真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『雑阿含経』(安般念の修習)

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1.原文

『雑阿含経』 (No.810, No811-812)

宋天竺三藏 求那跋陀羅 譯

如是我聞。一時佛住金剛跋求摩河側薩羅梨林中。爾時尊者阿難獨一靜處。思惟禪思。作如是念。頗有一法。修習多修習。令四法滿足。四法滿足已。七法滿足。七法滿足已。二法滿足。時尊者阿難從禪覺已。往詣佛所。稽首禮足。退坐一面。白佛言。世尊。我獨一靜處。思惟禪思。作是念。頗有一法。多修習已。令四法滿足。乃至二法滿足。我今問世尊。寧有一法。多修習已。能令乃至二法滿足耶。佛告阿難。有一法。多修習已。乃至能令二法滿足。何等爲一法。謂安那般那念。多修習已。能令四念處滿足。四念處滿足已。七覺分滿足。七覺分滿足已。明解脱滿足。云何修安那般那念。四念處滿足。是比丘。依止聚落。乃至如滅出息念學。阿難。如是聖弟子。入息念時如入息念學。出息念時如出息念學。若長若短一切身行覺知。入息念時。如入息念學。出息念時如出息念學身行休息。入息念時如身行休息。入息念學。身行休息出息念時。如身行休息出息念學。聖弟子。爾時身身觀念住異於身者。彼亦如是。隨身比思惟。若有時聖弟子。喜覺知。樂覺知。心行覺知。心行息覺知。入息念時如心行息入息念學。心行息出息念時。如心行息出息念學。是聖弟子。爾時受受觀念住。若復異受者。彼亦受隨身比思惟。有時聖弟子。心覺知心悦心定心解脱覺知。入息念時。如入息念學。心解脱出息念時。如心解脱出息念學。是聖弟子。爾時心心觀念住。若有異心者。彼亦隨心比思惟。若聖弟子有時觀無常斷無欲滅。如無常斷無欲滅觀住學。是聖弟子。爾時法法觀念住。異於法者亦隨法比思惟。是名修安那般那念。滿足四念處。阿難白佛。如是修習安那般那念。令四念處滿足。云何修四念處。令七覺分滿足。佛告阿難。若比丘。身身觀念住念住已繋念住不忘。爾時方便。修念覺分。修念覺分已。念覺分滿足。念覺滿足已。於法選擇思量。爾時方便。修擇法覺分。修擇法覺分已。擇法覺分滿足。於法選擇分別思量已。得精勤方便。爾時方便。修習精進覺分。修精進覺分已。精進覺分滿足。方便精進已則心歡喜。爾時方便。修喜覺分。修喜覺分已。喜覺分滿足。歡喜已。身心猗息。爾時方便修猗覺分。修猗覺分已。猗覺分滿足。身心樂已。得三昧。爾時修定覺分。修定覺分已。定覺分滿足。定覺分滿足已。貪憂則滅。得平等捨。爾時方便。修捨覺分。修捨覺分已。捨覺分滿足。受心法法念處。亦如是説。是名修四念處。滿足七覺分。阿難白佛。是名修四念處。滿足七覺分。云何修七覺分。滿足明解脱。佛告阿難。若比丘。修念覺分。依遠離依無欲依滅向於捨。修念覺分已。滿足明解脱。乃至修捨覺分。依遠離依無欲依滅向於捨。如是修捨覺分已。明解脱滿足。阿難是名法法相類法法相潤。如是十三法。一法爲増上。一法爲門。次第増進。修習滿足。佛説此經已。尊者阿難。聞佛所説。歡喜奉行

(811-812)
如是異比丘所問。佛問諸比丘。亦如上説

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2.訓読文

『雑阿含経』 (No.810, No811-812)

宋天竺三蔵 求那跋陀羅 訳

是の如く我れ聞けり。一時、佛、金剛の跋求摩河の側なる、薩羅梨林中に住しき。爾の時、尊者阿難、獨一静処にて思惟禅思して、是の如き念を作さく。頗し一法有り、修習して多く修習せば四法をして満足せしむ。四法満足し已らば、七法満足す。七法満足し已らば、二法満足す、と。時に尊者阿難、禅より覚め已て、佛の処に往詣し、稽首礼足して退て一面に坐し、佛に白して言さく。世尊、我れ獨一静処にて思惟禅思して、是の如き念を作さく。頗し一法有り、修習して多く修習せば四法をして満足せしめ、乃至、二法満足す、と。我れ今、世尊に問ひたてまつる。寧ろ一法有て多く修習し已らば、能く乃至二法をして満足せしむるや、と。佛、阿難に告げたまはく。一法有り、多く修習已らば、乃至能く二法をして満足せしむ。何等をか一法と為す。謂る安那般那念なり。多く修習し已らば、能く四念処*1 をして満足せしむ。四念処を満足し已らば、七覚分*2 を満足す。七覚分を満足し已らば、*3 解脱*4 を満足す。云何が安那般那念を修せば四念処を満足するや。是の比丘、聚楽に依止し、乃至、滅にして出息する如くに念じて学す。阿難、是の如く聖弟子、入息するを念ずる時は入息する如くに念じて学し、、出息するを念ずる時は出息する如くに念じて学す。若しは長し、若しは短しと。一切身行を覚知し、入息するを念ずる時は入息する如くに念じて学し、出息するを念ずる時は出息する如くに念じて学す。身行休息にして入息するを念ずる時は、身行休息にして入息する如くに念じて学し、身行休息にして出息を念ずる時は、身行休息にして出息する如くに念じて学す。聖弟子は爾の時、身において身観念に住す。身に異あらば、彼亦た是の如く隨身に比して思惟す*5 。若し、時に聖弟子が喜を覚知し、楽を覚知し、心行を覚知し、心行息を覚知すること有らば、入息するを念ずる時は心行息にして入息する如くに念じて学し、心行息にして出息するを念ずる時は、心行息にして出息する如くに念じて学す。是の聖弟子は爾の時、受において受観念に住す。若し復た異受あらば、彼亦た受を隨身に比して思惟す。時に聖弟子の心を覚知し、心悦・心定・心解脱を覚知すること有らば、入息するを念ずる時は入息する如くに念じて学し、心解脱にして出息するを念ずる時は心解脱にして出息する如くに念じて学す。是の聖弟子は爾の時、心において心観念に住す。若し異心有らば、彼亦た隨心に比して思惟す。若し聖弟子が、時に無常・断・無欲・滅を観ずること有らば、無常・断・無欲・滅を観ずる如くに住して学す。是の聖弟子は爾の時、法において法観念に住す。法に異らば、亦た法に隨て比して思惟す。是れを名づけて安那般那念を修さば、四念処を満足すとなす。阿難、佛に白さく。是の如く安那般那念を修習せば四念処を満足して、云何が四念処を修せば七覚分を満足せしむるや、と。佛、阿難に告げたまはく。若し比丘、身において身観念に住し、念に住し已て、繫念して住し忘れずんば、爾の時、方便して*6 念覚分*7 を修すなり。念覚分を修し已て、念覚分を満足す。念覚を満足し已て、法を選択思量す。爾の時、方便して択法覚分*8 を修し、択法覚分を修し已て、択法覚分を満足す。法を選択し分別思量し已て、精勤方便を得。爾の時、方便して精進覚分*9 を修習す。精進覚分を修し已て、精進覚分を満足す。方便精進*10 し已て、則ち心歓喜す。爾の時、方便して喜覚分*11 を修す。喜覚分を修し已て、喜覚分を満足す。歓喜し已て、身心猗息す*12 。爾の時、方便して猗覚分*13 を修す。猗覚分を修し已て、猗覚分を満足す。身心楽となり已らば、三昧を得*14 。爾の時、定覚分*15 を修す。定覚分を修し已て、定覚分を満足す。定覚分を満足し已て、貪憂則ち滅し、平等捨を得。爾の時、方便して捨覚分*16 を修す。捨覚分を修し已て、捨覚分を満足す。受・心・法の法念処も亦た是の如く説く。是を名づけて四念処を修して七覚分を満足すとなす。阿難、佛に白さく。是を名づけて四念処を修して七覚分を満足すとなすも、云何が七覚分を修せば、明・解脱を満足するや、と。佛、阿難に告げたまはく。若し比丘、念覚分を、遠離に依り、無欲に依り、滅に依りて修さば、捨に向かふ*17 。念覚分を修し已て、明・解脱を満足す。乃至、捨覚分を、遠離に依り、無欲に依り、滅に依りて修さば、捨に向かふ。是の如く捨覚分を修し已て、明・解脱を満足す。阿難、是を名づけて法法相類し、法法相潤すとなす。是の如き十三法*18 を、一法の増上と為す。一法を門と為し、次第に増進して修習満足す。佛、此の経を説き已りたまひしに、尊者阿難、佛の所説を聞きて、歓喜奉行しき。

(811-812)
是の如く異比丘の問ふ所*19 佛の諸の比丘に問ひたまう*20 も亦た上に説くが如し。

訓読文:沙門覺應

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3.現代語訳

『雑阿含経』 (No.810, No811-812)

宋天竺三蔵 求那跋陀羅 訳

このように私は聞いた。ある時、仏陀は金剛聚楽の跋求摩河の辺りにある、薩羅梨林の中で留まっておられた。その時、尊者阿難は、ひっそりとした静かな場所にて思惟禅思して、このような考えをなした。「実に一法がある。修習して習熟すれば、四法を満足する。四法を満足したならば、七法を満足する。七豊を満足したならば、二法を満足する」と。そこで尊者阿難は、禅より覚めて仏陀のところに往詣し、稽首礼足してから少し退いて(仏陀の)一方に坐した。そして仏陀に申し上げた。「世尊よ、私はひっそりとした静かな場所にて思惟禅思して、このような考えをなしました。「実に一法がある。修習して習熟すれば、四法を満足する。四法を満足したならば、七法を満足する。七豊を満足したならば、二法を満足する」と。私は今、世尊にご質問いたします。むしろ一法あって習熟したならば、乃至、二法を満足するでしょうか」と。仏陀は阿難に語られた。「一法がある。習熟したならば、乃至、二法を満足するであろう。何を一法というであろうか。それは安那般那念である。習熟したならば、よく四念処を満足する。四念処を満足したならば、七覚分を満足する。七覚分を満足したならば、智慧と解脱とを満足する。どのようなことが、安那般那念を修習すれば四念処を満足するというであろうか。比丘が村落に住み、…(乃至)…滅にあって出息しているとそのありのままに念じて行じる。阿難よ、このように聖弟子が、入息を念じる時には入息しているそのありのままに念じて行じ、出息を念じる時には出息しているそのありのままに念じて行じる。――(その入息・出息は)あるいは長いままに、あるいは短いままに。身体全体を覚知しつつ入息しているのを念じる時には、そのように入息しているありのままに念じて行じ、出息しているのを念じる時には、そのように出息しているありのままに念じて行じる。身行が静まって入息しているのを念じる時には、そのように身行が静まっていつつ入息しているありのままに念じて行じ、身行が静まって出息しているのを念じる時には、そのように身行が静まっていつつ出息しているありのままに念じて行じる。その時、聖弟子は身体ついての身観念に住しているのである。もし身体について迷い煩いがあれば、彼はまた今述べたように身を制御して明らかに知る。もし、そこで聖弟子が喜を覚知し、楽を覚知し、心行を覚知し、心行が静まっているのを覚知したならば、入息しているのを念じる時には、心行が静まっていつつ入息しているありのままに念じて行じ、心行が静まって出息しているのを念じる時には、そのように心行が静まっていつつ出息しているありのままに念じて行じる。その時、聖弟子は感受についての受観念に住しているのである。もし身体(感受?)について迷い煩いがあれば、彼はまた今述べたように感受について随身に比して思惟する。そこで聖弟子が心を覚知し、心悦・心定・心解脱を覚知したならば、入息しているのを念じる時には、入息しているありのままに念じて行じ、心が解脱して出息しているのを念じる時には、そのように心が解脱していつつ出息しているありのままに念じて行じる。その聖弟子はその時、心についての心観念に住しているのである。もし心に迷い煩いがあれば、彼はまた随心に比して思惟する。もし聖弟子が、無常・断・無欲・滅を観じたならば、無常・断・無欲・滅を観じたそのままに住して行じる。この聖弟子はその時、法についての法観念に住しているのである。法について迷い煩いがあれば、また法随に比して思惟する。これを、安那般那念を修習すれば、四念処を満足することと云う」。阿難は仏陀に申し上げた。「そのように、安那般那念を修習すれば四念処を満足するものとして、ではどのように四念処を修習すれば七覚分を満足させるのでしょうか?」と。仏陀は阿難に告げられた。「もし比丘が、身体について身観念に住し、念に住しおわって、念を結んで住して忘れることがなければ、その時、(その比丘は)勤めて念覚分を修する。念覚分を修習して、念覚分を満足する。念覚分を満足したならば、法を選択思量する。その時、勤めて択法覚分を修し、択法覚分を修習して、択法覚分を満足する。法を選択し分別思量したらなば、精勤方便を得る。その時、勤めて精進覚分を修する。精進覚分を修習して、精進覚分を満足する。精励精進すると、すなわち心歓喜する。その時、勤めて喜覚分を修する。喜覚分を修習して、喜覚分を満足する。(心が)歓喜すると、身体と心とが静止する。その時、勤めて猗覚分[軽安覚分]を修する。猗覚分を修習して、猗覚分を満足する。身体と心とが安楽となったならば、三昧を得る。その時、定覚分を修する。定覚分を修習して、定覚分を満足する。定覚分を満足して、貪欲と憂いが滅し、平等捨を得る。その時、勤めて捨覚分を修する。捨覚分を修習して、捨覚分を満足する。受・心・法の念処についてもまた同様に説く。これを、四念処を修習して七覚分を満足することと云う」。阿難は仏陀に申し上げた。「それを四念処を修習して七覚分を満足するものとして、ではどのようにすれば七覚分を修習すれば、明・解脱を満足するのでしょうか?」と。仏陀は阿難に告げられた。「もし比丘が、念覚分を遠離により、無欲により、滅によって修するならば、捨[涅槃]に向かう。念覚分を修習して、明と解脱とを満足する。…(乃至)…捨覚念を遠離により、無欲により、滅によって修するならば、捨に向かう。このように捨覚分を修習して、明と解脱とを満足する。阿難よ、これを名づけて、法法相類し、法法相潤とする。これら十三法を、一法の増上とする。一法(安那般那念)を門として、次第に増進して修習し、満足するのである」。仏陀がこの経を説き終わられたとき、尊者阿難は、仏陀の所説を聞いて歓喜した。

(811-812)
是の如く異比丘の問ふ所、佛の諸の比丘に問ひたまうも亦た上に説くが如し。

現代語訳:沙門覺應

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4.語注

『雑阿含経』(No.810)SN. M/A,Paṭhamaānandasutta”と対応する。内容的にも全体としてよく一致している。
この経説に同するものに、MN, Uparipaṇṇāsa. “Ānāpānassatisutta”の‘Ānāpānassati, bhikkhave, bhāvitā bahulīkatā mahapphalā hoti mahānisaṃsā. Ānāpānassati, bhikkhave, bhāvitā bahulīkatā cattāro satipaṭṭhāne paripūreti. Cattāro satipaṭṭhānā bhāvitā bahulīkatā satta bojjhaṅge paripūrenti. Satta bojjhaṅgā bhāvitā bahulīkatā vijjāvimuttiṃ paripūrenti.’(「比丘たちよ、アーナーパーナサティを修習し習熟したならば、大いなる果報と大いなる利益がある。比丘たちよ、アーナーパーナサティを修習し習熟したならば、四念処を満足する。四念処を修習し習熟したならば、七覚支を満足する。七覚支を満足したならば、智慧と解脱とを満足する」)がある。

『雑阿含経』(No.811-812)…漢訳では「如是異比丘所問。佛問諸比丘亦如上說」省略されている。(No.811)に対応する異比丘が質問者であるという経はパーリ経典には無い。(No,812)に対応するであろうと見てよい経は“Paṭhamabhikkhusutta”。

  • 四念処[しねんじょ]…一般には、身(kāya)について不浄であることを念じる身念処・受(vedanā)について苦であることを念じる受念処・心(citta)について無常であることを念じる心念処・法(darma)について無我であることを念じる法念処のこと。しかし、ここでは四念処それそれが、いわゆる十六特勝の四つずつに配当され説かれており、そのような一般的な説かれ方はされていない。→本文に戻る
  • 七覚分[しちかくぶん]…菩提(悟り)の七つの要素。七覚支あるいは七菩提分ともいわれる。念覚分・択法覚分・精進覚分・喜覚分・軽安覚分・定覚分・捨覚分の七。サンスクリットsaptabodhyaṅgaの訳。パーリ語はsattabojjhaṅga→本文に戻る
  • 明[みょう]…萬物の真なるありかたについての知識、智慧。サンスクリットvidyāの訳。パーリ語はvijjā。ここでの明とは道(magga)を意味するものであると、分別説部では言う。→本文に戻る
  • 解脱[げだつ]…煩悩という軛・足かせから解放されること。二度と輪廻転生することがないこと。仏教の最終目標。サンスクリットvimuktiの訳。パーリ語はvimutti。解脱とはすなわち果(phala)であると分別説部では言う。→本文に戻る
  • 聖弟子は爾の時云々…この一節のうち、特に「異於身者。彼亦如是。隨身比思惟」はよく解しかねる。
    パーリ経典の対応する箇所では、‘kāye kāyānupassī, ānanda, bhikkhu tasmiṃ samaye viharati ātāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhādomanassaṃ. Taṃ kissa hetu? Kāyaññatarāhaṃ, ānanda, etaṃ vadāmi yadidaṃ – assāsapassāsaṃ.’(「その故にアーナンダよ、比丘はその時、身について身随観に住し、熱心に、明らかに知り、よく気をつけ、この世おける貪欲と憂いとを調伏する。どのような理由によってであろうか?アーナンダよ、私はこれを「ある種の身体」であると説く。それはすなわち入息と出息とである」)。今参照した‘Taṃ kissa hetu?’以下を除く一節とほとんど同一のものは、パーリ経典のあちこちに見られ四念処についてのいわば定型句となっている。今挙げたのは身体についてのものだけだが、受・心・法についても同様。本経でも以降、受・心・法について同様の一節を出す。
    本経のこの一節には、パーリ経典にある「この世における貪欲と憂い(loke abhijjhādomanassa)」という語、ならびに入出息をある種の身体(kāyaññatara)とするなどという説がなく、異なっている。
    「異」は、異比丘などのように、そのまま「おかしな」の意で用いられる語である。ここでの異は、あるいは‘abhijjhādomanassaṃ’に対応するものと解して可かもしれぬが、本経の後分にまさしく貪憂の語がある為に、現代語訳ではこれを仮に「迷い煩い」とした。しかしそれにしても、私の能力では、この一節の正確な意味が把握できない。→本文に戻る
  • 方便して…パーリ経典の対応する箇所では、‘satisambojjhaṅgo tasmiṃ samaye bhikkhuno āraddho hoti’(その時、念覚分の精励が比丘にある)とあり、方便はāraddha(精励・励み)に対応する。。→本文に戻る
  • 念覚分[ねんかくぶん]…サンスクリットsmṛtisaṃbodhyaṅga、パーリ語satisambojjhaṅga。念とはどのような意味であるかについての詳細は、“安般念―持息念・数息観・アーナーパーナサティ”の項を参照のこと。→本文に戻る
  • 択法覚分[ちゃくほうかくぶん]…サンスクリットdarmapravicayasaṃbodhyaṅga、パーリ語dhammavicayasambojjhaṅga→本文に戻る
  • 精進覚分[しょうじんかくぶん]…サンスクリットvīryasaṃbodhyaṅga、パーリ語vīriyasambojjhaṅga→本文に戻る
  • 方便精進[ほうべんしょうじん]…パーリ経典の対応箇所ではāraddhavīriya(勤精進)。→本文に戻る
  • 喜覚分[きかくぶん]…サンスクリットprītisaṃbodhyaṅga、パーリ語pītisambojjhaṅga→本文に戻る
  • 歓喜し已て、身心猗息す…ここでの歓喜とは、大喜びする、胸がドキドキして涙が出ちゃう…というような意味ではなく、むしろ心のそこから静かに湧き上がる嬉しさ、と表現したほうがよいもの。あるいは恍惚としても可。パーリ経典の対応箇所は‘bhikkhuno pītimanassa kāyopi passambhati, cittampi passambhati’(心に喜びある比丘には、身体が静まり、心もまた静まる)。→本文に戻る
  • 猗覚分[いかくぶん]…一般的な訳語は軽安覚分。サンスクリットpraśrabdhisaṃbodhyaṅga、パーリ語passaddhisambojjhaṅga→本文に戻る
  • 身心楽となり已らば、三昧を得…パーリ経典の対応箇所は‘bhikkhuno passaddhakāyassa sukhino cittaṃ samādhiyati’(身体が静まり安楽である比丘には、心が統一される)。→本文に戻る
  • 定覚分[じょうかくぶん]…サンスクリットsamādhisaṃbodhyaṅga、パーリ語samādhisambojjhaṅga→本文に戻る
  • 捨覚分[しゃかくぶん]…サンスクリットupekṣāsaṃbodhyaṅga、パーリ語upekkhāsambojjhaṅga→本文に戻る
  • 若し比丘、念覚分を云々…パーリ経典の対応箇所は‘bhikkhu satisambojjhaṅgaṃ bhāveti vivekanissitaṃ virāganissitaṃ nirodhanissitaṃ vossaggapariṇāmiṃ’(比丘は、念覚分を、遠離により、離欲により、滅により修習して、棄捨へと転化する)とあって、漢訳とよく一致している。これと同様の一節は、SN. Bojjhaṅgaasaṃyutta(相応部覚分相応)に頻出しており、また安般相応第二経“Bojjhaṅgasutta”に出ているもの。→本文に戻る
  • 十三法…四念処・七覚支・明・解脱とを合計した数。一法すなわち安那般那念によって、四念処そして七覚支を満足し、終に智慧と解脱を究竟することを言ったもの。→本文に戻る
  • 異比丘の問ふ所…『雑阿含経』(No.812)は質問者が異比丘である点を除き、他はすべて本経に同じであるために省略していることを示している。→本文に戻る
  • 佛の諸の比丘に問ひたまふ…『雑阿含経』(No.813)は仏陀が諸比丘に問いかけている点を除き、他はすべて同じであるために省略していることを示している。→本文に戻る

脚注:沙門覺應(慧照)
(Annotated by Bhikkhu Ñāṇajoti)

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