところで、十事を如法とするか非法とするかで分派したならば、今に伝わる律蔵、特に大衆部の律蔵『摩訶僧祇律[まかそうぎりつ]』に、他の律蔵と異なってそれらを許す項目が追加されているはずですが、実際にはなく、他の律蔵と同様に禁じています。
また、セイロンの部派は、十事を「十非事」として斥けたが故に、自派が純粋で正統であることの根拠の一つとし、今も純粋に実行しているなどと対外的に主張しています。
しかし、実際には、非事のはずの十事ほとんどすべてが当たり前のように実行されており、それを非事だと言って内部で批判や反省が起こることも、改めようとすることもない現実もあります。もしこれを外部から批判されたとしても、彼らは「時代が違うのだ」・「律を守ることなど本来の目的ではない。涅槃が目的なのだ」という反論をなすのが一般的で、ほとんど定型句となっています。
が、実はそれら十事のうち、金銭に関する以外の項目すべてが、時代の流れや社会の変化のためにやむなく行わなければならない、というものでは全くありません。そもそも、「律は仏教久住の命根」つまり「僧侶が律を正しく受持し、最大限実行する限りにおいて、仏教は正しく伝わる」というのは、通仏教の原理です。むろん、彼らの教学でもこれは強調されています。
「律は時代遅れで守るのは無理。律の内容を変えることは出来ないが、これを無視しても一向にかまわない」、「いや、変えても別に問題ない」といった態度は、公然と口にされることは稀ですが、現実としてその言葉通りに実行されています。むしろ、十事どころか、律の大半が無視されて正確に実行されておらず、サンガにおける多くの事柄が、ただ単なる惰性、慣習としてなんとなく行われているに過ぎない面が強くあります。
上記はスリランカ僧に特に見られる態度です。しかし、上座部のほとんどの僧院内の実情、僧達の戒律や仏教自体に対する自覚や意識は、対外的にしばしば発せられる、「純粋である」とか「釈尊以来変わらない」と言った種類の発言とは全く対照的なかけ離れたもので、ほとんど虚言の域であると言って過言ではありません。いや、スリランカの上座部について言うならば、それらがまったく虚言であると断じて良いでしょう。
そう断じ得る根拠の一つに、彼らのその根本的あり方を挙げることが出来ます。スリランカの上座部は、公式には三つ(非公式を含めれば五つ)の派(Nikāya[ニカーヤ])に分かれています。スリランカでは上座部の伝統が一度完全に潰えたため、まずタイから一つ、そしてビルマから二つの順で、いずれも二百年ほど前の西暦1800年に、輸入したものです。最大勢力は、タイの多数派マハー・ニカイの系統である、Siam Nikāya[シャム・ニカーヤ](正確にはSiamopāli Nikāya[シャモーパーリ・ニカーヤ])で、スリランカの僧徒の大多数を占めるものです。
しかし、この多数派のシャム・ニカーヤ、なんとしたことかカースト制を前提に成立しており、ハイ・カースト出身の者でなければ出家させないという、純粋な仏教が聞いて呆れる言語道断なることを自明のこととしています。むしろこれが原因となって、ビルマのモン族系のRāmañña Nikāya[ラーマンニャ・ニカーヤ]とビルマ族系のAmarapura Nikāya[アマラプラ・ニカーヤ]とが、立て続けに輸入されています。
しかし、その種類こそ少ないものの、カースト制がインドと同様に極めて強固に根付いているスリランカでは、現代でもシャム・ニカーヤ所属の僧らの多くが、このあり方を問題視するどころか全く受容。自身がシャム・ニカーヤに所属していることをむしろ誇って、その他の派を(他国の上座部をも含めて)全く見下し、彼らに対して高踏的・尊大な言動を取る傾向があります。
実際、シャム・ニカーヤには、実に「誇り高い」者が多いのですが、しかし、経典に説かれ、律蔵が規定する僧侶のあり方から、もっとも遠くにあると言って良く、その誇りはまったく虚栄です。
カースト制の残滓をサンガに持ち込んだ好例が、袈裟の色について言えます。シャム・ニカーヤ所属の僧は、大体にして、タイ由来の「極彩色」と言って良い色鮮やかなオレンジ色の袈裟をまとっています。この色の袈裟は、少数派の僧は(律の規定に反するという理由で)基本的に着ることがないものです。しかし、結果的に、オレンジ色の袈裟すなわちハイ・カーストの僧侶の証となってしまいました。故に、彼らの多くは、くすんだ黄色や赤黒い色の袈裟(これが本来の袈裟の色)ですが、これを着ること好まず、鮮やかなオレンジ色の袈裟を着ることに執着します。
また彼らは、外出時に通肩[つうけん](僧侶が外出時に必ずしなければならない両肩を覆い隠す袈裟の着方)に袈裟をまとうことが無く、そもそも通肩の着用法自体を知っていません。これは彼らが律を無視している一つの証です。しかし、そのような「モダンなありかた」(?)をとっていることを、むしろ自身達が合理的であることの証と、やはり誇る者がしばしばあります。
以上に挙げた点以外にも色々とありますが、こうなればもはや仏教の僧などではなくてバラモン教の僧となんら異なることはありません。見方によっては、日本のそれとたいした違いはないでしょう。このような点は、やはり他国の上座部から見てもきわめて異常であり、しばしば強い批難の的になって、白い目で見られています。
もっとも、彼らが在家の人々の前でこれを素直に開陳することは、さすが「歴史」があるだけあって、まずありません。カーストで差別していることについては、スリランカ国民の多数が許容し、むしろ望んでいることであってスリランカでの「常識」ですらありますが、その他の点については異なります。すなわちそれは、たちまちにして在家からの支持を失って収入が途絶えること、入るべき収入が得られなくなることを意味するためです。よって、在家の人間、しかも彼らからすると高額の布施が期待できる「裕福な国からの外国人」が、その実情を一時的に観察しに行ったとしても、これを知ることはまず困難です。
いずれにせよ、根本分裂の原因については、サンガに大きく二つの異なる伝承があったことが知られるのみで、不可解な点も多く、いずれの説が正しいか知ることはもはや不可能です。しかし、ただ年代に関しては、諸説に10年ほどの差異は見られるものの、仏滅後100年頃であったという点で一致しています。
あるいは、今に言われる「根本分裂」などという言葉からイメージされるような、それ以降、サンガが真っ二つに割れて両者別々の「派」を作り、お互いそれぞれに帰属意識を持こさせるような出来事など無かったのかもしれません。
あまりにわずかな、そしてそれぞれが時として撞着・齟齬している文献や碑文、伝承などしか残されていない今とはなっては、ただ我々が出来るのはあれこれと推測するのみで、すべては藪の中です。
小苾蒭覺應 敬識
(horakuji@gmail.com)
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