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パーリ語原文
1. [ R-1. / J-1. ]
Uddhaṃ yāva bhavaggā ca, adho yāva avīcito;
Samantā cakkavāḷesu, ye sattā pathavīcarā.
Abyāpajjā niverā ca, niddukkhā c'ānupaddavā.
2. [ R-2. / J-2. ]
Uddhaṃ yāva bhavaggā ca, adho yāva avīcito;
Samantā cakkavāḷesu, ye sattā udakecarā.
Abyāpajjā niverā ca, niddukkhā c'ānupaddavā.
3. [ R-3. / J-3. ]
Uddhaṃ yāva bhavaggā ca, adho yāva avīcito;
Samantā cakkavāḷesu, ye sattā ākāsecarā.
Abyāpajjā niverā ca, niddukkhā c'ānupaddavā.
4. [ R-4. / J-4. ]
Yaṃ pattaṃ kusalaṃ tassa, ānubhāvena pāṇino;
Sabbe saddhammarājassa, ñatvā dhammaṃ sukhāvahaṃ.
Pāpuṇantu visuddhāya, sukhāya paṭipattiyā;
Asokamanupāyāsaṃ, nibbānasukhamuttamaṃ.
5. [ R-5. / J-5. ]
Ciraṃ tiṭṭhatu saddhammo, dhamme hontu sagāravā;
Sabbepi sattā kālena, sammā devo pavassatu.
6. [ R-6. / J-6. ]
Yathā rakkhiṃsu porāṇā, surājāno tathevimaṃ;
Rājā rakkhatu dhammena, attanova pajaṃ pajan.
カナ読み
1. [ P-1. / J-1. ]
ウッダム ヤーヴァ バヴァッガー チャ、アドー ヤーヴァ アヴィーチトー;
サマンター チャッカヴァーレース、イェー サッター パタウィーチャラー.
アビャーパッジャー ニヴェーラー チャ、ニドゥッカー チャーヌパッダヴァー.
2. [ P-2. / J-2. ]
ウッダム ヤーヴァ バヴァッガー チャ、アドー ヤーヴァ アヴィーチトー;
サマンター チャッカヴァーレース、イェー サッター ウダケーチャラー.
アビャーパッジャー ニヴェーラー チャ、ニドゥッカー チャーヌパッダヴァー.
3. [ P-3. / J-3. ]
ウッダム ヤーヴァ バヴァッガー チャ、アドー ヤーヴァ アヴィーチトー;
サマンター チャッカヴァーレース、イェー サッター アーカーセーチャラー.
アビャーパッジャー ニヴェーラー チャ、ニドゥッカー チャーヌパッダヴァー.
4. [ P-4. / J-4. ]
ヤム パッタム クサラム タッサ、アーヌバーヴェーナ パーニノー;
サッベー サッダンマラージャッサ、ニャトヴァー ダンマム スカーヴァハム.
パープナントゥ ヴィスッダーヤ、スカーヤ パティパッティヤー;
アソーカマヌパーヤーサム、ニッバーナスカムッタマム.
5. [ P-5. / J-5. ]
チラム ティッタトゥ サッダンモー、ダンメー ホーントゥ サガーラヴァー;
サッベーピ サッター カーレーナ、サンマー デーヴォー パヴァッサトゥ.
6. [ P-6. / J-6. ]
ヤター ラッキムス ポーラーナー、スラージャーノー タテーヴィマム;
ラージャー ラッカトゥ ダンメーナ、アッタノーヴァ パジャム パジャン.
日本語訳
1. [ P-1. / R-1. ]
願わくば、上は有頂天から下は阿鼻地獄まで、すべての世界の、地上に住まう命ある者らが、害意無く憎しみ無く、苦しみから解き放たれ、諸々の危難から自由であらんことを。
2. [ P-2. / R-2. ]
願わくば、上は有頂天から下は阿鼻地獄まで、すべての世界の、水中に住まう命ある者らが、害意無く憎しみ無く、苦しみから解き放たれ、諸々の危難から自由であらんことを。
3. [ P-3. / R-3. ]
願わくば、上は有頂天から下は阿鼻地獄まで、すべての世界の、空中に住まう命ある者らが、害意無く憎しみ無く、苦しみから解き放たれ、諸々の危難から自由であらんことを。
4. [ P-4. / R-4. ]
願わくば、成し遂げられた善功徳の果報によって、すべての正しき達磨の王(たる仏陀)の教えを知り、安楽がもたらされんことを。清浄にして安楽なる修業をもって、憂い悩み無き、尊く勝れた涅槃に達せられんことを。
5. [ P-5. / R-5. ]
願わくば、正しき達磨が久しく(世に)留まらんことを。すべての命ある者らが達磨を敬わんことを。適切なときに神はよく雨を降らさんことを。
6. [ P-6. / R-6. ]
往古の王らがそうしたように、願わくば、我が一人子を守るように、王は法によって人々を護らんことを。
日本語訳:沙門覺應
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Patthanā[パッタナー]とは、希望や抱負を意味するパーリ語で、その内容からいわば願文[がんもん]と題して適当なものです。
ここに挙げた文言は、パーリ三蔵に見られる文言ではありませんが、4から6までの一節は、“Dhammasaṅgaṇī”(『法集論』)のaṭṭhakathā(注釈書)である“Aṭṭhasālinī”等の蔵外文献に二箇所だけ見出されます。これは現在のビルマの分別説部においてのみ、用いられている文言であるようです。いつごろからこれが唱えられだしたか詳細は不明ですが、聞くところによると、1954年のビルマはラングーンにおいて行われた第六結集以降のことであろう、といいます。
内容的に“Metta bhāvanā[メッタバーヴァナー](慈しみの修習)”と重複する点もありますが、その願いの対象として他者に主眼を置いています。地上、水中そして空中にある、およそすべての生命の安楽を願い、仏教の功徳によって涅槃に達せられんことを願い、仏教がこの世に久しく留まることいわゆる令法久住を願い、そして国王(政府)が国を正しき道理によって統治することを願うものです。
仏教にとって、いや多くの宗教にとって、その地の政治体制はその宗教存続の要となるものです。仏滅後、各地に伝わっていった仏教は、常にその時々の国王・政府に依存し、その擁護を受けてこそ繁栄存続し得たという歴史があります。いや、仏教がインド各地に伝わるにもアショーカ王という大王による後援の功大きいものでした。
そしてアショーカ王は、仏教には特別肩入れしてはいるものの、それだけを擁護して他を廃したのではなく、その他の宗教の後援も行い、社会福祉に力を入れるなど、まさに正しい道理(ダルマ)によってインドを治めた人であったと伝えられます。インド国旗の中心に据えられる法輪は、かの大王の理念を示したものです。
(どの国においても多かれ少なかれ政治というものはやっかいな問題です。特にビルマの場合、それは他国に比してより深刻なもので、最後の願いは少しも叶わない状態がポルトガルそしてイギリスの統治時代以来ずっと続いています。しかし、政府を批判する者はあっても、結局国民の多くがG.オーウェルの『動物農場』のナポレオンあるいはその取り巻きにこそなりたがっているような状態、「私は他人よりも平等になりたい」というような状態で、国全体が腐敗しています。)
(「平等だの民主化だの言っても、我々がまず民主主義の意味すらわかっていない。歴史的に民主「的」ありかたすら経験したことがなく、民間にも民主的意識そして組織が皆目無い。民族意識、プライドはすこぶる高いが、しかし民族としての協調性がなく、誰もが大将に成りたがる。またビルマの中間層・富裕層で国外で高等教育を受けようとする者、受けた者の多くの動機が、ただ国を出たい、さらに金持ちになって羽振りがよくなりたいだけ。そして国を出て成功したら最後、二度と帰ってこない、といった如き状態では、到底無理である」とは、あるビルマ人の言ですが、確かにそのような面がビルマ人には見られます。)
ある人々にとっては、パーリ語によって唱えられる経文はエキゾティックでなんとなく魅力的と感じられるかも知れません。しかし多くの日本人には、日本語にはその発音自体が無いものがあり、耳に馴染みのない破裂音の多いパーリ語による経文は奇異、あるいは親しみ辛いものとして聞こえるかも知れません。
パーリ語によって伝えられる経典あるいは文言をただ唱えているだけでは、全く意味などないとまでは言いませんが、たいした意義も効果も存しません。これは、ベンガル語やこれに淵源するシンハラ語などパーリ語と同様のインド語派に属する国の者は多少事情が異なるとしても、およそパーリ語を母語としない人々すなわち全ての国の人について言えることです。
唱える経典の言語あるいは文句は、パッと聞いてすぐわかるようなものでないからこそ良い、という一面が人にあることは確かのようです。赫々然々と説かれている教えがいくら高尚なものであったとしても、日常生活で用いている言語と全く同様の言葉によってでは、あまりに卑近に過ぎて「ありがたい」と思えないする心理を、多くの人が持っているのは否定出来ないことであると思われます。
仏陀の教えが言語や習慣などの異なる各地に伝えられたことにより、初めはそうではなかったとしても、意識的無意識的にか、やがて異国情緒ただよう言語・文句によって伝えられるようになったために、仏教は各地に伝播して様々な形で信仰されるようになり、また今にまで伝えられたという面もあるでしょう。
釈尊は、ヴェーダ語のように神聖とされて特定の人々にしか解せないような、特定の言語によって仏教を伝えること、語ることを禁じられていました。釈尊の弟子には、その教えは尊いものであるから、ヴェーダ語でこそ教えを説かれるべきだと進言するものがあったのです。
しかし、釈尊は、仏法はその地のそれぞれの言語によって、誰人にでも解するものとして伝えられなければならないとされたのでした。そして仏陀滅後、しばらくしてサンガはバラバラとなり、それぞれインド各地にて自己の見解を立てて部派を形成し、それぞれ勢力を誇るようになりました。しかし、そのような釈尊の言葉通り、各地に伝わったサンガは最初その地の言語によってそれぞれ仏教を伝承していたようです。
さて、パーリ語と今呼称される言語は、釈尊が活動されていたガンジス川中流域のではなく、おそらくインド西海岸地方にて行われていたピシャーチャ(鬼神)語という言語に淵源するものであろう、と現在言われています。スリランカに仏教をもたらしたのは、その地方に勢力を持っていた部派(あるいは単にその地方)出身の、アショーカ王の王子であったと伝承される僧マヒンダです。マヒンダはパーリ語によって仏教をスリランカにもたらしたのでしょう。そして、おそらくはスリランカにおいて、パーリ語は「神聖視」されるようになったのでしょう。
スリランカではその昔、パーリ語をムーラ(根本)語あるいはマガダ語などと呼称し、仏陀がかつて話されていた言語そのものである、と伝説していました。(世界の)根本語などと呼称していたことからもわかるように、それを完全に神聖視し、仏教を伝承するに「特定の言語」をもってするようになっていました。しかし、どうやらパーリ語とマガダ語とは異なる、ということが発覚。そこで、それまで伝承してきた聖典の言葉として、以来パーリ語という呼称を多く用いるようになっています。
Pāli[パーリ]とは、そもそも「聖典」を意味する単語です。
それに似たような事情は、他の部派あるいは大乗においても同様で、いつからかそれぞれ地方の言語というのではなく、特定の言語をもってどこでも仏教を伝えるようになっています。大乗では多くサンスクリットによって伝えられており、その場合はやはりサンスクリットこそが仏陀が使用されていた言葉としています。それは多くの人にとって直ちに理解が可能なものではありません。
さて、しかし、全くわからないのではそもそも信じるに値しません。
そこで、よくわからないが聞いて「ありがたく聞こえる」言葉と、日常用いている言葉すなわちそれぞれの母語などに翻訳し、あるいはその原語を学んだ僧侶などが自国の言葉で説法し人々が理解し得るようになった教えとが様々な形でうまく共存するようにして、それぞれの国で仏教は行われてきています。たとえば誦経を含めた儀礼的な場面では「よくわからんありがたい言葉」を主にし、経典の内容等の学習、説法に関しては母語によって、というようなものです。
サンスクリットやパーリ語の発音は、自国の言語に馴染んだものに変化、要するに訛っています。セイロンではセイロン調、そしてビルマ、タイもまったくそれぞれの言語に合わせた形で訛って発音され、唱える調子もそれぞれの言語に適した形で行われています。故に各国の僧侶らがパーリ語の同一の経文を唱えたとしても、同じものとは到底思えないほど違って聞こえることがあります。
また、その信仰の歴史が長くになるにつれ、サンスクリットやパーリ語の単語を自国語の中に取り入れるようになっています。これは、およそほとんどの仏教が信仰されてきた国にて見られることで、日本も例外ではありません。
最近は分別説部が西洋に宗教としてもたらされてその信者が多少ながら増えてきていますが、その中にパーリ語で経典を読まず、特に“Metta sutta[メッタ・スッタ](慈経)”を英語に翻訳したものをキリスト教の賛美歌調に唱えるような団体があります。意味のわからないパーリ語で唱えるより、唱えながら理解し心から唱えられるために良い、という理由からです。
キリスト教(特にカソリック)で最初賛美歌をラテン語で歌っていたのが、後代には次第に英語などそれぞれ自国の言語によって唱えられだしたようなものを、最初からやっているようなものです。
しかし、これはその調子がわるいのか雰囲気が悪いのか、他の英語を母語とする仏教徒から、少々「気味が悪い」「気持ち悪い」と思われることがあるようです。日常の言語で、しかも十分理解できる内容のものを詠唱されてそのように感じることは、日本人でも容易に想像のつくことでしょう。たとえぱ日本語訳したメッタスッタを仏教の声明のように、あるいは賛美歌のようにやられると、その内容如何に関わらず多くの日本人は拒絶反応を示すでしょう。
もしくは、たとえ聞く人が「経典はその意味が分かってこそ価値があり、ありがたいものである」と思っていても、いざ「般若心経」の訓読文、あるいはそのサンスクリット原典からの日本語訳を唱えられるとすこぶる違和感を感じる、まるで「ありがたくない」と聞こえてしまうという心理が働くでしょう。
そのようなのを社会が受容するには、非常に長い時間をかけ、その時々における人々の宗教的要求に応じてその文化の中で形成され受容されていくものです。たとえば日本仏教における和讃の類は、その成果の一例と言えるでしょう。
いずれにせよ、ここにおいて重要なのは「慈しみ」の思いを持つこと。人に対して優しく、人に対してだけではなく神々・動物・餓鬼など、その存在が眼に見える見えない関わらず、あらゆる生命に対しての思いやりと親しみの思いを持つことです。
神々や餓鬼などの存在など迷信であり信じない、という人は、ならばとりあえずその人が考える生命すべてとしてかまいません。
ただ特定の教団が指定する所の経文などを、あるいは流麗にあるいはワーワー唱え、その意味も知らず、その内容を少しも実践することもないようなのは、現実にはよく見られる話です。しかし、そのようなのを古来「オウムよく言えども飛鳥を離れず」といいます。支那の『礼記』にある言葉です。また、「怒らないことは慈しみである」などと勘違いし、何事につけただ無関心で冷然とあるようなのは、木偶の坊に過ぎません。
(慈しみとは何かの詳細は、“四無量心観”または“Metta sutta(慈経)”、“Metta bhavana(慈しみの修習)”を参照のこと。)
もっとも、私が、そしてあなたが、その心のうちに慈しみの思いをどれだけ持ったところで、それで他者が変わるわけではありません。いや、それによって他者の自身に対する態度が変わることはあるでしょう。しかしそれでも、私たちがどれだけ熱心に祈り願ったところで世界が変わることなどありません。
むしろ私たちが生きて行く上で、大なり小なり直接的・間接的に、その安楽を願ったところの多くの生命を損ない奪うなど犠牲にしています。私たちは、意識的・無意識的に、他の生命の犠牲の上に存しています。
このような事実を無視し、「生きとし生けるものが幸せでありますように」などとオウムのように繰り返し、慈しみだの慈悲が肝要だなどとのたまわるだけならば、それはただの独善・自己陶酔・妄想に過ぎないものと、断じられかねぬものとなるでしょう。私たちは、どのような形であれ、常に他を害して存在しています。それはどうしようもない現実です。
どうしようもない・・・。面白くない・・・。世界にはいかんともし難い事柄が多くある。ならば、その現実を受け止め、その上で出来ることを最大限行っていく。少なくとも自分が他を害さんとする意識を抑え、直接に他を害する事柄から離れ、また間接的に関わる事柄からも少しでも離れるのが良いでしょう。十全に出来ないからと言って、一つのことすら放棄して諦めるようなのは子どもじみたことです。
なにはともあれその為には、まず慈しみの思いを心に持つことから始めます。
仏陀はこのように説かれます。
Manopubbaṅgamā dhammā, manoseṭṭhā manomayā;
Manasā ce pasannena, bhāsati vā karoti vā;
Tato naṃ sukhamanveti, chāyāva anapāyinī
達磨(善き性質・ことがら)は心に導かれ、心を先とし、心によって作りだされる。もし清らかな心で話したり行ったりしたならば、それによって安楽がその人に付き従う。あたかも影がその人から離れぬように。
Kuddhaka Nikāya, Dhammapada, Yamakavagga
[日本語訳:沙門覺應]
心為法本 心尊心使 中心念善 即言即行 福樂自追 如影隨形
心は法(善き性質・ことがら)の本である。それは心を先とし、心が作るもの。心に善を念じてあるいは言い、あるいは行えば、福楽は自らに追いしたがう。影が形に従うように。
『法句経』双要品法句経第九(大正4, P562上段)
[現代語訳:沙門覺應]
我々の行為すべては心に基づきます。そしてその心は、放っておけば実に奔放に動きまわって取り留めのないものです。故にまた、これは仏陀の大乗の教えですが、このように日々自らを戒めることを勧めます。
作心師不師於心
心の師となるも心を師とせざれ
曇無讖訳『大般涅槃経』巻廿八 師子吼菩薩品(大正12, P533下段)
[現代語訳:沙門覺應]
心に悪を留めず清らかな意思、善なる動機によって自他の幸福を願うことは、それがたとえ直接に世界を変えるものではなかったとしても、他に幸福をもたらすものなどではなくとも、大なる果報が自己にもたらされるでしょう。世界がいかなるものであるかを冷静に見、それを受け止め、故に怒らず、自他に対して慈しみの思いを持つこと。それを日々積み重ねていく。
それは人の性からすれば、多くの努力を要することです。
(仏教において何を持って善とし悪とするかは“十善戒”の項を参照のこと。)
現実に他者を助けていくかどうか、働きかけていくかどうかは、その人の意思によります。ただ「お幸せに」などと仲間内で言い合って完結してしまうようでは、まさしく大乗の立場から蔑称したところの小乗の徒となるでしょう。社会は実に複雑に出来ており、また人は非常に矛盾した存在で、そう簡単に割り切れるものではないでしょう。が、いやそれで私は良いのだというのなら、それで良いでしょう。その人の選択です。
人により出来ること、なし得ることは異なって様々です。しかし、何か少しでもその助けになることが出来るというならば、その機会に恵まれたならば、誰であれ区別なく、その思いを現実の行為とすることを勧めます。人に強制する必要はなく、またしてはなりません。先に述べたように、まず大切であるのは自分の意思です。これをするのに宗教が云々とする必要などもありません。
明恵上人の遺訓とされている“あるべきようわ”を勧めます。
(明恵上人についての詳細は、“明恵上人とは”ならびに”明恵上人の言葉”等を参照のこと。)
世の事物は実に複雑に絡み合い、一と多、多と一とは相互に働きあい、支え合いして存しています。他に対しての慈しみ、優しさの思いを持つこと。それは自身のためになることです。そして、現実に他者に対して優しく接し、助けること。それは他者を益するだけではなく、また還って自己を益するものです。
小苾蒭覺應(慧照)拝記
(By Bhikkhu Ñāṇajoti)
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