真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ Himavanta gāthā [雪山偈]

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Vandanā |  Saraṇataya |  Pañca sīla |  Aṭṭhaṅga sīla
Buddha guṇā |  Dhamma guṇā |  Saṅgha guṇā
Paritta Parikamma |  Maṅgala sutta  |  Ratana sutta |  Metta sutta |  Khandha sutta
Mora sutta |  Vaṭṭa sutta |  Dhajagga sutta |  Āṭānāṭiya sutta |  Aṅgulimāla sutta
Bojjhaṅga sutta |  Pubbaṇha sutta
Anekajāti gāthā |  Paṭiccasamuppāda |  Udāna gāthā |  Paccayuddesa
Dhammakāya gāthā |  Metta bhāvanā |  Asubha bhāvanā |  Patthanā
Himavanta gāthā |  Lakkhaṇattayaṃ |  Ovāda |  Patti dāna |  Ratanattaya pūjā

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1.Himavanta gāthā

雪山偈

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パーリ語原文
1. [ R-1. / J-1. ]
Aniccā vata saṅkhārā uppādavaya dhammino.
Upajjitvā nirujjhanti, tesaṃ vūpasamo sukho.

2. [ R-2. / J-2. ]
Dukkhā vata saṅkhārā uppādavaya dhammino.
Upajjitvā nirujjhanti, tesaṃ vūpasamo sukho.

3. [ R-3. / J-3. ]
Anattā vata saṅkhārā uppādavaya dhammino.
Upajjitvā nirujjhanti, tesaṃ vūpasamo sukho.

カナ読み
1. [ P-1. / J-1. ]
アニッチャー ヴァタ サンカーラー ウッパーダヴァヤ ダンミノー.
ウパッジトヴァー ニルッジャンティ、テーサム ヴーパサモー スコー.
2. [ P-2. / J-2. ]
ドゥッカー ヴァタ サンカーラー ウッパーダヴァヤ ダンミノー.
ウパッジトヴァー ニルッジャンティ、テーサム ヴーパサモー スコー.
3. [ P-3. / J-3. ]
アナッター ヴァタ サンカーラー ウッパーダヴァヤ ダンミノー.
ウパッジトヴァー ニルッジャンティ、テーサム ヴーパサモー スコー.

日本語訳
1. [ P-1. / R-1. ]
諸々のつくられた事物は、実に無常である。生じては滅する法である。
それらは生じては滅びる。それらの寂滅が安楽である。
2. [ P-2. / R-2. ]
諸々のつくられた事物は、実に苦である。生じては滅する法である。
それらは生じては滅びる。それらの寂滅が安楽である。
3. [ P-3. / R-3. ]
諸々のつくられた事物は、実に無我である。生じては滅する法である。
それらは生じては滅びる。それらの寂滅が安楽である。

日本語訳:沙門覺應

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2.解題

諸行無常

ここに挙げた三偈は、そもそも最初の一偈のみが経典に説かれているものです。

この偈は三蔵中、特に経蔵の数カ所に散見されます。それは例えばDīgha Nikāya(長部)のMahāparinibbānasutta(『大般涅槃経』)で、そこでは帝釈天が釈尊が涅槃された直後に説いたものとされています。また、Saṃyutta Nikāya(相応部)にもニカ所同じ偈が見られます。そのうちParinibbānasutta(『般涅槃経』)では同様に帝釈天が釈尊の涅槃に際して説いたものとあり、またVepullapabbatasutta(『方広山経』)では釈尊が比丘たちに説法される中で説かれたものとして伝えています。

またKuddhaka Niakāya(小部)のTherāgātha[テーラーガーター](長老偈)第1168偈(1159)では、Moggallāna[モッガラーナ](目蓮)尊者が説かれたものとしてあります。そしてそれは、莫逆の法友であったSāriputta[サーリプッタ](舎利弗)尊者の死に際して詠んだものと伝承されています。

漢訳経典の該当する箇所では、たとえば『長阿含経』所収の「遊行経」にては「陰行無有常 但為興衰法 生者無不死 仏滅之為楽」との偈を伝えています。また法顯訳『大般涅槃経』には、「一切諸行性 実是生滅法 両足最勝尊 亦復帰於盡 三毒熾然火 恒燒諸衆生 無有大悲雲 誰能雨令滅」とやや長い偈を伝えています。それら漢訳経典の原典では、上に挙げたパーリの一節とはやや異なったものが伝わっていたようです。

雪山偈

しかし、同じく漢訳経典でもこれは大乗の『涅槃経』になりますが、パーリ経典とほぼ同様の偈を伝えています。それは以下のようなもので、日本仏教においても非常に有名な一節です。

諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽

諸々のつくられた事物は無常である。それは生じ滅びるものである。生滅することの無くなり、寂滅なることが安楽である。

『大般涅槃経』巻十四 聖行品第七(大正12, P450上段)
[現代語訳:沙門覺應]

この偈は、釈尊の前世、いまだ菩薩であって無上菩提を求めて一切の所有物を放棄しこれを人々に与え、雪山(おそらくヒマラヤ)中にて修行に励んでいたときに聞いたものと説かれています。それは以下のような話です。

菩薩が菩提を求めて数々の苦行をなしているのを見た帝釈天は、その覚悟の程を試そうとして恐るべき羅刹の姿に身を変え雪山に赴き、まず「諸行無常 是生滅法」という二句半偈を唱えて、菩薩の前に姿を表します。

すると菩薩は、その羅刹の恐るべき姿を目前にしたにも関わらず、半偈といえどもこれを聞いたことによって心大いに喜び、その偈の説者は誰であるかということと、その続きを聞くことを欲します。

羅刹は、この偈は過去の諸仏が等しく説いたものであり、それは解脱の門であると答えます。しかし、その続きを聞きたいのであれば、自分は今飢えていてから食を望むが、自分が食べるものと言えば人肉のみである、と言います。菩薩は、ならば私の身を食べたならば良い。菩提を求める身にあって、この偈を全て聞けるならば我が身体など惜しくはないと、約束します。

そうして羅刹から続く「生滅滅已 寂滅為楽」という残りのニ偈を聞き、大変満足した菩薩は、約束通り自らの身体を羅刹に与えるために高い樹の上に上り、その身を投げます。

その身体が地に打ち付けられる寸前、羅刹は帝釈天へと姿を戻して、菩薩の身体を受け止めて地に降り立ちます。そして、帝釈天は多くの神々と共に菩薩を礼拝し、そのように菩薩を試したことの許しを乞うて、また神々の世界へと消え去る、という話です。

この前生譚は、大乗においては非常に有名なもので、その内容から雪山偈[せっさんげ・せつせんげ]と呼称されます。この偈はまた、真言宗祖の弘法大師空海が著したなどと伝説される「いろは歌(以呂波歌・色葉歌)」の主題となったもの、「いろは歌」は雪山偈を和訳したものであるとも言われています。

色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず

・・・無常

さて、上に挙げたパーリ語にて唱えられる偈には、特定の名前は付されていません。しかし、ここでは便宜的にこれを大乗で一般に用いられているHimavanta gāthā[ヒマヴァンタ ガーター]すなわち雪山偈と題して掲載しています。故に分別説部の伝承のみを知る人には、雪山偈と聞いても何のことであるか不明であるでしょう。

しかし、パーリ語で経典を伝えた分別説部を信仰してきた各国においても、この偈は非常に有名なもので、これを暗誦しているかどうかとなると国によって話は変わりますが、おおよそ仏教徒であれば必ず知っていると言い得るものです。

ところで、長くなりましたが上に挙げたのは三偈で、先に述べたように最初の一偈のみが経典に見られるものです。しかしビルマにおいては、最初の一偈の「無常」の部分に「無我」そして「苦」という言葉を差し替え、三偈にして唱えられています。少々無理があるようにも感じられますが、とにかくビルマではそのように改変した偈を二つ加えて三偈とし、唱えられることがあります。

無常、それは心身をふくめあらゆる事物は時々刻々と変化していくことですが、人がもっとも「無常」を強く感じるのは人の死に際した時でしょう。その人はもう二度と息をしない、いくら語りかけても答えず、動きもしない。こうしておくべきであった、ああしておくべきであったと悔いてもすべて後の祭りで無駄となること、それが死です。

その死がたとえ自分のものであったとしても、他人のものであったとしても、その時に多くの深い後悔がある。それは恐ろしく、そして辛いことです。

いるのが当たり前だったと思っていた、ずっとこうだと思っていた、との期待をすべて裏切るもの、それが無常です。そしてそれこそが現実であり、ものの真実なる姿です。真実なるモノ・世界の姿と自身の思い描くその姿とが異なるとき、傷つき苦しむのはモノでも世界でもなく、自分自身です。そしてそれは自業自得のものです。

無常、それは情緒たっぷりに感じるものではなく、ある意味において恐るべきものとして捉え、しかしながら淡々とその事実を観るものです。

「諸行無常 是生滅法」との偈を味わうのではなく、常にこれを憶念し、それぞれ自身の立場でなすべきことをなして、少しでもその一生に悔いの残らぬようあるべきように生き、あるいはさらに精進し、心の真なる平安に至ることが少しでも多くの人に出来るよう、心から願います。

小苾蒭覺應(慧照)拝記
(By Bhikkhu Ñāṇajoti)

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