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‡ 元照『仏制比丘六物図』

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1.原文

寄此略辨祇支覆肩二衣 初制意者。尼女報弱。故制祇支。披於左肩。以襯袈裟。又制覆肩。掩於右膊。用遮形醜。是故尼衆必持五衣。大僧亦有畜用。但是聽衣耳。二釋名者。梵語僧祇支。此云上狹下廣衣此據律文。以翻全乖衣相。若準應法師音義。翻云掩腋衣。頗得其實 覆肩華語。未詳梵言。三明衣相。僧祇二衣竝長四肘廣二肘。故知亦同袈裟畟方。但無條葉耳。四明著用世多紛諍。今爲明之。此方往古。並服祇支。至後魏時。始加右袖。兩邊縫合。謂之偏衫。截領開裾。猶存本相。故知偏衫左肩。即本祇支。右邊即覆肩也。今人迷此。又於偏衫之上。復加覆肩。謂學律者。必須服著。但西土人多袒膊。恐生譏過。故須掩之。此方襖褶重重。仍加偏袖。又覆何爲。縱説多途終成無據若云生善者。是僧應著。何獨律宗餘宗不著。豈不生善。況輕紗紫染體色倶非。佛判俗服。全乖道相何善之有。或云。分宗途者。佛教但以三學分宗。而謂形服異者。未之聞矣 且三衣大聖嚴制。曾未霑身。覆肩祖師累斥。堅持不捨。良以弊風一扇。歴代共迷。復由於教無知。遂使聞義不徙。更引明證。請試詳之。章服儀云。元制所興。本唯尼衆。今僧服者。僣通下位。又住法圖賛云。阿難報力休壯。圓備具足。士女咸興愛著。乃至目悦淨色。心醉神昏。繋子頸而沈殺者。由此曲制。令著覆肩之衣。今則僥倖。而妄服者濫矣據此乃斥内無偏衫。單覆者耳。若今重覆。彼時既無。不渉言限。且單覆猶爲僥倖況今重覆非法何疑。廣如別辨

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2.訓読文

此に寄せて略して祇支1覆肩2の二衣を辨ず。 初めに制意とは、尼女は報弱し3。故に祇支を制して、左肩に披て、以て袈裟に襯しむ。又覆肩を制して、右膊に掩て、用て形醜を遮らしむ。是の故に尼衆は必ず五衣4を持す。大僧も亦た畜用すること有り。但だ是れ聽衣のみ。

二に釋名とは、梵語には僧祇支、此には上狹下廣衣と云ふ此は律文に據て、以て翻ず。全く衣相に乖けり5。若し應法師の音義6に準ぜば、翻じて掩腋衣と云ふ。頗る其の實を得たり覆肩は華語なり。未だ梵言を詳らかにせず7

三に衣相を明す。僧祇8に二衣竝びに長四肘廣二肘なりと。

故に知ぬ、亦袈裟の畟方に同じと云ふことを。但だ條葉無きのみ。

四に著用を明す。世に紛諍多し。今爲に之を明さん。此の方往古には、並びに祇支を服す。後魏の時9に至て始めて右の袖を加へ、兩邊縫合せて、之を偏衫10と謂ふ。領を截ち裾を開て、猶ほ本相を存せり。故に知ぬ、偏衫の左肩は即ち本の祇支、右の邊は即ち覆肩なることを。

今の人、此に迷ふて、又偏衫の上に復た覆肩を加ふ。學律の者は必ず須く服著すべしと謂ふ。但し西土の人は多く膊を袒ぐ。譏過を生ぜんことを恐るるが故に須らく之を掩ふべし。此の方は襖褶重重にして、仍て偏袖を加ふ。又覆て何かせん。縱ひ説くこと多途なりとも終に據無きことを成す若し生善と云はば、是の僧應に著すべし。何ぞ獨り律宗のみにして餘宗は著せざるや。豈に生善にあらんや。況や輕紗・紫染、體色倶に非なり。佛は俗服と判じたまへり。全く道相に乖く。何の善か之れ有らん。或は宗途の分と云ふは、佛教には但だ三學を以て宗を分つ。而も形服の異を謂ふことは、未だ之を聞かず

且らく三衣は大聖の嚴制なる。曾て未だ身を霑さず。覆肩は祖師の累りに斥けたれども、堅く持して捨てず。良に以みれば弊風一たび扇で、歴代共に迷ふ。復た教に於て知ること無きに由て、遂に義を聞て徙らざらしむ。更に明證を引かん。請ふ試みに之を詳らかにせよ。

章服儀11に云く、元制の興る所、本と唯だ尼衆なり。今、僧服するは、僣じて下位に通ずと。

住法圖賛12に云く、阿難の報力、休壯にして圓備具足せり。士女咸く愛著を興し、乃至目に淨色を悦んで、心醉ひ神昏くして、子の頸に繋けて沈め殺す者あり。此に由て曲げて制して、覆肩の衣を著せしむ。今は則ち僥倖にして妄りに服せるは濫せるなり此に據るに、乃ち内に偏衫無くして單に覆せる者を斥くのみ耳。今の重ね覆ふが若きは、彼の時既に無し。言の限りに渉らず。且らく單に覆ふ、猶ほ僥倖と爲す。況や今重覆するは非法なること何の疑かあらん。廣くは別辨するが如し

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3.現代語訳

このついでに概して僧祇支・覆肩の二衣について述べる。

《第一 制意》

尼僧は(女として生まれてしまった)果報弱きものである。その故に僧祇支を制定して左肩に被着させ、袈裟の下着とした。また覆肩を定めて右腕を覆わせ、外形が(乳房が露わとなって)醜くなるのを防がせたのである。この故に尼衆は必ず五衣を受持するのである。比丘もまた畜用することがある。ただし、それは単に聴衣〈義務としてでなく例外的に着用が許された下着〉としてである。

《第二 釈名》

梵語では僧祇支saṃkakṣikā、支那では上狹下広衣というこれは律文に拠って翻訳した語であるが、全くその形状に当てはまらないものである。もし応法師の『一切経音義』に準じたならば、掩腋衣と翻訳されている。これこそ真にその実を得たものであろう。覆肩は華語であって、いまだ(その原語である)梵言で何というか明らかでない。

《第三 衣相》

『摩訶僧祇律』には、「(僧祇支・覆肩の)二衣ともに長四肘広二肘」とある。

このことから知られるであろう、また(僧祇支・覆肩の形状は)袈裟の畟方〈四面が整った形。長方形〉と同じであることが。(袈裟と異なる点は)ただ条葉が無いことのみである。

《第四 著用》

世に多く議論されている点であり、今こそ為にその着用法を明らかにする。この支那の地では、往古には通じて僧祇支を着用していた。後魏の時代より始めて、右の袖を加えて両辺を縫い合せ、これを偏衫〈褊衫とも書く〉と呼ぶようになった。(その形態は)領〈襟首〉から截ち別れて裾が開かれ、なお本相〈原型〉を留めたものである。このことから知られるであろう、偏衫の左肩はすなわち本の僧祇支、右の辺はすなわち覆肩であることが。現代の人はこのことを知らないために、偏衫の上に更に覆肩を加えて着用し、「学律の者は必ず須く服著すべし」などと言っている。

ただし、西土〈印度〉の僧らは多くの場合、(右)肩を顕わにするものである。(支那の地では肌を顕わにすることが)譏過〈俗人からの中傷・批判〉を招く恐れのあることから、須らく右肩を覆わなければならない。この支那では襖〈大袖衣〉と褶〈袷衣〉となどを重ね着る習俗があり、そのために偏袖もが(偏衫に)加えられたのである。(そのような経緯で成立した偏衫に)更にまた(覆肩を着て右肩を)覆ってどうしようというのか。たとい(偏衫の上に覆肩を着用することの正当性を)多様に主張したとしても、ついに根拠など無いことが判明するであろうもし(覆肩を偏衫の上に更に着用することが)生善のためなどと主張するのであれば、この支那の国の僧ら皆が著るべきものであろう。一体何故ただ独り律宗のみで他宗は著ないのであろうか。どうして(他宗では)生善とならないのか。ましてや軽紗・紫染などは体も色も共に非法であって、仏陀は俗服であると判じられたものである。完全に道相に違背したものである。どのような善がそのようなものにあるというのか。あるいは「宗による(衣帯・装束の)違いに過ぎない」などと言うのであれば、仏教はただ三学をもって宗を分かつことはあるが、その上さらに姿形・衣の異なりまで主張するなど、前代未聞のことである

一方、三衣は大聖〈釈迦牟尼〉の厳制であって、決して裸身を露わとしなかったものである。覆肩は祖師がたびたび排斥されたものであったけれども、しかし堅く持して捨てはしなかった。まことに惟んみれば、弊風〈誤った風習〉とは一度生じ定着してしまうと、歴代それぞれ誤り続けてしまうものである。また、教〈経律論〉について無知であることによって、ついに義〈本来のありかた・意味〉を聞いたとしても改めぬようになってしまう。

さらに明らかな典拠を示すけれども、どうか試しに(自らも)これについて詳らかにしてもらいたいものである。

『章服儀』には、「(覆肩が)元々定められるようになったのは、そもそもただ尼衆に対してのみのことであった。今時、僧であっても着用するようになったのは不相応なことであって下位に通ずるものである」とある。

また『住法図賛』〈道宣撰。ここに引かれる話は『大智度論』に出。散逸〉には、「阿難は過去世の果報の力によって、休壮〈「休」は喜ばしい、「壮」は強い〉にして円備具足〈容貌が非常に整っていること〉であった。男も女も皆が(彼に)愛著を起こし、あるいはその見目麗しいことに悦んで心醉い精神はくらまされ、(自らが子持ちの女であることを隠して阿難の気を引こうとして)我が子の首に縄を結わえて沈め殺す者さえあったのである。このような事態があったことによって、(本来は尼僧のみであったものを)曲げて制定し、(阿難をはじめ僧でも)覆肩の衣を着用することが可能となったのである。(そのような経緯のものであるから、)今時は、それは僥倖〈偶然に得る恵み。ここでは分に過ぎたもの、奢侈の意〉であって、妄りに(覆肩を)着ることは濫用というものである」とあるこの記述については、下に偏衫を着ること無くただ覆肩をのみ着る者を斥けたものである。現今の(偏衫の上にさらに覆肩を)重ね着るような者など、祖師の当時には無かったのである。これは言葉を尽くして説明するまでも無いことであろう。且らく単に覆肩をのみ着用することすら僥倖で(避けるべきことで)あるとされるのだ。ましてや今、(偏衫の上にさらに覆肩を)重覆することが非法であることに、何の疑いがあろうか。詳しくは別途弁ずる通りである

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4.脚註

  • 祇支[ぎし]…サンスクリットsaṃkakṣikā、あるいはパーリ語saṅkacchikaの音写、僧祇支の略。仏陀がその教団を形成していく当初、比丘には原則として三衣のみがその装束として許されていた。けれども、諸事情によっていわば下着の如きものとして更に二衣を必須のものとして制定されることとなった。その二衣のうち上に着るものが僧祇支である。基本的にその形状は長方形で左肩に掛け、そのまま右脇に回しこんでまた左肩上に安じる。あるいは右腋にて紐などで留めて着ける。すなわち、いずれにせよ偏袒右肩で着けるものとされるが、実は着け方に厳密な規定は無い。よって都合次第で通肩にても着る。そのような僧祇支の着法はいまだ南方の東南アジアにおいて息づいており、特にビルマに於いてよく保存されている。→本文に戻る
  • 覆肩[ふけん]…右肩を覆うための長方形の布。ここで元照は、僧祇支と覆肩とを別物と考えているけれども、実は物としては僧祇支とまったく同じであって別物ではない。
     道宣および元照がこれらを別物として理解したのは、『四分律』などにそのように記されているためである。いや、「訳されている」と言ったほうが正確であろうか。
     『四分律』の訳者仏陀耶舎が、僧祇支は比丘のいわば下着として左肩を覆うものとして許された布であって、(特に比丘尼の胸の露出を防ぐための)右肩を覆うための布は僧祇支と同じであるけれども、区別するためにあえて別の語に訳し分けたのかもしれない。→本文に戻る
  • 尼女は報弱し…女性は男性に比して身体的にも制約が多く、それは当然その外装にも反映されるため、「報弱し」と言ったのであろう。そもそも仏陀は尼僧の出家を許可することを躊躇されたことがあったように、仏教では女性も男性も同じく悟りに達しうることはできるが、しかし男性に比すれば女性は多くの困難・障礙があるとする認識があり、それはそのまま引き継がれてきた。大乗においてそれはさらに顕著となり、変成男子なる思想すら生まれるほどとなった。『法華経』の説く龍女成仏はその裏返しである。→本文に戻る
  • 五衣[ごえ]…比丘尼は女性であるということで、乳房を三衣のみで覆うことは難しい場合があった。実際、豊かな乳房をもつ比丘尼がその乳房や性器を意図せず露わとしてしまうことがあったため、あるいはその豊満な乳房を俗の男衆に揶揄されることがあっため、その再発を防止するために三衣の他に僧祇支と覆肩衣の二衣が必須のものとして制定された。
     ただし、五衣が何かについては律蔵によって若干の異なりが有り、僧祇支の他に筒状の裙すなわち厥修羅(圌衣)をもって二衣とするものや覆肩と雨浴衣とを二衣とするものもある。→本文に戻る
  • 全く衣相に乖けり…元照が理解する、あるいは彼が知りえた僧祇支の形状は、ただ長方形の布にすぎないものであった。しかし、上述のように僧祇支は一応必須の内衣とされたものではあるけれども、律蔵において三衣のように厳密な規定がされたものではない。ただ大きさの上限が定められたものであって、その形状には単純な長方形のものもあれば、長方形を縦に折りたたんで上部の角を縫い付けたものや、右肩部がない貫頭衣いわば現代のタンクトップの右肩無しの如き形態の物もあった。この事実は印度や支那の古い仏像などにおいて確認することができる。また現代の東南アジアにおける比丘らには、まさしくそのような形態の僧祇支を着用するものがタイやスリランカにいまだある(何故かビルマでその形状の僧祇支はほとんどまったく用いられていない)。ここで「此には上狹下廣衣と云ふ」とあるが、それはそのような形態の僧祇支をこそ意図して訳した語であったろう。それは妙訳というよりも、ただその見たままを語としたものであった。しかしながら、元照はそのような形状の僧祇支の存在を知らなかったため、ここで「全く衣相に乖けり」と批判しているのである。
     なお、角を縫い付けた形状の僧祇支はビルマの尼僧が用いており、それはまさに『内法伝』にて義浄が報告している南海の尼僧が用いていたという僧祇支の形態そのままである。→本文に戻る
  • 應法師の音義…玄応『一切経音義』二十五巻。玄応は玄奘の訳経事業に参加した人で、梵語に通じていたといわれる。もとは『大唐衆経音義』と題したが後に『一切経音義』と改題された。後代、慧琳もまた『一切経音義』を著しているが、その下敷きともなった書。→本文に戻る
  • 覆肩は華語なり。未だ梵言を詳らかにせず…あくまで元照は僧祇支と覆肩とを別物として理解しているが、それは『四分律』においてそう記されているから仕方のないことではあるけれども、実は覆肩衣は僧祇支の訳語の一つであった。
     義浄の『南海寄帰内法伝』では様々に道宣の律に対する理解、三衣の理解について批判を加えており、多くの非常に有益で貴重な情報を現代の我々にも残されているけれども、僧祇支と覆肩衣の違いについては決定的といえるほどのものは提示しきれていない。
     そこでこれは日本の江戸末期にいたるまで種々に論じられることとなる。結局、日本の江戸期の律僧・禅僧らからはおおよそ、「覆肩とは僧祇支の訳語であって、特に襞畳の僧祇支のことである」と断じられている。→本文に戻る
  • 僧祇[そうぎ]…『摩訶僧祇律』巻三十八「佛言。從今日後。應作浴衣。乃至已聞者當重聞。若比丘尼作雨浴衣。應量作。長四修伽陀搩手。廣二搩手。若過作截已波夜提。如上僧祇支中廣説」(T22. P529b)。→本文に戻る
  • 後魏の時…賛寧『大宋僧史略』服章法式に「又三衣之外。有曳納播者。形如覆肩衣。出寄歸傳。講員自許即曳之。若講通一本則曳一支。講二三本又隨講數曳之。如納播是也。又後魏宮人見僧自恣。偏袒右肩乃一施肩衣。號曰偏衫。全其兩扇衿袖。失祇支之體。自魏始也」(T54. P238a)とあるのに拠ったのであろう。この『大宋僧史略』の説を受けてか、道誠もまた『釈氏要覧』に「偏衫 古僧依律制。只有僧祇支此名覆膞。 亦名掩腋衣此覆左膞及掩右掖蓋儭三衣故即天竺之儀也。竺道袒魏録云。魏宮人見僧袒一肘不以爲善。乃作偏袒縫於僧祇支上相從因名偏衫今開脊接領者蓋遺魏制也」(T54. P270b)と記しているが、これに拠ったのかもしれない。元照が『釈氏要覧』を読んでいたのはその説に批判を加えているので間違いないため、むしろ元照はこちらに拠ったか。
     この偏衫の由来の説は以降も宝雲『翻訳名義集』や徳煇『勅修百丈清規』に引き継がれて記されている。→本文に戻る
  • 偏衫[へんさん]…後魏代の支那において、その風土・風俗に応じたものとするべく、僧祇支と覆肩衣とを縫い合わせて成立したといわれる内衣。後代に褊衫とも書くようになり、また[へんざん]とも読む。衫とは下着・襦袢の意。
     その昔、支那および日本の僧徒らは、律宗・禅宗・天台宗・真言宗などと問わず、專ら偏衫と裙(涅槃僧に襞と帯とを縫い付けた腰衣)とをその内衣として用いていた。宋代の支那において、この偏衫と裙を上下綴り合せた如き直綴[じきとつ]が考案され、日本には鎌倉期に禅宗と共に持ち込まれた。臨済宗の栄西や曹洞宗の道元らも偏衫をこそ「着用すべきもの」とし、直綴はあくまで誤ったものであるとの認識であったことが知られる(栄西『出家大綱』・道元『宝慶記』)。しかしながら、彼ら以降はなし崩しに直綴をこそ着用するようになり、禅宗において偏衫はほとんど忘れられている。現在に於いても日本で偏衫を着用しているのは、律宗・真言宗・真言律宗に限られている。現代の支那・台湾では(知識としては若干残っているものの、実物としては)まったくこの衣は忘れられて無い。
     なお、日本の鎌倉期に興正菩薩叡尊らによってなされた戒律復興においては、直綴は論外として、しかし偏衫ですらもやはり改変されたものであって本義ではなく、僧祇支こそ本来着けるべきものだとされた。そして実際に僧伽の重要な行事では僧祇支が着用されていた(『興正菩薩御教誡聴聞集』袈裟幷直突事)。この遺志は、室町期に律の伝統が途絶えたのを再び復興するべく奮闘した明忍律師の流れに位置する慈雲尊者によっても再度行われ、慈雲尊者の正法律運動において僧祇支はやはり重要な儀式の際に着用された。この事実は『高貴寺規定』やその肖像などにおいても確認されるであろう。慈雲尊者の肖像のほとんどで、尊者は衣の下に僧祇支と涅槃僧をこそ着しているのである。
     ちなみに、現代の(唐招提寺系を除く)日本の偏衫という内衣を知る僧職者のほとんど多くが、偏衫というものは「左前に着るものである」という認識にある。しかし、実は偏衫は支那以来左前に着るものではなかった。偏衫を左前に着るようになったのは叡尊律師以来のことであって、それは俊芿によってもたらされたこの『仏制比丘六物図』における「故に知ぬ、偏衫の左肩は即ち本の祇支、右の邊は即ち覆肩なることを」という記述に由るものであろうと推測される。叡尊の日記やその他の記録に「偏衫の形態を変えた」などという記述は私の知る限り無いが、鑑真和上像および俊芿像ならびに彼が宋の優れた画師に描かせて持ち帰った道宣・元照像、そして覚盛像と叡尊像の比較に由って、このことは極めて明瞭である。唐招提寺の律宗においては、偏衫は左前に着るものではないのである。
     叡尊律師がそのような衣の改変を行い得たその根拠は、今のところ上記の一節以外には見いだせない。が、そのような改変をなしたのは律師が新来の本書を非常に細かく読み込んでおり、律師の戒律復興・仏教興隆の志がこのような細かな点まで及んでいた一つの証と言えよう。→本文に戻る
  • 章服儀[しょうぶくぎ]…『章服儀』「元制所興。本唯尼衆。今僧服著僣通下位」(T45. P838a→本文に戻る
  • 住法圖賛[じゅうほうずさん]…道宣『住法図賛』。散失したか。ここに載せる話は『大智度論』巻三「」およびに拠るもの。→本文に戻る

現代語訳 脚註:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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