真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『雑阿含経』(安般念の修習)

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1.原文

『雑阿含経』 (No.802)

宋天竺三藏 求那跋陀羅 譯

如是我聞。一時佛住舍衞國祇樹給孤獨園。爾時世尊告諸比丘。當修安那般那念。若比丘修習安那般那念。多修習者。得身止息。及心止息。有覺有觀。寂滅純一明分想修習滿足。佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉行

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2.訓読文

『雑阿含経』 (No.802)

宋天竺三蔵 求那跋陀羅 訳

是の如く我れ聞けり。一時、佛、舍衛國祇樹給孤獨園に住しき。爾の時、世尊、諸の比丘に告げたまはく。當に安那般那念を修すべし。若し比丘、安那般那念を修習するに、多く修習*1 せば、身止息し及び心止息することを得、*2 有り、*3 有り、寂滅・純一*4 にして、明分想*5 の修習を滿足す、と。佛、此の経を説き已りたまひし。諸の比丘、佛の所説を聞きて、歡喜奉行しき。

訓読文:沙門覺應

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3.現代語訳

『雑阿含経』 (No.802)

宋天竺三蔵 求那跋陀羅 訳

このように私は聞いた。ある時、仏陀は舎衛国は祇園精舎に留まっておられた。その時、世尊は告げられた。「比丘たちよ、まさに安那般那念を修習すべきである。もし比丘が安那般那念を修習して習熟すれば、身体は止息し、心が止息して、尋あり伺あり、寂滅・純一にして、明分想の修習を満足する」と。仏陀がこの経を説き終わられたとき、諸々の比丘は、仏陀の所説を聞いて歓喜した。

現代語訳:沙門覺應

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4.語注

『雑阿含経』第802経SN. M/Aには対応する経典がない。

  • 多く修習…パーリ経典には「多く修習すれば」に対応する一節が頻出する。そこでは‘bahulīkatā’とあって直訳すれば「多く行じられた」となり、漢訳と合致する。しかし、現代語訳でもこれを「多く修習」とそのまま現代語訳に記しても良かったけれども、少々噛み砕いて訳して「習熟」とした。以降、パーリ経典を引いてこの語があった場合にも習熟と訳す。→本文に戻る
  • 覚[かく]…粗雑な思考(vitakka)。玄奘三蔵による新訳語は「尋」。現代語訳では、覚という語をそのまま用いると誤解を生じやすいであろうし、粗雑な思考というのも上手くなく、また尋という新訳語が現在一般的であるために尋を用いた。→本文に戻る
  • 観[かん]…微細な思考(vicārā)。玄奘三蔵による新訳語は「伺」。→本文に戻る
  • 純一[じゅんいち]…純一とは如何なる事かを説明するに、同じく『雑阿含経』の一経(No.41)では「若心得解脱者。則為純一。純一者。則梵行立。梵行立者。離他自在」(大正2, P10上段)としている。これからすると純一とは心解脱した状態を意味する言葉となる。パーリ経典には対応するものがなく、また似たような一節も見当たらない。
    本経の「覚有り、観有り」云々という一節は初禅を意味している(禅については“禅について”を参照のこと)。なお、求那跋陀羅三蔵はekāgratā(心一境性)には一心の訳語を用いているため、純一とは心一境性ではない。→本文に戻る
  • 明分想[みょうぶんそう]…明分想とは如何なるものか、同じく『雑阿含経』の一経(No.1034)にてこのように示されている。「修習六明分想。何等為六。謂一切行無常想無常苦想苦無我想観食想一切世間不可楽想死想」(大正2, P270中段)。すなわち、明分想とは、①一切行無常想・②無常苦想・③苦無我想・④観食想・⑤一切世間不可楽想・⑥死想の六種のものであるという。ただし、この経は、仏陀が王舍城の迦蘭陀竹園におられたとき、樹提長者の孫で長寿童子というのが重病にかかっていると聞かれ、そこに托鉢時に赴かれて、四不壊浄と共に説かれたもの。その時、これによって長寿童子は斯陀含果に至ったと仏陀によって記される。今まさに死に逝かんとする者(とするのは早計かもしれぬが、とにかく重病人)に対しての経説であるため、この説をそのままここでの経文に適用するのはためらわれる。パーリ経典には該当する一節は見いだせない。→本文に戻る

脚注:沙門覺應(慧照)
(Annotated by Bhikkhu Ñāṇajoti)

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