真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ Metta bhāvanā [慈観]

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Bojjhaṅga sutta |  Pubbaṇha sutta
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1.Metta bhāvanā

慈観

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パーリ語原文
1. [ R-1. / J-1. ]
Ahaṃ avero homi, abyāpajjo homi, anīgho homi, sikhī attānaṃ pariharāmi.
2. [ R-2. / J-2. ]
Imasmiṃ nagare vasantā sabbe sattā averā hontu.
abyāpajjā hontu. anīghā hontu, sukhī attānaṃ pariharantu.

3. [ R-3. / J-3. ]
Imasmiṃ nagaye ārakkhadevatā averā hontu.
abyāpajjā hontu. anīghā hontu, sukhī attānaṃ pariharantu.

4. [ R-4. / J-4. ]
Imasmiṃ raṭṭhe vasantā sabbe sattā averā hontu.
abyāpajjā hontu. anīghā hontu, sukhī attānaṃ pariharantu.

5. [ R-5. / J-5. ]
Imasmiṃ raṭṭhe ārakkhadevatā averā hontu.
abyāpajjā hontu. anīghā hontu, sukhī attānaṃ pariharantu.

6. [ R-6. / J-6. ]
Imasmiṃ sāsane ārakkhadevatā averā hontu.
abyāpajjā hontu. anīghā hontu, sukhī attānaṃ pariharantu.

7. [ R-7. / J-7. ]
Imasmiṃ cakkavāḷe sabbe sattā averā hontu.
abyāpajjā hontu. anīghā hontu, sukhī attānaṃ pariharantu.

8. [ R-8. / J-8. ]
Imasmiṃ cakkavāḷe ārakkhadevatā averā hontu.
abyāpajjā hontu. anīghā hontu, sukhī attānaṃ pariharantu.

9. [ R-9. / J-9. ]
Puratthimāya disāya, pacchimāya disāya, uttarāya disāya,
dakkhiṇāya disāya, puratthimāya anudisāya, pacchimāya anudisāya,
uttarāya anudisāya, dakkhiṇāya anudisāya. heṭṭhimāya disāya,
uparimāya disāya, sabbe sattā sabbe pāṇā, sabbe bhūtā,
sabbe puggalā, sabbe attabhāvapariyāpannā, sabbā itthiyo, sabbe purisā, sabbe ariyā, sabbe anariyā, sabbe devā, sabbe manussā, sabbe vinipātikā
averā hontu, abyāpajjā hontu, anīghā hontu, sukhī attānaṃ pariharantu.

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カナ読み
1. [ P-1. / J-1. ]
アハン アヴェーロー ホーミ,アビャーパッジョー ホーミ,アニーゴー ホーミ,スキー アッターナム パリハラーミ.
2. [ P-2. / J-2. ]
イマスミン ナガレー ワサンター サッベー サッター アヴェーラー ホーントゥ,アビャーパッジャー ホーントゥ,スキー アッターナム パリハラントゥ.
3. [ P-3. / J-3. ]
イマスミン ナガレー アーラッカデーヴァター アヴェーラー ホーントゥ,アビャーパッジャー ホーントゥ,スキー アッターナム パリハラントゥ.
4. [ P-4. / J-4. ]
イマスミン ラッテー ワサンター サッベー サッター アヴェーラー ホーントゥ,アビャーパッジャー ホーントゥ,スキー アッターナム パリハラントゥ.
5. [ P-5. / J-5. ]
イマスミン ラッテー アーラッカデーヴァター アヴェーラー ホーントゥ,アビャーパッジャー ホーントゥ,スキー アッターナム パリハラントゥ.
6. [ P-6. / J-6. ]
イマスミン サーサネー アーラッカデーヴァター アヴェーラー ホーントゥ,アビャーパッジャー ホーントゥ,スキー アッターナム パリハラントゥ.
7. [ P-7. / J-7. ]
イマスミン チャッカヴァーレー サッベー サッター アヴェーラー ホーントゥ,アビャーパッジャー ホーントゥ,スキー アッターナム パリハラントゥ.
8. [ P-8. / J-8. ]
イマスミン チャッカヴァーレー アーラッカデーヴァター アヴェーラー ホーントゥ,アビャーパッジャー ホーントゥ,スキー アッターナム パリハラントゥ.
9. [ P-9. / J-9. ]
プラッティマーヤー ディサーヤ,パッチマーヤ ディサーヤ,ウッタラーヤ ディサーヤ,ダッキナーヤ ディサーヤ,プラッティマーヤー アヌディサーヤー,パッチマーヤー アヌディサーヤー,ウッタラーヤ アヌディサーヤ,ダッキナーヤ アヌディサーヤ,ヘッティマーヤ ディサーヤ,ウパリマーヤー ディサーヤ,サッベー サッター,サッベー パーナー,サッベー ブーター,サッベー プッガラー,サッベーアッタバーヴァパリヤーパンナー,サッバー イッティヨー,サッベー プリサー,サッベー アリヤー,サッベー アナリヤー,サッベー デーヴァー,サッベー マヌッサー,サッベー ヴィニパーティカー アヴェーラー ホーントゥ,アビャーパッジャー ホーントゥ,アニーガー ホーントゥ,スキー アッターナム パリハラントゥ.

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日本語訳
1. [ P-1. / R-1. ]
願わくば、私が、怒りから自由でありますように。悪意から自由でありますように。困難から自由でありますように。私自身に安楽のあらんことを。
2. [ P-2. / R-2. ]
願わくば、この街に住まう生きとし生けるものが、怒りから自由でありますように。悪意から自由でありますように。困難から自由でありますように。この街の生きとし生けるものすべてのものに安楽のあらんことを。
3. [ P-3. / R-3. ]
願わくば、この街を守護する神々が、怒りから自由でありますように。悪意から自由でありますように。困難から自由でありますように。この街の神々に安楽のあらんことを。
4. [ P-4. / R-4. ]
願わくば、この国に住まう生きとし生けるものが、怒りから自由でありますように。悪意から自由でありますように。困難から自由でありますように。この国の生きとし生けるものすべてのものに安楽のあらんことを。
5. [ P-5. / R-5. ]
願わくば、この国を守護する神々が、怒りから自由でありますように。悪意から自由でありますように。困難から自由でありますように。この国の神々に安楽のあらんことを。
6. [ P-6. / R-6. ]
願わくば、(仏陀の)聖教を守護する神々が、怒りから自由でありますように。悪意から自由でありますように。困難から自由でありますように。護法の神々に安楽のあらんことを。
7. [ P-7. / R-7. ]
願わくば、この世界の生きとし生けるものすべてが、怒りから自由でありますように。悪意から自由でありますように。困難から自由でありますように。生きとし生けるものすべてに安楽のあらんことを。
8. [ P-8. / R-8. ]
願わくば、この世界を守護する神々が、怒りから自由でありますように。悪意から自由でありますように。困難から自由でありますように。世界の神々にあらんことを。
9. [ P-9. / R-9. ]
東に、西に、北に、南に、南東に、北東に、北西に、南西に、下に、そして上の方角にある、すべての有る者、呼吸せるすべての者、生命あるすべての者、意識を有するすべての者、体を有するすべての者、一切の女性、一切の男性、一切の聖なる者、一切の俗なる者、一切の神々、一切の人々、すべての苦しみを受けつつある者らが、 怒りから自由でありますように。悪意から自由でありますように。困難から自由でありますように。あらゆる方角にある生きとし生けるものすべてに安楽のあらんことを。

日本語訳:沙門覺應

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2.解題

Metta bhāvanā ―慈しみの修習

ここで今上に挙げたパーリ語の文言、Metta bhāvanā[メッタバーヴァナー](あるいはMettābhāvanā)、すなわち「慈しみの修習」は、いわゆるパリッタ(護経)ではありません。これは、慈悲喜捨の四無量心のうち、特に慈しみを修習するために上座部で用いられている文言です。

故に、いま上に挙げた文言はその一例であって、国や場所などによって、若干その文言に異なりがあることがあります。

諸々のパリッタがそうされているのとは異なって、この文言はただ唱えて何らか功徳や意味があるものではありません。日常心がけて自らの心に慈しみを育てるようにするものです。漠然とこれを「唱える」のではなく、これを念(心に留めて忘れない)じ、自他の幸福を願うことです。常にこれを口に出し、他者に対して「幸せでありますように」などとオウムのように繰り返し言う必要などはまったくありません。

(とは言え現実には、上座部諸国においても、これら文言はただの空念仏、ただオウムのように唱えるだけとなっている場合がほとんどとなっています。およそ“人の営み”なるものは、こういう場合、何処でも同じことになるのでしょう。)

私はどうしても言いたい、口に出したいのだ等という者があるならば、時と場合を弁え、あくまでも自分の言葉をもって口にしたほうが良いでしょう。

もちろんそこで重要なのは、その口にする言葉と同様の思いを心の中に保つことです。むしろ、心にある慈しみの思いを、言葉として口からい出す、と言ったほうが正確です。「幸せであるように」「安楽であるように」などといった言葉が、悔し紛れのもの、自身の相手に対する怒りをごまかす為に口にするようなものであってはなりません。

(慈しみ、さらには四無量心についての詳細は“Metta sutta(慈経)”ならびに“四無量心観”を参照のこと。なお、Bhāvanāという言葉については、“仏教の瞑想”の“瞑想とは何か”を参照のこと。 )

怒り

怒らないこと、これは人に大変有益で多くの果報をもたらすものです。しかしながら、怒りを抑える、怒らないようにする、ということは大変困難なことです。なぜなら生来、人は怒るもので、それは根本的な人間の精神活動の一環であるからです。

仏教では、貪(ナニモノかへの飽くこと無き欲求)・瞋(怒り)・癡(モノの真なるありかたの不認識・誤解)という三つを、三毒といって根本的な煩悩として挙げます。すべての生命が等しく有する、根本的精神活動の一つとして挙げられるもの、それが怒りです。

実際現実に、人や社会は怒りによってこそ大きく動いています。それだけ「怒り」というものが大きな力をもっている証と言えるでしょう。そして、世界の歴史では、むしろ怒り(そしてその背後に常に控えている少数の権力者たちの利益を貪らんとする意図)に基づく暴力によってこそ、諸問題を「解決」してきたという事実があります。そして一方、その解決方法が因となって、あらたな悲劇が勃発しているというのもまた事実です。

Na hi verena verāni, sammantīdha kudācanaṃ;
Averena ca sammanti, esa dhammo sanantano.

実に、この世界において、怨みによって怨みが止むことは決してない。怨まないことによってこそ(怨みの連鎖は)止む。これは永遠の真理である。

Dhammapada (Yamakavaggo) 5, Kuddhaka Nikāya
[日本語訳:沙門覺應]

怨無輕重。皆不足報。以怨報怨怨終不除。唯有無怨而除怨耳。

怨み憎しみの念に、(程度の)軽い重いの差はない。すべて晴らすに値するものでないのだ。怨みによって怨みに報いれば、怨み(の連鎖)が途絶えることはついに無い。ただ怨みをなくすことに依ってこそ、怨み(の連鎖)は途絶しえる。

『四分律』(大正22, P881上段)
[現代語訳:沙門覺應]

怒り・恨みに対して怒り・恨みではなく、復讐によってではなく許しによってこそ、その終わることの決してないかに見える破壊的循環は終焉しうる、そして人は救われることを仏陀は説かれました。

仏陀が説かれたこの言葉、それは普遍の真理です。

実際、仏教だけがこのようなことを言っているわけではなく、支那の歴史書『史記』においてもまた、同様のことが言われています。

暴を以て暴を易う

司馬遷『史記』伯夷伝

しかし、残念ながらこれは常に実行されることのない真理です。人の怒りや恨み、そしてそれに基づく行為というものは、多くの力なき人々にやるせなき悲しみをもたらして新たな恐怖・怒り・恨みを生じさせるだけではなく、時として第三者に莫大な利益をもたらしているということも、その大きな原因と言えるでしょう。

人の社会というものは、そういうように出来ており、人の怒りや恐怖というまったく強力な感情は社会に悲劇的な破壊をもたらすだけではなく、莫大な利得をもたらすようにも出来ており、いや、むしろ作られてきて全く泥沼化しているようです。

これはなにも世界のどこかで起こっている遠い話ではありません。企業がなにか商品を売るのに、TVや雑誌などの宣伝を通して人の恐怖心を巧妙にそして継続的に煽りたて、購買意欲を高めさせているのは、よく考えればわかることでしょう。また、社会の、人の怒りを煽るように、時にかなり恣意的に情報を操作して、世に流しているTV局や新聞社など、今に始まったことでなく多くあります。これらはほとんど全て、彼らのなんらか利益に直結するからこそ為されていることす。

娑婆(忍土)はどこまでいってもやはり娑婆です。

誰しも社会的にはそうであることを認めざるを得ないでしょう。そのような社会構造において世界平和など、いわゆる文字通りのUtopia[ユートピア](no where)を探し求めるのと同様で、実現不可能・到達不可能のことに思われます(で、あるからと言って社会的にこれを実現せんとする諸々の努力を放棄するのは愚の骨頂です)。

しかし、個人において怒り・恨みの循環を断ち切ることは、全く不可能ではありません。それはやはり大変難しいことではあります。しかし、可能のことです。ではそれは如何にして可能であるのか。

これは人の気質ということもありますが、総じて慈しみの思いを常日頃から養うことによります。慈悲喜捨としてまとめていわれる四無量心を修めること、そしてまた忍辱(耐え忍ぶこと)を修習することによって可能となります。

臭いものに蓋ということにならぬよう、まず自らの怒りというものを知り、怒りの過失を自ら知り、怒らず、慈しみの思いを起こして、我が心に根付かせ強くしていく。我がうちにある怒り、大変に力強い感情に対していくことですので、時間のかかることです。怒ることは、結果的に大変疲れることでもありますが、しかしそれを放出するときには、ある意味快感である場合もあるためです。故にこれをグッと堪えることはむしろ苦しいことでもあるでしょう。

じっくり、慈しみなどと言いつつ怒ってしまったとしても、めげずに修めていけばよいでしょう。

慈しみという厳しさ

慈しみをもつことは、決して事なかれ主義になることでも、みんな仲良く馴れ合って問題を先送りしたり、臭いものに蓋をすることでもありません。しかし、よく慈しみということをそのような方向で捉えている人があります。

慈しみ、優しさには厳しさが伴います。そして、人によってその表現の仕方、表れ方に異なりがあるでしょう。ある人は常にほほえみを絶やさず柔軟で周囲に穏やかな雰囲気をもたらしている、ということがあるでしょう。

またある人は、いつも大変厳しい表情で近寄り難い雰囲気を醸し出していつつも、その言語や行動が大変厳しくキツイものであっても、その内容は畢竟「優しさ」に満ちたものである、ということもあるでしょう。これは例えば、釈尊入滅前後の摩訶迦葉尊者と阿難尊者との違いであると、一応言えるかもしれません。

(阿難尊者は非常に温和かつ柔和で阿羅漢となるまでは大変感情的・情緒的なヒトあったといい、摩訶迦葉尊者は非常に厳格な人であったと伝えられています。実際、諸経典においてはそのような二人の姿を見ることが出来ます。その二人ともが後代、最も重要視される仏弟子となりますが、諸仏典が伝えるところによるとどうやら二人には確執があったようです。その場合、その態度に問題があったのは、「やさしい」阿難尊者あるいはその支持者としての尼僧等であったように思われます。)

あるいは、常日頃から慈悲を口にして他人に説きながら、常にイライラとして落ち着きなく、変に他者に対して攻撃的な人、冷笑的に無関心な者もあるかもしれません。そのような人は、最高の反面教師としてこそ尊敬、いや尊敬する必要など全くありませんが、一つの手本として見なしたらよいかもしれません。

しかしそもそも、他者がどうであるかなど関係のない話です。すべては自分が如何にこれを修し、そして自身が如何にあるかを、自分自身で日々試み、省みつつこれを修めることこそ、自分に必要なことです。平穏無事であるときは、慈しみをただ口にして悦に入ることなどたやすいことでしょう。

しかし、先に述べたように、自らの心を衝撃と怒りで揺さぶるような、尋常ならざる状況に実際に遭遇したとき、慈しみを持つこと、我が心に湧き上がる怒りと戦うことが、大変苦しいこととなることもあるでしょう。

それは最上にしてもっとも過酷な修行の時ですが、そのような事態に遭遇することは望ましいことでは決してありません。しかし、みずからの慈心の、その真価が試される時です。

その果がはたしてどれほど大きいものであるかは、やはり自分自身で確かめていくことです。それは他の誰でもない、ただ自身によってのみ行い得ることであり、確かめられることです。

(慈しみ、さらには四無量心についての詳細は“Metta sutta(慈経)”ならびに“四無量心観”を参照のこと。)

小苾蒭覺應(慧照)拝記
(By Bhikkhu Ñāṇajoti)

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