真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ Patti dāna [廻向]

序説パリッタと儀礼 |  凡例発音について
Vandanā |  Saraṇataya |  Pañca sīla |  Aṭṭhaṅga sīla
Buddha guṇā |  Dhamma guṇā |  Saṅgha guṇā
Paritta Parikamma |  Maṅgala sutta  |  Ratana sutta |  Metta sutta |  Khandha sutta
Mora sutta |  Vaṭṭa sutta |  Dhajagga sutta |  Āṭānāṭiya sutta |  Aṅgulimāla sutta
Bojjhaṅga sutta |  Pubbaṇha sutta
Anekajāti gāthā |  Paṭiccasamuppāda |  Udāna gāthā |  Paccayuddesa
Dhammakāya gāthā |  Metta bhāvanā |  Asubha bhāvanā |  Patthanā
Himavanta gāthā |  Lakkhaṇattayaṃ |  Ovāda |  Patti dāna |  Ratanattaya pūjā

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1.Patti dāna

神供

パーリ語原文
1. [ R-1. / J-1. ]
Ākāsatthā ca bhummaṭṭhā, devā nāgā mahiddhikā,
puññaṃ taṃ anumoditvā, ciraṃ rakkhantu sāsanaṃ.

2. [ R-2. / J-2. ]
Ākāsatthā ca bhummaṭṭhā, devā nāgā mahiddhikā,
puññaṃ taṃ anumoditvā, ciraṃ rakkhantu desanaṃ.

3. [ R-3. / J-3. ]
Ākāsatthā ca bhummaṭṭhā, devā nāgā mahiddhikā,
puññaṃ taṃ anumoditvā, ciraṃ rakkhantu maṃ paraṃ.

カナ読み
1. [ P-1. / J-1. ]
アーカーサッター チャ ブンマッター.デーヴァー ナーガー マヒッディカー、
プンニャム  タム アヌモーディトヴァー、チラム ラッカントゥ サーサナム.
2. [ P-2. / J-2. ]
アーカーサッター チャ ブンマッター.デーヴァー ナーガー マヒッディカー、
プンニャム  タム アヌモーディトヴァー、チラム ラッカントゥ デーサナム.
3. [ P-3. / J-3. ]
アーカーサッター チャ ブンマッター.デーヴァー ナーガー マヒッディカー、
プンニャム  タム アヌモーディトヴァー、チラム ラッカントゥ マム パラム.

日本語訳
1. [ P-1. / R-1. ]
虚空に住まう、あるいは地上に住まう、偉大な力持てる神々よ、龍たちよ、我らの功徳(善業)を喜び給え。そして、長く(この仏陀の)遺法を守り給え。
2. [ P-2. / R-2. ]
虚空に住まう、あるいは地上に住まう、偉大な力持てる神々よ、龍たちよ、我らの功徳(善業)を喜び給え。そして、長く(この仏陀の)教えを守り給え。
3. [ P-3. / R-3. ]
虚空に住まう、あるいは地上に住まう、偉大な力持てる神々よ、龍たちよ、我らの功徳(善業)を喜び給え。そして、長く(この仏陀の)我々とまた他の者とを守り給え。

日本語訳:沙門覺應

発遣

パーリ語原文
1. [ R-1. / J-1. ]
Ettāvatā ca amhehi, sambhataṃ puññasampadaṃ,
Sabbe devānumodantu, sabbasampattisiddhiyā.

2. [ R-2. / J-2. ]
Dānaṃ dadantu saddhāya, sīlaṃ rakkhantu sabbadā,
Bhāvanābhiratā hontu, gacchantu devatāgatā.

3. [ R-3. / J-3. ]
Sabbe buddhā balappattā, Paccekānañca yaṃ balaṃ,
Arahantānañca tejena, rakkhaṃ bandhāmi sabbaso.

カナ読み
1. [ P-1. / J-1. ]
エッターヴァター チャ アムヘーヒ、サムバタム プンニャサムパダム、
サッベー デーヴァーヌモーダントゥ、サッバサムパッティシッディヤー.
2. [ P-2. / J-2. ]
ダーナム ダダントゥ サッバーヤ、シーラム ラッカントゥ サッバダー、
バーヴァナービラター ホーントゥ、ガッチャントゥ デーヴァターガター.
3. [ P-3. / J-3. ]
サッベー ブッダー バラッパッター、パッチェーカーナンチャ ヤム バラム、
アラハンターナンチャ テージェーナ、ラッカム バンダーミ サッバソー.

日本語訳
1. [ P-1. / R-1. ]
斯くの如く我らが得た功徳の成就を、すべての神々は喜び給え。
2. [ P-2. / R-2. ]
信仰をもって布施をなすように。常に戒を持つように。修習(瞑想)を楽しむように。(ここに集まり)来たれる神々よ、(それぞれの本所に)帰りたまえ。
3. [ P-3. / R-3. ]
すべての大力ある諸々の仏陀、諸々の辟支仏、諸々の阿羅漢の威力によって、私は常に加護を得る。

日本語訳:沙門覺應

先亡廻向

パーリ語原文
1. [ R-1. / J-1. ]
Idam me ñātīnaṃ hotu, sukhitā hontu ñātayo.
Idam me ñātīnaṃ hotu, sukhitā hontu ñātayo.
Idam me ñātīnaṃ hotu, sukhitā hontu ñātayo.

カナ読み
1. [ P-1. / J-1. ]
イダム メー ニャーティナム ホートゥ、スキター ホーントゥ ニャータヨー.
イダム メー ニャーティナム ホートゥ、スキター ホーントゥ ニャータヨー.
イダム メー ニャーティナム ホートゥ、スキター ホーントゥ ニャータヨー.

日本語訳
1. [ P-1. / R-1. ]
この功徳(の果報)が、私の(すでに他界した)親族らに生じ、(彼らに)安楽の思いがあらんことを。
この功徳(の果報)が、私の(すでに他界した)親族らに生じ、(彼らに)安楽の思いがあらんことを。
この功徳(の果報)が、私の(すでに他界した)親族らに生じ、(彼らに)安楽の思いがあらんことを。

日本語訳:沙門覺應

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2.解題

廻向 -功徳の共有-

ここに“Patti dāna”との題のもと、神供[じんく]・発遣[はっけん]・先亡廻向[せんもうえこう]などと密教的な題をもって挙げた三つのパーリ語の文言は、上座部においていわゆる廻向を意味するものとして唱えられているものです。

もっとも、先亡廻向として第三に挙げた文言は、いわゆる先祖供養や先祖廻向を目的として言われるものですが、スリランカやその影響を(逆に)うけたインドにて特に用いられているもので、東南アジア諸国では用いられていないようです(とは言え、彼地のそれと日本のそれとは感覚が大いに異なるものですので、先亡廻向といっても、それが日本でいう先祖回向などと同一ということは全くありません)。

廻向とは、文字通り「廻し向ける」ことを意味するものです。何を廻し向けるか、それは自分が積んだ功徳すなわちなにか善業の果報です。善業とは、要略すれば十善に従うこと、あるいは三宝に帰依して、その徳をたたえて、自ら戒を守って、布施を行うこと、正しく瞑想によってモノの有様を知り、自らの心を浄めることです。

神供として第一に挙げた文言は、神々に対して自身らが為した功徳に随喜すること請い、また仏教ならびに自身たちを守護することを要請しているものです。しかしこれは、神々にたいして廻向する文言として唱えられていると言えるものです。

発遣として第二に挙げた文言は、“Pubbaṇha sutta”から抜粋されたものです。これも前掲のものと同じく、神々に対して自身らが為したところの功徳に随喜することを請い、ついで布施・持戒そして修習(瞑想と特定してもいいのですが、修行と大まかに言ったほうがいいかも知れません)を行うことを勧め、神々の本所(住まい)へと帰ることを請うています。

そして最後に、(仏法を行うことなどによる)功徳によって、諸々の仏陀(正等覚者)と辟支仏ら、ならびに諸阿羅漢の加護を自らが受けることを述べているものです。

自業自得

仏教では、行為ということについて因果応報を説き、自業自得をその大原則としています。

自分がなした行為の結果責任は、他の誰でもない自分が得るというもので、それは善因楽果・悪因苦果のものです。なにごとか善なる行為をなした者には、その結果として安楽な状態がもたらされ、反対に悪なる行為をなした者には、苦痛なる状態がもたらされる、というものです。また他に、善でも悪でも無い行為(無記業)がありますが、それは楽でも苦でもない状態をもたらします。

故に、人は自らを救うには自らの身心を以てするしかない、自分以外の誰も自分を救うことなど出来はしないと、仏陀は説かれ、仏教は説きます。誰も私の人生を「私」のかわりに生きることなど出来ず、私が「他人」の人生をそのかわりに生きることも出来ません。

しかしまた、共業[ぐうごう]・共報[ぐうほう]ということも説かれます。これは大小問わず何らかの組織など共同体が為した行為の結果ならびに報いを、たとえそこに属する個人がその行為を行ってはいなくとも受けるという、いわば全体責任・連帯責任と言えるものです。全体責任というと消極的な語感がありますが、それには無論、その行為の善悪によって苦楽の別があるものです。

(何をもって善悪とするかは、“戒について”の“十善戒”を参照のこと。)

すると、しかしそうであるならば、行為しなかった者、まったくその行為に関わりがなかった者にもその果報の恩恵に浴させんとする、廻向ということは果たして可能であるのか、ということになるでしょう。結論から言うと、それは可能であるとされ、であるからこそ今ここに廻向ということを言っているのですが、むしろ推奨される行為です。

これを詳しく細かに説明しようとすると、大変長くなってしまうので簡単にしますが、先に述べたように、自分を救いえるのは自分自身しかいません。ここにいう救い、というのは解脱する、というのに他ならないのですが、どれだけ人が功徳を積んでせっせと他者に廻向したところで、それで他者が救われる、ということはありません。ただし、その助けをすること、また積極的に影響を与えることは出来ます。

ではどのような助けか。それを喩えによって示しましょう。木を植えることなどが善とされている土地でありながらまこと木が少なく、その木を切り倒す者こそ多い、また日光いよいよ熾盛であって灼熱の乾いた地があったとします。ある人が善をなそうと池を掘り、また大木を植えます。そして、結果としてそこに出来た清涼なる空気、そして木陰を我がものとして占有するのではなく、多くの者を招き入れ、その楽を共に享受し得るようするのが廻向です。

善をなしたのは、その木を植えた人のみですが、その果報はまた分かち合い得るものです。そして分かち合うこともまた、善なる行為です。招かれ、その楽を享受している者が善をなそうとすれば、その者自身が木を植えなければなりません。

ただその楽を享受し続けて何もしないのでは、その木はどれだけ大木であったとしてもいずれ枯れ、もとの黙阿弥となるでしょう。

愚かな私

私を救い得るのは私しかいない。

仏陀が説かれたそのような教えを完全に理解することは出来ずとも、嗚呼、それはなんとなしに理解できる。しかしながら、その私は実に愚かで弱い。これは確かに、自ら痛切に知っている所である。

善と知っていることをなさず、悪と知っていることをなす。誤りのあることを見ながら、しかしついに欲望・欲情に負けて、その甘い果実を喜んで味わい、やがて苦の報いが訪れたとたんに後悔して、また二重三重に苦しむ。しかし、その苦しみも一過してしまえば、たちまちその苦味を忘れ、また再び・・・。

これは悲劇などではなく、もはや喜劇というものでしょう。この喜劇は、人が誕生してこのかたずっと繰り返されてきた、もはやとっくに飽きてもいいはずのものですが、なかなかこの喜劇は刺激的・魅力的で人を飽きさせません。

ここに、世には大略して三つの道が、人に開かれているでしょう。

一つは、我が現実を受け入れ、困苦しつつも自らと戦い、自らを救う道です。二つには、この自分というものの弱さ愚かさ、不完全さを直視し、ついにナニモノか不可知なる絶対者の存在を信じてすがり、その救いに預ろうとする道。三つには、人間というモノ、生命というモノはそもそもそういうもので、あがくだけ無駄。これから脱しようと夢見るのも人間であるが、所詮は夢、であるなどとして、現状をただ受け入れる(あるいはこの世の快楽を積極的に追求せんとする)道です。

そのいずれを取るかは自分次第。しかし、私はあくまで第一の道が真実の道であり、そしてそれは仏教であると信じ、この道を人に勧めます。

人はまったく、実に愚かで弱いものです。しかし、人は変わり得るものです。いや、実際肉体的・精神的に常に変化しつづけています。容易に変わり得ないのは、変わっていることに気づかぬ「自分」というものです。いや、常に(己にとって良くのみ)変わることを望み、(自らにとって悪く)変わることを望まず、しかし変わっていることを気づきたくない自分、根本的に気づくことが出来ない私です。

もし人が、この甘い果実の果てにある過失を見て、この愚かな循環から離れることを望むのであれば、まず悪を離れて善を行うことを決意し、具体的に戒を備えて、現実に実行していくことを勧めます。

その途上、必ず失敗するでしょう。後悔することもしてしまうでしょう。それでも、悩み・苦しみながらも、決意を新たにし、何度でも繰り返しながら「自分」を変えていけばよいでしょう。そして、少分であってもそれを廻向していけば良いでしょう。すべては積み重ねによってなりたっています。どれだけ少分のものであっても、いずれそれは大きなものとなりえます。

生滅変化する諸現象にある、私という意識がいかなるものか気づいたものは、聖なる悟りに至った者です。理知的な人ならば、これを理知的に理解して「こういうことか」と思いを巡らすことが、あるいは可能でしょうが、それは真の意味で理解したことにはなりません。

むしろ多くの場合、頭の中だけでその意味内容を把握、なんとなく理解したつもりになると、人はそれで満足してそれ以上に進むことがなくなってしまうようです。

人の性からすると、これを知ること、これを悟らんとするのはまったく困難な道です。他に安楽で容易な道などなく、それ以外に方法はありません。そして、これこそが安楽なる道です。願わくば多くの人が、少しでも多くの人が、この道を歩んで自ら確かめていかんことを。

非人沙門覺應 敬識
(horakuji@gmail.com)

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