現在の位置

五色線

ここからメインの本文です。

‡ 元照『仏制比丘六物図』

解題 ・ 凡例 |  1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  6 |  7 |  8 |  9 |  10
11 |  12 |  13 |  14 |  15 |  16 |  17 |  原文 |  訓読文 |  現代語訳

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ トップページに戻る

1.原文

漉水嚢第六物賞看病中。則以針筒爲六。今準二衣篇首列之

『佛制比丘六物図』漉水囊

初制意鈔云。物雖輕小所爲極大。出家慈濟厥意在此。今上品高行。尚飮用蟲水。況諸不肖焉可言哉。四分不得無漉袋。行半由旬二十里也 無者僧伽梨角漉。二漉法者。薩婆多云。欲作住處。先看水中有蟲否。有者作餘井。猶有者捨去。凡用水法。應清淨者。如法漉置一器中。足一日用。令持戒審悉。漉竟著淨器中。向日諦視看。故有者如前説即作餘井捨去 然水陸空界。無非皆是有情依處。律中。且據漉嚢所得。肉眼所見以論持犯耳。三作嚢法多論。取上細㲲一肘作嚢此間宜用密練絹作 僧祇。蟲太細三重作。四分作漉水袋。如杓形。若三角。若作宏㨯。若作漉瓶。若患細蟲出。安沙於嚢中。漉訖還著水中此是私用者。若置於衆處。當準寄歸傳式樣。用絹五尺。兩頭立柱。釘鉤著帶繋上。中以横杖撑開。下以盆盛等 鈔云。今有不肖之夫。見執漉嚢者言。律學唯在於漉袋。然不知所爲處深。損生妨道者。猶不畜漉袋。縱畜而不用。雖用而不瀉蟲。雖瀉而損蟲命。且存殺生一戒。尚不遵奉。餘之威儀見命。常沒其中不加受者。輕小物故。或常持故。如律無者。不得行半由旬是也 昔孤山嘗著漉嚢誌。乃云。懸於草堂。以備法物之數。如用之則未能也。余謂中庸子。知教孰不知教。來者幸無取焉

智論云。受持禁戒爲性。剃髮染衣爲相。然濁世凡庸。鮮能修奉。且憑儀相。用光遺教。苟内外都亡。則法滅無日。願諸上徳。同志持危。即華嚴云。具足受持威儀教法。能令僧寶不斷。受佛遺寄。得其人矣。

佛制比丘六物圖

このページのTOP / 原文 / 訓読文 / 現代語訳 / 脚註

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ “戒律講説”へ戻る

2.訓読文

漉水嚢1第六物賞看病2の中には、則ち針筒を以て六と爲す。今は二衣の篇首に準じて之を列す

『佛制比丘六物図』漉水囊

初めに制意。3に云く、物輕小なりと雖も所爲極大なり。出家の慈濟厥の意、此に在り。今上品の高行すら、尚ほ蟲水を飮用す。況んや諸の不肖は焉ぞ言ふ可けんやと。

四分4には、漉袋無くして半由旬5二十里なりを行くことを得ざれ。無くんば僧伽梨の角を以て漉すべしと。

二に漉法6とは、薩婆多7に云く、住處を作らんと欲せば、先ず水中に蟲有るや否やと看るべし。有らば餘の井を作れ。猶ほ有らば捨て去れ。凡そ水を用ひる法は、應に清淨なるべき者なり。如法に漉して一器の中に置て、一日の用に足すべし。持戒審悉の者をして、漉し竟て淨器の中に著けて、日に向ひて諦かに視看せしめよ。故らに有らば前の説の如くせよ即ち餘の井を作り捨て去れ

然れども水陸空界は、皆是れ有情の依處に非ずと云ふこと無し。

8の中には、且らく漉嚢の得る所、肉眼の見る所に據て、以て持犯を論ずる9のみ。

三に作嚢法10多論11に、上細の㲲一肘を取て嚢を作ると此の間には宜しく密練の絹を用ひて作るべし12

僧祇13に、蟲太だ細なれば三重に作るべしと。

四分14に、漉水袋を作ること杓形の如くすべし。若しは三角、若しは宏㨯に作れ。若しは漉瓶に作れ。若し細蟲の出んことを患へば、沙を嚢中に安じて、漉り訖て還て水中に著けよと此は是れ私用の者なり。若し衆處に置かば、當に寄歸傳の式樣15に準ずべし。絹五尺を用て、兩頭に柱を立て、鉤を釘うちて帶を著け、上に繋げ。中に横杖を以て撑へ開て、下に盆を以て盛る等

16に云く、。今不肖の夫有り。漉嚢を執する者を見て言く、律學は唯だ漉袋に在りと。然れども所爲の處深きことを知らず。生を損し道を妨ぐる者にして、猶ほ漉袋を畜へず。縱ひ畜ふとも而も用ひず。用ふと雖も而も蟲を瀉さず。瀉すと雖も而も蟲命を損ず。且らく殺生の一戒を存するすら、尚ほ遵奉せず。餘の威儀・見・命は、常に其の中に沒せり受を加へざるは、輕小の物なるが故なり。或は常に持するが故に、律の如き、無くんば半由旬を行くこと得ざれと云ふ、是れなり

孤山17、嘗て漉嚢の誌を著はして乃ち云く、草堂に懸て、以て法物の數に備ふと。之を用ふるが如きは則ち未だ能はざるなりと。余謂く、中庸子、教を知らば孰れか教を知らざらん。來者、幸くば取ること無かれ。

智論18に云く、受持禁戒を性と爲し、剃髮染衣を相と爲すと。

然れども濁世の凡庸は、能く修奉すること鮮し。且らく儀相に憑て、用て遺教を光す。苟とに内外都亡せば、則ち法滅し日無けん。願くは諸の上徳、志を同じくして危を持せよ。

即ち華嚴20に云く、威儀の教法を具足し受持せば、能く僧寶を斷へざらしむと。

佛の遺寄を受くること、其の人を得ん麦。

佛制比丘六物圖

このページのTOP / 原文 / 訓読文 / 現代語訳 / 脚註

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ “戒律講説”へ戻る

3.現代語訳

漉水嚢第六物 『行事鈔』賞看病人六物羯磨では、針筒をもって第六物としているが、ここでは『行事鈔』の二衣の篇首に準じて之を列す

『佛制比丘六物図』漉水囊

《第一 制意》

『行事鈔』には、「物としては軽く小さくとも、その目的は極めて大なるものである。出家者の生けるものを慈済せんとの意はここにある」とある。

今時は、上品にして高行なる僧であっても、(漉水していない)虫を中に含んだ水を飲用している。ましてや諸々の不肖なる僧など言うまでもない。

『四分律』には、「漉袋を持たずに半由旬二十里也として外出してはならない。もし携帯していなかった場合は僧伽梨の角をもって水を漉せ」とある。

《第二 漉法》

『薩婆多論』には、「住房を作ろうとする際には、先ず(そこにある井〈水を溜める場所・容器〉の)水に虫の有無を観察しなければならない。もし、有るようならば他の井を作れ。それでもなお有るならば(その水を虫が害されないところに)捨て去れ」とある。

およそ水を用いる法は清浄でなければならない。如法に漉して一器の中に溜め、一日の用に足すべきである。持戒審悉の者に、漉した水を溜めた浄器の中を、太陽に向かって詳らかに観察させよ。もし虫の有ることが判明したならば、前述の如くせよすなわち他の井を作って捨て去れ

しかしながら、水中・陸上・空中はすべて、有情〈生ける物〉の住処でないところなど無い。律では一応、漉水嚢によって(生ける虫を飲まぬように)する範囲は、肉眼によって見えることを限りとし、それによって持犯を論ずるのである。

《第三 作嚢法》

『薩婆多論』には、「上細の㲲〈綿布〉一肘を取て嚢を作る」とある今時は密練の絹を用いて作るのが良いであろう

『摩訶僧祇律』には、「虫は極めて微細なものであるから(漉水嚢は)三重に作らなければならない」とある。

『四分律』には、「漉水袋を作るのには杓形のようにせよ。もしくは三角、もしくは宏拡に作れ。もしくは漉瓶のように作れ。もし微細な虫を漉し漏らしてしまうことを心配するのであれば、砂を嚢の中に入れ、漉しおわってから(その砂を)水中に撒け」とあるこれは私用のものについてである。もし共用の処に置くものであれば、『南海寄帰内法伝』が伝える様式に準じて作れ。絹五尺を用いて、両頭に柱を立て、鉤を釘打って帯を付け、上に繋げ。中に横杖でもって支え開いて、下に盆を置く等するのである

『行事鈔』には、「今、不肖の男があって、漉水嚢に固執する者〈律僧〉を見て『律学とは単に漉袋にある』などと言う。しかしながら、(彼は、持戒の僧が漉水嚢の製法・用法に拘る)理由・目的に深いものがあることを知らず、生命を損ない、道を妨げる者であって、やはり漉袋を所有していない。たとい所有していたとしても使用しない。使用していたとしても(漉し取った)虫を水中に戻さない。戻したとしても虫の命を損なう。殺生の一戒という明瞭なるものをすら、なお遵奉しないのであれば、他の諸々の威儀・見解・活命(についての教や律)は、常にその中に没して顧みられはしないのだ」とある。

(漉水嚢については)受法を行わないのは、軽小の物であるためである。あるいは常に所持するものであるためである。律に説かれる「所持していなければ半由旬として外出してはならない」というのがそれである

その昔、孤山〈智円法師〉が漉水嚢についての記録を著して、「(漉水嚢などというものは)草堂の壁に掛けておくだけのものであって、それで(比丘が所有すべき)法物の数のうちに入れるのみである。これを実際に用いるような者は、いまだ修行が足りていない愚か者である」などと述べていた。

私にいわせれば、中庸子〈智円法師〉(のような無知なる者)が教えを知っているというのであれば、教えを知らない者などどこにも存在しないことになろう。新学の人は、どうか(智円法師の主張を)真に受けることがないように。

『大智度論』には、「(比丘僧とは)禁戒を受持することを本性とし、剃髮・染衣をその外相とするものである」とある。

しかしながら、濁世〈仏滅後、人倫乱れた時代〉の凡庸なる僧は、(禁戒を)よく奉修することがほとんど無い。ここでは仮に(比丘の本来の)儀相について、(様々な根拠を)示して(釈迦牟尼仏の)遺教を明らかにした。もしも内外〈性相〉の全てが滅んでしまったならば、たちまち法は滅び、太陽は失われてしまうであろう。願わくば諸々の上徳らよ、志を同じくしてこの危機意識を持て。

すなわち『華厳経』には、「威儀〈律〉の教法を具足し受持したならば、僧宝は途絶えることはない」と説かれている。

仏陀の遺寄〈遺嘱・遺勅〉を受けるのは、まさにそのような人である。

仏制比丘六物図

このページのTOP / 原文 / 訓読文 / 現代語訳 / 脚註

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ “戒律講説”へ戻る

4.脚註

  • 漉水嚢[ろくすいのう]…水漉し。サンスクリットpariśrāvaṇaの漢訳。鉢里薩囉伐拏などと音写される。→本文に戻る
  • 賞看病[しょうかんびょう]…『行事鈔』巻下 二衣総別篇第十七の冒頭に、「夫形居世累。必假威儀。障蔽塵染。勿過衣服。 若受用有方。則不生咎戻必領納。乖式便自陷深愆。故初總分制聽後依門而解。何名爲制。謂三衣六物。佛制令畜。通諸一化並制服用。有違結罪。何名爲聽。謂百一衣財。隨報 開許。逆順無過。通道濟乏也。就初分三。謂三衣坐具漉水袋也」(T40. P104c)とあって、六物を三衣・坐具・漉水嚢としている。しかし、道宣はまた「四分六物者。三衣盛衣器襆鉢及袋坐具針筩也」(T40. P116a)ともして、『四分律』における六物とは三衣・鉢・座具・針筒であることを認めている。そしてさらに、「今亦未須問徳。律無正文。若知辛苦有功者。上座告云。長老看病有功。佛令優賞。當胡跪受羯磨也。 看病者謙退陳訴。無徳有愧不堪重賞。僧當抑伏令受。然後索欲問和。答作賞看病人六物羯磨。即白二與之。大徳僧聽。比丘某甲命過。所有三衣鉢坐具針筩盛衣貯器隨有言之」(T40. P116b)として、死んだ比丘の遺産として六物の分与をするにも、やはりそれと同じ説をとっている。→本文に戻る
  • [しょう]…『行事鈔』巻下「三漉水袋法。 物雖輕小所爲極大。出家慈濟厥意在此。今上品高行尚飮用蟲水。況諸不肖。焉可言哉」(T40. P109a)。→本文に戻る
  • 四分[しぶん]…『四分律』巻五十二「比丘不應無漉水嚢行乃至半由旬。若無應以僧伽梨角漉水」(T22. P954b)。
     万一、漉水嚢を携帯していない時に(虫のある)水を飲まんとするとき、大衣の角を用いて水を漉すべきとするこの規定は、時代を大きくこえて明治期の河口慧海の西蔵行の大冒険においても大いに役立っていた。
     河口慧海『チベット旅行記』「今夜も水を得られずにいた日にゃあこのまま死にはせぬかと非常に苦しくなった。その度たびに宝丹を出して飲むけれども飲むとかえって余計喉が乾く位、しかし幾分の助けにはなったろうと思います。それからだんだん進んで十一時頃になると向うの方にちょっと低い溜たまりのあるような所が見えた。あすこに水があるだろうと思ってそこへ指して砂を踏み分けつつ行きますとなるほど水がありました。その時の嬉しさは何とも堪え得られんほど嬉しかった。まあこれを一つしっかりと飲んでそれから茶を沸かそうともう片時も待って居られないから、早速荷物を卸して懐ろから椀を出して汲もうとするとその水が真赤になって居る。これは何か知らんと思うとチベット高原にある一種の水なんで、それは何百年この方そういう風に腐敗してそこに溜って居ったものであろうかと思われる位。早速汲んだところが細かな虫がウジウジして居る。これじゃ直すぐ飲むという訳にはいかない。殊に虫のあるような水を飲むことは私共には許しませず、どうもこいつあ困った、しかしこれを飲まなくちゃあ立ち行かず、飲んじゃあ仏戒にも背くし第一自分の身体を害するがどうしたら宜よかろうかと暫く考えて居りましたがじきに案が浮びました。かねて釈迦牟尼如来しゃかむににょらいが戒法をお立ちになった中にもし水の中に虫が居たならばその虫を切布きれで漉こして飲めというお教えのあった事を思い出して、こりゃいい事を思い出したというので早速切布とチベット鍋を出してその水を切布で漉したです。そう致しますと外側に虫が残って水が下へ落ちた。それが清水かと思うとやっぱり赤い。けれども虫のウジウジして居るのが眼に掛からんからそれを椀に盛って一盃飲んだ時のその味は 極楽世界の甘露かんろも及ばなかったです。」→本文に戻る
  • 由旬[ゆじゅん]…サンスクリットyojanaの音写。古代印度の距離の単位の一つ。諸説あって一定しない。たとえば現代のメートル法でいえばおよそ7km、あるいは14.5kmであるといわれその解釈によって倍の違いがある。→本文に戻る
  • 漉法[ろくほう]…水を漉す方法。→本文に戻る
  • 薩婆多[さっぱた]…『薩婆多論』巻六「若欲作住止處法先應看水。用上細疊一肘作漉水嚢。令持戒審悉者漉水竟。著器中向日諦看。若故有蟲者。應二重作漉水嚢。若三重作漉水嚢。故有蟲者。此處不應住」(T23. P545a)、あるいは巻八「第三誦九十事第四十一 此是共戒。比丘尼倶波逸提。三衆突吉羅。前制有蟲水澆草土和泥。此制一切不得用蟲水者。若眼所見若漉水嚢所得。一時舍利弗。 以淨天眼見空中蟲。如水邊沙如器中粟。無邊無量見已斷食。經二三日。佛勅令食。凡制有蟲水。齊肉眼所見漉水嚢所得耳。不制天眼見也。凡用水法。應取上好細疊縱廣一肘作漉水嚢。令一比丘持戒多聞深信罪福安詳審悉肉眼清淨者。令其知水。如法漉水置一器中足一日用。明日更看。若有蟲者。應更好漉以淨器盛水向日諦視。若故有蟲。 應作二重漉水嚢若二重故有蟲者。應三重作。若故有蟲。不應此處住。應急移去。是中犯者。若比丘知水有蟲用者。隨所有蟲死。一一波逸提。若比丘用有蟲水煮飯羹湯浣染洗口身手足一切用者。隨爾所蟲死。一一波逸提。若有蟲水無蟲想用波逸提。若有蟲水有蟲想有蟲水疑用波逸提。若無蟲水有蟲想無蟲水疑用突吉羅。若無蟲水無蟲想用無罪」(T23. P552b)。→本文に戻る
  • [りつ]…『四分律』巻十六「若比丘飮用雜虫水者波逸提。如是世尊與比丘結戒。爾時諸比丘。不知有虫無虫。後乃知。或作波逸提懺。或有畏愼者。白佛。佛言。不知者無犯。自今已去當如是説戒。若比丘知水有虫飮用者波逸提。比丘義如上。彼比丘知是雜虫水飮用者波逸提。除水已若雜虫漿苦酒清酪漿清麥汁飮用波逸提。有虫水有虫想波逸提。有虫水疑突吉羅。無虫水有虫水想突吉羅。無虫水疑突吉羅。比丘尼波逸提。式叉摩那沙彌沙彌尼突吉羅。是謂爲犯。不犯者。先不知有虫無虫想。若有麁虫觸水使去。若漉水飮者無犯。無犯者。最初未制戒。癡狂心亂痛惱所纒」(T22. P677c)。
     もっとも、この『比丘六物図』において律といえば普通『四分律』を指したものであるけれども、ここでは諸律に一般のこととして述べたことであろう。→本文に戻る
  • 肉眼の見る所に據て云々…特に上述の『薩婆多論』にある「凡制有蟲水。齊肉眼所見漉水嚢所得耳。不制天眼見也」に拠っての言であろう。しかし、これも上述の『四分律』に明示されているように、「肉眼で見えないこと」だけが条件ではない。他に「虫がいる恐れがない」・「虫がいるとは思えない」こともその条件である。
     いずれにせよ、これは前述したように現代の法律の如きものであるため、その範囲や条件が比較的厳密に定められている。そして意識の有無(故意か故意でないか。正気であったか正気でなかったか)も重要な要件となっている。→本文に戻る
  • 作嚢法[さのうほう]…漉水嚢の制作方法。→本文に戻る
  • 多論[たろん]…『薩婆多論』巻六「用上細疊一肘作漉水嚢」(T23. P545a-b)。→本文に戻る
  • 此の間には宜しく密練の絹を云々…三衣においてあれほど絹の使用を厳禁だとし、それを可とする義浄を激しく批判したにもかかわらず、ここでは一転、密練の絹を使用することを認め、むしろ推奨している。彼の論法からすると、虫を殺さぬために虫を殺して得たものを用いるのは甚だしい自己撞着であって慈悲を解せぬ者の所行となるであろう。→本文に戻る
  • 僧祇[そうぎ]…『摩訶僧祇律』巻十五「若故有虫者當重嚢漉之諦觀。若故有虫者乃至三重」(T22. P345a→本文に戻る
  • 四分[しぶん]…『四分律』巻五十二「佛言。如勺形若三角 若作撗郭若作漉瓶。若患細蟲出。聽安沙嚢中。彼以雜蟲沙棄陸地。佛言不應爾。 聽還安著水中」(T22. P954b→本文に戻る
  • 寄歸傳の式樣…義浄『南海寄帰内法伝』巻一「若是生絹。小蟲直過。可取熟絹笏尺四尺。捉邊長挽襵取兩頭刺使相著。即是羅樣。兩角施帶兩畔置𢂁。中安横杖張開尺六。兩邊繋柱下以盆承傾水之時罐底須入羅内。如其不爾。蟲隨水落墮地墮盆還不免殺」(T54. P208a→本文に戻る
  • [しょう]…『行事鈔』巻下「今不肖之夫。見執漉袋者言。律學唯在於漉袋。然不知所爲處深損生。妨道者猶不畜漉袋。縱畜而不用。雖用而不寫蟲。雖寫而損蟲命。且存殺生一戒。尚不能遵奉。餘之威儀見命常沒其中」(T40. P109b→本文に戻る
  • 孤山[こざん]…宋代の天台僧、孤山智円。字は無外あるいは中庸子と号した。→本文に戻る
  • 智論[ちろん]…『大智度論』巻三十一「有人言。性相小有差別。性言其體相言可識。如釋子受持禁戒是其性。剃髮割截染衣是其相」(T25. P293b→本文に戻る
  • 華嚴[けごん]…仏駄跋陀羅訳『華厳経』巻十「具足受持威儀教法。是故能令僧寶不斷」(T25. P293b)。
     律儀は仏法の命根である。僧徒が戒と律とを守り行えば、仏教は正しく行われ、正しく世に伝わっていく。それは大小乗問わない、いわば通仏教的理解である。それは日本の過去のまっとうな僧徒、大徳らもまた同じく共有した信念であり、事実でもあった。今現代の日本仏教界においては、その誰もが無戒無律の相似仏教、似非仏法で生計をたて、その姿かたちも甚だしく乱れてまったく俗と変わることがない。その事実は真逆の形で「律儀は仏法の命根である」ことが真であることを我々に示している。姿形だけ仏者に似せるだけでは、いわゆるコスプレに変わりはしないため、もちろん全く不十分であるけれども、その姿形さえまともに正せず、正すつもりもなければ、そのような者らに何ら期待できることはないであろう。→本文に戻る

現代語訳 脚註:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

このページのTOP / 原文 / 訓読文 / 現代語訳 / 脚註

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ “戒律講説”へ戻る

解題 ・ 凡例 |  1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  6 |  7 |  8 |  9 |  10
11 |  12 |  13 |  14 |  15 |  16 |  17 |  原文 |  訓読文 |  現代語訳

・ トップページに戻る

メインの本文はここまでです。

メニューへ戻る


五色線

現在の位置

このページは以上です。