真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

現在の位置

五色線

ここからメインの本文です。

‡ 元照『仏制比丘六物図』

解題 ・ 凡例 |  1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  6 | 7 |  8 |  9 |  10
11 |  12 |  13 |  14 |  15 |  16 |  17 |  原文 |  訓読文 |  現代語訳

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ トップページに戻る

1.原文

六明衣量。有二。初準通文。不定尺寸。律云。度身而衣。取足而已。五分肘量不定。佛令隨身分量。不必依肘。今時衣長。一丈二三。言取通文者。無乃太通乎。又言此是度身者。其身甚小。而衣甚長無乃度之。不細乎。然度身之法人多不曉。業疏云。先以衣財。從肩下地。踝上四指。以爲衣身。餘分葉相。足可相稱。次明局量。鈔引通文已續云。雖爾亦須楷準。故十誦僧祇。各有三品之量。今準薩婆多中三衣。長五肘。廣三肘毎肘一尺八寸。準姫周尺長九尺。廣五尺四寸也 若極大者。長六肘廣三肘半長一丈八寸。廣六尺三寸。有人局執極量。既分三品。何得局一。借令依此。亦不至丈二思之 若極小者。長四肘。廣二肘半長七尺二廣四尺五 若過量外。應説淨。不者犯捨墮。四分云。安陀會。長四肘。廣二肘長七尺二。廣三尺六 欝多羅僧。長五肘。廣三肘。僧伽梨亦然長九尺。廣五尺四寸 上引佛言示量。下引祖教顯非。章服儀云。減量而作。同儉約之儀。過限妄増。有成犯之法。文云。四肘二肘。不爲非法。與佛等量。便結正篇。即其證也。又云。頃載下流驕奢其度。至論儉狹。未見其人。又云。衣服立量減開過制者。倶抑貪競之情也好大者請詳此諸文 鈔文佛衣戒云。佛身倍人。佛長丈六。人則八尺。佛衣長。姫周尺丈八廣丈二。常人九尺六尺也有執極量者 謂佛衣倍人六肘則二丈一尺六寸。蓋未讀此文故也 然佛世之人。身多偉大。準前爲量。足覆形躯。今時劫減。人身至大。不過六尺。而衣長丈二。往往過之。及論廣量。不至五尺前垂拕膝。歩歩吉羅。可謂顛之倒之。於斯見矣。故業疏云。前垂一角。爲象鼻相。人不思罪。習久謂法。何必如許煩惱我執。無始常習。可是聖法耶。聞義即改。從諫若流斯上人也疏文 慈訓若此那不思之

このページのTOP / 原文 / 訓読文 / 現代語訳 / 脚註

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ “戒律講説”へ戻る

2.訓読文

六に衣量を明す。二有り。

初めに通文に準るに、尺寸を定めず。

に云く、身を度て衣よ。取りて足るのみと。

五分には肘量定めず。佛、身に隨て分量せしむ。必ずしも肘に依らず。

今時の衣の長きことは一丈二三。通文を取ると言はば、乃ち太だ通ずること無し。又此は是れ度身なりと言はば、其の身は甚だ小にして衣は甚だ長し。乃ち之を度ること細からざること無からんや。然れども度身の法は人多く曉らめず。

業疏に云く、先ず衣財を以て、肩從り地に下して、踝の上四指なり。以て衣の身と爲す。餘分の葉相は足して相稱はしむべしと。

次に局量を明す。

に通文を引き已て續けて云く、爾りと雖も亦須らく楷準すべしと。

故に十誦・僧祇、各の三品の量有り。

今、薩婆多10 に準るに中の三衣の長五肘・廣三肘肘毎に一尺八寸。姫周尺に準るに長九尺、廣五尺四寸なり。若し極大の者は、長六肘・廣三肘半長一丈八寸・廣六尺三寸。有る人、極量を局執す。既に三品を分つ。何ぞ一に局ることを得ん。借令此に依れども、亦た丈二に至らず。之を思へ。若し極小の者は、長四肘・廣二肘半長七尺二・廣四尺五。若し量の外に過ぎらば應に説淨11 すべし。不ざれば捨墮を犯ず。

四分12 に云く、安陀會は長四肘・廣二肘長七尺二・廣三尺六。欝多羅僧は長五肘・廣三肘、僧伽梨も亦た然り長九尺・廣五尺四寸と。

上に佛言を引て量を示す。下には祖教を引て非を顯さん。

章服儀13 に云く、量を減じて作るは儉約の儀に同じ。限を過て妄りに増すは、成犯の法有り。文に云く、四肘二肘をば非法と爲さず。佛と量を等しくするは、便ち正篇を結す14 と云ふ。即ち其の證なり。又た云く、頃載下流其の度りを驕奢す。儉狹を論ずるに至っては、未だ其の人を見ず。又た云く、衣服の立量の減を開して過るを制することは、倶に貪競の情を抑ふと大を好む者は請ふ、此の諸文を詳かにせんことを

鈔文15 佛衣戒16 に云く、佛身は人に倍す17 。佛の長は丈六、人は則ち八尺。佛衣の長さは姫周尺18 の丈八・廣丈二。常の人は九尺六尺なり極量を執する者有りて謂く、佛衣は人に倍すること六肘なれば、則ち二丈一尺六寸なりと。蓋し未だ此の文を讀まざるが故なり

然れども佛世の人は身多く偉大なるすら、前に準じて量と爲して、形躯を覆ふに足れり。今時は劫減にして、人身至大すら六尺には過ぎず。而も衣の長さ丈二。往往に之に過ぎたり。廣量を論ずるに及んでは五尺に至らず。前に垂れ膝に拕く。歩歩吉羅19 なり。謂ふべし、之を顛し之を倒す20 と。斯に於て見へたり。

故に業疏21 に云く、前に一角を垂るを象鼻の相22 と爲す。人、罪を思はず。習ひ久しくして法と謂へり。何ぞ必ず如許の煩惱・我執、無始より常に習へり。是れ聖法なるべけんや。義を聞て即ち改めよ23 。諫に從ふこと流れの若きなるは斯れ上人なり疏の文と。

慈訓此の若し。那ぞ之を思はざる。

このページのTOP / 原文 / 訓読文 / 現代語訳 / 脚註

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ “戒律講説”へ戻る

3.現代語訳

第六 衣量〈衣の規定された寸法〉

まず初めに(諸々の律蔵の)通文〈共通する説〉に拠ったならば、具体的な尺寸としては定められていない。

律では、「(自らの)身体を測って衣を作れ。(身体の大きさに)応じた大きさで十分とするのみである」と説かれる。

『五分律』では、肘量不定とされている。

仏陀は、それぞれ身体の大きさに従った寸法を限りとされたのである。必ずしも肘〈肘から中指の先までの長さ。一般に一尺八寸〉に依ったものではない。

今時の衣の大きさは、一丈二、三尺におよんでいる。もし「通文を取ってそのような大きさとした」などと言わんとしても、まったく(根拠がなく)通用しない。あるいは「これは自分の身体の大きさを測った結果である」などと主張しても、その身体は甚だ小さいのに衣は非常に大きいものとなっている。すなわち、身体を詳しく測ってなどいないであろう。しかしながら、(律に準じた衣を作るための)身体測定法について、ほとんどの者は詳細に知ろうとしていない。

『業疏』には、「まず衣財をもって肩より地面に垂らした時、くるぶしの上四指までとなる丈、それが(身体の大きさに則した)衣の長さの規定となる。(衣の)他の部分の葉相(などの寸法)は、この長さを基準として均衡をとらせよ」とある。

次に局量〈具体的な寸法〉を明らかにする。

『行事鈔』では通文を引用してから、続けて「(通文では)そのように説かれるけれども、またすべからく楷準〈標準化・一般化〉すべし」とある。

そのようなことから、『十誦律』・『摩訶僧祇律』にはそれぞれ三品の具体的な寸法が説かれている。

今、『薩婆多論』に依ったならば、「中品の三衣は長五肘・広三肘肘毎に一尺八寸。姫周尺に依ったならば長九尺、広五尺四寸。もし最大のものならば、長六肘・広三肘半長一丈八寸・広六尺三寸。ある人はこの最大の寸法に偏執しているが、三品に分かって説かれているものについて、どうしてその中の一品にのみ拘ることなど出来ようか。たといもし最大の寸法に準じたとしても、(今時の僧徒が用いているような)一丈二尺などにはならない。このことをよく考えてみよ。もし最小のものならば、長四肘・広二肘半長七尺二寸・広四尺五寸である。もし、(これら規定された)寸法に外れたならば、説浄〈堕罪の回避法〉しなければならない。そうしなければ捨墮の犯となる」とある。

『四分律』には、「安陀会は長四肘・広二肘長七尺二寸・広三尺六寸。欝多羅僧は長五肘・広三肘、僧伽梨はこれに同様である長九尺・広五尺四寸」とある。

以上は仏陀の言葉を引いて規定の寸法を示した。以下は祖師の教えを引いて(今時の僧らが衣について行っている)非法を明らかにしていく。

『章服儀』には、「(衣の)寸法を減らして作るのは倹約の意を表すことに同じである。(逆に)限度を超えて濫りに量を増やすのは、律の条項を犯すこととなる。文には、『四肘二肘は非法ではない。仏陀の衣と量を等しくすることは正篇を結す』とあるのは、すなわちその証である」とある。また、「近頃の下流〈無知で非法な出家者〉は、その衣の大きさについて驕り贅沢となっている。しかし、(衣を)小さくして倹約することに関しては、いまだそのような人を見たことがない」ともある。そしてまた、「衣の寸法を減らして作ることが許され、過ぎて作ることが規制されているのは、いずれも貪り競う欲を抑制するものである」とある大きい衣を好む者らに請う、この諸文を詳かに読むことを

『行事鈔』の仏衣戒〈単堕の一。仏陀と等しい多いさの衣を着用することの規制〉の項には、「仏身は常人の倍であった。仏陀の背丈は一丈六尺、常人はすなわち八尺である。仏陀の衣の長は姫周の尺でいえば一丈八尺・広は一丈二尺。常人は長九尺・広六尺である」とある最大の寸法の衣に執着する者があってこのように言う、「仏陀の衣は人の倍で六肘であるならば、すなわち二丈一尺六寸である」と。思うに、いまだ以上の文を読んでいないためにそのように言うのであろう

しかしながら、仏陀ご在世における人の身体は多くの場合、今よりも大きかったにも関わらず、前例に準じて規定の寸法とし、そしてその身体を覆うに足るだけのものであったのだ。今時は劫減〈宇宙的時間で衰亡に向かう期間。人の寿命や身長なども減衰していくとされる〉であって、人の身体は大きいものであっても六尺を超えるものが無い。しかるに衣の長さを一丈二尺とし、往々にしてそれ以上の大きさとすらしている。(しかし、長さに対して)広さの寸法はどうかというと五尺にもならない。(そのような衣を着たならば、衣は)前に垂れて膝で引くようなものとなっている。(そのような衣で歩いたならば)その一歩一歩が突吉羅となる。「之を顛し之を倒す」〈『詩経』斉風の一節「東方未明、顛倒衣裳。顛之倒之、自公召之(太陽が未だ昇らぬ未明、衣裳を逆さまに、衣を下半身、裳を上半身に着て公のお召に急ぐ)」。ここでは逆さまで滑稽である、との意 〉と言うべきであろう。このような事態がまさに(支那の僧徒の非法の行儀を)明らかとしている。

その故に『業疏』には、「前に(衣の)一角を垂れて着ることを、象鼻の相という。人々は、(そのような着用法が)律に反しているなどと思いもせず習慣としてしまって久しくなり、それがむしろ『(正しい)法だ』などとすら言っている。(もしそのような言が成り立つならば、我々に備わる)これら煩悩・我執も無始より常に習いとしてきたものであろうが、ではこれら煩悩・我執も『聖法だ』などと言えるであろうか。正しい道を聞いたならば、ただちに改めよ〈『論語』述而第七の「聞義不能徒。不善不能改。是吾憂也」〉。他の諫言に素直に従うこと、水の流れるかのようであれば、その人は上人である」とある。

(南山大師道宣の)慈訓は以上のようなものである。どうしてこの言葉を受け入れず、思案しないままで良いなどということがあろうか。

このページのTOP / 原文 / 訓読文 / 現代語訳 / 脚註

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ “戒律講説”へ戻る

4.脚註

  • 衣量[えりょう]…衣の規定された寸法、大きさ。→本文に戻る
  • [りつ]…『四分律』巻五十三「度身而衣。取足而已」→本文に戻る
  • 五分[ごぶん]…『弥沙塞部和醯五分律』三十巻。化地部(弥沙塞部)の律蔵。ここでは『五分律』巻廿および廿一にある衣法には、三衣の寸法について具体的な規定が示されていないことを言ったもの。→本文に戻る
  • 肘量[ちゅうりょう]…肘とは腕と指を真っすぐ伸ばして肘から曲げた時の、中指の先から肘までの長さで、古代欧州から印度にかけて用いられた単位(身体尺)の一つ。肘量とは、その肘などをもって長さを量ること、あるいはその長さ自体。
     本来、肘の長さは人によって若干異なるものである。が、寸尺で一般化した場合には、これもやはり律の注釈書によって一定しないのであるけれども、肘とは一尺五寸から一尺八寸であるとされる。なお、元照は本書において一肘は一尺八寸であるとするが、しかしこの尺が周尺でのことか唐尺のいずれでのことか明瞭でない。→本文に戻る
  • 業疏[ごうしょ]…『業疏』巻四 衣薬受浄篇第四「度身最好。先以衣財。從肩下地。踝上四指。以爲衣身。餘分葉相。足可相稱也」→本文に戻る
  • 四指[よんし]…指は肘に同じく古代印度における長さの単位の一つ。指先の幅。
     なお、肘量には他に搩手[ちゃくしゅ]という単位も用いられるが、これは手のひらを最大まで開いた時の親指と中指の先の間の長さである。一肘は二搩手であり、一搩手は十二指とされる。そこで一肘を一尺八寸であるとした場合、一搩手は九寸となり、一指は七分五厘となる。よって、四指は三寸である。→本文に戻る
  • 局量[きょくりょう]…具体的な寸法。→本文に戻る
  • [しょう]…『行事鈔』巻下「律言。量腹而食。度身而衣。取足而已。準此無定量。任時進不。雖爾亦須楷準」(T40. P105c→本文に戻る
  • 楷準[かいじゅん]…標準化、一般化すること。→本文に戻る
  • 薩婆多[さっばた]…『薩婆多論』巻四「正衣量三五肘。若極長六 肘。廣三肘半。若極下長四肘。廣二肘半。若如 法應量三五肘。受時應言。此衣則成受持無過。若言如是衣。則不成受持。得突吉羅。 壞威儀故。若過三五肘。受時應言。如是衣則成受持無過。若言此衣不成受持。得突吉羅。 壞威儀故。又缺衣故。過十日無長衣罪。若減三五肘。受時應言。此衣則成受持無過。若 言如是衣不成受持。得突吉羅。壞威儀故。 又缺衣故。過十日無長衣罪。三五肘若長如 法受。則成受持。若比丘死。三衣應與看病人。 三五肘外長隨多少。應白僧令知。僧和合與 者好。凡受衣法。若長應説淨。若不説淨。 入長財中」(T23. P527b-c→本文に戻る
  • 説淨[せつじょう]…比丘が衣鉢や食などを得ても、それをそのまま自身の所有物とすることは余剰となって律の規定に違反してしまう場合や、そもそも金銭などその所有自体が禁止されている物の場合、その名目上の所有権を他比丘に附することや、その実際の使用を浄人などに委ねることを、説浄という。
     前述したとおり、律における「浄」とは律の違反がないこと、律において適法であることを意味するが、そこで説浄とは比丘が何かの事物の使用や所持を「浄」とするための言葉・行為をいうものであって、いわば律における迂回法のこと。→本文に戻る
  • 四分[しぶん]…『四分律』巻四十一「佛言。聽以長四肘廣二肘衣作安陀會。廣三肘長五肘作欝多羅僧僧伽梨亦如是」(T22. P863a→本文に戻る
  • 章服儀[しょうぶくぎ]…『章服儀』方量篇「然減量而作。同儉約之儀。過限妄増。有成犯之法。故文云。四肘二肘。不爲非法。與佛等量。便結正篇。即其證也。頃載下流驕奢其度。至論儉狹。不見其人」(T45. P838a)、および裁製篇「衣服立量減開過制者。倶同抑貪競之情也」(T45. P837c→本文に戻る
  • 佛と量を等しくするは云々…今は一応、『四分律』巻十九に依ったならば、六群比丘が仏陀と同じ大きさの衣、あるいはその体格からすると大きに過ぎる衣を着していたが、これを諸比丘が批判したことをきっかけとして、如来と等量の衣を作って着ることが禁止された。もしこれに反したならば波逸堤(単堕)となる。
     波逸堤とはサンスクリットprayaścittikaあるいはパーリ語pācittiyaの音写であり、比丘が行うべきでない行為に関する罪の名である。これに違反した場合は一人以上の比丘に対して懴悔することによって出罪することが出来る。→本文に戻る
  • 鈔文[しょうもん]…『行事鈔』巻中「與佛等量作衣戒九十。多論云。佛量丈六常人半之。衣廣長皆應半也。十誦云。長佛九磔手。五祇二律亦同。有本十磔手者錯也。長姫周尺丈八廣丈二。常人九尺六尺也」(T40. P89c→本文に戻る
  • 佛衣戒[ぶつえかい]…前述の波逸堤にて制されている、「仏陀のものと同じ大いさの衣を作り着ること」の規制。仏衣等量戒とも。→本文に戻る
  • 佛身は人に倍す…『十誦律』の注釈書や『四分律』のそれにおいて、仏陀の身長は常人の倍あったと伝説される。この伝説を根拠として、日本ではしばしば仏像は丈六すなわち常人(八尺)の倍の高さで作られる。すなわち、先に仏衣戒などと規制していることの要は、常の二倍の大きさの衣を作り、着てはならないことである。
     因みに、これに対してパーリ語によって伝えられた分別説部のVinaya pitakaなどの伝統においては、仏身は常人の三倍であったと伝説される。→本文に戻る
  • 姫周尺…周尺とは支那の南北朝時代、北周で用いられていた尺。ここで道宣は姫周尺をもってその大いさを表しているが、隋代から唐代の支那ではこれに変わり唐尺が用いられるようになった。唐尺の一尺は、姫周尺の一尺二寸である。唐尺は現代のメートル法でいうと29.6cm程度であって、日本の曲尺でいうと九尺七分八厘となる。→本文に戻る
  • 吉羅[きら]…突吉羅の略。突吉羅はサンスクリットduskrtaあるいはパーリ語dukkaṭaの音写。その原意は「悪しく作された(こと)」で、悪作と漢訳される。律における諸規定のうち最も軽い罪・過失について名づけられる。そのことから軽垢あるいは小過とも漢訳される。一人の比丘に対し、あるいは心の中で懴悔することによって出罪することが可能。→本文に戻る
  • 之を顛し之を倒す…『詩経』斉風の一節「東方未明 顛倒衣裳 顛之倒之 自公召之」を引いたもの。その意は「太陽が未だ昇らぬ未明、衣裳を逆さまに、衣を下半身、裳を上半身に着て公の急なお召に急ぐ」というほどのものであるが、非法の衣を着する僧らがそのような逆さまで滑稽であると揶揄する意図で引いたのであろう。→本文に戻る
  • 業疏[ごうしょ]…『業疏』巻四 衣薬受浄篇第四「故垂前一角。爲象鼻相。人不思罪。習久謂法。何必如許煩惱我執。無始常習。可是聖法耶。聞義即改。從諫若流。斯上人也」→本文に戻る
  • 象鼻の相…袈裟の着法において「してはならない着方の喩え」の一つ。支那・日本においては袈裟の一角が胸前にダラリと垂れて着ている様が、象の鼻のようであるからかくいう。象鼻の相の如く衣を着ることは衆学法において禁じられており、これに違反すれば突吉羅(悪作)となる。
     具体的にどのような状態を象鼻の相とされるかは、例えば薬師寺に伝わる慈恩大師基法師の肖像画を見れば明瞭となろう。その肖像に描かれた彼の衣の着方は反面教師として挙げられる。→本文に戻る
  • 義を聞て即ち改めよ…『論語』述而第七「子曰。徳之不脩。学之不講。聞義不能徙。不善不能改。是吾憂也」(孔子は言われた、「徳を修めること無く、学問も極めること無く、正しきを聞いても直すこともせず、不善を改めない、これらは私自身が憂いとするところである」と)を意図してのことであろう。
     義を聞て即ち改める、いわゆる「君子豹変す」ることは理想とされるところであるけれども、一般に人がこれを為すのは容易でないようである。それを断行する者は周囲を敵とせざるを得ないこととなりかねない。それを承知した上で意に介せず、その信念を貫くことは、常人のなせるところではないと思われるかもしれない。
     しかし、改めなければならないことは改めなければならない。そしてそれをするのを他人任せにしてはいけない。→本文に戻る

現代語訳 脚註:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

このページのTOP / 原文 / 訓読文 / 現代語訳 / 脚註

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ “戒律講説”へ戻る

解題 ・ 凡例 |  1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  6 | 7 |  8 |  9 |  10
11 |  12 |  13 |  14 |  15 |  16 |  17 |  原文 |  訓読文 |  現代語訳

・ トップページに戻る

メインの本文はここまでです。

メニューへ戻る


五色線

現在の位置

このページは以上です。