真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ Saṃyutta Nikāya, Ānāpānasaṃyutta

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1.パーリ語原文

Ekadhammasutta (1-1)

Sāvatthinidānaṃ. Tatra kho…pe… etadavoca – "ekadhammo, bhikkhave, bhāvito bahulīkato mahapphalo hoti mahānisaṃso. Katamo ekadhammo? Ānāpānassati. Kathaṃ bhāvitā ca, bhikkhave, ānāpānassati kathaṃ bahulīkatā mahapphalā hoti mahānisaṃsā? Idha, bhikkhave, bhikkhu araññagato vā rukkhamūlagato vā suññāgāragato vā nisīdati pallaṅkaṃ ābhujitvā ujuṃ kāyaṃ paṇidhāya parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā. So satova assasati, satova passasati. Dīghaṃ vā assasanto 'dīghaṃ assasāmī'ti pajānāti, dīghaṃ vā passasanto 'dīghaṃ passasāmī'ti pajānāti; rassaṃ vā assasanto 'rassaṃ assasāmī'ti pajānāti, rassaṃ vā passasanto 'rassaṃ passasāmī'ti pajānāti; 'sabbakāyappaṭisaṃvedī assasissāmī'ti sikkhati, 'sabbakāyappaṭisaṃvedī passasissāmī'ti sikkhati; 'passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmī'ti sikkhati, 'passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passasissāmī'ti sikkhati; 'pītippaṭisaṃvedī assasissāmī'ti sikkhati, 'pītippaṭisaṃvedī passasissāmī'ti sikkhati; 'sukhappaṭisaṃvedī assasissāmī'ti sikkhati, 'sukhappaṭisaṃvedī passasissāmī'ti sikkhati; 'cittasaṅkhārappaṭisaṃvedī assasissāmī'ti sikkhati, 'cittasaṅkhārappaṭisaṃvedī passasissāmī'ti sikkhati; 'passambhayaṃ cittasaṅkhāraṃ assasissāmī'ti sikkhati, 'passambhayaṃ cittasaṅkhāraṃ passasissāmī'ti sikkhati; 'cittappaṭisaṃvedī assasissāmī'ti sikkhati, 'cittappaṭisaṃvedī passasissāmī'ti sikkhati; 'abhippamodayaṃ cittaṃ assasissāmī'ti sikkhati, 'abhippamodayaṃ cittaṃ passasissāmī'ti sikkhati; 'samādahaṃ cittaṃ assasissāmī'ti sikkhati, 'samādahaṃ cittaṃ passasissāmī'ti sikkhati; 'vimocayaṃ cittaṃ assasissāmī'ti sikkhati, 'vimocayaṃ cittaṃ passasissāmī'ti sikkhati; 'aniccānupassī assasissāmī'ti sikkhati, 'aniccānupassī passasissāmī'ti sikkhati; 'virāgānupassī assasissāmī'ti sikkhati, 'virāgānupassī passasissāmī'ti sikkhati; 'nirodhānupassī assasissāmī'ti sikkhati, 'nirodhānupassī passasissāmī'ti sikkhati; 'paṭinissaggānupassī assasissāmī'ti sikkhati, 'paṭinissaggānupassī passasissāmī'ti sikkhati. Evaṃ bhāvitā kho, bhikkhave, ānāpānassati evaṃ bahulīkatā mahapphalā hoti mahānisaṃsā"ti. Paṭhamaṃ.

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2.日本語訳

一法経 (1-1)

サーヴァッティでのことである。世尊はこう告げられた。――「比丘たちよ、一法が修習され習熟されたときには、大きな果報と大きな利益がある。何が一法であろうか?アーナーパーナサティ*1 である。では比丘たちよ、アーナーパーナサティがどのように修習され*2 、どのように習熟され*3 たときには、大きな果報と大きな利益があるであろうか?比丘たちよ、ここにおいて比丘が*4 阿蘭若に行き*5 、あるいは樹下に行き、あるいは空屋に行って結跏趺坐し*6 身体を直くして*7 面前に念を備える*8 彼はただ念じて入息し、ただ念じて出息する*9 。①長く入息しては『私は長く入息している』と、彼は知る。長く出息しては『私は長く出息している』と、彼は知る*10 。②短く入息しては『私は短く入息している』と、彼は知る。短く出息しては『私は短く出息している』と、彼は知る。③『私は一切身*11 を覚知して、入息しよう*12 』と、彼は学ぶ*13 。『私は一切身を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。④『私は身行*14 を止息させて、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は身行を止息させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑤『私は*15 を覚知して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は喜を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑥『私は*16 を覚知して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は楽を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑦『私は心行*17 を覚知して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心行を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑧『私は心行を止息させて、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心行を止息させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑨『私は*18 を覚知して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑩『私は心を満足させて*19 、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心を満足させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑪『私は心を統一して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心を統一して、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑫『私は心を解脱させて、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心を解脱させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑬『私は無常を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は無常を随観して、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑭『私は離欲を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は離欲を随観して、出息する』と、彼は学ぶ。⑮『私は滅を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は滅を随観して、出息する』と、彼は学ぶ。⑯『私は捨離を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は捨離を随観して、出息しよう』と、彼は学ぶ。実に、比丘たちよ、アーナーパーナサティがこのように修習され、このように習熟されたならば、大きな果報と大きな利益がある。」 (安般相応 一法品第一)

日本語訳:沙門覺應 (慧照)
(Translated by Bhikkhu Ñāṇajoti)

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3.脚注

Ekadhammasutta(一法経)『雑阿含経』(No.803)に対応。
本経で説かれるのは、ānāpānasatiであってānāpānasatisamādhiでないことに留意。なお、Majjhima Nikāya, “ Ānāpānasatisutta”(中部『安那般那念経』)では、ānāpānasatiのみを言ってānāpānasatisamādhiを言わない。

  • アーナーパーナサティ…‘ānāpānassati’(安那般那念・安般念・安般守意・持息念)。底本ではānāpānassatiと綴られているが一般的にはānāpānasatisatiのの原義は「忘れないこと」で、念と訳され、また守意と意訳される。この語の仏教における定義を正確に、詳細に知ることは、アーナーパーナサティを知るだけではなく仏教の諸々の修道法を理解する上で非常に重要なことである。その意味・定義については別項“安般念(持息念・数息観・アーナーパーナサティ)”にて若干触れているため、これを参照のこと。
    分別説部独自の典籍で、舎利弗尊者によって諸経が注釈されたものと伝説され、その故に経蔵(小部)に収められる、多分に阿毘達磨的・注釈書的要素あるPaṭisanbhidāmagga(『無礙解道』)では、この語について‘Ānanti assāso, no passāso. Apānanti passāso, no assāso.’(ānāとはassāsa[入息]であって、passāsa[出息]ではない。āpānaとはpassāsa[出息]であって、assāsa[入息]ではない)とする。
    五世紀中頃に現れた分別説部大寺派の大注釈家Buddhaghosa[ブッダゴーサ]は、その処女作となる著Visuddhimagga(『清浄道論』)において、"Assāsoti bahi nikkhamanavāto. Passāsoti anto pavisanavātoti vinayaṭṭhakathāyaṃ vuttaṃ"assāsaとは外に出る息である。passāsaとは内に入る息である、と律の註釈書に説かれている)ことを挙げ、続けて経の注釈書には正反対の事が説かれていることも紹介。しかし、「すべての胎児が産まれ出たときにするのは出息」などと言って、律の注釈書の説を支持し、assasatiは出息であるしている。しかし、これについてのブッダゴーサの結論は僻事であろう。
    なお、『清浄道論』は、相応部安般相応におけるアーナーパーナサティについての経説に対し、頻繁に『無礙解道』の所説を引きつつ注釈を加えて、自身の解する修道法を説いている。ところで、ブッダゴーサが『清浄道論』において注釈しているのは、安般相応の中でも本経Ekadhammasuttaに対してではなく、その第九経にあたるVesalīsuttaである。故に、注釈元の語に単数か複数かの異なりなどが見られる。とは言え、本経もそれと多分に重複する点が あって、その注釈をここに適用するに何ら差し障りないものである。実際、ブッダゴーサによるとされる相応部の注釈書(Aṭṭhakathā)では、本経の注釈をすべて『清浄道論』に委ねるとして丸投げしている。
    また、本経が安般相応の第一経であって、まずここでその必要があることからも、以降『清浄道論』だけでなく、まず『無礙解道』さらにブッダゴーサが『清浄道論』を著す際に種本として蹈襲し、編集ならびに改変を行った『解脱道論』(漢訳)も適宜引用して、どのように解釈されているかを示していく。特に(身随観あるいは身念処に配当される)①から④が初学者には極めて重要であるため、これらに重点をより置いた。これによって、分別説部におけるアーナーパーナサティの修習法と解釈がいかなるものか、多少なりとも明瞭となるであろう。→本文に戻る
  • 修習[しゅじゅう]され…‘bhāvitā’(bhāvetiのPP.)。仏教における瞑想を意味する原語は、bhāvanāあるいはyogaであるが、bhāvanāはこのbhāvetiが名詞化した言葉。この語の原義を知ることは重要であると考えるが、それは別項“瞑想とはなにか”にて触れているので参照のこと。
    『清浄道論』;"bhāvitoti uppādito vaḍḍhito vā."bhāvito[修習され]とは、生起され、あるいは増大されることである。)(216.)→本文に戻る
  • 習熟され…‘bahulīkatā’(bahulīkarotiのPP.)。bahulīkatotiとは、直訳すれば「多く為す」「しばしば行う」であるが、ここでは敢えて意訳して習熟とした。異論はあるであろうが、以降もすべて同様。ただ「多く為す」だけでは、現実にはいかんともし難いためである。多く、そして長期間為してどうにもなっていない者が、それこそ五万と存在しているためである。このようなことから、ここに断りを入れた上で、習熟とした。もっとも、『雑阿含経』では「多修習」とそのまま訳されている。なお、日本の学者によって習熟の訳語があてられることがある語には、「行う」・「習行する」を意味するāsevatiがある。
    『清浄道論』;"Bahulīkatoti punappunaṃ kato."Bahulīkato[多く為され]とは、幾度となく行われることである。)(216.)→本文に戻る
  • 比丘たちよ、ここにおいて比丘が"Idha, bhikkhave, bhikkhu"。比丘とは仏教の正式な出家修行者。比丘とは何であるかの詳細は、別項“仏教徒とは何か”の“比丘”を参照のこと。
    『無礙解道』;"Idhāti imissā diṭṭhiyā, imissā khantiyā, imissā ruciyā, imasmiṃ ādāye, imasmiṃ dhamme, imasmiṃ vinaye, imasmiṃ dhammavinaye, imasmiṃ pāvacane, imasmiṃ brahmacariye, imasmiṃ satthusāsane. Tena vuccati – "idhā"ti."(ここにとは、この見解において、この忍耐[信仰]において、この選択[好み]において、この所取の説において、この法において、この律において、この法と律とにおいて、この[仏陀の]言葉において、この崇高なる行[梵行]において、この師の教えにおいて[との意味である]。この故に、――「ここに」と言われたのである。)(164)
    『清浄道論』;"idha bhikkhave bhikkhūti bhikkhave, imasmiṃ sāsane bhikkhu..."(比丘たちよ、ここにおいて比丘がとは、この教えにおいて比丘が[という意味で]ある云々)(217.)→本文に戻る
  • 阿蘭若[あらんにゃ]に行き"araññagato"。阿蘭若とはarañña(あるいはサンスクリット)の音写語で空閑処・空閑林などと漢訳される、要するに人畜が少なく閑静な場所。
    『無礙解道』;"Araññanti nikkhamitvā bahi indakhīlā sabbametaṃ araññaṃ."(阿蘭若とは、[市街・集落の境界を示す石の]門柱から外に出た[場所]、その全てが阿蘭若である。)(164.)。
    『清浄道論』;"araññagatoti "araññanti nikkhamitvā bahi indakhīlā sabbametaṃ arañña"nti ca, "āraññakaṃ nāma senāsanaṃ pañcadhanusatikaṃ pacchima"nti ca evaṃ vuttalakkhaṇesu araññesu yaṃkiñci pavivekasukhaṃ araññaṃ gato."(阿蘭若に行きとは、「阿蘭若とは、門柱から外に出た[場所]、その全てが阿蘭若である」あるいは「阿蘭若と言われる住処は、直近でも五百弓[離れた場所]である」と、このように特徴[相]を説かれる阿蘭若において、どこであれ独坐による安楽の(得られる)阿蘭若に行き[という意味である]。)(218.)
    この中、ブッダゴーサは、まず最初に挙げた『無礙解道』ならびにVibhanga. 529(『分別論』)の所説を引き、次にVinaya Pitaka, Pārājika. 654(律蔵「波羅夷」)の所説を引用して、その中でも独坐(遠離)によって安楽の得られる場所であると、さらに特定している。
    なお、ここで律蔵「波羅夷」で言われる五百弓(pañcadhanusatika)の弓(dhanu)とは、古代インドにおける尺。一弓とは四肘(hasta)で、一肘とは、腕を曲げたときの肘から指の先までのことで、これは約45cmとされるから、およそ180cm。故に五百弓とはおよそ900m。五百弓はまた一俱盧舍(krosa)とも言われる。
    阿蘭若[空閑処]と言っても、それは現代人が想像するであろうような人里遠く離れた・文明社会から隔絶された等といった場所ではなくてむしろ村落よりほど近い場所を、古代インドの人々は想定していた。実際、今でもインドやセイロンの「ど」田舎の村落などでは、集落から一キロも離れればひっそりとして静かなものである(もっとも、現代の中近東から南・東南アジアなどの人々はどこでも、事あるごとにラウドスピーカーでがなりたて、暴力的殺人的とも言えるすさまじい大音量であれこれするのを好む、文化的に過ぎた人々であるために、どこでも田舎=静かなどとは一概に言えない)。では、なぜそれほど離れた場所ではないのか?それは、集落から離れすぎると比丘が托鉢で食を得る ことと、信者が寺に食などを運ぶのが困難になる、という至って経済的理由からである。また当時、そのような村の境界を出た場所には賊が頻出していたことが諸仏典から知られるから、集落から離れれば離れるほど身の危険があった(これは古今東西を問わず、近世・近代までの都市や集落で見られたことでもあろう。現代でも国や地方によってはそのような場所が未だに存する)。ブッダゴーサなどは、『清浄道論』にて理想的な場所をあれこれ事細かく言い立てているが、その条項を観ることによって、当時のセイロンにおいても比丘にも色々あって、頭陀や瞑想に没頭する者など決して多く無かったことが知られる。およそ1500年の昔でも、出家者が瞑想するに最適な場所で瞑想するのが容易なことではなかったことが知られるのである。
    市井の徒にはしばしば、「修行する場所などどこでも同じである。此方で出来ぬことは彼方でも出来ぬこと。十方世界一切処はこれ修行の場」などといった言を放つものがある。それは、ある場合には適用できる言であるが常にでは決してない。多くの場合、環境というのは非常に重要なものであって、それは瑜伽の修習においても同様である。あえて非常に卑近な例えでこれを言うが、将来を嘱望する我が幼な子があったとして、「場所はどこでも同じである」などと、選択の幅があって他のいくつか優良校などに入学し得るにも関わらず、その子を地元であるからとの理由だけで低能・非行の悪評名だたる学校に入学させる者は普通ないであろう。我が愛する年頃の娘があったとして、「ここで自らを守れなければ他所でも守れない」などと、その娘をたとえば強姦魔の頻出するので有名な近隣を夜一人歩きさせたり、一人暮らしさせたりする者は普通ないであろう。その昔、「ウーマンリブ」などという(今でこそ)けったいな言葉が流行したおり、永平寺が「ミニスカートにての拝観禁止」としたのを、「女性差別だ」の「どのような環境であれそれを耐えるのが修行であろう」などとワイワイ騒いだ左巻きの低能集団があった。上の如き言は、まるでそれら輩のと同種の言である。
    また、これも一種の環境と言えるものだけれども、大工にとっての大工道具、料理人には包丁など、床屋にはハサミなど、その用をなす道具の質や手入れなど非常に重要であるように、またその仕事場が清潔で行き届いていることが必要であるように、瑜伽行者にはその環境が非常に重要なものとなる。「弘法筆を選ばず」などと巷間まことしやかに言われるが、実際は狸毛の筆だのなんだのと選びに選んでこだわり抜いていたのである。 弘法大師が天皇に高野の地を賜ることを願い出たのも、かの地が瑜伽を修習するための環境に適していたためであり、明恵上人があちこちと動きまわったのも、多くの場合、瑜伽を修習するための場所・適切な環境を探してのことであった。その専門とするものに対して、なんらかこだわりを持たない一流の人など私は知らない。
    とは言え、現実を乖離した書籍の上だけで、あれこれ少し舐めた程度に学んだようないわば耳年増の信者・妄想の人が、現実をわきまえず、また身の程を知らずに理想的な場所を探し求めてあちこち(悪い意味で)彷徨するようなのが実際にある。そのような者の場合は、上の如き言を正しいものとして受け入れねばならないであろう。また、よしんば理想的場所にて修行し得たとしても、閑静にして五欲を刺激することの少ない環境にあっって、ただその環境にほとんど全面的に依存しての一時的平安を得ているだけであるのに、これをなんらか悉地を得たものと勘違いしてしまう者がゴロゴロとある。このようなのが仏陀ご在世の昔からあったと経典は伝える。環境が変われば忽ち心が乱れて五蓋の奴婢となるのを、他者のせいである、俗世が悪いとして、自分がその環境に依存し執着していたに過ぎないことを認めようとしない者すらもある。(しかし、とは言え阿蘭若に身を置くのは楽しく、快いことであるけれども。)
    何事も、一事が万事とは行かない。このようなことに関して、明恵上人の優れた教誡が伝わっている。参照せよ。(“阿留辺畿夜宇和(9)”ならびに“明恵上人の言葉(2)”)→本文に戻る
  • 結跏趺坐[けっかふざ]し"nisīdati pallaṅkaṃ ābhujitvā".伝統的に結跏趺坐と訳され、広く一般にも通用する語となっているからそのままこの語を使用する。『雑阿含経』では「正坐」としている。当時も結跏趺坐は、文字通りの正しい坐法とされていたのであろう。
    『無礙解道』;"Nisīdati pallaṅkaṃ ābhujitvāti nisinno hoti pallaṅkaṃ ābhujitvā."(結跏趺坐しとは、脚を曲げ、組んで[跏趺して]坐すことである。)(164.)
    『清浄道論』;"pallaṅkanti samantato ūrubaddhāsanaṃ. Ābhujitvāti bandhitvā..."(跏趺とは、すべて遍く腿[もも]を組んで坐ることである。曲げてとは、結んで[ということ]である云々)(218.)→本文に戻る
  • 身体を直くして"ujuṃ kāyaṃ paṇidhāya". 直訳すると「正しく身体を定めて」。要するに、姿勢を正すこと。『雑阿含経』では「端身」。
    『無礙解道』;"Ujuṃ kāyaṃ paṇidhāyāti ujuko hoti kāyo ṭhito supaṇihito."(身体を直くしとは、身体が正しく[まっすぐ]、起こされ、よく定められていることである。)(164.)
    『清浄道論』;"Ujuṃ kāyaṃ paṇidhāyāti uparimasarīraṃ ujukaṃ ṭhapetvā. Aṭṭhārasapiṭṭhikaṇṭake koṭiyā koṭiṃ paṭipādetvā..."(身体を直くしとは、上体を正しく置いて、十八の背骨の端と端とを支えらせて[の意である]云々)(218.)→本文に戻る
  • 面前に念を備えて"parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā". parimukhapariは「遍く」・「完全に」を意味する接頭辞で、mukhaは「口」・「顔]・「入口」・「門」・「前」・「先」を意味する語。『雑阿含経』では「繋念面前」とあり、今は一応これに倣った。upaṭṭhapetvāは、upa(近くに)+√stha(立つ)からなるupaṭṭhahatiの使役動詞形(causative)である、upaṭṭhapetiの連続体(gerund)で、「付き従わせて」「仕えて」「供えて」の意。ここでは、これを「備えて」と意訳した。
    『無礙解道』;"Parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvāti. Parīti pariggahaṭṭho. Mukhanti niyyānaṭṭho. Satīti upaṭṭhānaṭṭho. Tena vuccati – "parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā"ti."(「面前に念を備えて」とは、pariとは把握の義、mukhaとは出口[出発]の義、satiとは随侍の義である。この故に(このように)言われる――「面前に念を備えて」と。)(164.)
    『解脱道論』;「於是現前令學安者。謂繫念住於鼻端。或於口脣。是出入息所緣處。彼坐禪人以安念此處。入息出息於鼻端口脣。以念觀觸。或現念令息入。現念令息出。現於息入時不作意。於出時亦不作意。是出入息所觸。鼻端口脣。以念觀知所觸。現念令入現念出息」(大正32, P430上段)
    『清浄道論』;"Parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvāti kammaṭṭhānābhimukhaṃ satiṃ ṭhapayitvā. Atha vā parīti pariggahaṭṭho. Mukhanti niyyānaṭṭho. Satīti upaṭṭhānaṭṭho. Tena vuccati "parimukhaṃ sati"nti evaṃ paṭisambhidāyaṃ vuttanayenapettha attho daṭṭhabbo. Tatrāyaṃ saṅkhepo, pariggahitaniyyānaṃ satiṃ katvāti."(「面前に念を備えて」とは、念を業処に向けて据え置いて[ということ]。あるいはまた、「pariとは把握の義。mukhaとは出口[出発]の義、satiとは随侍の義である。この故に(このように)言われる、『面前に念を備えて』と」と、このように『無礙解道』に説かれる方法によっても、この義は見られるべきである。そこでこの要略は「念に出口を把握させて」である。)(218.)
    ここにいわれるmukha(出口)とは、鼻頭もしくは上唇とされる。これは分別説部も説一切有部でも同様。なお、業処(kammaṭṭhāna)とは分別説部独自の術語で、瞑想を修習する際の意識の対象とするものを云う。 アーナーパーナサティにおける初めの業処は入出息。すなわち、真には風大(vāyo-dhātu)が業処であるけれども、あくまで息に限定されたものであるからアーナパーナサティと言われる。→本文に戻る
  • 彼はただ念じて入息し云々"So satova assasati, satova passasati."
    『無礙解道』;"Satova assasati, sato passasatīti bāttiṃsāya ākārehi sato kārī hoti. Dīghaṃ assāsavasena cittassa ekaggataṃ avikkhepaṃ pajānato sati upaṭṭhitā hoti. Tāya satiyā tena ñāṇena sato kārī hoti. Dīghaṃ passāsavasena cittassa ekaggataṃ avikkhepaṃ pajānato sati upaṭṭhitā hoti. Tāya satiyā tena ñāṇena sato kārī hoti. Rassaṃ assāsavasena cittassa ekaggataṃ avikkhepaṃ pajānato sati upaṭṭhitā hoti. Tāya satiyā tena ñāṇena sato kārī hoti. Rassaṃ passāsavasena cittassa ekaggataṃ avikkhepaṃ pajānato sati upaṭṭhitā hoti. Tāya satiyā tena ñāṇena sato kārī hoti…pe… paṭinissaggānupassī assāsavasena paṭinissaggānupassī passā savasena cittassa ekaggataṃ avikkhepaṃ pajānato sati upaṭṭhitā hoti. Tāya satiyā tena ñāṇena sato kārī hoti."(ただ念じて入息し、ただ念じて出息するとは、彼は三十二の行相によって念を具えた行者である。彼は長き入息によって心の一境性と止寂を知ると、念が(彼に)現起する。その念とその慧[知識]とによって、念を具えた行者である。彼は長き出息によって心の一境性と止寂を知ると、念が現起する。その念とその慧とによって、念を具えた行者である。彼は短い入息によって心の一境性と止寂を知ると、念が現起する。その念とその慧とによって、念を具えた行者である。彼は短い出息によって心の一境性と止寂を知ると、念が現起する。その念 とその慧とによって、念を具えた行者である。…乃至…捨離を随観しての入息と捨離を随観しての出息によって、心の一境性と止寂を知ると、念が現起する。その念とその慧とによって、念を具えた行者である。)(165.)
    『無礙解道』は、十六処あるいは十六事(十六特勝)などと言われる十六の対象をさらに入息と出息とにわけて三十二の行相として挙げ連ね、これらの把持によってアーナーパーナサティの行者が「念を具えた行者」(sato kārī)となることを言う。→本文に戻る
  • 長く入息しては『私は長く入息している』と云々"Dīghaṃ vā assasanto 'dīghaṃ assasāmī'ti pajānāti, dīghaṃ vā passasanto 'dīghaṃ passasāmī'ti pajānāti;"
    この①と続く②とにては、assasāmiassasati; pres. 1st. sg)と、現在形にて「入息する」(「入息している」)と説かれることに留意。また、pajānātipa+jānāti; pres. 3rd, sg.)は、強意の接頭辞が置かれているために単に「知る」のではなくて、「明らかに知る」「理解する」とするのが本来は良い。文末にpajānātiとするのは①と②のみで、③以降はすべてsikkhati(学ぶ)となる。しかし『雑阿含経』では、これら①から⑯までの、一般に十六特勝のすべてにおいて「善学」として異なっている。
    『無礙解道』;"Kathaṃ dīghaṃ assasanto "dīghaṃ assasāmī"ti pajānāti, dīghaṃ passasanto "dīghaṃ passasāmī"ti pajānāti? Dīghaṃ assāsaṃ addhānasaṅkhāte assasati, dīghaṃ passāsaṃ addhānasaṅkhāte passasati, dīghaṃ assāsapassāsaṃ addhānasaṅkhāte assasatipi passasatipi. Dīghaṃ assāsapassāsaṃ addhānasaṅkhāte assasatopi passasatopi chando uppajjati. Chandavasena tato sukhumataraṃ dīghaṃ assāsaṃ addhānasaṅkhāte assasati, chandavasena tato sukhumataraṃ dīghaṃ passāsaṃ addhānasaṅkhāte passasati, chandavasena tato sukhumataraṃ dīghaṃ assāsapassāsaṃ addhānasaṅkhāte assasatipi passasatipi. Chandavasena tato sukhumataraṃ dīghaṃ assāsapassāsaṃ addhānasaṅkhāte assasatopi passasatopi pāmojjaṃ uppajjati. Pāmojjavasena tato sukhumataraṃ dīghaṃ assāsaṃ addhānasaṅkhāte assasati, pāmojjavasena tato sukhumataraṃ dīghaṃ passāsaṃ addhānasaṅkhāte passasati, pāmojjavasena tato sukhumataraṃ dīghaṃ assāsapassāsaṃ addhānasaṅkhāte assasatipi passasatipi. Pāmojjavasena tato sukhumataraṃ dīghaṃ assāsapassāsaṃ addhā nasaṅkhāte assasatopi passasatopi dīghaṃ assāsapassāsāpi cittaṃ vivattati, upekkhā saṇṭhāti.
    Imehi navahākārehi dīghaṃ assāsapassāsā kāyo. Upaṭṭhānaṃ sati. Anupassanā ñāṇaṃ. Kāyo upaṭṭhānaṃ, no sati; sati upaṭṭhānañceva sati ca. Tāya satiyā tena ñāṇena taṃ kāyaṃ anupassati. Tena vuccati – "kāye kāyānupassanāsatipaṭṭhānabhāvanā"ti."
    (どのように長く入息しては「私は長く入息している」と彼は知るのであろうか?どのように長く出息しては「私は長く出息している」と彼は知るのであろうか? 〈Ⅰ〉彼は、その[長き]時間について考量された長き入息を、入息する。〈Ⅱ〉彼は、その時間について考量された長き出息を、出息する。〈Ⅲ〉彼は、その時間について考量された長い入出息を、入息し、また出息する。(彼が)その時間について考量された長い出入息を、入息し、また出息したならば、(彼に)意欲が生起する。〈Ⅳ〉彼は、意欲によって以前よりも微細なる、その時間について考量された長き入息を、入息する。〈Ⅴ〉彼は、意欲によって以前よりも微細なる、その時間について考量された長き出息を、出息する。〈Ⅵ〉彼は、意欲によって以前よりも微細なる、その時間について考量された長い入出息を、入息し、また出息する。彼が、意欲によって以前よりも微細なる、その時間について考量された長い入出息を、入息し、また出息したならば、(彼に)喜悦が生起する。〈Ⅶ〉彼は、喜悦によって以前よりも微細なる、その時間について考量された長き入息を、入息する。〈Ⅷ〉彼は、喜悦によって以前よりも微細なる、その時間について考量された長き出息を、出息する。〈Ⅸ〉彼は、喜悦によって以前よりも微細なる、その時間について考量された長い入出息を、入息し、また出息する。彼が、喜悦によって以前よりも微細なる、その時間について考量された長い入出息を、入息し、また出息したならば、(彼の)心は、長い入出息から転じ離れる。(そして彼に)平静[捨]が確立する。これら九種の行相による長き入出息が身体である。随侍[upaṭṭhāna/付き随うこと]が念[sati]である。随観[anupassanā]が智[ñāṇa]である。身体は随侍であるが、しかし念ではない。念は随侍であって、しかも念である。その念とその智(の義)によって、 彼は身体を随観する。この故に(このように)言われる――「身体において身体を随観する念処の修習」と。)(166.)
    この『無礙解道』の一節は、まるごと『清浄道論』に引用され、さらにブッダゴーサによって(少々蛇足的)解説が加えられている。よってここでは『清浄道論』の該当箇所を引かない。
    なお、この〈Ⅰ〉から〈Ⅸ〉までの九種の行相は、「長い」との語句を「短い」に入れ替え、そのまま②にも適用される。『無礙解道』(167)は、この一説に続いて如何に随観(aupassatī)するか、ならびに修習(bhāvanā)とはどのような修習であるかとの注釈を加える。以下、さらに冗長となるが、参考までに別々に引いておく。
    【随観】;"Anupassatīti kathaṃ taṃ kāyaṃ anupassati? Aniccato anupassati, no niccato. Dukkhato anupassati, no sukhato. Anattato anupassati, no attato. Nibbindati, no nandati. Virajjati, no rajjati. Nirodheti, no samudeti. Paṭinissajjati, no ādiyati. Aniccato anupassanto niccasaññaṃ pajahati. Dukkhato anupassanto sukhasaññaṃ pajahati. Anattato anupassanto attasaññaṃ pajahati. Nibbindanto nandiṃ pajahati. Virajjanto rāgaṃ pajahati. Nirodhento samudayaṃ pajahati. Paṭinissajjanto ādānaṃ pajahati. Evaṃ taṃ kāyaṃ anupassati."(「彼は随観する」とは、彼はどのようにその身体を随観するのであろうか?彼は(身体を)無常なるものとして随観する、常なるものとしてでなく。苦なるものとして随観する、楽なるものとしてでなく。非我なるものとして随観する、我なるものとしてでなく。彼は(身体に対して)厭離する、歓喜するのではなく。彼は(身体に対して)貪りより離れる、貪るのではなく。彼は滅ぼす、生じるのではなく。彼は捨離する、掴み取るのではなく。(身体について)無常なるものとして随観したならば、彼は常なるものとの想い[常想]を放棄する。苦なるものとして随観したならば、彼は楽なるものとの想い[楽想]を放棄する。非我なるものとして随観したならば、 彼は我なるものとの想い[我想]を放棄する。(身体について)厭離したならば、彼は歓喜を放棄する。貪りより離れたならば、彼は貪りを放棄する。滅ぼしたならば、彼は生じることを放棄する。捨離したならば、彼は掴み取ることを放棄する。このように、彼はその身体を随観する)。
    【修習】;"Bhāvanāti catasso bhāvanā – tattha jātānaṃ dhammānaṃ anativattanaṭṭhena bhāvanā, indriyānaṃ ekarasaṭṭhena bhāvanā, tadupagavīriyavāhanaṭṭhena bhāvanā, āsevanaṭṭhena bhāvanā."(「修習する」とは四つの修習がある。――そこに生じる法について超過することがないという義利によって修習である。諸々の根(能力)の一つの味(作用)という義利によって修習である。それに達する努力なる乗り物という義利によって修習である。繰り返すという義利によって修習である)。
    以降、この一説は十六事の一一について繰り返される。ここで説かれる修習の四つの内容は、三蔵内では『無礙解道』にのみ見られるものであるが、また『清浄道論』にはこれが若干異なる形で引かれている。→本文に戻る
  • 一切身"sabbakāya". 単純に訳したならば、これはsabba(すべての)+kāya(身体)で、「身体全体」となる。けれどもkāyaという語は、「集まり」・「多数」・「集積」が原意であって、そこから「身体」の意となったものである。分別説部では、ここでの一切身を、むしろその原意どおりの「集まり」・「集積」の意として捉えている。
    『無礙解道』;"Kathaṃ "sabbakāyapaṭisaṃvedī assasissāmī"ti sikkhati, "sabbakāyapaṭisaṃvedī passasissāmī"ti sikkhati? Kāyoti dve kāyā – nāmakāyo ca rūpakāyo ca. Katamo nāmakāyo? Vedanā, saññā, cetanā, phasso, manasikāro, nāmañca nāmakāyo ca, ye ca vuccanti cittasaṅkhārā – ayaṃ nāmakāyo. Katamo rūpakāyo? Cattāro ca mahābhūtā, catunnañca mahābhūtānaṃ upādāyarūpaṃ, assāso ca passāso ca, nimittañca upanibandhanā, ye ca vuccanti kāyasaṅkhārā – ayaṃ rūpakāyo."(どのように「私は一切身を覚知し、入息しよう」と彼は学び、どのように「私は一切身を覚知し、出息しよう」と彼は学ぶのであろうか?身体には二種の身体がある。――名身と色身とである。何が名身であろうか?受[感覚]・想[表象]・思[知覚]・触[刺激]・作意[注意]・名[単語・概念]・名身[文句・思想]、これらはまた心行とも呼ばれるが、これらが名身である。何が色身であろうか?四大と四大所造色、入息と出息、相[姿]と結束[部分の集合]、これらはまた身行とも呼ばれるが、――これらが色身である。)(170.)
    『解脱道論』;「知一切身我入息如是學者。以二種行知一切身。不愚癡故以事故。問曰。云何無愚癡知一切身。答曰。若坐禪人念安般定。身心喜樂觸成滿。由喜樂觸滿。一切身成不愚癡。問曰。云何以事知一切身。答曰。出入息者。所謂一處住色身。出入息事心心數法名身。此色身名身。此謂一切身。彼坐禪人。如是以見知一切身。雖有身無眾生無命」(大正32, P430下段)
    『清浄道論』;"Sabbakāyapaṭisaṃvedī assasissāmi…pe… passasissāmīti sikkhatīti sakalassa assāsakāyassa ādimajjhapariyosānaṃ viditaṃ karonto pākaṭaṃ karonto assasissāmīti sikkhati. Sakalassa passāsakāyassa ādimajjhapariyosānaṃ viditaṃ karonto pākaṭaṃ karonto passasissāmīti sikkhati..."(「私は一切身を覚知して出息しよう、…乃至…出息しよう」と彼は学ぶとは、「すべての出息身の初め・中頃・終わりを知り、理解することをなして、私は出息しよう」と、彼は学す。「すべての入息身の初め・中頃・終わりを知り、理解することをなして、私は入息しよう」と、彼は学すのである云々。)(220.)
    ここでの一切身(sabbakāya)とは何を意味する語であるかということについて、上にすでに挙げたように『無礙解道』は名身と色身であるとし、その内容を逐一挙げている。『解脱道論』はこれを忠実に受け、「此色身名身。此謂一切身」とする。しかし、『清浄道論』にてブッダゴーサは、一切身とは息の初中後すなわち息全体であると、これを極々限定してしまっている。要するに、これに関して、ブッダゴーサは『無碍解道』の説を採っていないのである。
    Sabbakāya(一切身)についての各書の解釋比較表
    - Paṭisanbhidāmagga
    (『無碍解道』)
    『解脱道論』 Visuddhimagga
    (『清浄道論』)
    sabba-
    kāya

    (一切身)
    nāmakāya / cittasaṅkhārā
    (名身 / 心行)
    vedanā
    (受)
    出入息事心
    心數法名身
    -
    saññā
    (想)
    cetanā
    (思)
    phassa
    (触)
    manasikāra
    (作意)
    nāma
    (名)
    nāmakāya
    (名身)
    rūpakāya / kāyasaṅkhārā
    (色身 / 身行)
    cattāro mahābhūta
    (四大)
    - -
    catunnañca mahābhūtānaṃ upādāyarūpa
    (四大所造色)
    - -
    assāsa
    (入息)
    一處住色身 sakalassa assāsakāyassa ādi-majjha-pariyosāna
    (すべての出息身の初め・中頃・終わり)
    passāsa
    (出息)
    sakalassa passāsakāyassa ādi-majjha-pariyosāna
    (すべての入息身の初め・中頃・終わり)
    nimitta
    (相)
    - -
    upanibandhana
    (結束)
    - -
    これは『無礙解道』を経説であると前提しての話であるが、此れに関してのブッダゴーサの説は経説(典拠)を離れ、若干曲解してしまっている感がある。→本文に戻る
  • 入息しよう"assasissāmi"assasati; fut, 1st. sg
    ③以下⑯まで、未来形にて「入息しよう」と説かれる。現在形でなく未来形で説かれていることをブッダゴーサは強調する。
    『清浄道論』;"Tattha yasmā purimanaye kevalaṃ assasitabbaṃ passasitabbameva, na ca aññaṃ kiñci kātabbaṃ. Ito paṭṭhāya pana ñāṇuppādanādīsu yogo karaṇīyo. Tasmā tattha assasāmīti pajānāti passasāmīti pajānāticceva vattamānakālavasena pāḷiṃ vatvā ito paṭṭhāya kattabbassa ñāṇuppādanādino ākārassa dassanatthaṃ sabbakāyapaṭisaṃvedī assasissāmītiādinā nayena anāgatavacanavasena pāḷi āropitāti veditabbā."(そこで、前の[①と②との]方法においては、ただ出息・入息だけ為すべきである。そして他の事を少しであっても為してはならない。かたや、ここから[③以降]は、智を生起させる等の瑜伽[ヨーガ]が為されるべきである。その故に、そこでは「『私は出息する』と彼は知る」・「『私は入息する』と彼は知る」と、現在時にて聖典を説かれ、[しかし]ここからは、[出息・入息の他に]為されるべき、智を生起させる等の行相を示すために、「一切身を覚知して、出息しよう」等の方法によって、未来語にて聖典が作られたのであると、知られるべきである。)(220.)
    ①と②においては、ただその(無意識に行われている)呼吸を念じるのみで余事を行わないけれども、③以降は、ただ息を念ずるだけではなくなるというのである。→本文に戻る
  • 彼は学ぶ"sikkhati". ここでの学ぶとは、いわゆる学習するというのではなくて、「行じる」・「練行する」の意。いや、そもそも漢字でも「学ぶ(學ぶ)」とは、現在一般に用いられるような単に「知識を得る」「勉強する」ということではなくて)、「向上する」の義であるから、その本来の意で理解するのが良い。サンスクリットやパーリ、そして漢字でも、「学ぶ」ことの意味は同じなのである。人は、向上するために何事か己にとって新しきを知る、新しきを知って己が向上する。学ぶとは、知ること自体を目的とするものではなく、己が向上することを目的とするものである。
    『解脱道論』;「如是學者。謂三學。一增上戒學。二增上心學。三增上慧學。如實戒此謂增上戒學。實定此謂增上心學。如實慧此謂增上慧學。彼坐禪人此三學。於彼事以念作意學之。修已多修。此謂學之令滅身行。我入息如是學」(大正32, P430下段)
    『清浄道論』;"Tattha sikkhatīti evaṃ ghaṭati vāyamati. Yo vā tathābhūtassa saṃvaro, ayamettha adhisīlasikkhā. Yo tathābhūtassa samādhi, ayaṃ adhicittasikkhā. Yā tathābhūtassa paññā, ayaṃ adhipaññāsikkhāti imā tisso sikkhāyo tasmiṃ ārammaṇe tāya satiyā tena manasikārena sikkhati āsevati bhāveti bahulīkarotīti evamettha attho daṭṭhabbo."(そこで彼は学ぶとは、このように彼は努力する、彼は励む[ことである]。あるいは、その如くここに[出入息の初中後を覚知する者]の律儀が、増上戒学である。その如くの三昧が、増上心学である。その如くの慧が、増上慧学である。これら三学を、その所縁において、その念において、その作為によって学し・習行し・修習し・習熟する。このように、この[彼は学ぶとの]意味が見られるべきである。)(220.)
    いま引いた『解脱道論』にて言われる「如是」ならびに『清浄道論』にて言われる。"evaṃ"(このように)とは、脚注10. にて挙げたそれぞれの一説を指す。ブッダゴーサは、『無礙解道』ならびに『解脱道論』に倣いつつ、しかしこれらを斟酌して解していることがわかる。→本文に戻る
  • 身行[しんぎょう]"kāyasaṅkhāra". これを、単に近年の学者が作った「(潜在的)形成作用」あるいは「(潜在的)形成力」などという語をsaṅkhāraの語にあて、「身体の形成作用」などとしてしまってはまるで意味がわからないであろう。また、語感としても異なものとなる。ゆえに、一般的な漢訳語の身行のまま変えないことが賢明であろうと思う。しかし、やはり往古も身行という語には注釈が必要であったもののようで、それが一体何を意味するかの解釈がなされている。以下まず身行が何かについての解釈部分を引き、つづいてその解釈に対する疑義と、その解答を述べる一説とを、判別しやすいよう別々に挙げる。
    『無礙解道』;"Katamo kāyasaṅkhāro? Dīghaṃ assāsā kāyikā. Ete dhammā kāyapaṭibaddhā kāyasaṅkhārā. Te kāyasaṅkhāre passambhento nirodhento vūpasamento sikkhati. Dīghaṃ passāsā kāyikā...... Rassaṃ assāsā rassaṃ passāsā. Sabbakāyapaṭisaṃvedī assāsā sabbakāyapaṭisaṃvedī passāsā kāyikā...... Yathārūpehi kāyasaṅkhārehi yā kāyassa ānamanā vinamanā sannamanā paṇamanā iñjanā phandanā calanā pakampanā – passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmīti sikkhati, passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passasissāmīti sikkhati. Yathārūpehi kāyasaṅkhārehi yā kāyassa na ānamanā na vinamanā na sannamanā na paṇamanā aniñjanā aphandanā acalanā akampanā santaṃ sukhumaṃ passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmīti sikkhati, passambhayaṃ kāyasaṅkhā raṃ passasissāmīti sikkhati." (身行とは何であろうか?長い入息は身体に属すもの[kāyika]である。これら身体に結びついた諸々の法が身行である。彼は諸々の身行を止息させつつ、停止しつつ、寂滅しつつ、学す。長い出息は身体に属すものである…[同上]…。短い入息、短い出息、一切身を覚知しての入息、一切身を覚知しての出息は身体に属すものである…[同上]…。そのような諸々の身行によって、身体に後ろに曲げること[伸びること?]、横に曲げること、折れ屈むこと、先に屈むこと、揺動、震え、揺すり、振動があれば、――「身行を止息させて入息しよう」と彼は学ぶ。「身行を止息させて出息しよう」と彼は学ぶ。そのような諸々の身行によって、身体に後ろに反ることが無く、横に曲げることが無く、折れ屈むことが無く、先に屈むことが無く、揺動無く、震え無く、揺すり無く、振動無ければ、「寂静で微細なる身行を止息させて入息しよう」と彼は学ぶ。「(寂静で微細なる)身行を止息させて出息しよう」と彼は学ぶ。)(171.)
    "Iti kira "passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmī"ti sikkhati, "passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passasissāmī"ti sikkhati. Evaṃ sante vātūpaladdhiyā ca pabhāvanā na hoti, assāsapassāsānañca pabhāvanā na hoti, ānāpānassatiyā ca pabhāvanā na hoti, ānāpānassatisamādhissa ca pabhāvanā na hoti; na ca naṃ taṃ samāpattiṃ paṇḍitā samāpajjantipi vuṭṭhahantipi."(「身行を止息させて、私は入息しよう」と彼は学ぶ。「新行を止息させて、私は出息しよう」と彼は学ぶ、と言われる。そのように、風(vāta)の[知覚の]獲得が起こることも増大することも無く、出息も入息もその増大することも無く、アーナーパーナサティもその増大することもなく、アーナーパーナサティ三昧もその増大することも無い。[その故に]諸々の賢者がその等至(samāpatti)に入定することも、出定することもない[であろう]。)(171.)
    "Iti kira "passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmī"ti sikkhati, "passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passasissāmī"ti sikkhati. Evaṃ sante vātūpaladdhiyā ca pabhāvanā hoti, assāsapassāsānañca pabhāvanā hoti, ānāpānassatiyā ca pabhāvanā hoti. Ānāpānassatisamādhissa ca pabhāvanā hoti; tañca naṃ samāpattiṃ paṇḍitā samāpajjantipi vuṭṭhahantipi. Yathā kathaṃ viya? Seyyathāpi kaṃse ākoṭite paṭhamaṃ oḷārikā saddā pavattanti. Oḷārikānaṃ saddānaṃ nimittaṃ suggahitattā sumanasikatattā sūpadhāritattā niruddhepi oḷārike sadde, atha pacchā sukhumakā saddā pavattanti. Sukhumakānaṃ saddānaṃ nimittaṃ suggahitattā sumanasikatattā sūpadhāritattā niruddhepi sukhumake sadde, atha pacchā sukhumasaddanimittārammaṇatāpi cittaṃ pavattati. Evamevaṃ paṭhamaṃ oḷārikā assāsapassāsā pavattanti; oḷārikānaṃ assāsapassāsānaṃ nimittaṃ suggahitattā sumanasikatattā sūpadhāritattā niruddhepi oḷārike assāsapassāse, atha pacchā sukhumakā assāsapassāsā pavattanti. Sukhumakānaṃ assāsapassāsānaṃ nimittaṃ suggahitattā sumanasikatattā sūpa dhāritattā niruddhepi sukhumake assāsapassāse, atha pacchā sukhumakaassāsapassāsānaṃ nimittārammaṇatāpi cittaṃ na vikkhepaṃ gacchati. Evaṃ sante vātūpaladdhiyā ca pabhāvanā hoti, assāsapassāsānañca pabhāvanā hoti, ānāpānassatiyā ca pabhāvanā hoti, ānāpānassatisamādhissa ca pabhāvanā hoti; tañca naṃ samāpattiṃ paṇḍitā samāpajjantipi vuṭṭhahantipi. Passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assāsapassāsā kāyo upaṭṭhānaṃ sati anupassanā ñāṇaṃ. Kāyo upaṭṭhānaṃ, no sati; sati upaṭṭhānañceva sati ca. Tāya satiyā tena ñāṇena taṃ kāyaṃ anupassati. Tena vuccati – "kāye kāyānupassanāsatipaṭṭhānabhāvanā"ti." (「身行を止息させて、私は入息しよう」と彼は学ぶ。「新行を止息させて、私は出息しよう」と彼は学ぶ、と言われる。そのように、風(vāta)の[知覚の]獲得が起こって増大し、入出息とその増大があり、アーナーパーナサティとその増大があり、アーナーパーナサティ三昧とその増大がある。[その故に]諸々の賢者はその等至(samāpatti)に入定し、出定する。譬えばどのようなことであろうか?それはあたかも、銅鑼が打たれたとき、はじめに諸々の麁なる[大きな]音が起こる。麁なる音が滅する際にも、麁なる音の相(nimitta)がよく把握され、よく注意され、よく理解される。そしてその後には、諸々の微細な音が起こる。微細な音が滅する際にも、微細な音の相がよく把握され、よく注意され、よく理解される。そしてその後には、微細な音の相を対象[境]とする心が起こる。まさしくこのように、はじめ諸々の麁なる入出息が起こる。麁なる入出息が滅する際にも 麁なる入出息の相がよく把握され、よく注意され、よく理解される。そしてその後には、諸々の微細な入出息が起こる。微細な入出息が滅する際にも、微細な入出息の相がよく把握され、よく注意され、よく理解される。そしてその後には、諸々の微細な入出息の相を対象とするために、心が錯乱に赴かない。そのように、風の[知覚の]獲得が起こって増大し、入出息とその増大があり、アーナーパーナサティとその増大があり、アーナーパーナサティ三昧とその増大がある。[その故に]諸々の賢者はその等至に入定し、出定する。身行を止息させての入出息とは身体(kāya)であり、随侍(upaṭṭhāna)が念(sati)であり、随観(anupassanā)が智(ñāṇa)である。身体とは随侍であるが、しかし念ではない。念は随侍であって、しかも念である。その念とその智によって、 彼は身体を随観する。この故に[このように]言われる――「身体において身体を随観する念処の修習」と。)(171.)
    『解脱道論』;「云何名身行者。此謂出入息。以如是身行。曲申形隨申動踊振搖。如是於身行現令寂滅。復次於麁身行現令寂滅。以細身行修行初禪。從彼以最細修第二禪。從彼最細修行學第三禪。令滅無餘修第四禪。問曰。若無餘滅出入息。云何修行念安般。答曰。善取初相故。以滅出入息。其相得起成修行相。何以故。諸禪相」(大正32, P430下段)
    身行が諸々の身体の動きならびに呼吸であるとし、人は第四禅に至ると呼吸がなくなるとする諸経典の説(いわば通仏教の常識的な見解)を顧慮したならば、この④「身行を止息させて入息しよう」の行相は第四禅を獲得することを全く前提としたものとなる。実際、その如くである。しかし、そうであるとすると、この④の達成によって呼吸が全く無くなっているのにも関わらず、行者は入出息を念じるという、非常に奇妙で不可解な状況が想定されてしまう。
    その故に、この不合理な解釈を解消するため、『無礙解道』では上に挙げたような問答を設定する。まず先に述べたような不審を立て、それに答えて入出息はなくなるけれども、それまで入出息を念じたことによって得られた相を把持する心を対象とするのであるとの解答を、銅鑼(kaṃsa)の響きの喩えを用いてひねり出している。しかし、この喩えは問に対するまともな応答になっておらず、「入息しよう」「出息しよう」という経文がまるで意味をなさないものとなることに変りない。
    とは言え、実際問題、いくら瑜伽行者が第四禅に達したとしても、呼吸が全く無くなるなどということは無いため、(至極当たり前の話であるがそれでは死んでしまうのである、)呼吸が細く非常に微細で覚知しがたいほどのものとなることを言っている。
    この『無礙解道』の一説は、『解脱道論』そして『清浄道論』共に引用されている。この解釈文については、他から容易に疑問が持たれるものであることが意識されていたのであろう。この解釈に従えば、⑤以降、安般念を修習する瑜伽行者は初禅から第四禅の間を行ったり来たりすることとなる。
    なおこれは余談となるが、銅鑼と言っても、当時は支那や日本にあるような銅鑼も鐘などもなく、銅の板状の物いわゆる磬[けい]であったろう。さらに余計なことを言うけれども、「祇園精舎の鐘の声」などと言われるが、当時は「ゴーン」と重々しく鳴り響きわたる鐘などやはり無い。故に、正確には「コーン」とか「キン」、「カン」などと軽く、そして甲高く鳴ってそれほど響きはしない、石製や銅製の磬の音を想起しなければならない。→本文に戻る
  • 喜[き]"pīti". 『無礙解道』はpītiの同義語・類義語を挙げ連ねる。要するに「喜び」。
    『無礙解道』;"Yā pīti pāmojjaṃ āmodanā pamodanā hāso pahāso vitti odagyaṃ attamanatā cittassa – ayaṃ pīti."(あらゆる喜び、悦び(pāmojja)・喜悦(pamodana)・愉悦(hāsa)・愉快(pahāsa)・幸福(vitti)・歓喜(odagya)・心の満悦(attamanatā)、――これが喜である。)(172.)
    『解脱道論』;「知喜為事知我入息。如是學者。彼念現入息念現出息。於二禪處起喜。彼喜以二行成知。以不愚癡故。以事故。於是坐禪人入定成知喜。不以愚癡以觀故。以對治故。以事故成」(大正32, P431上段)→本文に戻る
  • 楽[らく]"sukha".
    『無礙解道』;"Sukhanti dve sukhāni – kāyikañca sukhaṃ, cetasikañca sukhaṃ. Katamaṃ kāyikaṃ sukhaṃ? Yaṃ kāyikaṃ sātaṃ kāyikaṃ sukhaṃ, kāyasamphassajaṃ sātaṃ sukhaṃ vedayitaṃ, kāyasamphassajā sātā sukhā vedanā – idaṃ kāyikaṃ sukhaṃ. Katamaṃ cetasikaṃ sukhaṃ? Yaṃ cetasikaṃ sātaṃ cetasikaṃ sukhaṃ, cetosamphassajaṃ sātaṃ sukhaṃ vedayitaṃ, cetosamphassajā sātā sukhā vedanā – idaṃ cetasikaṃ sukhaṃ."(楽とは、二種の楽である。――身体的楽[身楽]と精神的楽[心所の楽]である。身体的楽とは何であろうか?あらゆる身体的喜び(sāta)と身体的安楽(sukha)、身体の接触より生じた喜びと安楽として感受したもの、身体の接触より生じる喜びと安楽の感受、――これが身体的楽である。精神的楽とは何であろうか?あらゆる精神的喜びと精神的安楽、心より生じた喜びと安楽として感受したもの、心より生じた喜びと安楽の感受、――これが精神的楽である。)(173.)
    『解脱道論』;「知樂我入息。如是學者。彼現念入息現念出息。於三禪處起樂。彼樂以二行成知。以不愚癡故。以事故。如初所說」(大正32, P431上段)→本文に戻る
  • 心行[しんぎょう]"cittasaṅkhāra".
    『無礙解道』;"Katamo cittasaṅkhāro? Dīghaṃ assāsavasena saññā ca vedanā ca cetasikā – ete dhammā cittapaṭibaddhā cittasaṅkhārā."(心行とは何であろうか?長い入息による表象[想;saññā]と感受[受;vedanā]とは心所である。――それら心に結ばれた法が、心行である。)(174.)
    『解脱道論』;「知心行我息入。如是學者說心行。是謂想受。於四禪處起彼彼心行。以二行成知。以不愚癡故。以事故。以如初說。令寂滅心行我息入。如是學者說心行。是謂想受。於麁心行令寂滅。學之如初所說」(大正32, P431上段)→本文に戻る
  • 心[しん]"citta".
    『無礙解道』;"Yaṃ cittaṃ mano mānasaṃ hadayaṃ paṇḍaraṃ mano mānayatanaṃ manindriyaṃ viññāṇaṃ viññāṇakkhandho tajjā manoviññāṇadhātu – idaṃ cittaṃ."(あらゆる心[citta]・意[mana]・心意[mānasa]・心臓[hadaya]・明晰なる意[paṇḍara mana]・意処[mānayatana]・意根[manindriya]・識[viññāṇa]・識蘊[viññāṇakkhandha]・意識界より生起したもの[tajjā manoviññāṇadhātu]、――これが心である。)(176.)
    『解脱道論』;「知心我入息。如是學者。彼現念入息現念出息。其心入出事以二行成所知。以不愚癡以事故。如初所說」(大正32, P431上段)→本文に戻る
  • 心を満足させて"abhippamodayaṃ cittaṃ".
    『無礙解道』;"Yā cittassa āmodanā pamodanā hāso pahāso vitti odagyaṃ attamanatā cittassa – ayaṃ cittassa abhippamodo."(177.)。
    『解脱道論』;「令歡喜心我入息。如是學者說令歡喜說喜。於二禪處。以喜令心踊躍。學之如初所說。」(大正32, P431上段) →本文に戻る

脚注:沙門覺應(慧照)
(Annotated by Bhikkhu Ñāṇajoti)

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