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‡ 元照『仏制比丘六物図』

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1.原文

七明條數多少。下衣五條一長一短。中衣七條兩長一短。大衣三品。下品有三。九條十一條十三條。並兩長一短。中品三者。十五十七十九條並三長一短。上品三者。二十一二十三二十五條。並四長一短。鈔云。準此爲大準隨力辨之九品中。隨財體多少。得一受持 羯磨疏云。所以極至二十五者。欲爲二十五有作福田故。所以唯隻非雙者。沙門仁育同世陽化。故非偶數。所以長短者。如世稻畦隨水處高下別也。又爲利諸有。表聖増而凡減。喩長多而短少也。今時禪門多著九條。或三長四長隨意而作。此非法也。疏云。長短差違乖慈梵。故隨歩越儀。一一結罪。矧又色帶長垂。花排細刺山水毳衲。損業廢功。眞誠學道不捨寸陰。自非無所用心。何暇專功於此。次明條葉之相。僧祇律中。廣應四指四寸 挾如𪍿麥。疏云。今多廣作澆風扇也。章服儀云。此見條葉。不附正儀。三寸四寸任情開闊。浸以成俗。彌開華蕩之源等。又刺綴條葉。須開下邊。章服儀云。裁縫見葉表其割相。今並縫合無相可分。鈔云。刺一邊開一邊。若兩邊倶縫者。但同縵衣。世中相傳。號曰明孔。又言明相律中天曉謂之明相 又云漏塵等。倶是訛謬

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2.訓読文

七に條數の多少を明す。

下衣の五條は一長一短。中衣の七條は兩長一短。大衣に三品あり、下品に三有り。九條・十一條・十三條、並びに兩長一短なり。中品の三とは十五・十七・十九條、並びに三長一短なり。上品の三とは二十一・二十三・二十五條、並びに四長一短なり。

に云く、此に準ずるを大準と爲し、力に隨て之を辨ぜよと。九品の中。財體の多少に隨て、一を得て受持すべし

羯磨疏に云く、極て二十五に至る所以の者は、二十五有の爲に福田と作らんと欲するが故なりと。唯だ隻にして雙に非ざる所以の者は、沙門の仁育は世の陽化に同じ。故に偶數に非ず。長短なる所以の者は、世の稻畦の水處の高下に隨ひて別るが如し。又た諸有を利せんが爲に、聖は増して凡は減ずるを表し、長は多にして短は少きに喩ふるなりと。

今時の禪門には多く九條を著す。或は三長四長、意に隨て作れり。此れ非法なり。

に云く、長短差違すれば慈梵に乖く。故に歩に隨て越儀、一一に罪を結するなりと。

矧んや又た色帶長く垂れ花排細かに刺す山水の毳衲、業を損し功を廢す。眞誠の學道は寸陰を捨てず。用心する所無きに非ざるんば、何の暇ありてか功を此に專らにせん。

次に條葉の相を明す。

僧祇律の中に、廣きは應に四指四寸なるべし。挾きは𪍿麥の如しと。

に云く、今多く廣く作るは澆風の扇なりと。

章服儀10 に云く、此ろ條葉を見るに、正儀に附せず。三寸四寸、情に任せて開闊す。浸く以て俗を成ず。彌よ華蕩の源を開く等と。

又條葉を刺綴するには、須く下邊を開くべし11 

章服儀12 に云く、裁縫して葉を開すことは其の割相を表すと。今並びに縫合せるは、相として分かつべき無し13 

14 に云く、一邊を刺し一邊を開くべし。若し兩邊倶に縫える者は、但し縵衣に同じ。

世の中に相傳して號して明孔と曰ふ。又明相律の中に天の曉、之れ明相と謂ふと言ふ。又、漏塵と云ふ等と。倶に是れ訛謬なり。

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3.現代語訳

第七 条数の多少

下衣の五条は一長一短。中衣の七条は両長一短。大衣には三品あり、下品には三種あって九条・十一条・十三条、それら全ては両長一短である。中品の三種には十五・十七・十九条あり、その全てが三長一短である。上品の三種は二十一・二十三・二十五条あり、すべて四長一短である。

『行事鈔』には、「これに準ずることを大準といい、(各自の縫製あるいは経済的)能力に従って衣を用立てよ」とある九品の大衣については、それぞれが有する財体の多少に従って一衣のみを得て受持せよ

『業疏』には、「(衣の条数を)最大で二十五条とする所以は、(比丘たるものは)二十五有〈生死輪廻する全ての生けるもの〉のための福田〈功徳の源泉〉たろうとするからである。(衣の条数を)ただ奇数にして偶数としない所以は、沙門の仁育〈慈悲行〉は世間の陽化〈太陽の恩恵。奇数とされる〉に同じであるから、偶数ではないのである。(条をなすのに)長短を作る所以は、世間の稲田の畦が土地の高低によって分け隔てられているようなものである。諸々の生けるものを利そうとして、聖は増して凡は減じることを表し、長は多にして短は少きに喩えられたものである」とある。

今時の禅門の僧徒らは、その多くが九条を着ているが、(両長一短にすべきところを)三長としてあったり四長としてあったりと、各々の意に従って(好き勝手に衣を)作っている。それは非法である。

『業疏』には、「(律に規定されている衣の条の)長短を違えたならば、慈梵に背くものであるから、(そのような衣を所有して外出したならば)歩みごとに越威儀〈突吉羅〉となって、一歩一歩が罪を結することとなる」とある。

ましてや色帯〈衣に付した絹などの飾り紐。本邦で修多羅と称している衣の飾り紐に同じものか?〉を長く垂れさせ、花模様など刺繍など施している。そのような山水の毳衲〈山水の趣など表現するなど様々に装飾を施した衣〉は、(仏道における)修行を損うものであって功徳を失わせるものである。

真誠の学道というものは、寸陰〈一瞬〉であろうとも時間を無駄にしないものである。(煩悩の賊に侵されぬよう)用心して一瞬の隙もないほどでなければ、他のいかなる暇をもって学道に専心しようというのか。

次に条葉の相を明らかにする。

『摩訶僧祇律』には、「最も広くしても四指四寸とし、最も狭くした場合は□麥〈麦粒〉に同じくせよ」とある。

『業疏』には、「今時の僧徒の多くが(条葉を過度に)広く作っているのは、人心乱れた末世澆風の煽りである」とある。

『章服儀』には、「近頃の(僧徒らが着ている衣の)条葉を見てみると、正儀に則っていない。あるいは三寸、あるいは四寸と、各々の私情にまかせて広く作っている。次第に(出家者が)在俗の者らと変わらなくなっていき、ますます華美をほしいままとしていく源となるものである」などとある。

また、条葉を縫う際は、すべからく(条葉の)下辺を開かなければならない〈「開葉でなければならない」の意〉

『章服儀』には、「裁縫して葉(の下辺)を開くのは、その割截衣としての相を表すためである」とある。

今時のその両辺を縫合しているのは、相として明瞭でない。

『行事鈔』には、「(葉の)一辺は縫い合わせ、一辺は開いたままとしなければならない。もし両辺とも縫い合わせたる衣は、(割截衣ではなくて)縵衣と同じである」とある。

これを世間では相伝して明孔と呼び、または明相律では暁天(の薄明かり)を明相と言うと言い、または漏塵などと呼称しているのは、いずれも訛謬である。

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4.脚註

  • 一長一短[いっちょういったん]…衣の条を割截などにて作るに際し、長短の違いを設けなければならないことが諸律蔵に通じて説かれる。一長一短は下衣(作務衣・五条)における規定。衣の形状については本書冒頭の挿絵参照のこと。→本文に戻る
  • [しょう]…『行事鈔』巻下「聖迹記云。如來著十三條大衣。智論云。是麁布僧伽梨也。準此以爲大準。隨力辨之」(T40. P106a)。→本文に戻る
  • 羯磨疏[こんましょ]…『業疏』巻四 衣薬受浄篇第四「極至二十五條者。人云。欲爲諸有作福田故。言二十五有謂四有。四悪趣。及彼六欲天。中無想浄居。四空及四禪。是也。所以隻非偶者。以沙門行慈仁育爲本。同世陽化。故數非偶也。然著服者。知慈悲故。如鈔説也。文云應法稲田者。明割截相即第七門儀也。律云。沙門衣三賤謂刀色體也。所以示長短者。由世稻畦隨水處高下致別也。沙門服衣現長短者。亦以法服敬田。爲利諸有。聖増而凡減。喩長多而短少也」→本文に戻る
  • [しょ]…『業疏』巻四 衣薬受浄篇第四「著取儀相。用生物善。長短差違。乖慈梵故。隨歩越儀。一一結罪」→本文に戻る
  • 色帶長く垂れ…色帯とは、過剰に長くして衣につけた色とりどりの飾り紐。
     支那には隋代・唐代・宋代の古い衣がほとんど伝わっていないため、元照が批判している物自体を確認することは出来ない。が、本邦に若干ながら優れたものが残っている宋代の高僧図、あるいは来朝した宋の禅僧の本朝における図像が現存する。そこで確認できるのは、いわゆる南山衣を着用した僧がほとんどであって、紐(帯)といってもば環に繋げるためのもの程度であって、元照が批判するような形状のものは認められない。あるいは本邦において現在、修多羅などと称して付ける衣の飾り紐の嚆矢、あるいはそれに類する物であろうか。
     時代を遡ることとなるが、南北朝時代の支那の仏像にては、衣(袈裟)ではなく涅槃僧(腰衣・裳)の帯あるいは僧祇支(上半身の下着)の紐帯を過度に長く垂らして描かれているものが比較的多く確認できる。元照はそのようなものを批判しているのかもしれない。 →本文に戻る
  • 花排細かに刺す…(衣に)細やかに草花を刺繍していること。
     ここで元照が批判するような装飾的刺繍を施した衣は、すでに唐代からあったことが確認できる。空海や最澄が唐から持ち帰った衣などがそれである。それらは花排ではないけれども「糞掃衣の姿」を再現すべく、非常に細やかな刺繍で仕立てられた、手間のすこぶるかかった非常に高価であったろうものである。→本文に戻る
  • 山水の毳衲[さんずいのぜいのう]…衣に山水など自然の趣を意匠化して縫い込んだ装飾的衣。
     現今の真言宗では、糞掃衣とは捨てられた布の仕えるところを継ぎ接ぎして仕立てられたものであってその出来上がった相があたかも山々が連なっているかのようなものであったということから、これを意匠化した「遠山袈裟」なる極めて華美で高価な衣を作る輩がある。豪奢な絹織物などを衣の形に仕立て、そこに文字通りの「山々の連なりを表現した布地」を貼り付け、それをもって「糞掃衣に由来するもので、高僧・老僧でなければ付けるべきではない、アリガタイ袈裟であるなどと主張している。そのような虚飾でもって自らの無知と非法をむしろ誇示しているのであるが、誠に哀れなことであろう。と→本文に戻る
  • 條葉の相[じょうようのそう]…衣の条と葉の形状。それについての規定。→本文に戻る
  • 僧祇律[そうぎりつ]…『摩訶僧祇律』巻廿八「佛言。不聽對頭縫。應作葉。極廣齊四指。 極狹如𪍿麥」(T22. P455a)。→本文に戻る
  • 章服儀[しょうぶくぎ]…『章服儀』裁製應法篇第五 「比見條葉。不附正儀。三寸四寸任情開闊。浸以成俗。彌開華蕩之源」(T45.P837c)。→本文に戻る
  • 須く下邊を開くべし…道宣以来、葉はその両辺を縫い付けてはならず、必ずその一辺は縫いつけずに開かなければならないとされた。そのように葉の一辺を開いた状態とすることを開葉という。道宣はこれに拘ったようであるけれども、『四分律』に依れば「(ゴミや砂・石などが入りこんで汚損することを防ぐために)開葉としてもよい」とはあるが、「しなければならない」などと規定はされていない。もちろん道宣はそのようなことは百も承知のことで、しかし、むしろだからこそ「しなければならない」と考えたようである。けれども、これは道宣の種々のこだわりのうち、不合理なものの一つというべきであろう。
     現在の日本における僧職者の中には、道宣とはまた違ったこだわり、いわば「人と違うことをやりたい」というが如き志向でもって、その衣を開葉に仕立てる者がある。そもそも戒も律もまったく守らず僧を名乗っているのみで衣を服着できる立場には全く無いのであるけれども、衣にはやたらとこだわりたがる者が比較的多く見られるのもまた、非常に滑稽なことである。→本文に戻る
  • 章服儀[しょうぶくぎ]…『章服儀』裁製應法篇第五 「今以律撿。都無縫者。故裁縫見葉。表其割相。今竝縫合無相可分」(T45. P837c→本文に戻る
  • 今並びに縫合せるは云々…上述のとおり、衣の葉の一辺を開かなければならない、という規定はそもそも律蔵に無い。戒律実際に印度および南海に渡ってその現実を見聞した義浄三像は、そのような道宣の支那におけるいわば奇妙なこだわりについて多く批判した。そもそも根拠がなく、また(少なくとも義浄滞在時の)印度における現実にもまったく合致しないためである。→本文に戻る
  • [しょう]…『行事鈔』巻下「大徳一心念。我比丘某甲。此衣安陀會五條衣受。一長一短割截衣持。亦云屈襵衣持若揲葉令外相同割截。刺一邊開一邊者云揲葉衣持。餘同十誦若兩邊倶縫者。但同縵衣」(T40. P106c→本文に戻る

現代語訳 脚註:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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