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パーリ語原文
1. [ R-1. / J-1. ]
Hetupaccayo, ārammaṇapaccayo, adhipatipaccayo, anantarapaccayo, samanantarapaccayo, sahajātapaccayo, aññamaññapaccayo, nissayapaccayo, upanissayapaccayo, purejātapaccayo, pacchājātapaccayo, āsevanapaccayo, kammapaccayo, vipākapaccayo, āhārapaccayo, indriyapaccayo, jhānapaccayo, maggapaccayo, sampayuttapaccayo, vippayuttapaccayo, atthipaccayo, natthipaccayo, vigatapaccayo, avigatapaccayoti.
カナ読み
1. [ P-1. / J-1. ]
ヘートゥパッチャヨー、アーランマナパッチャヨー、アディパティパッチャヨー、アナンタラパッチャヨー、サマンタラパッチャヨー、サハジャータパッチャヨー、アンニャマンニャパッチャヨー、ニッサヤパッチャヨー、ウパニッサヤパッチャヨー、プレージャータパッチャヨー、パッチャージャータパッチャヨー、アーセーヴァナパッチャヨー、カンマパッチャヨー、ヴィパーカパッチャヨー、アーハーラパッチャヨー、インドリヤパッチャヨー、ジャーナパッチャヨー、マッガパッチャヨー、サムパユッタパッチャヨー、ヴィッパユッタパッチャヨー、アッティパッチャヨー、ナッティパッチャヨー、ヴィガタパッチャヨー、アヴィガタパッチャヨーティ.
日本語訳
1. [ P-1. / R-1. ]
(縁には)因縁、所縁縁、増上縁、無間縁、等無間縁、倶生縁、展転縁、依止縁、近依縁、前生縁、後生縁、習行縁、業縁、異熟縁、食縁、根縁、禅縁、道縁、相応縁、不相応縁、有縁、非有縁、離去縁、不離去縁(の二十四種の縁)がある。
日本語訳:沙門覺應
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いまここに挙げた二十四の「パッチャヨー」と語尾につく一連の文は、分別説部の阿毘達磨にて説かれる縁(paccaya)を挙げ連ねたものです。
分別説部においては、この一節すなわち縁に二十四種あるという説は、釈尊が成道されて後21日を経て四週間目になり、特に阿毘達磨の考察を深める中で、縁についてをさらに熟慮し分類したものであると伝説されます。これは、パーリ三蔵の阿毘達磨蔵(論蔵)のうちの“Paṭṭhāna[パッターナ]”(『発趣論』)において説かれているもので、そのまったく冒頭のPaccayuddesa[パッチャユッデーサ](縁の総説)です。
この総説だけでは、縁にはこれこれのものがあるとただ列挙するだけであってまったく意味不明です。しかし、これにつづくPaccayaniddesa[パッチャヤニッデーサ](縁の詳説)において、それぞれ如何なることを意味するのかの説明がなされていきます(それでも簡略なもので、やはりまだ到底判り難いものである為に、以後更に詳説されています)。
ここで説かれる二十四縁なるものは、パーリ三蔵にしろ漢訳経典にしろ、経説では一切見られないものです。しかし、パーリの律蔵には一箇所だけ、突然としてこれを説く一節があります(Vinaya Pitaka, Parivārapāli, Khatinabheda)。なお、その他漢訳律蔵には、このような所説はまったく見当たらないようです。また現存するその他部派の阿毘達磨にも、二十四縁なる説は見当たりません。このようなことから、二十四縁とは、分別説部特有の阿毘達磨説であるとみて良いものです。
ではそれら二十四縁の一一が何を意味するものであるかを知らなければなりませんが、しかし、これを紹介するのは煩雑にすぎることとなると思われます。実際、それは分別説部の他の教学を知って置かなければ理解不能のものが多くあります。故にこれらを理解するにも説明するにも、非常に時間を要することとなってしまうかも知れません。
その意義内容もわからぬのに、ただこのようなことをすることは等閑にして杜撰の咎を免れません。しかし、先に述べたようにここでそれらを紹介するのはあまりに煩雑となります。そこで一応参考までに、誰か志ある人にはこれらを深く知るきっかけになることを期して、二十四縁のパーリ語と漢訳語を併記した表を以下に示します。
No. | Pāli語 | 漢訳語 | No. | Pāli語 | 漢訳語 |
---|---|---|---|---|---|
1 | hetupaccaya | 因縁 | 2 | ārammaṇapaccaya | 所縁縁 |
3 | adhipatipaccaya | 増上縁 | 4 | anantarapaccaya | 無間縁 |
5 | samanantarapaccaya | 等無間縁 | 6 | sahajātapaccaya | 倶生縁 |
7 | aññamaññapaccaya | 展転縁 | 8 | nissayapaccaya | 依止縁 |
9 | upanissayapaccaya | 近依縁 |
10 | purejātapaccaya | 前生縁 |
11 | pacchājātapaccaya | 後生縁 | 12 | āsevanapaccaya | 習行縁 |
13 | kammapaccaya | 業縁 | 14 | vipākapaccaya | 異熟縁 |
15 | āhārapaccaya | 食縁 | 16 | indriyapaccaya | 根縁 |
17 | jhānapaccaya | 禅縁 | 18 | maggapaccaya | 道縁 |
19 | sampayuttapaccaya | 相応縁 | 20 | vippayuttapaccaya | 不相応縁 |
21 | atthipaccaya | 有縁 | 22 | natthipaccaya | 非有縁 |
23 | vigatapaccaya | 離去縁 | 24 | avigatapaccaya | 不離去縁 |
さて、縁を開いて分類すれば二十四縁とし、さらにそれぞれが細かく分類されてはいるものの、これを略せばただ四種に摂せられるとも分別説部はしています。その四種とはすなわち、所縁縁・近依縁・業縁・有縁の四縁です。
興味がある人は『発趣論』など論書に直接あたり、その意味を探ればよいでしょう。なお、ビルマではこの『発趣論』は非常に重要視、いや最重要視されている論蔵典籍となっています。
おそらく人には、特に日本には、このような縁の分類体系、阿毘達磨の神学的複雑な教学を、ただ複雑で難解なだけの知的遊戯、およそ仏教の本質とは無縁の形而上学であり、その実習にはまるで不要なものであると受け止める者が多くあると思われます。
しかし、処が変われば話も変わるもので、ビルマでは僧侶だけでなく在家信者の間では、『発趣論』をはじめその他の阿毘達磨を学ぶことは仏教(分別説部)を学び、修行する上で必須・不可欠のものと考えられています。阿毘達磨抜きに仏教は理解できるものではない、と。無論例外もありますが。
その他の国、スリランカやタイなど分別説部が伝わっている国では、阿毘達磨を充分に学習し理解している学僧自体が非常に稀でほとんど存在しておらず、大勢として僧侶の義務はただ経典の暗唱と読誦、そしてパーリ語の学習に留まるので、阿毘達磨を学ぶ者はほとんど皆無となっています。また説法の中で阿毘達磨を絡めての話をする者などまずありません。一昔前のスリランカには若干ながら大学僧と言われる人があり、阿毘達磨についての造詣も深かったようですが、今や阿毘達磨蔵はおろか律蔵すらもまるで無視しているような状況となっています。
そのようなことから、それら国の阿毘達磨に興味をもった僧侶は、(それら国の人々はビルマという国そしてビルマ文化、ビルマ人自体を蔑んでいるために極めて稀なことですが)ビルマに赴いて修学するか、自国の大学にて現代的方法で阿毘達磨の一部文献を読むに留まっています。
少し前のタイにおいては、分別説部の伝統的見解・教学それはすなわち阿毘達磨に他ならないのですが、(まるで臨済禅師のようですが)これを最初熱心に学ぶもついには異を唱えて森林に篭もり、あくまで近代的合理主義的態度でもって仏教を理解しようとしたMahā nikāya[マハーニカーヤ/マハーニカイ](大派)のタイ人比丘がいます。Buddhadāsa[ブッダダーサ]です。その上で彼は大乗も熱心に学び、特に龍樹菩薩の説かれた空性(中観)、ひいては禅(特に六祖慧能)とチベット仏教の教えを積極的に取り入れています。彼はすでに死んでありませんが極めて多くの著作を残しており、これを通して彼の思想に触れ得るでしょう。彼の著作は多く英訳されており、それらのほとんどが無料で入手可能です。それはネット上でPDF本として配布されています。
彼のとった態度そしてその見解の一部は、分別説部の正統からすると邪義・非法と断じられかねなかったものですが、彼が多くの支持者を得たということもあり、タイのサンガ統括組織(いわば僧綱)は彼をある程度厚遇せざるを得なかったようです。
タイ(ならびにラオス)以外の分別説部が伝えられた国々ではほとんど全く知られていない人ですが、ブッダダーサの支持者は今もタイに多くあり、彼のとった現代的合理的態度に好感をもち、あるいは支持する西洋の人々もまた見られます。彼らもまたブッダダーサに同じく、禅や中観の空性の教えに興味を持ち、大乗小乗の別なく学んでいる人があります。実際、彼の著作に見られる態度は非常に合理主義的、啓蒙主義的で、現代の人々から支持される理由が充分に理解されます。
さていずれにせよ、現代における仏教徒には、ブッダダーサもそのうちの一人となりますが、阿毘達磨を仏滅後のサンガが創作した神学であって、いわば「仏教的でないもの」と見る向きがあるようです。いや、阿毘達磨を学ぶのは全く無意味で、涅槃を得るには不要のもの、害毒である、とすら断じるようです。
しかし、仏教徒は三宝に帰依するものであって、その内の一つの僧宝すなわちサンガが仏陀の説かれた法を分析して整理し、また法宝の一として長く伝えてきたものをそのように白眼視し、邪険にする必要は全くありません。いや、するべきではないでしょう。阿毘達磨という言葉は、「勝れた教え」の意味であると伝統的に解釈されています。そして、それはあくまで釈迦牟尼仏による仏説、あるいは大弟子によって略説された仏説である、というのが仏教通じての見解です。阿毘達磨は仏教の重要な一部分です。そもそも、どのような形であれ仏教を紆余曲折を経つつも、今にまで伝えてきたのは基本的にその僧宝、そしてそれを支持する人々です。
また、分別説部の分別説部たる理由はその阿毘達磨にある、それは分別説部のアイデンティティである、と断じて可のものです。特に私は分別説部をのみ信じる、という人ならば、その阿毘達磨を珍重するのが当然の態度でしょう。
さて、阿毘達磨とは何かの要を言えば、法(存在)の分析と定義です。故に、経とは異なって人の惑と苦とを直接に除かんとして説かれているものではありません。それはその構造を解明することによって間接的に、いや、時として全く惑と苦とを取り除くのに関しない事柄にも言及し、解明しようとしているものが阿毘達磨です。いわば形而上学的要素がふんだんに存じているのが阿毘達磨です。
阿毘達磨を学びだすと、いわば阿毘達磨気狂い(An Abhidarma buff)になってしまうのがしばしばあり、そのようなのはまったく勧められたものではありません。ビルマそしてビルマ分別説部の影響を受けた者にはそのようなのがゴロゴロあり、彼らは阿毘達磨を絶対視するあまり「何故か」「それは少しおかしいような」という疑問を差し挟むことを許さず、議論に全くならないことすらあります。しかし、阿毘達磨を学ぶことは、人の頭を明晰にし、曖昧な理解を許さないものとする利点もあります。
「ワシにはわからん、馬鹿じゃけえ」と、阿毘達磨を理解する頭がない、また理解し得てもその価値が判らない云々といったことは、それぞれその人の機根の問題でもあります。どうしてもわからなければわからないで、こればかりは仕方有りませんからそれで良いでしょう。どうしても阿毘達磨を学ぶ気になれないというならば、無理に学ぶ必要などありません。これを理解し、すこぶる重要であると考えるのもまた良いでしょう。確かに阿毘達磨に「拘泥すること」による弊害はあります。しかし同時に、それがいかに複雑難解なものであったとしても、それを学ぶことによる利益もまたあります。
あくまで自分を主体とし基準として、プラグマティズム(実用主義)的に知識というものを捉えるのも良いでしょうが、しかし、「知識」なるものは、自分が選択するものではなく自分が(「知識」に)選択されるものである、くらいに思っていたほうが良いと思います。あなたが思っているあなた自身、「自分」などというものは往古からの知を選択しえるような、そんな大層なものではありません。
さて、とは言いながら、今ここに紹介した二十四縁は、率直に言ってこれだけ知っても何の役にもたたないものです。忌憚なく言えば、これだけを知ること、唱えることには何の意味もありません。分別説部の阿毘達磨全体を学んでこそ意味のあるものです。その他多くの事柄と連絡がつけられてこそ、その用が生じるものです。
分別説部をこそ信仰しその随を探らんとする者、あるいは仏法の大海を渉猟しようと説一切有部や大乗の阿毘達磨とを兼学しようとする人は、いきなり論蔵のいずれかの典籍に触れようとするのはやや無謀です。分別説部についていうならば。その優れた綱要書、いや分別説部の教学大成書である“Abhidhammatthasaṅgaha[アビダンマッタサンガハ]”(『摂阿毘達磨義論』)をまず手に取り、学んでみるのが良いと思います。また説一切有部ならば、『阿毘達磨倶舎論』を学ぶことを勧めます。
そうしてはじめて、阿毘達磨について云々という自身の立場を知れば良いでしょう。経であろうが律であろうが論であろうが、それらを学び修めることは、身心の清浄をもたらすことが第一義のものです。
ビルマにおいては、仏像を新しく建立あるいは購入し、寺院の仏堂あるいは在家の仏壇に設置した際には必ずその仏前において、このサイトで今まで紹介してきたAnekajāti gāthā[生死流転偈]からこのPaccayuddesa[略説二十四縁](時として、ここでは長くなるので紹介していませんがPaccayaniddeso[詳説二十四縁]もまた唱えることがあります)までの一連のパーリ語の経文を、五人以上の比丘が読誦します。ビルマにおける入仏式、開眼供養です。
これは、釈尊が大阿僧祇劫という長きにわたって修行せられ、菩薩から仏陀へとなった直ぐ後に発せられたと伝承される言葉やその考察内容を、新しく迎えた釈尊像の前で唱えて辿ることによって、その像は開眼せられるという考え方に基づくものです。ビルマには、これら一連の文句を比丘によって読誦してもらわなければ、少々大げさな謂となりますが、その仏像は「真の仏像」(?)として認識されぬような習慣があります。
また、寺院によってまちまちですが、これら一連の経文は開眼供養の際だけではなく、早朝の勤行(朝四時半頃)の際にも日常的に唱えられています。故にビルマでは十四歳の沙弥ですらも、この略説二十四縁の文句を含めた一連の経文は大概諳んじています。いや、十七~八歳頃までにはパーリ語の文法書“Kaccāyānavyakaraṇa[カッチャーヤーナヴャーカラナ]”ならびに“Abhidhammatthasaṅgaha[アビダンマッタサンガハ]”の全文を完全に素読(丸覚え)しており、具足戒を受ける二十歳前後までには『発趣論』の主要箇所そして律の「波羅提木叉(戒本)」を完璧に諳んじることが出来るのが、彼らにとってほとんど当たり前となっています。
これは他の上座部が伝承されてきた国にも全く例をみないことです。タイやラオスでは、波羅提木叉を完全に諳んじることが出来て布薩の時にこれを唱える役につければ、その役に当たる度に100から200USDほどの特別報酬がもらえるということがあります。故に自身が比丘になったときに備え、波羅提木叉をこそ覚えようとする沙弥はちらほらと存しているのですが。
(この項に全く関しない、しかも細かいことを言うと、沙弥や在家人など具足戒を受けていない者に波羅提木叉を教えること、沙弥がこれを学ぶのは律に抵触する行為、非法とされる行為なのですが、今や多くの国でそれが常識的に行われています。たとえば、本来仏教の出家者には禁じられている金銭の受蓄についてと同様、現代それを守ることにあまりの困難あるいは多くの不合理が伴うような律の条項は、それを「行って可」「合法」などとはせずとも、いわば暗黙の了解によって無視しています。現実問題、律の条項によっては、厳守できないのも仕方のないことと言えるものもあります。)
(しかし、「仏教の本質は律を厳守することではなく、涅槃を得ることなのだ」云々とのほとんど定型句となっている釈明を口にする比丘らは、それは確かにそうではあるのですが、結局これを自身の非法・堕落の弁明として用いているに過ぎなくなっているということが多くあります。たやすく守り得る、少々の工夫・努力は必要なものの守り得る事項についても、「時代が違う」「仏教の本質は」云々とのお題目によって黙殺してしまうのです。そして、これが問題を悪化させています。)
(実際、なし崩しにサンガの規律・比丘たちの生活態度が弛緩しているという事実から、これを厳格に守ろうとうする人々もあります。しかし、結果的には彼らの多くが絵に書いたような教条主義者となって排他的となり、他者との軋轢を生じさせてサンガのさらなる分裂を促進させているなど、律を守るという一点についても諸問題が存しています。どちらの側にしろ悪い意味で思考停止しているのです。さて、出家者である以上、律は保たなければならない。しかし、ではいかようにして守るのか。ただ合理的に云々で解決することの出来ない、非常に難しい問題がここにあります。)
さて、上座部が伝承されている国は世界に数カ国あるとはいえ、『発趣論』をふくめ阿毘達磨蔵の典籍を読誦するというような伝統が存しているのは、ビルマだけとなっています。正確に言えばそれは、近世にビルマ上座部を輸入した、あるいはその強い影響をうけているインド北東部アッサムの上座部や、ベンガル(現バングラディシュ)の(特にバルワ族ならびにチャクマ族によって構成される)上座部においても行われています。特に旧暦の年の瀬せまる二月頃には、特に『発趣論』を一日二十四時間を一週間、比丘が代わる代わるずっと唱え続けるという習慣があります。
ここで、ついでに参考までに説一切有部の因縁理解をも簡単に触れておきます。
説一切有部では縁について、まず経に説かれる四縁を分別して六因に開き、その果には五種あるとして、その関係を考察しています。
No. | Pāli語 | 漢訳語 | 意味 |
---|---|---|---|
1 | kāraṇa-hetu | 能作因 | ある事物が成立するのに、その成立を妨げないもの(原因)。例えばAという結果がある時、A以外のすべてのものは、Aの能作因となる。これに二種あり。ある事物の成立に一切関わりのないものを無力能作因、その成立になんらか関わっているものを有力能作因という。 |
2 | sahabhū-hetu | 倶有因 | すでに結果としてある事物に対して、その存在を支えつつ併存するもの(原因)。これに二種あり。例えば三つの杖が他の一つの物を支えて立つように、複数のものが相依って原因となり、一つの結果を生じさせるのを同一果倶有因。三つの杖が支えあって立つように、それぞれの杖は互いに因と果となるのを互為果倶有因という。 |
3 | sabhāga-hetu | 同類因 | 原因の性質と結果の性質とが同様・相似である場合の原因。この結果を等流果という。同類因と等流果には因果同時はありえず、必ず時間的先後関係にある。 |
4 | saṃprayuktaka-hetu | 相応因 | 心王(心)と心所(心の働き)とが、同一の根・境に対して共に起こった時、それぞれ相互に資助しあって因果同時であること。それぞれ一方がその他に対して原因となる。倶有因のうち、特に心王と心所の関係に限って言われるもの。これに五条件あって五義平等という。一つは心王と心所とが同一の根(六根)を所依としていること(所依平等)、ニには同一の境(対象)を縁じていること(所縁平等)。三には同一の行相(表象)をなしていること(行相平等)。四には全く同時に起こっていること(時平等)。五には互いに体が一つであること(事平等)。 |
5 | sarvatraga-hetu | 遍行因 | 一切の煩悩が起こる原因、すなわち遍行惑を指すもの。同類因のうち特に煩悩についてを別出したもの。遍行惑とは、苦諦について迷う五見(身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見)・疑・無明、集諦について迷う邪見・見取見・疑・無明の総じて十一。 |
6 | vipāka-hetu | 異熟因 | 楽あるいは苦たる結果を引き起こす原因、有漏(煩悩)に基づいた善あるいは不善の行為。無記または無漏に基づく行為は異熟因とは決してならない。善なる行為をなしたとき、それは同類の善ではなく楽なる結果を生じるが、このように原因と結果との性質が異なることを異熟という。同類因に同じく、異熟因について因果同時はありえない。 |
No. | Pāli語 | 漢訳語 | 意味 |
---|---|---|---|
1 | vipāka-phala | 異熟果 | 善・悪の行為を原因として生じる楽・苦の結果。総じて無記(善悪の差別がない)であり、有情においてのみ生じる。異熟因による。 |
2 | niṣyanda-phala | 等流果 | 原因と同性同質の結果。同類因または遍行因によって生じる。 |
3 | visaṃyoga-phala | 離繋果 | 慧・道による煩悩の滅盡、涅槃という結果。 |
4 | puruṣakāra-phala | 士有果 | 原因の積極的作用によって生じた結果。倶有因もしくは相応因によって生じる。 |
5 | adhipati-phala | 増上果 | 有為法のうち、すでに生じたものを除く、今生じ、これから生じるもの全て。能作因によって生じる。 |
No. | Pāli語 | 漢訳語 | 意味 |
---|---|---|---|
1 | hetu-pratyaya | 因縁 | 六因のうち能作因以外のすべて。(むしろ因縁をさらに分別し、開いて五因とした。) |
2 | samantara-pratyaya | 等無間縁 | 先にすでに生じていた心・心所が縁となって次の心・心所が起こること。先に起こった心と心所とが滅して(過去に落ちて)、次には心・心所が生じるに間断ないことを等無間という。 |
3 | ākambana-pratyaya | 所縁縁 | 六根が六境に触れて六識が起こるように、心・心所の縁となる一切法。 |
4 | adhipati-praatyaya | 増上縁 | 能作因に同じ。最も広い意味で、ある存在を成立させている一切法(モノ)をいう。 |
有部の六因五果説は、初めてこれを学ぶ人には複雑難解なものと思われるものかもしれません。実際のところ複雑なのですが、同時によく整理されたものともなっています。先にPaṭiccasamuppāda[縁起]の項で示した四種縁起説、そしてこの六因五果説は、有部の教学の髄とも言えるものです。
沙門覺應(慧照)拝記
(By Bhikkhu Ñāṇajoti)
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