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現代語訳
六明衣量。有二。初準通文。不定尺寸。律云。度身而衣。取足而已。五分肘量不定。佛令隨身分量。不必依肘。今時衣長。一丈二三。言取通文者。無乃太通乎。又言此是度身者。其身甚小。而衣甚長無乃度之。不細乎。然度身之法人多不曉。業疏云。先以衣財。從肩下地。踝上四指。以爲衣身。餘分葉相。足可相稱。次明局量。鈔引通文已續云。雖爾亦須楷準。故十誦僧祇。各有三品之量。今準薩婆多中三衣。長五肘。廣三肘毎肘一尺八寸。準姫周尺長九尺。廣五尺四寸也 若極大者。長六肘廣三肘半長一丈八寸。廣六尺三寸。有人局執極量。既分三品。何得局一。借令依此。亦不至丈二思之 若極小者。長四肘。廣二肘半長七尺二廣四尺五 若過量外。應説淨。不者犯捨墮。四分云。安陀會。長四肘。廣二肘長七尺二。廣三尺六 欝多羅僧。長五肘。廣三肘。僧伽梨亦然長九尺。廣五尺四寸 上引佛言示量。下引祖教顯非。章服儀云。減量而作。同儉約之儀。過限妄増。有成犯之法。文云。四肘二肘。不爲非法。與佛等量。便結正篇。即其證也。又云。頃載下流驕奢其度。至論儉狹。未見其人。又云。衣服立量減開過制者。倶抑貪競之情也好大者請詳此諸文 鈔文佛衣戒云。佛身倍人。佛長丈六。人則八尺。佛衣長。姫周尺丈八廣丈二。常人九尺六尺也有執極量者 謂佛衣倍人六肘則二丈一尺六寸。蓋未讀此文故也 然佛世之人。身多偉大。準前爲量。足覆形躯。今時劫減。人身至大。不過六尺。而衣長丈二。往往過之。及論廣量。不至五尺前垂拕膝。歩歩吉羅。可謂顛之倒之。於斯見矣。故業疏云。前垂一角。爲象鼻相。人不思罪。習久謂法。何必如許煩惱我執。無始常習。可是聖法耶。聞義即改。從諫若流斯上人也疏文 慈訓若此那不思之
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六に衣量1 を明す。二有り。
初めに通文に準るに、尺寸を定めず。
律2 に云く、身を度て衣よ。取りて足るのみと。
五分3 には肘量4 定めず。佛、身に隨て分量せしむ。必ずしも肘に依らず。
今時の衣の長きことは一丈二三。通文を取ると言はば、乃ち太だ通ずること無し。又此は是れ度身なりと言はば、其の身は甚だ小にして衣は甚だ長し。乃ち之を度ること細からざること無からんや。然れども度身の法は人多く曉らめず。
業疏5 に云く、先ず衣財を以て、肩從り地に下して、踝の上四指6 なり。以て衣の身と爲す。餘分の葉相は足して相稱はしむべしと。
次に局量7 を明す。
鈔8 に通文を引き已て續けて云く、爾りと雖も亦須らく楷準9 すべしと。
故に十誦・僧祇、各の三品の量有り。
今、薩婆多10 に準るに中の三衣の長五肘・廣三肘肘毎に一尺八寸。姫周尺に準るに長九尺、廣五尺四寸なり。若し極大の者は、長六肘・廣三肘半長一丈八寸・廣六尺三寸。有る人、極量を局執す。既に三品を分つ。何ぞ一に局ることを得ん。借令此に依れども、亦た丈二に至らず。之を思へ。若し極小の者は、長四肘・廣二肘半長七尺二・廣四尺五。若し量の外に過ぎらば應に説淨11 すべし。不ざれば捨墮を犯ず。
四分12 に云く、安陀會は長四肘・廣二肘長七尺二・廣三尺六。欝多羅僧は長五肘・廣三肘、僧伽梨も亦た然り長九尺・廣五尺四寸と。
上に佛言を引て量を示す。下には祖教を引て非を顯さん。
章服儀13 に云く、量を減じて作るは儉約の儀に同じ。限を過て妄りに増すは、成犯の法有り。文に云く、四肘二肘をば非法と爲さず。佛と量を等しくするは、便ち正篇を結す14 と云ふ。即ち其の證なり。又た云く、頃載下流其の度りを驕奢す。儉狹を論ずるに至っては、未だ其の人を見ず。又た云く、衣服の立量の減を開して過るを制することは、倶に貪競の情を抑ふと大を好む者は請ふ、此の諸文を詳かにせんことを
鈔文15 の佛衣戒16 に云く、佛身は人に倍す17 。佛の長は丈六、人は則ち八尺。佛衣の長さは姫周尺18 の丈八・廣丈二。常の人は九尺六尺なり極量を執する者有りて謂く、佛衣は人に倍すること六肘なれば、則ち二丈一尺六寸なりと。蓋し未だ此の文を讀まざるが故なり。
然れども佛世の人は身多く偉大なるすら、前に準じて量と爲して、形躯を覆ふに足れり。今時は劫減にして、人身至大すら六尺には過ぎず。而も衣の長さ丈二。往往に之に過ぎたり。廣量を論ずるに及んでは五尺に至らず。前に垂れ膝に拕く。歩歩吉羅19 なり。謂ふべし、之を顛し之を倒す20 と。斯に於て見へたり。
故に業疏21 に云く、前に一角を垂るを象鼻の相22 と爲す。人、罪を思はず。習ひ久しくして法と謂へり。何ぞ必ず如許の煩惱・我執、無始より常に習へり。是れ聖法なるべけんや。義を聞て即ち改めよ23 。諫に從ふこと流れの若きなるは斯れ上人なり疏の文と。
慈訓此の若し。那ぞ之を思はざる。
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第六 衣量〈衣の規定された寸法〉
まず初めに(諸々の律蔵の)通文〈共通する説〉に拠ったならば、具体的な尺寸としては定められていない。
律では、「(自らの)身体を測って衣を作れ。(身体の大きさに)応じた大きさで十分とするのみである」と説かれる。
『五分律』では、肘量不定とされている。
仏陀は、それぞれ身体の大きさに従った寸法を限りとされたのである。必ずしも肘〈肘から中指の先までの長さ。一般に一尺八寸〉に依ったものではない。
今時の衣の大きさは、一丈二、三尺におよんでいる。もし「通文を取ってそのような大きさとした」などと言わんとしても、まったく(根拠がなく)通用しない。あるいは「これは自分の身体の大きさを測った結果である」などと主張しても、その身体は甚だ小さいのに衣は非常に大きいものとなっている。すなわち、身体を詳しく測ってなどいないであろう。しかしながら、(律に準じた衣を作るための)身体測定法について、ほとんどの者は詳細に知ろうとしていない。
『業疏』には、「まず衣財をもって肩より地面に垂らした時、くるぶしの上四指までとなる丈、それが(身体の大きさに則した)衣の長さの規定となる。(衣の)他の部分の葉相(などの寸法)は、この長さを基準として均衡をとらせよ」とある。
次に局量〈具体的な寸法〉を明らかにする。
『行事鈔』では通文を引用してから、続けて「(通文では)そのように説かれるけれども、またすべからく楷準〈標準化・一般化〉すべし」とある。
そのようなことから、『十誦律』・『摩訶僧祇律』にはそれぞれ三品の具体的な寸法が説かれている。
今、『薩婆多論』に依ったならば、「中品の三衣は長五肘・広三肘肘毎に一尺八寸。姫周尺に依ったならば長九尺、広五尺四寸。もし最大のものならば、長六肘・広三肘半長一丈八寸・広六尺三寸。ある人はこの最大の寸法に偏執しているが、三品に分かって説かれているものについて、どうしてその中の一品にのみ拘ることなど出来ようか。たといもし最大の寸法に準じたとしても、(今時の僧徒が用いているような)一丈二尺などにはならない。このことをよく考えてみよ。もし最小のものならば、長四肘・広二肘半長七尺二寸・広四尺五寸である。もし、(これら規定された)寸法に外れたならば、説浄〈堕罪の回避法〉しなければならない。そうしなければ捨墮の犯となる」とある。
『四分律』には、「安陀会は長四肘・広二肘長七尺二寸・広三尺六寸。欝多羅僧は長五肘・広三肘、僧伽梨はこれに同様である長九尺・広五尺四寸」とある。
以上は仏陀の言葉を引いて規定の寸法を示した。以下は祖師の教えを引いて(今時の僧らが衣について行っている)非法を明らかにしていく。
『章服儀』には、「(衣の)寸法を減らして作るのは倹約の意を表すことに同じである。(逆に)限度を超えて濫りに量を増やすのは、律の条項を犯すこととなる。文には、『四肘二肘は非法ではない。仏陀の衣と量を等しくすることは正篇を結す』とあるのは、すなわちその証である」とある。また、「近頃の下流〈無知で非法な出家者〉は、その衣の大きさについて驕り贅沢となっている。しかし、(衣を)小さくして倹約することに関しては、いまだそのような人を見たことがない」ともある。そしてまた、「衣の寸法を減らして作ることが許され、過ぎて作ることが規制されているのは、いずれも貪り競う欲を抑制するものである」とある大きい衣を好む者らに請う、この諸文を詳かに読むことを。
『行事鈔』の仏衣戒〈単堕の一。仏陀と等しい多いさの衣を着用することの規制〉の項には、「仏身は常人の倍であった。仏陀の背丈は一丈六尺、常人はすなわち八尺である。仏陀の衣の長は姫周の尺でいえば一丈八尺・広は一丈二尺。常人は長九尺・広六尺である」とある最大の寸法の衣に執着する者があってこのように言う、「仏陀の衣は人の倍で六肘であるならば、すなわち二丈一尺六寸である」と。思うに、いまだ以上の文を読んでいないためにそのように言うのであろう。
しかしながら、仏陀ご在世における人の身体は多くの場合、今よりも大きかったにも関わらず、前例に準じて規定の寸法とし、そしてその身体を覆うに足るだけのものであったのだ。今時は劫減〈宇宙的時間で衰亡に向かう期間。人の寿命や身長なども減衰していくとされる〉であって、人の身体は大きいものであっても六尺を超えるものが無い。しかるに衣の長さを一丈二尺とし、往々にしてそれ以上の大きさとすらしている。(しかし、長さに対して)広さの寸法はどうかというと五尺にもならない。(そのような衣を着たならば、衣は)前に垂れて膝で引くようなものとなっている。(そのような衣で歩いたならば)その一歩一歩が突吉羅となる。「之を顛し之を倒す」〈『詩経』斉風の一節「東方未明、顛倒衣裳。顛之倒之、自公召之(太陽が未だ昇らぬ未明、衣裳を逆さまに、衣を下半身、裳を上半身に着て公のお召に急ぐ)」。ここでは逆さまで滑稽である、との意 〉と言うべきであろう。このような事態がまさに(支那の僧徒の非法の行儀を)明らかとしている。
その故に『業疏』には、「前に(衣の)一角を垂れて着ることを、象鼻の相という。人々は、(そのような着用法が)律に反しているなどと思いもせず習慣としてしまって久しくなり、それがむしろ『(正しい)法だ』などとすら言っている。(もしそのような言が成り立つならば、我々に備わる)これら煩悩・我執も無始より常に習いとしてきたものであろうが、ではこれら煩悩・我執も『聖法だ』などと言えるであろうか。正しい道を聞いたならば、ただちに改めよ〈『論語』述而第七の「聞義不能徒。不善不能改。是吾憂也」〉。他の諫言に素直に従うこと、水の流れるかのようであれば、その人は上人である」とある。
(南山大師道宣の)慈訓は以上のようなものである。どうしてこの言葉を受け入れず、思案しないままで良いなどということがあろうか。
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現代語訳 脚註:非人沙門覺應
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