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Ratanattaya pūjā
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パーリ語原文
1. [ R-1. / J-1. ]
Imāya Dhammānudhammapaṭipattiyā Buddhaṃ pūjemi.
Imāya Dhammānudhammapaṭipattiyā Dhammaṃ pūjemi.
Imāya Dhammānudhammapaṭipattiyā Saṅghaṃ pūjemi.
2. [ R-2. / J-2. ]
Addhā imāya paṭipattiyā (jāti) jarāmaraṇamhā parimucissāmi.
カナ読み
1. [ P-1. / J-1. ]
イマーヤ ダンマーヌダンマパティパッティヤー ブッダム プージェーミ.
イマーヤ ダンマーヌダンマパティパッティヤー ダンマム プージェーミ.
イマーヤ ダンマーヌダンマパティパッティヤー サンガム プージェーミ.
2. [ P-2. / J-2. ]
アッダー イマーヤ パティパッティヤー (ジャーティ) ジャラーマラナムハー パリムチッサーミ.
日本語訳
1. [ P-1. / R-1. ]
私は、この教えに依って法を修めることにより、仏陀を礼拝いたします。
私は、この教えに依って法を修めることにより、達磨を礼拝いたします。
私は、この教えに依って法を修めることにより、僧伽を礼拝いたします。
2. [ P-2. / R-2. ]
実に、この修行に依り、私が(誕生と)老いと死から解放されん。
日本語訳:沙門覺應
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ここにRatanattaya-pūjāと題している文言は、早朝あるいは早晩の読経、所謂朝勤・夕勤においてパリッタを唱えた最後に用いられるものです。題をそのまま直訳すれば「三宝供養」となるものですが、実際に用いられている意義としては、いわば誓願といえるものです。故に副題として誓願としておきました。
この文言の中にて、Dhammānudhammapaṭipattiyā(法に依って法を修めることにより)とあるように、仏法僧の三宝を、自らが法に依って法を修めることにより、それぞれ礼拝することを述べ、もって解脱を志す、いや、解脱することを宣言しているものです。
そうすることに全く、一切の意味も価値もないということはありませんが、「南無三」・「南無仏」などとただ口でパクパクと唱えるのでなく、自分が法を修めることによってこそ解脱を果さんとするのが、そもそも仏教です。これを自らがなそうと誓願する言葉、それが上に挙げた文言です。
Dhamma[ダンマ]とは、サンスクリットではDharma[ダルマ]といい、漢語ではこれを音写した達磨[だるま]という言葉で言われるもので、漢訳語としては法という言葉が一般的に用いられるものです。
Dhammaという言葉は、大変多くの意味を持っており、本性・真理・(本質的)モノ・標準・道徳・善行・教義(教え)・宗教など、多くの言葉に訳し得ます。故に、文脈に依ってそれが何を意味するか異なり、故に時としてこれを訳すのが困難なことすらある言葉です。故に、往古の支那ではこれをあえて訳さず、一応法という訳語をつけ、また達磨と音写した言葉も残しました。結局、法という訳語も、漢語仏教圏においてやはり様々な意味をもつようになっています。
ここでは上の文言を「この法に依って法を修めることにより」では意味がわかりませんので、一応「この教えに依って法を修めることにより」と訳しました。しかし、これはまた「この教えに依って真理を修めることにより」などとも訳すことが可能です。
いかし現在の日本語で、真理という言葉を多用するのは一般的でないように思われ、語感としてもやや不適当と考えたために、今は一応上のようにしておきました。
さて、仏陀はその晩年、このような言葉を遺されています。
Ye hi keci, ānanda, etarahi vā mama vā accayena attadīpā viharissanti attasaraṇā anaññasaraṇā, dhammadīpā dhammasaraṇā anaññasaraṇā, tamatagge me te, ānanda, bhikkhū bhavissanti ye keci sikkhākāmā"ti
「アーナンダよ、誰であれ、今あるいは私の亡き後、自己を洲とし自己を拠り所として、他を拠り所とすることなく、法を洲とし法を拠り所として、他を依り所とすることなく住することにより、アーナンダよ、我が比丘たちの中において、そのような彼らは最上者となるであろう。もし彼らが(それを)学ばんと望ぶならば」」
DN, Mahāparinibbānasutta, Veḷuvagāmavassūpagamana
[日本語訳:沙門覺應]
阿難。自熾燃。熾燃於法。勿他熾燃。當自歸依。歸依於法。勿他歸依佛告阿難。吾滅度後。能有修行此法者。則為真我弟子第一學者。
「阿難よ、自らを燈火とし、法を燈火として、他を燈火とすることなかれ。まさに自らに帰依し、法に帰依して、他に帰依することなかれ」。仏陀は阿難に告げられた、「私が滅度の後、この教えに従って修行する者は、真の我が弟子にして最高の修行者である」と。
『長阿含経』卷二「遊行経」第二(T1, P15b)
[日本語訳:沙門覺應]
この一説は、上に並び引いた「遊行経」の一説が漢訳で対応する箇所となりますが、今の日本では「自灯明・法灯明」の経説として、比較的有名なものとなっています。
ところで、今挙げた漢訳経典では自己と法とを「熾燃(灯明)」とせよとしてあり、またここでは挙げませんでしたが他の漢訳経典では「洲(島)」とせよとの二種の訳があり、パーリ経典では洲としてあって異なっています。
これは、その原語となるパーリ語dīpa[ディーパ]という言葉に、「灯明」・「洲・島・大陸」・「助け(支え)」という三つの意味がある為で、訳者の訳語の選択が異なっていることに依るものです。
(「しま」などといっても、釈尊がご活躍されたのは海から程遠く雨季にはしばしば穏やかな洪水が生じるガンジス川中流域であり、故に海に浮かぶ島というより大河の中洲と捉えたほうが、故中村元博士も指摘していたように、その風土的背景を想えば適切であると考えられます。)
漢訳では灯明と洲の二様に訳されているのに対して、パーリ語仏典に基づく南方の分別説部(通称上座部)では、洲の意であると古来解されています。そのため、ここで付けている日本語訳でもそのように訳しています。
しかしながら、全く学術的文献学的に仏教を云々する人の場合はともかくとして、dīpaという語を灯明か洲かそのどの意味で採っても、イメージされる情景は異なるであろうとはいえ、この教示の意図するところに変わりはありません。
さて、しばしば、「仏陀は自灯明ということを言われたのだ」、あるいは「法灯明ということを説かれたのだ」などと、どちらか一方だけを取り沙汰して語る人があります。「教条的などうこうは瑣末なことである。仏教では法こそが肝要なのである。ダンマが本質なのだ」などと言う人、あるいは「自分をこそ信じ、己こそ寄る辺として、我が思いに率直に従うことが大切なのである」などと言う人々です。
けれども、「常にふらふらと揺れ動く心に振り回され、外界の事象にたちまち動揺して慌てふためく自分」など、決して頼りにし得るものではありません。法(真理)よ、法(仏陀の教え)よ、ああ法(本性)よ、などとそれを口や心で誉めそやして、頼ってみたとしても、何がどうにかなるわけではありません。人によっては、それで悦に入ることくらいは出来るかもしれませんけれども。
また、多くの場合ご都合主義的となることが多い「我が法解釈」によって、「律や論など瑣末な、ややもすると法から遠く離れたものに過ぎない。大切なのはあくまで法なのである」と言ってみても、ではその法は何であるか、その法をどのように行うのか、ということについて、律と論と無しではおよそ理解不可能でしょう。
では、ここに言われる「自灯明法灯明」が具体的に何を意味されるのか。
実はそれは、四念住という、仏教においてもっとも重要であるといえる瞑想法を実習することが意味されています。
(四念住については、別項“四念住”を参照のこと。)
短い言葉、端的に何事かを表す言葉というものは案外、わかりやすいようでその実全然わからない、というものが多いようです。
この言葉の後ろには、仏陀の教えが成道後に終生説き積み重ねられた教えの集積があります。それをすべて知りつくす必要はありませんが、一を聞いて十を知り得るほどの高い能力がある稀有の人は別として、やはりある程度、自身が真に理解し得るまで依るべき法を尋ねる必要はあるでしょう。
誰でも仏陀の教えに従う者は、これを行い、ついに不死の境地に至る人となって、仏日の輝きによってこの社会を照らし出すことを願います。
非人沙門覺應 敬識
(horakuji@gmail.com)
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